【タイムテーブル】
0:00:00 ゴビ砂漠を横断した脱北少女
0:29:16 北朝鮮に移住した元在日医師
0:48:43 悲惨な末路を迎えた4人の脱北者
0:57:45 拉致された韓国女優と映画監督
1:19:45 海外に駐在した元喜び組と外交官
1:41:06 強制収容所の元警備兵
1:59:11 強制収容所で政治犯として生まれた子供
【参考文献】
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ミサイル開発日本人の拉致日本を敵国で あると表明し数十年に渡り一貫して半日の 姿勢を取り続けている北朝鮮両国の国交も 依然として断絶状態にありもはや修復不 可能に思えますが北朝鮮が日本を適しして いるからと言って日本文化まで嫌っている かと言うと実はそんなこともありません キジ雲は日本職を好んで食べており幼少時 には偽造旅で日本に複数会に渡って入国し 押でディズニーランドを楽しんでいたこと も判明しています国民に対して海外文化と の接触を厳しく制限する一方自分たちは プライベートで海外文化にどっぷり浸って いるキムジョグその背景にはある1人の 日本人料理人の存在も大きかったのでは ないでしょうかその人物の名は藤本健二 さん北朝鮮にとって敵国の人間であり ながら最高指導者から深い愛を受け彼らを 最も近い場所から見てきた日本人ですと 日本の狭で動され続けた独裁者専属料理に 彼の主を参考に北朝鮮の料理人として生き た激動の反省と冷徹な独裁者として知ら れるキ一家の意外な素顔を見ていき ましょう1982年6月寿司職人として 日本で働いていた藤本さんに彼の運命を 大きく変える電話が届きますその主は板橋 調理司会事務所の会長日朝貿易勝者からの 依頼で寿職人を探しており藤本さんに 北朝鮮で働かないかと打線してきたのです 当時の北朝鮮は国際社会からの孤立を深め 始めた時期でありそんな国に行けば2度と 戻ってこられないのではないかという不安 が藤本さんにはありましたしかし月給は 破格の50万円1年契約で5ヶ月に1度は 帰国可能など提示された条件は魅力的でも あり悩んだ末に彼は北朝鮮行きを決意し ます 激しく反対する家族をなんとか説得した 藤本さんは2ヶ月後に北朝鮮へと旅立ち まし た藤本さんの仕事場は寿司と和食と カラオケバーを兼ねたぴょんやんの安酸ガ という店でしたカラオケバーには日本人の マスターやママホステスと7人の対人 ホステスが配属され藤本さんは彼らと協力 しながら回転準備をスタート新しい環境に なれるのに必死で最初の2ヶ月は慌しく 過ぎていきますそんなある日アサガの責任 者から寿司のネタを230人分用意して おくよう依頼が入りましたやがて店の前に 現れた向えのベンツに乗り藤本さんは2 時間半ほどかけて海辺の豪華な建物に到着 します彼は仕事の詳細を聞かされてい なかったものの重要な解職が行われること は容易に推測できました迎え入れられた
部屋には20名以上がこの自家のテーブル に着席しており藤本さんはその1番左端で 寿司を握り始めますしばらくするとある 人物から寿司のネタについて質問を受け 通訳のリムサジョンを通じて藤本はマグロ のトロですと答えましたそれからその人物 はトロを何度も注文するようになりました 藤本さんはこの時知るよしもありません でしたがこの人物こそキムイルソンの息子 であるキムジョンイルであり訪れた場所は 招待所と呼ばれるキムジョンイルの別た だったの です初めてキムジョンイルに寿司を握った 10日後藤本さんは再びキムジョンイルの 宴会に呼び出され20数人に料理を 振る舞いました解職後キムジョンイルは 満足した様子でご苦労と言い藤本さんに チップの入った白い封筒を投げつけます 手渡しではなく存在に放り捨てられて足元 に落ちた封筒を藤本さんは拾いませんでし た投げ捨てられたチップを自分から拾うの は惨めで落ちぶれた行為だと自分の プライドが許さなかったのです自尊心を 傷つけられて帰宅した藤本さんでしたが さらに1週間後に呼ばれた披露宴で ジョンイルは先日の比例を藤本さんに直接 謝罪しましたキムジョンイルはこれ以降 藤本さんにチップを渡す際は手渡しして くれるようになりました本来であれば 投げ捨てられたチップを拾わなかった藤本 さんが処罰されるのが自然ですがキム ジョンイルは自分に媚びへらなかった藤本 さんの着いを認めたのかもしれませんその 後もキムジョンイルから10日に1回ほど のペースで呼び出しを受けチップと出張量 だけで100万円以上の大金を受け取る までになりました アンサガでの仕事もしばらくは順調だった もののある日アンサガの責任者との間に 些細な意見の食い違いが生まれますそれは 次第に大きくなっていき我慢できなくなっ た藤本さんは地標を提出契約期間の1年を 待たず日本に帰国することになりました それを聞いたキムジョンイルは残念がりお 土産に松竹の缶詰を持たせてくれたそう ですおしまれながら帰国した藤本さんは2 ヶ月ほど仕事の疲れを癒した後やがて川越 の寿司屋で働き始めます家族は藤本さんの 帰国を大変喜びましたが藤本さんは未だに 北朝鮮での刺激に満ちた出来事が忘れられ ずにいましたまたキムジョンイルに寿司を 握りたいそんな思いから藤本さんは日朝 貿易勝者に電話をしてまた北朝鮮で料理人 の募集が始まったら連絡して欲しい胸を 伝えましたしばらく職場を点々とした藤本
さんですが帰国してから約4年後彼の元を 懐かしい物が訪ねてきます通訳のリムサ ジョでした彼は再び藤本さんに北朝鮮で 働いてほしいと依頼しに来たのです条件は 月給が前回より10万円高い60万円で 契約期間は3年間1年に2度は帰国可能と いうもの藤本さんは大喜びで誘いを受け5 年ぶりに北朝鮮に渡ったのでしたこれを気 に彼の人生は大きく変わっていくことと なります1987年8月に北朝鮮を再訪問 した藤本さんはこホテルの地下食堂で働き 始めます来朝2日目の午後支配人に20人 から25人分のネタを準備するよう告げ られました早速キムジョンイルから 呼び出されたのです数年ぶりの再会に目を 細めて懐かしがるキムジョンイルに日本 から自賛した稲荷をご馳走する藤本さん 以降キムジョンイルは月3回ほどのペース で藤本さんを呼び出すようになりますが 次第に彼は藤本さんを料理人としてでは なく馬の遊び相手として呼び出すように なりますその際キムジョンイルは藤本さん に次のような提案をしました私のそばに 10年いてくれないかいてくれるなら ぴょんやんに寿司屋を出してやろうその他 に月50万円やる寿司屋の売上もみんな 藤本が持っていけ当時の北朝鮮では会社 組織の売上の7割が国家の取り分とされて いました売上を全てもらえるというのは破 の待遇であり藤本さんにとって断る選択肢 はありませんでしたすぐ誘いに乗りたい 気持ちを押し殺し少し考えさせてほしいと 答えて藤本さんは日本に一時帰国します ところが北朝鮮に10年滞在するという 藤本さんの希望は彼の家族にとって到底 受け入れられない内容でした特に1年の 大半を北朝鮮で過ごした藤本さんと父がい ないまま子春期を終えた2人の娘との間に は高が数日では修復できない深い溝ができ てしまっていたのです結局藤本さんはキム ジョンイルの誘いに最高指導者おえの料理 人として各地の招待所に同行する立場と なったのでし たキムジョンイルの専属料理人として働き 始めた藤本さんにある日人生を変える 出会いが訪れますいつものように宴会場で 寿司を握っていた藤本さんは歌と踊りの 豪華な賞に招待されました歌を披露してい たのは女性民用歌で喜び組のメンバーでも あるオムジョニ藤本さんは彼女に少しずつ 心を奪われていきますそれを敏感に 感じ取ったキムジョンイルは藤本さんに こう言いましたオムジョニと結婚したけれ ば日本にいる妻と離婚しなければいけない ぞ慰謝料は払ってあげるから離婚証明書を
持って戻ってきなさい人生のキロに立たさ れた藤本さんは悩みを抱えて日本に一時 帰国しますが空港に家族が1人も迎えに来 ていないことを知り家族関係がすでに崩壊 していたことを悟ります長年家族を帰り見 なかった自分の責任だそう思うと妻を 責める気は全く湧かず慰謝料の支払いに 合意して正式に離婚2人の子供の真剣を 取った藤本さんは北朝鮮に戻りました一方 でオムジョニは藤本さんとの結婚に当初 そこまで乗り気ではありませんでした結婚 相手が敵国だと教えられてきた日本人で あり当時彼女はまだ21歳で藤本さんとは 父親ほど年が離れていたのですしかし キムジョンイルの推薦があった手前オム ジョンには強く拒否することもありません でしたついには彼女本人の承諾を得ない まま結婚式の予定が組まれ2人は正式に 夫婦となります藤本夫妻はトヤの中心地に ある高級アパートの一室をキムジョンイル から与えられました高価な海外性の家具や 電荷製品が完備された8部屋の豪邸を当て れた藤本夫婦は特権階級の中でもさらに 限られたものしか教授できない楽園のよう な生活が確約されたのですそれからの生活 は藤本さんにとって生涯の思い出となる 素晴もでしたキムジョンイルの専属料理人 として10か所の招待所を回り寿司を握る 傍キムジョンイルの遊び相手として数々の 余興に夢中になりました日中は釣り サイクリングジェットスキープール上場 などに教示夜は宴会で浴びるように酒を 飲むこの生活の中で藤本さんはキムジョン イルの思いがけない一面をいくつも知った そうです例えばキムジョンイルはほぼ毎日 映画を見るほどの映画マニアで男は辛いよ のフィルムを全て収集していました映画を 北朝鮮でも放映するか真剣に悩むほどでし たがトラさんの影響を受けて国民がだらけ てしまうのではないかと懸念し防衛はやめ たそうですまたキムジョンイルは日本の 製品を非常に高く評価していました日本食 は寿司以外でうどすき焼きカップラーメン を好み食品衛生面で信頼できるのは日本と スイスクライだ冷蔵庫以外の電荷製品は 日本製に限ると言っていたそうですその 藤本さんは北朝鮮にいながら日本性の物資 に囲まれて暮らしていたのでし たキムジョンイルの専属料理人として各所 に同行していた藤本さんはキムジョンイル 以外のキ一族とも進行を深めていきました その最たる人物がキムジョンイルの次男 キムジョン雲ですキムジョンイルはある日 藤本さんと他幹部に2人の息子を初めてお 広めしましたキムジョンイルの継者候補で
ある王子ジョンチョルとジン雲は幹部たち と穏やかなムードで握手を交わしていき ますがジョン雲は藤本さんにだけ手を 差し出さず睨みつけるような目を彼に向け たのです紹介された人物の中で自分だけ 敵対心を向けられたことにショックを受け た藤本さんですが1週間後にキム ジョンイルに呼び出され王子2人の遊び 相手になるよう命じられますそれからは 頻繁にオジと遊ぶようになり揚げ竹馬米駒 といった日本の遊びを2人に教えました 初対面で嫌われように見えたジョンウとの 距離もすぐに縮まり当時日本で流行してい たマリオやテトリスなどのゲームを楽しみ ましたオジは鑑定内で専属の家庭教師から 勉強を教わっており学校で友達を作ること ができなかったため同じ目線で遊んでくれ た藤本さんを友達のように思っていたのか もしれませんオジは中学生ほどの年になる とスイスに留学し頻繁に会うことは なくなったものの祝日や長期休暇で帰国し た際はオジが熱中していた バスケットボールで汗を流しました余談 ですが王子の専属家庭教師を務めていた 人物が日本人たち被害者の1人横田恵さん だったという説があります大は藤本さんと 出会う前から簡単な日本語を話すことが できており日本語に堪能な教育係りがいる 可能性は十分考えられるでしょうただ藤本 さんが北朝鮮に滞在していた頃は日本人 立ち被害者の存在を一切知らなかったため 確認することは叶いませんでし た1994年7月に父のキムイルソンが 死去しキムジョンイルが後をついで最高 指導者の座につきました精神的負担が 大きくなったキムジョンイルは1人で実質 に閉じこもることが増え自分に反発する 派閥はまとめて宿していきました最高指導 者の代替わりで党の中枢が殺伐とする中 藤本さんの運命を大きく狂わせる事件が 発生し ます1996年9月本さんは食材の 買い出しで日本に一時帰国することになり ましたキムジョンイルから欲しい食べ物を 言いつけられる旅世界各国に足を運ぶこと は日常左半時でしたその道中で藤本さんは 通訳県監視役として同行するキムヨンナム のカに北朝鮮とドミニカ共和国の パスポートが入っているのを目にします急 な買い出しには間に合わないためドミニカ 共和国のパスポートで入国しようとしてい たのです入国審査で見つかる可能性がある と忠告しようとしたものの言えないまま 大阪の空港に到着しました藤本さんは先に 手続きを済ませてロビーで待っていました
が案の定キヨンナムの姿が一向に現れませ んひとまず1人で東京のホテルに滞在して いるとキムジョンイルから他のものに任せ て明日の便で北朝鮮に帰るよう指示され ます翌日に藤本さんはすぐ空港に向かい ますが出国ロビーに入ろうとしたところで いきなり藤本さんと呼び止められます相手 は警視庁の人間でした警察署までで2位で 同行するよう言われた藤本さんは取調べ室 に連れて行かれるととある写真を見せられ ますそれには藤本さんとキムジョンイルの プレゼント代行を務めるカンサチという男 が映っていました実は8ヶ月前にも藤本 さんはカンサチと日本に入国しておりその 際カサチはドミニカ共和国のパスポートを 使っていたのです藤本さんは彼の不法入国 を手伝い引退した入間法違反の罪で逮捕さ れました地所に装置されて調べを受けた 藤本さんはこう考えます警察は自分を 北朝鮮に返したくないから拘束しているの ではないかこの時期は拉致問題もあって 北朝鮮と日本の国交がひどく悪化しており 日本人の藤本さんを北朝鮮に返すわけには いかなかったのでしょう自分は北朝鮮に 帰りたいがそう主張する限りはずっと釈放 されないそう悟った藤本さんが仕方なく 北朝鮮に帰らない意志を告げると思った 通り彼は即釈放されその後40日間を警察 の敬語の元で過ごしてから完全に自由の身 となりました釈放後藤本さんは沖縄の ホテルで働き夜はスナックで飲み歩く生活 を送っていました彼の頭の片隅に常に 浮かんでいたのは北朝鮮での華やかな 暮らしです北朝鮮に戻りたい気持ちはあっ たものの北朝鮮が自分を裏切り者とみなし て工作員を送り込んでくるかもしれない そんな不安から数ヶ月単位で職場を点々と する日々でしたがある日職場の飲食店に 北朝鮮の死者を名乗る男が現れます とうとう私を消しに来たか身の危険を感じ た藤本さんは後で話したいという男の誘い に乗るふりをして男が帰った姿を見届ける とすぐ警察に電話して敬語を要請すぐに 仕事を辞めて警察とホテルに宿泊し警察が 手配してくれた東京のアパートに急遽 引っ越しましたこうして南を逃れた藤本 さんでしたが心に引っかかったのはやはり 死者からの誘いです彼は自分を始末するの ではなくまた一緒に仕事をしようと依頼し に来たのではないかまたチャンスを与え られるなら私はまたキムジョンイルのそば で寿司を握りたい危険な賭けではありまし たが意を決した藤本さんは警察の保護 取り下げの書類にサインすると1年と9 ヶ月ぶりに北朝鮮への渡航に踏み切りまし
たもしかすると北朝鮮に到着した途端拘束 されるかもしれないそんな不安もありまし たが幸いなことに藤本さんは党の幹部に長 に迎え入れられます藤本さんはついに1年 以上彼を待ち続けていた妻のオムジョニ 一緒に日本に渡ったキムヨンナムそして キムジョンイルとの再開を果たしました 逮捕された藤本さんに火がないことをとも 分かっていたようで何事もなかったかの ように以前のポジションに復帰することが できたの です何事もなかったかのように北朝鮮での 暮らしに溶け込んでいった藤本さんですが 本当の悲劇はこれからでした1998年 11月藤本さんは北京に魚の缶詰を買って くるよう指示されました期間は2泊3日 監視役として秘書のキムチャンソンという 男が同行したのですが藤本さんが買出しを 済ませて北京のホテルに戻るとキム チャンソンは別のものに呼び出された らしく部屋を出ていきました監視役のキム チャンソンが海外で自分を1人にしたこと に違和感を覚える藤本さんですがそこで あることを思い出します藤本さんが北朝鮮 に来る前に警察の敬語取り下げを申し入れ た時刑事部長はこう言いましたそこまで 北朝鮮に戻りたいというのならこれ以上は 止めませんただこれからもあなたの無事を 確認したいからもしまた外国に出国する時 があれば電話を入れてください今なら監視 役もいないし電話をする良い機会だそう 思った藤本さんは刑事部長に電話をかけた のですが平屋に戻った藤本さんはスパイ 容疑で拘束されてしまいました日本で逮捕 された藤本さんをスパイではないかと警戒 すると党の幹部がおりその者たちが藤本 さんを1人にするよう仕組んで刑事部長と の電話内容を全て録音していたのです藤本 さんは必死に弁名したものの身分を証明 する書類を全て没収されアパートの実質に 南京されることになりましたこれまで招待 されていたイベントには全く呼ばれなく なり食事を取って寝るだけの空虚な毎日 一切の自由を奪われたこの生活は藤本さん に北朝鮮の恐ろしさを再認識させるには 十分すぎるものでした自分の今までの待遇 が特別すぎたのだたえ党の幹部であろうと も一歩間違えれば収容所送りになって しまう不安に苛まれていた藤本さんですが 南京を命じられてからおよそ1年半後キム ちゃんソンから電話がかかってきます ついに疑惑が完全に晴れキムジョンイルと 会えるようになったのですこうして念願の 料理人として復帰できた藤本さんですが この一見によって植えつけられたトラウマ
が消えることはありませんでした特権階級 者でもいつ成されるかわからない幸いな ことに藤本さんは日本への一時帰国が認め られていますやがて彼は今の立場を捨てて 脱北することを現実的に考えるようになり まし た脱北のタイミングは唐突に訪れました ある日日本で見つけた料理番組のビデオ テープをキムジョンイルに見せると彼は そこで紹介されていたウニ丼を食べたいと 言ったのです私が北海道に行って買ってき ます藤本さんがすかさず提案すると キムジョンイルからすぐに許可がおりまし た日本に逃げるなら今が絶好のタイミング だ藤本さんはついに北朝鮮に2度と戻ら ない決意を固めます妻のオムジョンヌと 彼女との息子娘を連れて行くことは もちろんできませんでしたが家族を捨てて 逃げることになってでも北朝鮮を出国し たい気持ちが大きくなっていたのです出発 日である2001年4月24日いつもの ように藤本さんと握手をして日本語で さようならというキムジョンイルこの時の 笑顔が藤本さんが見た彼の最後の姿となり まし た日本に戻った藤本さんはほとんど人のい ない地方都市で身を潜めていました警察は 当初手厚く警備してくれましたがそれも 時間の経過と共に緩み始め1日に3回ほど 自宅周辺をパトロールする程度になります それでも藤本さん自身は警戒心を少しも 緩めず時には防弾直記を着用して外出し たり履行を巻くために電車は必ず最に乗っ たりしていましたというのも藤本さんは マスコミに義務一族の情報を提供しさらに は彼らの内場を記した本まで出版していた のです生きていくためにはまとまった収入 が必要だったことや身を守るために自分の 存在をある程度オープンにした方が良いと 判断した結果の行動でもありましたが最高 指導者の情報を敵国でばらまいている 裏切り者を彼らが放置しておくはずがあり ません日本に帰国してから10年後資格の 影に怯えながら過ごしていた藤本さんの元 にとうとう北朝鮮の死者が訪れました死者 が藤本さんに渡したのはキムジ雲が会い たがっているという胸が記された所管 そしてキアに残した家族からの手紙と写真 死者に話を聞くと藤本さんが逃亡した責任 を取らされた一家は6年間炭鉱に送られ トエに戻れた後も親戚の家を曲がりして 細々と暮らしているようでした自分のせい で辛い思いをしている家族に申し訳ない 気持ちでいっぱいになった藤本さんに死者 はキムジョ雲からのメッセージを伝えます
藤本2001年の約束を果たそうではない かこれを聞いた藤本さんは日本に逃げる数 日前平屋に帰ってきたら馬に乗ろうという キムジョ雲との約束を思い出します2人 だけでかわした11年前の約束を未だに 覚えてくれているそう思うと熟成されるか もしれないという恐怖が次第に消えていき ました藤本さんは再び北朝鮮に戻る決意を 固めたの です2012年7月22日やの宴会場で 待っていた藤本さんの元に姿を見せた現 最高指導者キジ雲は藤本さんお久しぶり ですと満面の笑顔でハグをしました 裏切り者の藤本ただ今帰ってまりました 泣きながら声を絞り出す藤本さんの手を いいからいいからと笑いながら握るキムジ 約束を破って日本に逃亡し極秘情報を あらゆる手段で世間に公表した藤本さんは 本来であれば北朝鮮にとってを確される 政治犯ですが幼少時から藤本さんと親睦を 深めてきたキムジは彼の裏切りを全て忘れ たと宣言したのですただ党には未だに藤本 さんを適しするものもおり彼らから危害を 加えられる可能性もありますキムジ雲は それを察知したのか藤本さんにコLDKの 高級タワマンを用意して夜は警備の手厚い 宴会場の宿泊施設に止まれるよう手配した こともあり彼が北朝鮮で襲撃に会うことは ありませんでした特別待遇を受けられた ことにアドした藤本さんですが ショッキングな事実も知ることになります 生き分かれていた妻のオムジョニと娘と 再開できたものの息子は藤本さんが帰還 するわずか2週間前に死亡していたのです せめて残された家族には正一杯のつないを しようと藤本さんはオムジョンヌと娘を 連れてぴょんやんを回り欲しいものを何で も買い与えたのでし た11年ぶりの包丁は2週間というだった ため藤本さんは8月7日一旦日本に帰国 することになります1か月後の9月1日に 再び北朝鮮を訪れることをキムジョン雲と 約束した藤本さんは今後の目標を定めまし たこれからはぴょんやに生活基盤を作って キジ雲や家族親戚からの信頼を取り戻して いこうそして北朝鮮と日本のパイプ役とし て両国の関係改善を目指そう2つ目の決意 は藤本さんにとって特に大きなものでした 2002年と2004年に行われた日長 首脳会談でキムジョンイルは日本人の拉致 を認め拉致被害者5名の帰国が実現した ものの残る拉致被害者は未だに囚われた ままとなっています藤本さんにとって第2 の故郷である北朝鮮が日本との国交を正常 化して国際社会の仲間入りをするには拉致
被害者の解放が必要不可欠ですその決断を キジョ雲に促せるのは彼と唯一 コネクションを持つ日本人である自分に しかできない藤本さんはそのように思って おり日本政府の思惑も大同じでした日本に 帰国した藤本さんは政府高官の松原という 男から連絡を受けトヤを再訪する直前の8 月28日にホテルで面会することになり ました松原は言いにくそうに要件を 切り出します野田首相の新書をキムジンに 届けて欲しいのですが国会で忙しいので1 週間だけ待ってもらえませんかこのお願い を藤本さんは即座に拒否しました新書を 届けるのは良いととして9月1日に戻ると いうキムジョ雲との約束をまた破って しまったらせっかく取り戻した信用が 丸つぶれになりますそれに野田首相が新書 をかけるという確証もありませんこう言っ て何度断ってもひたすら頭を下げ続ける 松原にとうと根負けし藤本さんは包丁を1 週間送らせることにしぶしぶ同意しました ところが1週間後に再び面会した松原が 発したのは新書はかけなかったという一言 だけでした何の成果も得られないまま最高 指導者との約束を破る形となってしまった のですもし藤本さんがキムジョン雲からの 信頼を失えば日長官のパイプ役を担うこと もできなくなり関係の改善はさらに困難に なることは想像に固くありません失望した 藤本さんは仕方なく北京にいる メッセンジャーのキムドンチョルにこの 顛末と北朝鮮に戻る胸を電話で伝えますが 彼の返答は予想だにしない内容でした北京 に来てもぴょんやんからビザは届いてい ません約束通り記者会見をして日本国籍を 放棄すると言わなければだめです藤本さん は絶しましたキムジョ雲はいつ北朝鮮に来 ても歓迎すると言ってくれたしそのような 約束などした覚えは一切なかったからです 藤本さんが日本国籍を捨ててしまえば日朝 関係を取り持つことも不可能になり個人的 感情としてもきかはしたくありませんでし たいても立ってもいられなくなりひとまず ペキに向かった藤本さんですがリザは一向 に届かず北京のホテルにこもってキジの 手紙をひたすら書き続けますやっと届いた キムジョ雲からの返事は短く今は北朝鮮に は来ないで欲しいという内用のみ真相が 全く見えてこないまま包丁を拒まれホテル で缶詰生活を送るしかない状況に追い詰め られた藤本さんはついに記者会見をして 日本国籍を捨てるという意思を綴った手紙 を送りましたこれでダメだったらもう包丁 はできないだろう自暴時期になって酒を 煽り酔いざしにシャワーを浴びていると
キムドンチョルがキからのメッセージを 伝えに現れました記者会見の必要はない この伝言を聞いた藤本さんはこう解釈し ます日本国籍は捨てなくて良い今は タイミングが悪いから来ない方が良いと いう意味ではないかと少なくとも メッセージからは一方的な拒絶や敵意は 感じませんでした急に気が楽になった藤本 さんは一旦日本に戻ることを決意します 一体誰がキムジョ雲や家族と自分を 引き裂いたのだろうかぼんやりと考えな 藤本さんの登場する飛行機は北京の空港 から離陸していきましたキジョ雲がなぜ この時藤本さんの包丁を拒んだのか明確な 理由は分かっていませ ん藤本さんの主に記されている内容は包丁 を拒まれ日本に帰国するまでですしかし彼 は2016年うまいラーメンを作って キジョ委員長に食べてもらうと言い残し 念願だった北朝鮮の再訪問を叶えてい ますれり音信がえたものの2017年に なって平壌中心部の百貨店ビルに日本料理 店高橋をオープンし料理を提供していた ことが判明しました店の壁には藤本さんの 写真が金の額縁に入れて飾られており 大きなトラブルもなく店を運営している ことが伺えますまた2019年10月にも イギリス大使館の関係者が店舗を訪れた ことで藤本さんの無事が確認されました 一方で同時期から日本人の聴者がへ行き たいと希望してもそれとなくはぐらかされ て来店できないという事態も報告されてい ます事情があって北朝鮮当局が藤本さんを 日本人と合わせたくないのかもしくは藤本 さんが何らかの理由で拘束された可能性が ありますそしてコロナに突入すると情報が 全く入らなくなり2023年現在に至る まで彼の安否は確認できていませ ん北朝鮮の最高指導者と国を超えた友情を 育み彼らの素顔を持っ近くで見てきた日本 人料理人藤本健二さん言ってしまえば1回 の料理人に過ぎない彼が独裁国家の得意性 や日常関係の悪化に苦悩しながらも人間 臭く自分の人生を切り開こうとする姿は 非常に印象的でした彼の功績として最高 指導者の知られざる実態が浮き彫りになっ た点も大きいでしょうキムジョ雲は幼少時 から日本のゲームや漫画などに触れており 戦後の日本の経済発展に驚愕していました さん自身も主に記していることですが自国 の歴史教育として半日思想が外せないとは いえ随所で日本の良さを認めていたことも 確かだそうですもし日本政府が藤本さんを バックアップして連携を取っていたら日常 関係の悪化を食い止める未来もあったかも
しれませんこのチャンネルでは今後も朝鮮 の興味深い歴史や雑学を解説していくので 興味のある方は是非チャンネル登録して いただけると嬉しいですそれではまた別の 動画でお会いしましょう [音楽] 北朝鮮の大基金で上に苦しみわずか13歳 で母親と中国に渡った女性パ4西韓国に 移住した後に自らの脱北経験を世界に訴え たスピーチはYouTubeで数百万回 再生を記録現在は海外で人権活動家として 活躍する脱北者の中でも特に有名な方の 1人です今回は4未の電気生きるための 選択を元に北朝鮮でのリアルな暮らしや 中国での人身売買など彼女の壮絶すぎる 脱北劇をご紹介します当チャンネルでは 朝鮮関連の情報を発信していきますので 興味のある方は是非チャンネル登録して いただけると嬉しいですそれでは見ていき [音楽] ましょう1993年中国と北朝鮮の国境を 流れる王力校の川岸にある人口20万人 程度の地方都市であるへさに4みは生まれ ます父と母2歳上の運の4人家族でネズミ が走り回る暗い平屋の家に住んでいました 祖父は軍の主観で出身成分が良かったため 祖父のコで労働党員だった父は仕事に困る ことがありませんでしたさらに商売の才能 と企業化精神を持っていた父は本業の傍で 本来は違法である副業にも手をつけ4身の 家族は比較的裕福な暮らしをしていたそう ですぴょやに住めるほどの階級ではない ものの中国から密された服でおしゃれを 楽しんだり中国製の偽のブランドバッグを 使ったりと近所に住む大半のものより豊か な生活でした4未市の日々の楽しみは海外 の映画やテレビ番組を見ることです北朝鮮 のコンテンツは退屈なプロパガンダばかり で海外のコンテンツを所持したり主張し たりすれば罰が課されますそのため4氏は 韓国の恋愛ドラマやアメリカのハリウッド 映画を隠れて視聴していました特に記憶に 残っているのはタイタニックとのこと登場 人物が愛のために死を選ぼうとしている 描写に驚愕し自由な世界への憧れを初めて 抱くようになりますしかしパ一家の生活は というより北朝鮮の国民全体の暮らしは 1990年代後半からどんどん苦しくなっ ていきましたそう苦難の皇軍ですこれまで 手厚く援助してくれていたソ連が崩壊し 新たに成立したロシアは食料支援をほぼ 打ち切り中国も主義国とのつながりを 深める一方で北朝鮮と徐々に疎遠になって いきました北朝鮮政府は地方への食料配給 を中止するだけでなく国民に対して必死に
働け1日2食にしろなどと自活を 呼びかけるようになります父と母は一層 商売に身を入れるようになりましたが政府 が個人取引を公認したために商売の ライバルが増え思うように儲けが出なく なりました父はリスクを承知で罪の重い 危険な商売に手を出しそのおかげで 2000年には再び各一家は裕福な生活を 取り戻します米を1日3食しっかり食べる ことができ肉も月に2回から3回は食べ られるという程度の水準でしたが庶民には 手を出せないシャンプーや歯磨き粉を使い 闇市で購入したスーパーマリオブラザーズ を遊べるくらいの余裕が生まれました しかし2年後父が不法な商売に手を染めて いることが発覚し強制収容所に習慣されて しまいます母は検察から余罪確認のためも 取り調べを受ける生活が始まり稼ぎ頭を 失ったパ一家はまたもや困窮するように なります経済難により4未と姉の運氏は 一定期間学校を休み早朝に数時間かけて水 を組みに行ったり山で昆虫や野草を取って 食べたり肥料となる人や動物の分娩を集め たりしてなんとか命をつなぎました父が 帰ってきたのは約3年後完全な釈放では なく栄養失調や原因不明の病気で衰弱した ため病気量用のためにワイロを渡して一時 帰宅を許されたのですもちろん働けるよう な状態ではなく冬になると電力不足や寒さ で困窮はさらに深まり餓死が徐々に現実身 を帯びてくるようになりましたここにいて も将来はないパ一家はついに脱北を決意し ます国境沿いに住んでいたこともあり中国 が豊かで仕事に溢れていることは知ってい ました隊長が戻らない父は中国行きを望み ませんでしたが四光と雲見氏は脱北のため に情報を集めうみ氏は脱穀を手引きして くれるブローカーを見つけます姉妹は脱穀 するつもりでいましたがタイミング悪く 読み氏が病気で手術を受けることとなり しびれを切らしたうみ氏は先に1人で中国 に向かいました四みは父を置いていけない と脱北をしる母を説得し2人もブローカー と川を渡って国境を超えます四光が北朝鮮 の景色を見たのはこれが最後となりまし た中国を渡った2人にけられたのは中国人 の家庭に売られて結婚するか北朝鮮に戻る かの2択でした中国の農村は深刻な嫁不足 に悩まされており女性脱北者の需要が非常 に大きいのです売られた女性は夫から暴力 を振れたり奴隷のような扱いを受けたり することが多いものの北朝鮮のように 食べ物に困ることはなく中国警察から身を 隠しやすいため中国人農家に嫁ぐ女性は後 を立ちません人身売買という概念すら知ら
なかった母と4はショックを受けますが 北朝鮮に戻っても餓死するだけだと考えた 四民は中国人に売られることを承諾します 4みはまだ13歳で結婚できないことを母 がブローカーに告げると母を中国人に売る 代わりに四みはある程度成長するまで ブローカーの元で世話をし定期的に携帯 電話で連絡を取っても良いということで話 がまとまりました4ミを引き取った ブローカーは彼女にレストランで食事をご 馳走してくれたり簡単な中語を教えてくれ たり新しい服を買い与えて見出しなみを 整えたりと4みに様々なことを教えてくれ ましたがある球に就寝中の4ミを襲います 4ミが必死に暴れて拒絶するとブローカー は別のブローカーに彼女を売り飛ばしまし たそれが母を打った人身売買業界のボス ホウという30代の男ですホウもまた4ミ を夜に何度も遅いある時4は近づいたら ベランダから飛び降りると言い放ちます さすがに本命も焦って取引を持ちかけまし た読みが自分の愛人になる代わりに中国人 に売られた母を買い戻し北朝鮮にいる父も 中国に呼び寄せさらには行方不明となった 姉の捜索にも協力するという内容です自分 を何度も襲おうとする本wheを信用でき ませんでしたが断れば中国警察に突き出さ れることは確実であり取引そのものも非常 に魅力的だったため4ミは承諾します彼女 はいやいやながら本の人となり彼の ブローカーの仕事を手伝うようになります しばらくは本江への像が消えませんでした が彼は次第に4未を尊重するようになり母 との再会も果たすことができたため少し ずつ彼を人間と思えるようになったそう です姉の行方はどんなに探しても全く 分かりませんでしたが本江の人月で父と 連絡を取ることには成功し四民が中国に来 てから半年後とうとう父を中国に 呼び寄せることに成功しましたところが父 の情は開放に向かうどころか悪化しており 病院の診察で末期の大腸がであることが 発覚余名宣告を受けた父は日に日に衰弱し ていき数週間後に静かに息を引き取りまし た四民は父の遺体を仮装し牌を小さな山の 山頂に埋めまし た父の死後四道と母の状況は少しずつ悪化 していきました中国政府が脱北者の 取り締まりを強化したことで本江の人身 売買事業で儲けがなくなったのです新たな 商売を始めるもうまくいかずギャンブルに はまったり4ミと母に暴力を振ったりし ました2人に渡される生活費も足りなく なり栄養不足でみるみるうちに痩せ細って いきますこれでは先がないと悟った母は4
味に自分を売り飛ばして金を作るよう言い ました生きるためになくなく母をとある 農家に売り飛ばした4ミはどうにかして この状況から抜け出す方法を考えます仕事 をしてお金を稼ぐためにまず必要なのは国 の未分でした身分章を手に入れれば警察に 怯えず町を出歩くことができ仕事について 自分で収入を得ることもできますそんな中 で偶然身文章を手に入れられるホワンと いう男性を紹介されました彼はこれまでの 男とは異なり礼儀正しく親切で高価な マンションを持つ裕福そうなビジネスマン でしたホワンは4未に同上して面倒を見る ことを約束し何度も騙されてきたにも 関わらず4も彼を信用しますしかしかし 保安の本当の目的は4未氏に自分の子供を 産ませることでした警備の厳重な マンションに閉じ込められ自分が誘拐され たことに気づいた四民は母親に会いに行き たいという理由で保安を騙してマンション を脱出します本江と合流した四ミは保安の 追跡を交わすために母が売られた農家に身 を隠します幸い母を買った農家は優しく4 ミたちをかまってくれましたが脱北者の 取り締まりが一層厳しくなり警察の 抜き打ち訪問で捕まる可能性がありました 四ミと母は身を隠すために別の町へ移る こととなりそこで本明との別れを決意し ます本命は最初こそ4ミを暴力で支配 しようとしましたが彼自身は次第にそれを 深く悔いるようになり傷つけたことを泣い て謝罪しました四光が完全にそれを許す ことはできませんでしたが母を中国人から 買い戻し父を北朝鮮から連れ出し姉の捜索 に協力してくれたことは確かであり最初の 頃に感じていた恨が徐々にやいでいたの です4ミはこれまでもらったものを本 wheに返すと母と別の都に移りまし た移動した先の信陽という年で親子で始め た新しい仕事がチャットレディです マンションの狭い部屋で寝泊まりし昼夜を 問わずパソコンで客とオンラインチャット を行います客のほぼ全員が韓国人の男性で 彼らはサイトから好みの女性を選び気に 入った女性と文字で会話したりカメラで 相手の姿を見て時間単位でお金を払うの です客をできるだけ長くチャットルームに 滞在させて課金させることが目的でその ために服を脱いだり思わせぶりな言葉を 発したりする女性が大半でした2人は パソコンなど使ったこともありませんでし たが身分症が手に入らなかった以上 つつける仕事は限られていますチャット レディは体を売る必要がなく脱北者が たくさん働いているため安心感がありまし
た幸い4未は男性客からの受けが良く生活 するのに困らないだけのの収入を得られる ようになりますしかしチャットルームも 自由が完全に保証されているわけではあり ません外出が認められても中国警察や保安 に見つからないか常に神経を張り巡らせる 必要がありましたそんな中で仕事を通じて 知り合った北朝鮮の女性から韓国の存在を 聞かされます韓国に行けば国民として歓迎 され仕事も住む場所も与えてくれますが もし途中で捕まれば北朝鮮に相関され運が 良くても拷問最悪の場合は処刑です現在の 安定した環境を捨てて韓国に脱北すること は大きなリスクを伴いますしかし現在の 状況は自由もなくただ生きているだけで あり人間として本当の自由を手に入れたい と感じた42氏は母を説得し韓国への脱北 を決意しまし た中国から韓国への脱北にはいくつかの ルートがあり4未が教えられたのは モンゴル経由のルートです中国の3等省に にはキリスト教会がありそこの選挙師が モンゴルへの脱出の手はを整えてくれます モンゴルは中国のように脱北者を共生相関 しないためモンゴルにたどり着けさえすれ ば韓国大使館に保護されて韓国に送って くれるということです早速母が知人のツて で選教師と連絡を取り約束を取り付けます キリスト協会までの移動費は2人にとって 高額でしたがチャットルームで知り合った 全量な韓国人がわざわざ4ミの元まで 駆けつけて費用を出しくれました韓国に姉 の運がいることを願って四光と母は キリスト教会に向かいました目的地に到着 した2人が案内されたのはプロテスタント の選挙会が運営する脱北者シェルターです 脱北者はそこに身を潜めて聖書を学び ながらモンゴルに脱出する機会をじっと 待ちます基本的には安全な場所ですが中国 では信者以外への不興や勧誘は違法であり 脱北の支援ももちろん違法ですもし中国 警察にこれらの組が発覚すれば牧師やその 女子は逮捕される可能性がありますここ までのリスクを犯して脱北者を助ける目的 の1つは脱北者へのキリスト教の不況です 実際に2007年以降に韓国に逃れた脱北 者のうち半数以上がキリスト教信者である ことが判明しています北朝鮮では宗教が 禁止されているため脱北先の中国や韓国で 信者化するケースがほとんどだそうです4 位は初めのうちこそ周囲に調子を合わせて を学んでいましたが次第に教えに耳を 傾けるようになりお祈りや聖書の書き写し を熱心に行うようになりまし たモンゴルへの脱出は1年で最も寒い季節
の夜間に実行されます徒歩で渡ることに なる小砂漠は夜になると0か30°という 過酷な環境です国境を超えようとするもの はそうそうなく国境警備が薄くなることが 予想されるタイミングでした4ミと母は 10人弱のグループになり電車とバスを 駆使して4日をかけて国境に向かいます そこまでは選教会で働く中国人男性が 付き添ってくれましたが国境を徒歩で渡る のは脱北者だけですもし中国警察に 呼び止められたらグループの中で最も中国 語を喋れる4未が通訳することとなります 警備が薄いであろう夜間でも中国警察に 見つかる可能性はあったため万が一を考え て母は大量の睡眠役を4は上そを懐に忍ば せていました北に強制相関されて死より 辛い目に合うくらいなら自分の手で一生を 終える覚悟だったのです語尾砂漠には当然 ながら身を隠せるものは何もなく枯れた 植物が少し見えるだけの砂原がどこまでも 広がっています人目を引かないよう軽装で 来るよう言われていたため脱北者たちは 容赦のない換気に直接さらされこえながら 身を寄せ合って進みました遠くで物音が 聞こえたりヘッドライトが光ったりする たびに彼らは地面に伏せて息を凝らしを 見失って何度もコンパスで確かめましたみ はこの時になってようやくずっと神として 崇めてきたキムジョンイルに憎しみが 芽ばえたそうです時間や寒さの感覚を塔に 失った彼女は列車の音を確かに聞きました 音を追いかけて必死に走った先に巨大な 国境の兵が姿を表します金網に開いた穴を 見つけた四みは急いで通り抜け次の瞬間に はモンゴル国内に入っていましたついに 彼女たちは中国からの脱出に成功したの です喜びもつかのますぐにモンゴル軍の 兵士たちが獣を持って駆け寄ってきました 助かったと思った4みがしいしと中国語で 感謝を表しますがモンゴル兵士たちは無線 で何やら話し始め軍用ジープから新たに 降りてきたモンゴル兵士が脱北者の一行を 放しますすると上官らし軍人が片言の中国 語で冷たく言い放ちました帰れとモンゴル に行けば保護されると聞いていたのに話が 全く違う愕然とした脱北者たちは 泣きわめきながらモンゴル兵士に すがりつきます4ミはカソを自分の喉に 当て送り返されるくらいなら死ぬと叫び ました脅しではなく本当に実行するつもり だったそうですモンゴル兵士はその見幕に 強されやがてその中の1人が観念したかの ように言いました分かったソウルに行こう 4ミたちの身の安全が本当の意味で保証さ れた瞬間でした脱北者を強制相関せずに
保護することがモンゴル政の方針である ことに間違いはありませんしかしそれは あくまでも表向きのものモンゴルは北朝鮮 と韓国アメリカと中国という対立する国 同士と国交があるという複雑な立場にある 関係ですそのため脱北者への対応はその 時々の各国との関係によって変化していた そうです四民が脱北した当時の場合 モンゴルと北朝鮮が親密化したことや中国 の脱北者の取り締まりが強化されたことで モンゴルルートで脱北したものは原してい ました実際に4未の後に中国を出発した 脱北者のグループは中国警察に捕まって 北朝鮮に強制相関されています彼女たちが 滞在したキリスト教会は間もなく閉鎖され 世話をしてくれた教会関係者の多くが刑務 所に収監されてしまいましたミはギリギリ のタイミングでモンゴルにたどり着けた 極めて幸運な例と言えるでしょうモンゴル 軍に保護された4民たちは軍の基地に送ら れた後列車で再び移動し郊外の安施で 過ごすこととなりましたしばらくすると 韓国の職員がやってきて脱北者たちは ウランバートルの空港に案内されます 北朝鮮に強制相関されないか怯えていた4 ミですが無事に飛行機に乗れた時になって ようやくアンドしました飛行機を降りて 空港のメインターミナルに出た彼女は まるで別の惑星に来たかのような錯覚に とらわれますおしゃれな服を着て通り すぎる韓国の女性ピカピカの床に動く歩道 綺麗すぎるトイレの便器や勝手にが出る 洗面台の蛇口何も知らない自分がバカの ように思えて大きな劣等感や周知心に襲わ れました北朝鮮を出てからおよそ2年後 ついに四民は憧れていた韓国にたどり着い たの です四民市の一行は病院で健康診断を受け た後政府機関の施設に案内され北朝鮮での 生活や脱北の経緯などについて尋問を受け ます脱北者にふした北朝鮮のスパイが 紛れ込んでいない確認するためですので 仕方のないことではありますが4未市の 勉強して大学に行きたいという希望を聞い た担当職員に馬鹿にする態度を取られ自分 が汚れた存在に思えて深い失望を感じまし た人権を警視する北朝鮮や中国から自由が 保証された韓国に逃れてきたところでこれ までの人生を長しにできるわけではあり ません韓国ではまた別の苦難や差別が 待ち受けておりここで生きるには別人に 生まれ変わらなければいけないと彼女は 考えました韓国に逃れた脱北者の苦難に ついては別動画で詳しく解説していますの で是非ご視聴ください韓国にやってきて
から約1ヶ月後4民たちは脱北者の定着 支援施設である花員に入りましたおよそ3 ヶ月間で脱北者たちは基礎的な学力や仕事 に関わる資格様々な社会のルールを身に つけ韓国に適応するための準備を整えて いきます4は花員について1950年代や 60年代からやってタイムトラベラーの ためのブートキャンプだと表現しました ATMもクレジットカードも インターネットも知らない脱北者が デジタル化されて物やサービスに溢れる 韓国社会に短期感で馴染むのは簡単なこと ではありません4ミは他の子供と一緒に 受けた学力テストの結果経済難で学校に あまり行けなかったこともあり15歳にも 関わらず算数は小学2年生並み読み書きは それ以下であることが判明しました アルファベットの綴りが欠けず掛け算の区 もも知らなかったため1から教育を受け なさなければいけなかったのです特に衝撃 的だったのは閉ざされた北朝鮮の歴史と 外国の存在でした北朝鮮が再貧国の1つで あること民主主義の国が世界にたくさん あること国民が飢えている一方でキム ジョンイルが贅沢な生活をしていること 朝鮮戦争のきっかけを作ったのがキム イルソンであることなど生まれてから脳に 擦り込まれていた常識が授業を受けるたに 塗り変えられていきましたそれと同時に 感じたのは脱北者の韓国での行きづらさ です韓国の教育水準は世界トップクラスで 毎日勉強付けで生きてきた韓国人の学生と 脱北者が競うことがいかに難しいかを知っ た四民は希望が打ち砕かれた思いになり ましたまたあれほど活動してきてやっと手 に入った自由もまた彼女を蝕み始めてい ました自由とは常に頭を使って自分で判断 しなければいけないことであり上さえ なければすべきことを誰かが指示してくれ 北朝鮮の方が楽なのではとすら思ったそう です将来の不安を抱えたまま4と母は花を 卒業しまし た2009年8月2人はソルから南に列車 で2時間ほどの場所にある朝に移住しまし た政府に部屋を斡旋して家賃を保証して もらい新生活のための支援金も振り込まれ ますひとまずしばらくの間は生活の心配を する必要はなかったものの問題は別の ところにありました韓国人からの差別です 脱北者であることを理由に店の利用を拒否 され地元の公立中学校ではクラスメイトに 無視され4未はわずか1日で学校を辞めて しまいました1ヶ月間は周囲の目が怖く なって家に引きこもっていましたがやがて 無理にでも社会復帰しなければいけないと
自覚します自分を馬鹿にしたり見下したり してくる人を見返したい北朝鮮では出身 成分が良くてコがある人だけが特をする 社会だったが資本主義の韓国なら正しい 努力をすれば報われるそのために重要なの は教育を受けることだ決意を新たにした4 義は家から近い脱北者向けのキリスト教系 の寄宿学校に入学しますただでさえ周囲と 学力差がある4義は一般的な韓国人が高校 を卒業するまでに中学校と高校の学歴認定 試験に合格して大学に進学しなければいけ ません彼女は年間100冊以上の本を狂っ たように読みあさり周囲から勉強マシンと 言われるほど学業に専念しましたその結果 韓国に来てわずか2年で4未氏は高校学力 認定試験に合格さらにソウルの名門大学へ の入学も叶いますこれまで自分の夢を否定 し続けた周囲の声が逆に闘争心に火をつけ 努力が報われることを身を持って証明でき た瞬間でしたまたプライベートでは周囲に 馴染めるように脱北者であることを隠し 意識して韓国のアクセントを使って話す ように務めました過去を忘れてソウル出身 者のように振る舞うことが板についてきた 頃韓国ケーブルテレビのプロデューサー から連絡を受けます花員から4みの名前を 聞きつけ脱北者のインタビュー番組に出演 してほしいと依頼してきたのです昔の トラウマを掘り起こしたくない彼女は即座 に断りますがお姉さんを探す役に立つかも しれないというプロデューサーの言葉を 聞いて思いとまります韓国で新生活を始め た後も4ミと母は姉の運を探すことを諦め ていませんでした母はブローカーに依頼し て情を集めさらには自ら中国に行って姉を 探しましたが手がかりすらつめていない 状況だったのです韓国のテレビ番組は中国 でも放送されるためもしかすると番組を見 た姉が連絡をくれるかもしれない自分たち が中国で人身売買に関わっていた過去が 知られれば韓国での生活が脅かされる リスクもありましたが母と相談した四民氏 は出演を承諾しますしかし放送からいくら 時間が経っても姉からの連絡は入りません でした 2度目の天気は4未市が大学生活になれ 始めてしばらく経った頃です今会いに行き ますという新番組のプロデューサーから 再び出演のオファーが入りますその番組は 脱北者が北朝鮮での変わった暮らしや韓国 で味わった大変さなどを面白おかしく 取り上げるバラエティ番組で暗くてつまら ないという脱北者への固定観念を変えよう という趣旨のものです番組の最後には脱北 者が大切な人にメッセージを送る時間が
られており韓国人に大人気となっていまし た4み氏は最初のうちは断っていましたが 以前番組に出演しても運氏からの反応が 全くないため姉に見てもらうにはより影響 力の大きな番組に出演する必要があると 思い直します最終的に彼女は北朝鮮に残し た親戚に危険が及ばないよう本名を伏せる ことを条件に出演を承諾しました4みが他 に出演した脱北者と比較して裕福な暮らし を送っていたこともあって彼女は北朝鮮の 特権階級の脱北者として有名になりやがて 番組のレギュラーとして出演するように なります四民市は雲見氏に自分の声が届く ことを願って画面越しに何度も呼びかけ ましたが連絡は相変わらずありませんでし た姉の行方はもっと長い間分からないかも しれないことを覚悟したよみは2013年 の夏からテレビ出演をしばらく休み アメリカでの5ヶ月間のボランティア活動 に申し込みますモンゴルへの脱出で世話に なった選挙会への恩を返すことができ世界 の憲文を広める良い機会にもなるという 理由での決断でしたアメリカで知り合った 友達の家に招かれて楽しい時間を過ごして いると突然母から電話がかかってきます うみ氏が見つかったという知らせです読み 氏はこれまでの予定を変更してすぐ韓国に 戻り7年ぶりに姉との再開を果たしました 雲見氏は読み氏の出演した番組を全く見て いないどころか妹が韓国に脱北したこと すら知らなかったとのこと結局彼女は東南 アジアを経由するルートで自力で脱北に 成功したのですしばらくして姉妹は同じ アパートで生活を始め元々頭の良かった 雲見氏は7ヶ月で高校学力認定試験に合格 しまし た四光氏は大学卒業に向けて勉強を続ける 傍でテレビ出演も続けていましたが姉が 見つかった以上番組に出演する同期をほぼ 失っていましたそんな中 インターナショナルスクールで北朝鮮に ついてスピーチしないかという依頼が 舞い込みます英語力に自信をつけたいと 考えていた四民氏は北朝鮮で苦労した体験 について話しましたちょうどその頃国連が 北朝鮮の人権侵害についてまとめた報告書 を提出したことで北朝鮮の非道な行いが 国際的に問題視されるようになります しかし情報提供者の大半が匿名でありそれ 以外の人が世界に話を伝えるのは困難でし たそこで北朝鮮に抑圧されてきた当事者で あり北朝鮮の現状を英語で広く発信できる 大弁者として四民氏は徐々に注目を集める ようになったのですインターナショナル スクールでのスピーチを気に彼女の元に
講演やインタビューの依頼が殺し自分でも 止められない嵐の中に放り込まれたかの ように多忙な日々が始まりました人権活動 家として世界中のメディアに出演しこれ までは触れてこなかった人身売買の経験 なども含めて北朝鮮の実態を世界にえ続け ました4未の影響力が北朝鮮も無視でき ないほどになったためかやがて彼女が 北朝鮮政府から監視されているという情報 が入ります北朝鮮政府はYouTubeで 4未を人権プロパガンダの操り人形とやし ました4未の話の荒を探して嘘を出あげる だけにとまらず北朝鮮に残った親戚を動画 に出演させて彼女を避難させました初めは 恐怖を覚えたもののそれだけ北朝鮮が彼女 の発言に脅威を感じていいることの証明で もあります脱北してもなお自分を コントロールしようとしてくることに怒り を覚え発言をやめたらこの先も本当の意味 で自由になれないと考えた4み氏はその後 も人権活動家として世界で北朝鮮の人権 問題について訴えています現在は ニューヨークに移住して現地の大学に入学 しており2017年にはSNSで結婚を 報告翌年には息子を出産するなど プライベートも順調のようですただ近年の 発言内容を疑問視する声が上がっています 北朝鮮での経験団の辻が合わなかったり他 の脱北者との食い違いがあったりと複数の 矛盾点が指摘されているようです四民氏は これについて当時の英語力が未熟だった ことと過去のトラウマが原因だと説明して います経験団の審議を外部のものが 見極めることは非常に困難ですが閉鎖性の 極めて強い北朝鮮の内部情報を知る最も 重要な手がかりが彼女たち脱北者であある ことは確かです脱北者の数が減少しつつ ある現在彼らの証言はますます貴重になっ ていくのではないでしょうか当チャンネル では今後も朝鮮関連の情報を解説しますの で動画を楽しんでいただけたら高評価と チャンネル登録をお願いしますそれでは また別の動画でお会いし ましょう配線後の日本に残っていた数万人 の在日コリアンを国家主導で北朝鮮に移住 させた1大計画帰国事業帰国事業に至る までの経緯や内容は過去動画でも解説し ましたが今回は実際に帰国事業に参加した 在日コリアン2世の体験談をご紹介します 家族の意行で住みなれた日本を離れて 北朝鮮に移住した彼が見た光景は事前の 宣伝とは駆け離れた想像を絶する地獄でし た地上の楽園に囚われて脱北を決意した男 はその後どうなってしまうのでしょうか当 チャンネルでは朝鮮関連の情報を発信して
いきますので興味のある方は是非 チャンネル登録していただけると嬉しい ですそれでは見ていき ましょう第2次世界大戦の終結から間もい 1952年テギは山口県下関市の海沿いに ある木造家国で三南次女の末っ子として 生まれました父は戦中に出稼ぎで日本に 渡ってきた在日コリアンです戦争が 父は故郷に帰るために荷物をまとめて下関 に移り手は地元の朝鮮学校に通いました 当時は日本の敗戦による時代の激変器でし た朝鮮半島が日本の管理科を離れるとそれ まで日本に住んでいた約200万人の在日 コリアンが韓国に帰国しますしかし帰国後 に整形を立てられないことや帰国先の不 安定な政治状況に対する懸念などによって 帰国を先延ばしにする在日コリアンも 少なくありますませでしたテギの一家も その一部です帰国準備をした父は境を知ら せる手紙を朝鮮半島の親戚に送りますが 帰ってきた手紙には長期のように記されて いましたこれは事実であり韓国に帰った 在日コリアンが密戦で日本に戻ってくる 事例があったそうです今は韓国の情勢は不 安定だから帰国の機械を慎重に伺った方が いいという親戚の忠告を受け入れ手一下の 帰国は無期限延期となります予定していた 帰国が中止となった父は再出発を決意し リアカーを1台用意してクの商売を スタート5人の幼い子供たちも学業と並行 して親の仕事を手伝い懸命に働いて木造2 階建ての家を購入しますその1回で始めた 炭焼き屋が大成功しテギ一家はそれなりに 裕福な生活を営めるようになりました しかし韓国への境の話が完全になくなった わけではありません朝鮮戦争を母国が 北朝鮮と韓国に分割されると在日社会は 北朝鮮を指示する朝鮮総連と韓国を指示 する民団に2分されます朝鮮総連は北朝鮮 を地上の楽園と呼んで絶賛し少しでも多く の在日コリアンを北朝鮮に帰国させようと 日々宣伝を行っていましたもちろんこの ような宣伝に対して戦争で敗になった国が 数年で地上の楽園になるはずがないと言っ て受け入れない人もいましたが10人中9 人が北朝鮮への帰国に賛成するほど帰国 事業に同調する声が多かったそうです父は どちらの意見にも偏らない中立の姿勢を 崩しませんでしたが家族内で父より発言権 のあった母が帰国を主張します最終的には まず北朝鮮で暮らして12年後に朝鮮が 統一されたら韓国側に行くという結論に まとまりましたしかし後に母は帰国事業に 参加したことを強く後悔することとなり ます帰国事業へのの参加が決まると朝鮮
総連から北朝鮮に自賛する服や家具といっ た身の回りのものは全て新品にし新品を 買ったお釣りは全て朝鮮総連に寄付する よう命じられますテギ一家が余ったお金 90万円を寄付すると朝鮮総連は父に感謝 場を出しましたこの感謝場が北朝鮮での 一家の地位を保証することになるなどこの 時は思っても見ませんでし た1960年5月テ一家は国前に新潟 赤十字センターに3日間滞在し新潟を 離れる前に北朝鮮から派遣された労働党 幹部の演説を聞きました幹部という地位に いるにも関わらず彼らはシ者の白い面の 上着を着用しており地上の楽園から来たと は思えないほどみすぼらしく見えたそう です出発直前の新潟府でも親族などに帰国 を止められて強制的に引きずり出される 帰国希望者もいましたこのように客観的に 見れば不審なや帰国を思いとまらせる 出来事がありましたが結局のところ参加者 全員が北朝鮮の実情を知らず過に行為的な 宣伝によって幸せな生活を信じて疑わ なかったため特に怪しむこともなく帰国戦 に乗ってしまったのですこうしてテギ一家 は新潟港を離れて北朝鮮の村人校に出発し まし [音楽] たテギ一家は案内院の指示で選出や食堂に 向かいますが室内はのがきつくて吐き気を 催し食堂で提供される食事は臭がする黒 っぽい白米に全く香りのない青りんごなど 食欲を減退させるものばかりでした出行し て3日目にようやく北朝鮮の陸地が姿を 表します急いでデッキに出たテギは日本と はあまりにも違う光景に思わずため息を つきました帰国者を歓迎するために超人光 に集まった人々は肌が黒く結のない顔つき で彼らの服装も彼らの周囲にある建物も ボロボロでしたまるでモノクロ写真のよう に正規がない景色を見ると革靴やネクタイ を身につけた清掃の帰国者たちとの間に 大きな経済格差があることが一瞬で分かり ました出迎えを受けた帰国者たちはバスに 乗せられて劇場まで送られ茶菓子や楽団の 演奏にもてなされますテギは石のように 硬い大根味の茶菓子を思わず吐き出しまし たいつもは食事を残すと強くしる母もこの 時ばかりは何も言いません後に母から聞い た話では自分の選択で家族を悲惨な場所に 連れてきてしまったことに対する後悔や 絶望申し訳なさによるものでし た北朝鮮には居住地の自由がなく相談の末 に手4一家は煙に近い地区への配置を認め られました提供された新居は8つと6坪 程度の2部屋と台所しかない簡素な家です
家具や布団といった最低限の日用品は揃っ ていましたがどの場所に行っても花を刺激 する不快な匂いに悩まされ慣れるまでは 地獄だったとのことトイレはアンモニア州 が漂う仕切りのない共同トイレで食事やダ を取る際は毎回かで石炭を燃やさなければ ならず家族全員で北朝鮮での暮らし方を1 から学ぶ必要がありましたテギ一家にとっ て特に重要だったのは出身成分です北朝鮮 には接収性で変更できない身分階級が存在 し吉谷市で北朝鮮での地位や生活の質が 大きく左右されます上位の確信階層は国家 への中性神が強いとみなされキアに住める などの様々な恩恵を受けられますが敵対 階層は危険な判断分子とみなされて生涯に 渡り監視対象となるのです帰国者は当初 中間にあたる同様回送に位置付けられまし たが問題が多発して約80%が敵対階層に 落とされることとなりましたテギョンの 叔父は北朝鮮で神格化されている高西 パルチザンを射殺した過去がありそれが 発覚すれば最も成分が悪い反動分としての 扱いを受けてしまいますしかしこの過去を 知るものはおらず確認もできないことを 利用し叔父が韓国軍に射殺されたという 虚偽の内容で話を通しおかげでテギ一下の 出身成分は帰国者の中ではかなり高いもの となりました出身成分が良くなったおかげ でテギ一家はぴょんやんと同等の食料配給 を受け取ることができ国家への反抗と取ら れる行為があっても大したはありません でしたさらにテギ一家にはミシや自転車 などの日本から自賛した新品の家具家電が あり日本の地人から金銭や生活必需品を 援助してもらえたため現地の住民からする と別世界から来た人に見えるほどの生活 格差があったそうです15から20%の 帰国者が劣等思想集団とみなされ強制 収容所に送られたという証言もありそれを 考えるとテギ一家は非常に恵まれていたと 言っていいでしょうしかしそんな彼らでも 日本を肯定したり朝鮮を悪くのったりする 発言が密告されれば今の豊かな生活は立ち まち崩壊します両親は子供たちに対して 家族以外は誰も信じられない発する言葉に 気をつけて悪いものでもいいと言えと断る ごとに口すっぱく忠告しました誰か1人の 失敗によって家族全員が危険にさらされる ため手たちも両親の言いつけを素直に聞き 自由への活を押し殺して社会主義のに能し ていきまし た義務教育を終えたテギは1971年に軍 に入隊しますこれまで帰国者は徴兵大賞 から除外されておりテギが呼び出されたの は出身成分などが認められた証拠でしたと
はいえ青春時代の貴重な10年を国に捧げ なければならず後の手4は報酬がない奴隷 暮らしのようだと話します実際に軍隊の1 日は朝6時から始まって警備巡を延々と 繰り返して22時に就寝し自由時間は30 分のみという過酷な生活でした1年後に 副文隊長に昇格したテギは6人の部下をい のままに動かせるようになっただけでなく 末端兵士の頃よりは食事量も増えて植える ことはなくなりましたかなり早い出世でし たがどこまで言ってもテギは日本出身の 帰国者です当から中を疑われて部下の兵士 に密かに監視を受けておりその代わりと して誰が憧れる栄誉である労働党への入刀 が認められました帰国者の身分で労働党に 慣れたのは大きな功績でしたが党や軍の 幹部にまで登り詰めることはさすがにでき ません自分がこの先も北朝鮮で身を守って いくには嘘でもいいから党に中性を誓って 何かしらの技術を身につけるしかない 北朝鮮で出世するには軍の経験大学卒業 労働党員であることが条件であるため 1979年に軍務をえ手は大学に進みます 入学の際は試験の成績が良いだけでなく 募集先の幹部にワイロを送ることも必要 不可欠でしたテギは朝6時に気象して6 時間の抗議と6から8時間の予習復習を こなし現場実習や卒業試験の対策にも全力 を注ぎましたまたプライベートでも大きな 天気がありテギは自分と同じ危者の女性と 結婚します帰国者同士の結婚を親戚一同は 歓迎しました独身の帰国者が現地民と結婚 するケースもありましたが夫婦で問題が 生じた際に帰国者であることを理由に虚偽 の密告をされて処罰される人々も存在する ため現地民と婚姻するべきではないという 考えが主流でし た北朝鮮の異質さを表したエピソードの1 つがキムイルソンの死です1994年7月 に国家席のキムイルソンが死亡し国民は 34時間後に重大放送を通じてそのを知り ます水母裁断を設置するために人々は高級 な酒や肉などのあらゆる品物を自賛させ られ裁断の前で家族単位でキムイルソンに 挨拶をします参加者はみんな頭を地につけ 涙を流して吠えるように号泣しました周囲 では党や安全員が参加者を監視し誰がより 泣いているか笑うものがいないかに目を 光らせていました化粧をして着飾ったり他 の人より悲しんでいないと判断されるとキ の死を内心で喜んでいるとみなされ処罰の 対象になるのですテギはなぜ涙を流せるの か理解できませんでしたが泣かなければ 異常者扱いされるためとっさに頭を地面に つけ涙が出ないことを悟られないようにし
てなんとかやり過ごしたと言い ますテギは意思として勤務しながら苦難の 皇軍を経験しました1990年代後半の大 基金によって国の食料配給制度が崩壊して 何10万人が死亡しています別動画でも 解説した通り北朝鮮では無償医療を何とか 維持していましたが苦難の皇軍の時期に 完全に崩壊しワイルを渡さなければ治療を 受けられなくなりました病院側も医療従事 者を食べさせる余裕がないもののひっきり なしに患者が病院を訪ねてくるため意志も 意思で周をしなければ生き残ることができ ません来院する子供の症状の原因は栄養 失調が多く輸血ができるかどうかが命に 大きく関わります親は子供を輸血させる ために米やお金を渡さなければならず医師 や看護師にとっては恵みの日に他なりませ んでした党はこのような参上を前に有効な 政策を打てずそれどころか9億ドルを投じ てキムイルソンの遺体を永久保存する宮殿 を建設します困窮する人々に手を差し伸べ たのは北朝鮮の国家ではなく海外諸国でし た世界食料機構をはめとした様々な団体 から無償の食料支援が行われテギが務めて いた病院にもユニセフが食料を支援してい ました当時病院長だった彼は書類上だけで 食料支援の内容を確認していましたがある 時テギョンは支援された食料の消費量や 残高が改ざんされていることを知ります 記録上では数10Tの遠藤豆や栄養光を 授業しているもののその90%が軍に回さ れて余った分が病院に当てられていたの ですテギの病院ではこの事実をごまかす ために近隣の園から子供を連れてきて患者 数を水増しすることで隠蔽していました党 のすることは知ろうとせず知っていても 黙認することが北朝鮮の常識であるため テギは何も言えませんでし た娯楽が少ない北朝鮮において手4の数 少ない楽しみだったのが北朝鮮で禁止され ている韓国のラジオ放送でしたビルマで 起きた韓国大統領の暗殺未遂事件大韓航空 機の爆破テロ日本人立ち被害者問題など党 が絶対に国民に伝えない刺激的なニュース を知れる貴重な情報言極度に情報が制限さ れた閉鎖社会で生きてきたテギは毎日 ラジオ放送を聞くことで外部の世界を知り たいという欲求を満たしていましたそして この行動がテギの脱北の意思を後押しする 言動力にもなったのでした一旦脱北への 思いが芽生えると自由への活動がどんどん 膨らんで止められなくなり家族にいつか 脱北すると口にするようになりますそれを 聞いた70歳の母はテギを呼び出し チャンスがあれば日本に行くよさとしまし
た母は自分が北朝鮮移住に賛成したせいで 家族を巻き込んだことを後悔しており自責 の念が口をついて出たのかもしれません母 の言葉が最後の後押しとなり50歳を過ぎ たテギはこれまで夢見ていた脱北を現実的 に計画に移します家族全員は連れて行け ないため妻と娘兄や姉は北朝鮮に残し自分 の説得に応じてくれた16歳の息子と一緒 に家を出まし た2006年9月テギと息子は市場で食料 や衣服などを買い込んだ後中国境の王力校 を渡って中国領土に侵入します事前の計画 では脱北者を支援している教会に助けを 求めて韓国か日本に送ってもらう予定でし たが中国の法律に反して脱北者を助ける ことはできないと一され韓国間などを 目指して信用に向かいますそこで知り合っ た民泊の主人からブローカーを紹介して もらえたものの2人分の脱北を依頼するお 金がなかったためやを得ず息子を別の地人 に任せてブローカーと北京駅に向かいまし たそこから列車バスバイクを乗り継いで ミャンマーを目指し対の国境検問所まで たどり着いて警察に自主すれば万国の難民 収容所に輸送されて韓国に相関されると いう筋書きでしたところがブローカーがじ のかテはを目前にしてランマーの検問所で 警察に逮捕されてしまいます地所で3ヶ月 を過ごしたテギに言い渡されたのは懲役3 年の実験判決でした彼はチエント刑務所の 約200人が収容される収容等に遺憾され ます北朝鮮の強制収容所ほどではないに しろチエント刑務所の環境もひどく体に まとわりつくゴキブや白みやダ不衛生な 環境ゆえに蔓延する伝線量なでわれる直員 の暴力などが日課でしたワロを支払えば 刑務所内でまともな待遇を受けられますが 支払う能力のないテギには関係ありません でした彼の頭にあるのは脱北の成功ただ1 つです逮捕されてから約1年後の2007 年11月日本と韓国の大使館職員が刑務所 を尋ね食料や生活必需品を差し入れして くれるようになりました日本は脱北難民を 受け入れていないため最終的な行先はは 韓国にしようと決めますがなかなか相関の 話は進みません事態の進展が見えないまま テギはヤゴの陰員刑務所に遺憾されます 結局テギが韓国に送ってもらえることを 知ったのは北朝鮮を脱出して3年目となる 2009年2月のことでした彼は2年4 ヶ月もの間状況も分からずミャンマーの 劣悪な刑務所に罪人として習慣されていた の です国に入国したテギは脱北者施設で息子 と再開します息子も父と別れた後身分を
隠して中国で働いて脱北費用を稼ぎ ブローカーに依頼してカンボジア経由で 韓国までたどり着いていたのです息子と 再開したテギは韓国でアルバイトをしてお 金を貯め貯金を投じて2011年に妻と娘 を脱北させることに成功しました妻は 北朝鮮にいた頃からの病で脱北した約2年 後に死去息子は大学を卒業して画家になり 娘は鹿講師として活躍するなど韓国で それぞれの人生を掴み取っています現在の 手4は在日脱北者とともに北朝鮮の自由 民主家のための活動を行っているそう です元在日の帰国者として北朝鮮に移住し 医師として苦難の皇軍時代を過ごしたテギ の経験団は北朝鮮を知る上で貴重な資料と なるでしょう本動画で参考にした書籍は令 和5年に一されたばかりのものですので 興味のある方は是非読んでみることをお 勧めします当チャンネルでは今後も挑戦 関連の情報を解説しますので動画を楽しん でいただけたら高評価とチャンネル登録を お願いしますそれではまた別の動画でお 会いし [音楽] ましょう海外渡航を禁止されている北朝鮮 国民が違法に国境を超えて国外に脱出する 脱北自由への憧れや豊富な食料など脱北の 背景は人によって異なりますが脱北先で誰 もが幸せな生活を遅れるわけではありませ ん様々な理由で人生の再出発に失敗し脱 hadした買なくバッドエンドを迎えた 脱北者も存在します今回は悲惨な末路を たどった脱北者を4人ご紹介しましょう当 チャンネルでは朝鮮関連の情報を発信して いきますので興味のある方は是非 チャンネル登録していただけるとですそれ では見ていきましょう安 明人1968年に北朝鮮で生まれ外国語 大学で語学を学んだ後6年間にわって特殊 工作員としての教育を受けます韓国への 潜入を命じられ韓国人として潜伏するため に韓国の生活や文化を学びましたが徐々に ソウルの町に憧れを抱くようになりました 脱北の決意が固まったきっかけは同じ工作 員であるヒョの主を呼んだことですキム ヒョ秘は大韓航空機の爆破任務を遂行して 逮捕され死刑判決を受けたものの韓国 大統領の特者が認められて釈放されました 詳細は別動画で解説していますので是非 そちらもご視聴くださいキヒョ秘の主には 北朝鮮に騙されていたことや韓国の発展 ぶりなど北朝鮮国民には絶対に知られては いけない真実が国名に描写されているため 普通であれば国内で公開するはずがあり ませんしかしキヒョのような工作員が2度
と現れないようにするために本の存在を丸 ごと隠蔽するのではなく内容に注釈で訂正 を加える形で工作員に公開していました 北朝鮮当局はこれが思想統制の手段として 最適だと考えたようですが主を読んだ安明 人はあることに気づきます実際に大韓航空 機を爆破させて100人以上の命を奪った キムヒョが無罪方面になったのだから未だ に誰のも犠牲にしていない自分が韓国に 行ったとしても処罰されることは絶対に ないだろうそう結論付けた安明人は韓国へ の潜入任務で軍事協会戦に侵入した際韓国 軍に投稿して見事脱北に成功しました韓国 に移住した後は日本やソウルで自身の経験 団を話した他北朝鮮で目撃した日本人立ち 被害者についても証言します彼のもたらし た情報によって日本人拉致事件の調査が 大きく進展したものの数々の情報提供が 北朝鮮当局を刺激してしまったようで本人 曰く北朝鮮から暗殺命令が下されていると のこと2007年には中国内で入手した薬 を韓国で密売した罪で逮捕され一新では 懲役4年6ヶ月の実験判決高訴審判決では 執行猶予が認められて釈放に至りました 2016年に中国内で失踪し北朝鮮 もしくは中国の工作院によって殺害された 疑惑がさかれていますが相は不明です 北朝鮮の工作員は世界各地に潜伏している とも言われており脱北に成功しても油断は できませんチ ギョンスク北朝鮮を脱出して韓国で生活し ていた24歳女性の脱北者2004年に夫 のムさ26歳と新婚旅行で中国に行きまし たさのいに贈り物などを渡してくれる人を 紹介するという北朝鮮側の人物とすた中 国境を流れるトガの近辺に向かいます 北朝鮮側の人物とは当初北朝鮮との国境 から離れた中国内陸部で合う手はずになっ ていましたが最終的には約束時間を1時間 送らせた上に待ち合わせ場所も変えたそう ですしかし夜間に夫婦が川べりで相手を 待っていたところ北朝鮮の保衛部員による 襲撃に会いますムさんは川の中に隠れた ため無事でしたがさんは袋詰にされてに 拉致されました韓国の市民団体は国内外に 賃さの救出を呼びかけましたが彼女の同行 については一切情報がありません事前に 夫婦と会う約束をしていたことから事前に 打ち合わせされた計画的な拉致である可能 性も定できませんただ外交官や工作員など の貴重な情報を持っているわけではない 民間人が脱北後にわざわざ連れ戻されると いう事案はかなり稀です脱北後に北朝鮮 関連の人物と接触た北朝鮮の国境に接近し たりすることは非常に危険であることが
分かりますイ チョルホ北朝鮮軍の注意軍事協会線付近に ある警戒証書のドアをノックして棒名の 意思を伝え韓国に脱北しましたテレビで 北朝鮮の実態について語るなどして致命度 を高め2012年に同じ脱北者の女性と 結婚子供が生まれたものの職場に馴染めず 2013年にベルギーに移住しますところ が移住先で詐欺にあって全財産を失い妻と 離婚離婚訴訟中だった妻と高論になり彼女 の首を占めて殺害しようとした罪で逮捕さ れ殺人未遂の罪で懲役2年6ヶ月の実験 判決を受けましたチョルホが行った脱北 方法はノック亡命とも呼ばれており軍事 協会線の被武装地帯に勤務する北朝鮮兵士 が鉄常網を超えて韓国側に亡命した事例が 複数確認されています中には棒名希望者が 韓国兵士が寝泊まりする弊社をノックし その後付近の警備書の扉をノックした ところで初めて韓国兵士が気づいたという 事例もありました韓国兵士は当初棒名希望 者を監視カメラで発見したと虚偽の報告を した挙句監視カメラの録画が機能してい なかったことが後に発覚し韓国側の警備の ずさが指摘されています イハニキムジョンイルの2番目の妻である ソンヘリムの姉の息子でキムジョン雲の 腹違いの兄であるキムジョンナムの従子に あたる人物北朝鮮で暮らしていた頃の名前 はリールナムでトンヤンでキムジョンイル フサやキムジョンナムと生活を共にしてい ました1976年からモスクワや ジュネーブなどへの海外留学を始めますが 西川諸国を回るうちに北朝鮮の体制のあり 方に疑問を持つようになります1982年 にヨーロッパ経由で韓国に亡命し手術で顔 を変えた後に解明して結婚韓国の公共放送 局であるKBSに勤務します韓国メディア のインタビューや本の出版などを通じて 北朝鮮で見たキ一族のプライベートな一面 を暴露したことで話題を呼びましたしかし このような行為がキ一族の怒りを買い 1997年にソウルのアパート前で工作員 に襲撃され東部に銃撃を受けたことで死亡 しますイハニの妻は保護がおろかだった ためにれたと主張し国に対して4億 8000万音以上の損害賠償を請求この 訴えを受けた裁判の一新では国家がイハ ニョンの保護に何の措置も取らなかった ことを認めつつイニョンが国の中国を無視 して北朝鮮の情報を発信するなどして事件 の原因の一部を作ったことも指摘以上の 理由から2008年に国に約9700音の 損害賠償支払いが命じられましたイニは 判明しているでは北朝鮮国外で殺害された
最初の脱北者ですリスクを犯して資格を 放ってまで脱北者を暗殺させることは滅多 にありませんがイハニョンの場合はキ族と いう政治的重要性の高い人物だったことと キ族の知とも言える喜び組や秘密の パーティーを暴露したことが狙われた 大きな原因だと思われています北朝鮮で 神格化されているキ一族の俗物的な プライベートは誰にも知られてはいけない 国家機密レベルの情報であり それを様々な場面で不調したことでキム ジョンイルを挑発してしまいました人の目 を引かずひっそりと暮らしていれば暗殺の ターゲットになることはなかったかもしれ ませ [音楽] ん脱北に成功したからと言ってその先の 人生が必ず幸せなものとなる保証はあり ません北朝鮮当局の手から逃げきれずに姿 を消したものや韓国での生活に馴染めず 人生が暗転していくものも確かに存在し ます北朝鮮の圧力にくさず北朝鮮の人権 問題を訴えている脱北者がいかに危険な橋 を渡っているかがよくわかるでしょう当 チャンネルでは今後も挑戦関連の情報を 解説しますので動画を楽しんでいただけ たら高評価とチャンネル登録をお願いし ますそれではまた別の動画でお会いし [音楽] ましょう映画女優として大スターの座に 君臨した中二と有名映画監督の新3億韓国 の映画業界では知らぬものがいないほど名 をはせた2人はある日何の前ぶれもなく 隣国の北朝鮮に拉致されました裏で糸を 引いていたのはキムジョンイル彼はなぜ 中二と新3億を拉致したのでしょうか そして2人は北朝鮮でどのような生活を 送ったのでしょうか世界を新刊させた韓国 スターの拉致事件を徹底解説していきます 当チャンネルでは朝鮮関連のの情報を発信 していきますので興味のある方は是非 チャンネル登録していただけると嬉しい ですそれでは見ていき ましょう日本統治下の韓国に生まれた中二 は高校を卒業してすぐ劇団に所属し3年後 に映画女優として華々しいデビューを飾り ました1948年に出演した映画夜中の 太陽を木に流しられるようになり韓国映画 女優としてのかこたる地位を獲得します そんなおに知り合ったのが映画監督の新 3億です1954年に結婚した2人は新 フィルムという映画会社を設立俳優業と 並行してアニアン映画芸術学校の運営にも 携わるなど女優としての黄金期を迎えます ところが夫の新3億が中二の後輩女優と
不倫して妊娠させたことが発覚自分は子供 を埋めなかったことに対する申し訳なさや 自分を裏切った億への怒りに駆られ新3億 と後輩女優が2人目の子供を設けた時に 離婚を切り出します結婚から23年後の 決別でしたまた韓国最大の規模まで育てて きた新フィルムも厳しい検閲や管理への ワロといった当時の政治情勢の煽りを受け 映画者の登録を取り消されて国内では撮影 ができなくなってしまいます歴史ある 映画会社の看板を下ろさざるを得なくなっ たところに経営していた芸術学校にも移転 やや運営問題が浮上し中にはひどく 追い詰められていましたそんな彼女に声を かけてきたのが中国人のワンという見知ら ぬ男性です芸術学校の支援を検討している という湾に誘われるまま中には1978年 1月に香港に旅立ちました香港に来て4日 目紹介したい人がいると言われて海辺に 案内され半ば強引にモーターボートに乗せ られます乗組員に行き先を尋ねるとキム イルソン将軍の懐へ向かっていると告げ られてパニックに陥り注射を打たれて意識 を失いました1月22日の15時頃北朝鮮 に上陸した中二の前に現れたのがキム ジョンイルですよくいらっしゃいました そう言って歓迎するように差し出してきた 手をチニは内心行りながらも握り返します ここからチニの長い北朝鮮での生活が 始まりました中二がベンツに乗って案内さ れたのはコンクリートの兵で囲まれたキム ジョンイルの別荘でした彼女は身分証明書 と旅を没収され女性指導員の監視のも邸宅 に南されることとなります数日後にキム ジョンイルの宴会に呼び出されましたが彼 はテのかけらもなく中二を合成な料理で 定長にもてなしました自分を拉致した理由 について問いただすといずれ北朝鮮が南北 を統一した際に北朝鮮の代弁者として韓国 の国民を説得してもらうためだと教えられ た 彼女にとっては到底受け入れられない仕事 でしたとはいえキムジョンイルに拉致され て持ち物も取られてしまった以上チェウニ だけでは脱出することなどできません チェウニは同居する女性指導員の指示に 従って日々を過ごしましたある時はぴょん やんや地方の観光地に見物に出かけキム ジョンイルと並んで音楽不要を干渉し釣り や読書散歩でリラックスし毎週金曜日には 決まってパーティーで映画やミュージカル を見ましたまた別荘では北朝鮮の革命士や 地思想について本の朗読や映画鑑賞などを 通して学ばされました北朝鮮では階級が なく全ての人民が平等に生きているなどと
いう嘘を学ばされるため中二にとっては 苦痛なことです矛盾点を指摘すると指導員 は答えに休ししまには激怒するため中には 反抗的と捉えられる行為は極力慎むように なりましたそれさえ気をつければチの待遇 は非常に良いものだったのです労働らしい 労働はなく北朝鮮に関する勉強さえ きちんとこなしていればあはキム ジョンイルに誘われるがまま宴会や芸術 干渉などに応じていれば済みます寝泊まり していた邸宅の電話にはキムジョンイルの 直通番号が設定されており用事があれば いつでもキムジョンいる本人と通話が できるなどまさに破の待遇でした彼女だけ にできることといえば過激や映画を干渉し た際に映画女優としての試験からキム ジョンイルに批評を述べることくらいです 北朝鮮は芸術に疎いものばかりでもし 詳しいものがいたとしてもその意見を芸術 に反映させることなどできませんなぜなら 北朝鮮における芸術は突き詰めると プロパガンダの手段であり最終的に作品の 義足を判断するのはキムイルソンやキム ジョンイルだからですそのためかキム ジョンイルはチェウニの正直な批評をいつ も注意深く頷いて聞いていましたチニは7 ヶ月ほど同じ邸宅で過ごしていましたが 指導員の指示で急に別の拠点に移ることと なりました彼女はこのようなことを今後何 度も経験するのですが移動先の拠点は 決まって一目につかない山奥にありました これは招待所と呼ばれる施設で海外から 拉致してきた中二のような外国人や極秘 任務に関係する工作員など一般人と生活さ せてはいけない訳ありの人間を世間から 隔離するための区域です日本人被害者の 池氏と大館航空機爆破事件の実行犯である キヒョの日常生活についての動画で解説し ていますので是非合わせてご視聴ください 中にも招待所の周囲を散歩している途中 ヨルダから来たというヨーロッパ系の女性 やマカオから来た中国人の美女などと 出会ったそうですマカオの美女は現地で 観光客のガイドをしていたところ海岸の 案内をしてほしいという客に従ってボート に乗りお合いで大型線に乗せられて拉致さ れたと話します2人ともとらわれの身で あるため表だって堂々と会うことはでき ませんでしたが同じ境遇の物同士で時折り こっそりと接触し心の傷を癒していました そんなある日宴会に呼ばれてぴょんヤンに 入るとキムジョンイルから驚くべきことが 告げられます新参億と連絡が取れました 近いうちにこちらに来るでしょうあまりの 衝撃的な内容に中二はにわかに信じること
ができませんでした [音楽] 新3億が長年審決を注いで経営していた新 フィルムは厳しい検閲や制作費の激減と いった問題に悩まされた挙句彼を疎ましく 思う組織の思惑によって映画者の登録を 取り消されてしまいました韓国で映画を 取ることができなくなった新3億が活動 拠点をアメリカに移そうと移民申請をして いる途中前の中二が行方不明になっている 事実を知ります不倫を とは離婚したもの映画会で同じ道を歩む 同士友人としての関係は続いていました中 が以前北朝鮮に関係する女性と繋がりを 持っていたことを思い出した新3億は中二 が北朝鮮に拉致されたのではないかと直感 しますしかし同時にチェニを拉致した疑惑 が新3億自身にかけられておりそれを払拭 して事実明に乗り出すべく香港で記者会見 を開きました調査が進むにつれてに誘拐の 権は徐々に晴れていきましたが未だに新参 億を疑う韓国の根回しによって自由に海外 を飛び回ることが困難になっていました現 時点で現実的な亡命先であるフランスを 選ぶか当初の目的だったアメリカになんと かして移住するか自由に映画政策ができ ないことに目をつぶって韓国に戻るか今後 の身の振り方を迷っていた際に電話で兄に ソウルに帰ってくるよさされ新参億は ひとまずソウルに帰国することを決めまし たするとこれまで新3億と一緒に映画会で 仕事をしてきたビジネスパートナーの 中国人男性から海外を安心して渡航できる 旅券を入手する策があると提案されます 協力者に合わせるという中国人男性の指示 に従たがってベンツに乗りますがベンツは 徐々に人気のない場所へと向かっていき ました新参億が嫌な雰囲気を感じ取った 瞬間ドアを開けて34人の男が飛びかかっ てきます抵抗する間もなく拘束された新 3億は目隠しをされてモーターボートで 連れ去られました周囲の男の会話で北朝鮮 に連れて行かれることを把握しますが何ら かの目的に自分を利用しようとする意図が 感じられたため少なくとも殺害される心配 はないだろうと考え中二のようなパニック に陥ることはありませんでし た北朝鮮に上陸した新参億が案内されたの はチニとは別の立派な邸宅でした異なる点 といえば映画を見るための者室と観覧室が 備えつけられていたことです新産億は数人 の退員や料理人に世話してもらいながら 午前に2時間の学習食事後の昼寝日本の 映画鑑賞という生活をしばらく繰り返し ましたチェウニのようにキムジョンイルと
直接話す機会は全くなかったそうです新 3億がチニの行方について問い詰めても彼 の指導員はくに何も話しませんそんな者 たちに自分の運命を委ねられないと感じ新 は脱出の計画を立てて機械を伺うように なりました最初の脱出は拉致から約5ヶ月 後の水面に氷が張る初頭の季節に結構し ました眠りについたふりをして巡回の目を 欺いた新3億は邸宅に止めてあった運転手 の車をこっそり奪って中国境を流れる王力 光の方角に走らせます途中で車を乗り捨て て列車に乗りますが鉄道警備院に見つかっ て通報され1度目の走は会えなく失敗に 終わりました新3億はその代償として高知 書に100日間収容されることとなりまし た2度目の脱走は1度目の脱走から約半年 後のことです計画としては招待所の ラジエーターに身を潜めて姿を消した自分 を探すために捜索隊が招待所を出るまで 待ち追手をやり過ごしてから記者に乗って ソ連料に逃するという内容でしたところが 新3億の予想に反して捜索隊が自分を 招待所に人がいなくなるどころか室内が 捜査本部として利用されるようになり続々 と捜索隊が集まってきたのです喉の乾きや 空腹に耐えてなんとか隠れ続けたものの4 日目に発見されて逃走する前に計画が頓挫 しました2度の脱走を立てたことで新3億 への罰はさらに重くなり政治犯や思想犯 のみを対象とした高知書に習慣されました 気象している時間と食事わずかな休憩時間 を除いて1日16時間以上もの間微動だに せず星座の姿勢を維持しなければなりませ ん万が一動いている場面を見られれば元々 少ない食事量がさらに減らされ実際に新産 億は栄養出張に悩まされました便所は室内 の片隅にある四角い蓋を開ける仕組みです が異様な虫が群がっておりとても座って 入ることができませんでしたその状態で 150日収容された新3億は裁判を受け られないまま血集を集する官房に移され ますそこでは布団や石鹸といった簡素な 日用品が支給され脂身や味噌汁などの メニューも出るなど過去の高知書とは別格 の待遇でした2度も逃亡したにも関わらず 未だに自分にこのような待遇を与えると いうことはキムジョンイルが自分を必要と しているからに他ならないと新3億は確信 します結局新3億が釈放されたのは高知書 に習慣されてから約3年半後のことでした 1983年3月6日自由の身になって11 日目の夕方指導員に連れられるまま新3億 は大きなホールへと案内されます大勢の 監修の拍手に迎えられる中新3億は目の前 にいるキムジョンイルとチェウニを見て
まるで夢の中にいるようにぼんやりと 立ち尽くしていましたチェウニは拉致され てから5年2ヶ月新3億が拉致されてから 約4年7ヶ月を経て2人は再開しまし [音楽] 同じ別荘の同じ部屋を割り当てられた中二 と新3億は今までのことを洗いざらい 打ち明け合いました2人の希望は一緒に 家族がいるソウルに戻ること以外にはなく そのために必要なことはキムジョンイルの 信頼を得ることです信頼を得るために何を すべきかはキムジョンイル本人の発言から 分かりました無類の映画好きであるキム ジョンイルはコキ東西の映画フィルム 1万5000本を自分のためだけに収集し ており録音声優翻訳担当字幕担当社技士 など250人以上の専門家を抱えていまし たもちろんその中には新3億が手掛けた 韓国映画も含まれています海外の映画に 成通しているキムジョニは北朝鮮の映画業 界がどれだけ遅れているかを痛感してい ました映画に限った話ではなく北朝鮮の 全ての芸術作品は一族を偶するためだけに 制作され個人による純粋な捜索活動は存在 しませんキムイルソンとキムジョンイル 以外は有名になってはならず映画には出演 俳優や作人を紹介する字幕すら挿入され ないのです北朝鮮の映画を精治的道具とし て扱わざるを得ないのは主席であるキム イルソンの教授があるからに他なりません キムイルソンは映画について何も知らず 勝手な思い込みで検討外れの指示を飛ばす ため海外映画とは程遠い準の作品を出して きました映画に対してななならぬ関心を 持っていたキムジョンイルはこうした実情 に我慢できなかったのかもしれませんキム ジョンイルの最大の願望は1度平屋で国際 映画祭を開催することでしたところが高い レベルの映画を撮影しようにもそれが できる人材やノーハウが北朝鮮には皆無 です北朝鮮の映画会に新しい風を吹き込み 海外でも評価されるような高次元の映画を 作るために務は新3億と中二を拉致したの でしたキムジョンイルは2人に対して制作 する映画にどんな政治的イデオロギーも 共用しないことさらに必要な制作費は無 制限に与えること2人のために映画会社を 設立するとまで約束しました皮肉にも新 3億はこれまで検閲や制作費などの都合で 撮影できなかった映画を再現なく自由に 撮影できるようになったのです2人は新設 する企業を新フィルムと名付け速の企画に 取りかかりましたそれと並行して2人が 練っていたのは北朝鮮からの脱出計画です 拉致された証拠として提出するためにキム
ジョンイルとの会話をカセットテープに こっそり録音しキムジョンイルと撮影した 写真と共に保管しておきましたまたキム ジョンイルの許可を得て映画撮影のために ハンガリーを訪れた際事前に連絡を取って いた知人と密かし状況を洗いざらい話して 協力を取り付けましたいずれ脱北するなら 仕事で海外に渡航するタイミングしかない と考えていたのですしかし新3億はすでに 2度も脱出を失敗しており次の闘争が失敗 すればもうチャンスはないかもしれません キムジョンイルの信頼を確かなものにする ため脱出の機械を慎重に伺いつつしばらく は中堅に徹して真面目に職務を全頭する ことを決意しました一方で映画撮影はと 言うと理想的な俳優がなかなか調達でき なかったり北朝鮮ならではの非効率的な 仕事ぶりに苦戦したりと想定していなかっ た様々な問題に直面しました特に困難を 極めたのは俳優の器用や育成です韓国とは 美の感覚が異なるため最適だと思う人材を 起用しても周囲の同様を得られなかったり 男女関係の噂が少しでも流れた俳優は地方 に追放されたりしますまた俳優の大宮は 他国より圧倒的に悪く冬でも火の気がなく 臭い部屋に押し込められ黒がなく小川で 水浴びしなければならないため撮影に支障 をきたすこともありましたそんな中でも新 3億はどうにか第1作目をクランクアップ させますこうして完成した帰らざる密を見 たキムジョンイルはいさの不満もないと大 絶賛北朝鮮の映画としては10年ぶりに 国際映画祭に出品され特別監督賞を受賞 する海峡を成し遂げましたこれを受けた キムジョンイルから大外宣伝のために積極 的に国際映画に参加するよう依頼された新 3億は撮影のために海外を飛び回る生活に 暴されるようになりますその後も次々に 発表した作品はいずれも高い評価を獲得し モスクワやロンドンといった数々の映画祭 で賞を授与されました政治目的に過ぎ なかった北朝鮮の映画が初めて国際的に 認められるようになったの [音楽] です映画政策は順調そのものでキム ジョンイルからの信頼を実に得ていった 2人ですが肝心の脱出計画はどうなったの でしょうか2人は海外に何度も渡航する中 で数人の知人と密していました自分たちが 北朝鮮に拉致されて映画を取らされている こと棒名の意思があることなどをアメリカ 当局に伝えるように依頼していたのです しかし2人の裏工作がソウルに漏洩し韓国 当局からテレビを通して中二と新3億が 北朝鮮に拉致された事実が発表されました
キムジョンイルに脱出の意思があることは 感づかれませんでしたが新3億は仕方なく ブダペストで記者会見を開き自分たちが 自らの石で北朝鮮に行ったと嘘の発表を 行いますそれ以降国際映画祭などで状況 説明を求められた際には北朝鮮に脱出を 感づかれないため自由意思で北朝鮮に亡命 したと主張し続けまし た1986年2月に中二と新3億は ベルリン映画祭への出席が決まりベルリン かウィーンのいずれか1箇所で脱出する ことを決意します2人は北朝鮮で特権階級 としての暮らしを教授し韓国では様々な 制約で取れなかった映画を思う存分取れる 環境に恵まれましたしかし東一に家族を 残したまま北朝鮮で生きるより自由な世界 で心のままに生きてみたいという気持ちが まさったが故の決断でした結構日の22時 頃に知人と密会した2人は明朝になった アメリカ大使館に方明の意思を伝えその 返事を昼の12時までに自分たちに連絡 するよう依頼します自分を監視する北朝鮮 の従者には大事な約束があるから同行し ないよう釘を指し用事を終えて監視がい ないタイミングでアメリカ大使館に 駆け込む計画でした事情を知った知人は心 よく了承しましたが約束である翌日の12 時を過ぎても一向に連絡が入りませんこれ 以上待てないと判断した2人は周囲を警戒 しながらタクシーに乗り込みますが感覚を 開けてタクシーを尾行する車の存在に 気づきますアメリカ大使官に亡命の意思が 伝わっているか確認できていない段階でし たがもう引き返せるタイミングはありませ んタクシーをそのままアメリカ大使館に 走らせてもらい建物に駆け込んで棒名を 懇願しました北朝鮮に拉致されて約8年 中二と新3億は脱北に成功したのでし た2人は後にアメリカでしばらく暮らし 1999年に韓国へ帰国しました北朝鮮で の体験を記した著書を発表した他2016 年にはギリスの映画監督によって中二と新 3億のドキュメンタリー映画も制作され ます映画内では録音されたキムジョンイル の肉が実際に使用されており世界中で大 ヒットを記録しました新3億は2006年 に中二は2018年にそれぞれ病気でこの よさります2人は最後の瞬間まで人生を かけて愛した映画と紳士に向き合い続け まし た韓国で数々の優れた映画を制作しながら も命をかけた北朝鮮からの脱出劇という フィクションに負けずとも劣らないドラマ を演出することになった中二と新3億彼ら の体験団から謎に包まれていた独裁者キム
ジョンイルの映画に対する強い執念が 明らかとなりました拉致という望まない形 ではありましたが中二と新3億の北朝鮮で の映画制作は芸術における南北初の共同 事業と捉えられるかもしれません当 チャンネルでは今後も朝鮮関連の情報を 解説しますので動画を楽しんでいただけ たら高評価とチャンネル登録をお願いし ますそれではまた別の動画でお会いし [音楽] ましょう外交官 外務省や世界各国の大使館に勤務し所外国 との文化交流や外交交渉を担う公務員です どの国でも一定以上の学歴や教養が認め られたエリートにしかつけない職業ですが 国民の海外渡航そのものを禁止している 北朝鮮において外交官という立場は特権 階級の証しに他なりません外交官は海外 都校が認められる数少ない職業であるため それを利用して脱北する外交官もは増えて います今回は外交官の夫を持つ元喜び組の 女性が残した主をもに喜び組や外交間の リアルな日常生活をご紹介しましょう当 チャンネルでは朝鮮関連の情報を発信して いきますので興味のある方は是非 チャンネル登録していただけると嬉しい ですそれでは見ていき [音楽] ましょう新4日は1961年に北朝鮮の 地方公安都であるナポの4人兄弟に生まれ ました母の実家まで含めて労働党員は1人 もおらず叔父が朝鮮戦争中に失踪したと いう記録だけが残っていたため出身成分は どちらかというと悪い方だったそうです 祖母を含めて一日7人の1LDKアパート 暮らしは決して余裕のある生活ではあり ませんでしたが両親から愛情深く育てられ てきたため何の不満もありませんでした4 日は人民学校で芸術のサークルに所属し 幼いながらも武化を志すようになります 一方で両親や祖母に居character 体質のものが多く4日自身も成績優秀だっ たため家族は医者になることを望んでい ましたしかし北朝鮮では親であろうと自分 の子供に 思い通りに目をつけた党の指示で4日は中 学校で不要サークルに入ることとなり義務 教育を終えた後はナポ市の芸術専門学校へ の入学を許されましたもし芸術学校に進学 していなければ4日は親の進めで医学の道 に進み今後の人生は大きく変わっていた でしょう芸術学校での5年間が間もなく 終わるという頃ぴやんから華激団の団員を 募集するために担当者が訪れます踊りは もちろん体格外見身分などを総合的に審査
される厳しい試験でしたが4日は見事合格 しぴょんやんで過激団員として働けること となりました武良化を長年夢見てきた4日 にとっては大きな喜びでしたがキやんでの 新生活は思っていた以上に辛いものでした 不要の練習量が格段に増えただけでなく 過激団員の中の起立も非常に厳しく先輩 からの命令や注意にさらされて精神を すり減らす日々でしたそれでも1年もすれ ば過酷な生活に慣れてきて火生もできゆが 生まれるようになりますそんなある日4日 は突然マンスで芸術団の団員に抜擢され ましたマンスで芸術団はキムジョンイルが 設立した国内最高級の芸術団で国家規模で 支援を受けている全武化の憧れの的です4 日の不要人生における大きな景気でした マンスで芸術団に入団した4日はマンスの 内部にある寄宿者で集団生活を営むことに なります代理なの輸入品で装飾された高級 な雰囲気の内装給水制限がなく蛇口を ひねればいつでも使える水道白米のご飯が 好きなだけ食べられる食堂4日の実家では 主食はトウモロコシご飯で白米は年に1度 しかないキムイルソンの誕生日しか食べ られません4日の1ヶ月間の食費だけで 何十年も勤務している母の月収と同等でし た下着や化粧品といった日用品は全て芸術 団から支給されます 金銭的な余裕が一気に生まれましたが大半 の団員は貯金したり合有したりはせず地方 にいる家族に物資を買って送っていました 家族を経済的に援助できる反面1年を通し てまとまった休暇がなく満すでに缶詰め 状態となるため一家だんだんの時間を 楽しむことはできなくなります4日は孤独 感に苛まれながらも厳しい練習や厳格な 起立に揉まれ時間は矢のように過ぎていき ました マスに入ってから4ヶ月が経ち4日はある ことに強い違和感を抱くようになります 金曜や土曜の夜になると団員や振り付けし の教師が何も言わず姿を消すのです時には 酒の匂いをまとった先輩が千足で部屋まで 戻ってきたこともありましたマンスでの 生活起立は大変厳しく個人的な外発は一切 禁止されているため本来であれば許される はずがありません しかし4日は間もなくその理由を知ること となりますある日指導員から夕方から特別 授業をするという聞き慣れない用事で 呼びつけられ4日は練習室で不用の練習を させられました何の公演で披露するかも 知らされず特別練習のことは誰にも公害し ないよう釘をさされますやがて4日は先輩 の団員と車に乗せられてとある場所に
向かいました車が止まったのは外務省の 招待所の前です4日が呼ばれたのはキム ジョンイルが主催する秘密のパーティー でしたキムジョンイルのパーティーについ ては別動画で詳しく解説していますが脱北 したキ一族のイハニョンやキムジョンイル の専属料理人だった藤本によるとキム ジョンイルは毎週末に側近や公園組を招い て高価な宴会を開いていたそうです4日は 公園組の1人としてキムジョンイルを もてなす役に抜擢されこれは4日にとって は大変名誉な役割でした4日は幹部に気に 入られたのかその後も3回4回と パーティーに呼ばれるようになります マンスに来てから3年が経過したある日何 の前ぶれもなく所属していたマンス芸術団 が解散となりましたキムジョンイルの指示 とのことだったため理由を詳しく 問いただすわけにもいきません公園日数が 徐々に減ってきていたのは団員も感じて おりキムジョンイルのマンスで芸術団への 関心が薄れてきではと噂されていました これまで中央島の直属だったマンス芸術団 は別の容団が運営することになり4日たち は芸術会館への移動を命じられます芸術 会館は独身の芸術家が集団生活をする宿舎 でマンスの時より生活レベルは数段下です あまりの格差に最初こそ落ち込んだ4日 ですがマスで感じていた緊張感や閉塞感が 消えたことで徐々に現状を前向きに捉え られるようになりました芸術会館に移って から約4ヶ月後4日は行動練習のため臨時 的にマスで合宿を行うこととなります しかしこれはただの公演ではありません でした公園で行われれた選抜試験に合格し た4日は新たに結成された喜び組に選ばれ たのです武組の組長に選抜された彼女は キムジョンイルの秘密のパーティーに出席 するようになります約3年ぶりに参加した パティは以前とは比較にならないほど下品 な内容となっていました喜び組には武洋組 以外にも曲芸組やペクさ組といった様々な グループがあるのですが彼女らは局部が やっと隠れるくらいの薄着で観能的な踊り を披露し酔った幹部は断定に上がって体に 触れようとします際どいサービスの方が 受けが良いため喜び組は競うように下品な 方向性に向かいついには下着モデルのよう な格好で舞台をカするようになりました 宴会中に起きた出来事は大抵が多めに見て もらえるためよって女性に覆いかぶさる 幹部がいてもキムジョンイルは問題に しようとしません4日も1度だけ宴会の 休憩中にとある幹部に別の部屋まで誘い 出され強引に襲われたことがありました
ここまでのことをするにはさすがにキム ジョンイルの許可が必要となり側近の中で も特に権力を持った一部の幹部のみに許さ れていたそうですこのようなさがある反面 ヨーロッパへの長期旅行が認められたり キムジョンイルから高級な下着や化粧品 などをプレゼントされたりと大宮面では やはり魅力もありましたこうした生活は 喜び組の解散が命じられたことで1年 あまりで終わりを告げ4日はまた芸術会館 での日常に逆戻りしますキムジョンイルの 一声で一1人の人生が変えられてしまう 立場に彼女は少しずつ違和感を募らせてい まし た 喜び組を引退した4日が迎えた次の天気は とある男性との出会いです同じ華激団に 所属する男性武家テにその友人から アプローチを受けましたチェセンと名乗る その男性はキムイルソン総合大学に通う催 で東やに生まれて中央島に所属する高級 幹部の父を持つ絵に書いたような特権階級 の男性です異性に全く興味のなかった4日 は初めのうちこそセウの強引なアピールを 鬱陶しく思っていましたしかしある日4日 がデートの待ち合わせに4時間も遅刻した にも関わらずセウが嫌な顔1つせず笑って 許してくれたことを気に少しずつ彼を配偶 者として意識するようになります家柄が あまりに駆け離れていたためプロポーズを 受けてもなかなか承諾する勇気が持てませ んでしたがセウが4日の実家を直接説得し に行ったこともありついに2人は正式に 夫婦となりました 夫の父親はキムジョンイルの秘密の パーティーに出席していたほどの高級幹部 でキムジョンイル時々に結婚の承諾を得る ことができたのです夫の4人の姉も医者 記者編集者という行為の職業についており 身分の低い4人との結婚をよく思ってい ませんでしたが夫はそれを全く気にしませ んでした結婚後の4日は家族と離れ夫が 住む高級アパートで新婚生活を始めました 共同幹部である義父のおかげで豊富な食材 を簡単に入手でき何不自由のない暮らし でした芸術団での公演は結婚後も続けてい ましたが妊娠してお腹が膨れてくると舞台 に立つことが厳しくなり武洋家としての 仕事を終えて一生がかりとして働くように なります長男のチヒに加えて長女の村費も 生まれると4日は8年間続けた芸術団を 辞め出版社で必死班の職員に転職しました 芸術団を退職できたのも必班に転職できた のも全て夫のコとワイドのおかげです 新しい仕事は作業量が少なく毎日出勤する
必要もないため余裕を持って育児ができる ようになりまし た夫は組織内でも一目置かれる優秀な外貨 ディーラーで何度か数ヶ月間イギリス出張 に行っていましたそしてついに海外不妊と いう形で4日もそれに同行することとなっ たのです海外出張の前には資本主義国の 雰囲気に染まらないよう地思想や社会主義 国の優位性について最教育を受けますこれ だけなら良かったものの4日が納得でき なかったのはまだ3歳になったばかりの 長女を置いていかなければいけないこと でしたその時には理由は明かされません でしたがしばらく後になって海外不妊者の 亡命を防ぐための人質であることを知った そうですやを得ず長女を義母に預け4は夫 と長男とイギリスに旅立ちまし た4日は武良家としてヨーロッパや韓国を 何度か訪れていたため資本主義国の景色を 見てもそれほど驚きはありませんでした空 高くそびえる建物や豊富な品物は北朝鮮と 比較すると非常に発展しているように見え ますしかし20年以上にわって徹底した 思想教育を受けてきた4日は豊かに 見せかけるための上辺だけの景色だと信じ て疑わなかったそうです それでもロンドンでの新生活は彼女にとっ て新鮮なものでした3人はこれまでの単身 不妊で夫が使っていた3階建てのアパート で暮らすこととなります家具家電や日用品 といった生活必需品は全て備えつけられて おり食材を購入する際は日本の百貨店で 朝鮮料理を探しました夫はロンドンで長く 暮らしているため夫の言うことを聞いて いれば基本的に問題はありませんでしたが 4日は英語が喋れなかったこともあり完全 に適応するまでには2年ほどかかったそう です2ヶ月後には富裕層が住む地域にある 2階建ての華やかな一見屋に転居し生活 レベルはさらに上がりました北朝鮮の 暮らしと比較するとまさに天と地の差です ロンドンでの生活になれるにつれて祖国に 対する疑念も徐々に深まっていきました 例えば長男を返させるにあたって学校の 校長と話をした際 校長は北朝鮮の存在を全く知らない様子を 見せました北朝鮮は世界で最も偉大な国家 で世界中の人々がキムイルソンを崇めて いると教えられてきたのにこれはどういう ことなのか夫に聞くと北朝鮮がどこにある かを知らないものも多くなぜ南北に分裂し たのかもあまり知られていないと言われ ます4日は次第に人前で北朝鮮について 話すことを避けるようになりましたまた イギリスのが子供と同じ目線に立とうと
する姿も4日にとっては馴染みのない光景 でした北朝鮮における教育とは巧妙な 言い回しで子供を労働に借り出し最高指導 者に中性を誓う人間を育てるこれ以外の 意義は存在しません国家ぐるみの洗脳を前 に子供の個性や才能は育つことなくしぼん でしまいますイギリスでのびのびと遊んで いる長男を見ればどちらの教育法が良いか は一目瞭然でした 実際に生活してみた結果北朝鮮が意味嫌っ ている資本主義社会での生活がはるかに 人間らしいものだと感じたのですそれを 自覚してからは朝食がトスト中心の養殖に 変わったりクリスマスにツリーを飾ったり と母国では到底触れられない西洋文化に 染まっていきました4日の一家と北朝鮮の 唯一のつながりはイギリスと北朝鮮の外交 業務を担う代表部の家族ですイギリスで 暮らす北朝鮮の人間は四平を含めて3家族 だけでした資本主義社会に染まらないよう そのメンバーで定期的に思想教育を行って いましたが徐々に個人主義に走っていると 批判されることが増えてきます批判を 受けるのは大抵が4日の夫でした4日より ロンドンでの生活が長い夫は北朝鮮の宣伝 が嘘にまみれていること本当は西川諸国の 生活水準の方が圧倒的に高いことなど4 以上にはっきり認識していたのです外国 為替で莫大な利益を上げていた夫は会員性 レストランで食事を取り最高級のビジネス グッズを身につけ審判カードや小切手を 使い家族に高級品をプレゼントしカジノに 入り浸るなど金遣いの荒さはかなりのもの でした夫の合有ぶりを見た北朝鮮のものは 当然顔をしかめましたがその頃の夫はキム ジョンイルの妹であるキム魚日の裏金を 管理するポジションまで出世していたため 仕事ぶりに関しては周囲も口出しでき なかったそうです表向きは順調そのもの だった夫も何をするにも本国の証人を待た なければならない北朝鮮の情報体制に自分 の能力が発揮できないもどかしさを感じて いました完全な資本家になってしまった夫 はもはや社会主義国での暮らしには適用 できなくなってしまったの [音楽] です第に夫は家庭も4日に対して韓国で 暮らしたくないかと問いかけるようになり ます子供たちのためにも海外で暮らした方 が絶対にいい内心では分かっていたものの 本国に長女を人質に取られたまま自分たち だけ亡命するのは考えられません4日の 気持ちを理解していた夫はこれまで稼いだ 200万ドルをキギ費に献金しその見返り として長女をロンドンに連れてきます数年
ぶりに家族4人が揃い異国の地ではある もののまた一緒に暮らせるようになりまし たところが家族が全員揃ってからも夫は 韓国の雑誌やCDを堂々と買いあさるなど 韓国への同形を隠そうとしませんそんな中 夫の仕事を手伝うため北朝鮮から2人の 職員が派遣されてきます夫の仕事を手伝い に来たという割には金融業務について何何 の知識も持ち合わせていなかったのですが 後にその2人が夫の中に夫のデスクを無断 で調査していたことが明らかとなります夫 の思想に問題があると見なした党が夫を 監視するために派遣したスパイだったの ですこれまで必死に国のために尽くしてき たにもかわらず些細なきっかけで切り捨て られるそんな待遇に耐えられなくなった夫 は真剣にソウルへの亡命を4日に訴えます ソウルがどんなところかわからないし自分 たちを歓迎してくれるとも限らないもし 脱北すれば故郷に残した家族が必ず大変な 目に合う様々な不安が4費を襲いましたが 夫の決意は想像以上に固く最終的には総機 に従うしかありませんでした4日の同意を 得た夫は亡命に向けて秋冬な計画を練り 始めました亡命するためにはイギリスに ある韓国大使館に連絡する必要があります しかし外交官は監視の目が厳しく盗聴さ れる危険性もあるため自宅以外の連絡場所 を確保しなければいけませんそこで家族4 人は北朝鮮の代表部に病院に行くと連絡を 入れ町から離れた公園まで車で移動しまし たすぐに韓国大使館に電話をかけ領事と 面会の約束を取り付けることに成功します 領事曰くソウルへの亡命要請はまず大丈夫 だがイギリスとの外交問題が絡むため2 週間後にまた連絡するとのこと連絡が来る までの間はは疑いを持たれないよういつも 通りに生活しながらソウルでの生活のため に金目のものを売り払ったり荷物を整理し たりしてじっとその時を待ちました約束の 2週間を過ぎた午前2時半窓の外に車が 止まる音が聞こえます韓国大使館の迎えの 車です家族は急いでベンツに乗り込み夜の 闇に紛れて自由への第一歩を踏み出しまし たソウルに渡って最初に苦労したのは自分 たちの身分や亡命理由を説明することでし た4平一家の亡命を受けた北朝鮮は夫が国 の資金を持ち逃げしたと避難し資金の変換 と身柄の引き渡しを要求してきたのです 北朝鮮がそのように対応してくることを 予測していた夫は事前に用意していた証拠 書類を元に身の潔白を訴えたものの非常に 複雑な国際ビジネスであるがゆえに理解し てもらうまでにかなりの手間を用しました 一方4日はマンスで芸術団としての経歴を
買われてミュージカルの公演の主演女優に 抜擢されました母国とのアクセントの違い などに大いに苦戦したものの悩みを察して 丁寧にアドバイスをしてくれた同僚を見て この時初めて韓国に来てよかったと感じた そうですその感情はソウルでの本番公演で さらに強くなりました北朝鮮では拍手を するタイミングを自分で選べませんが韓国 では自分がが感動した時に拍手を送ること ができます自由な社会ならではの熱狂的な 空気に4日は満足感を覚えまし た喜び組に選抜された後外交官の夫と ロンドンに転勤し家族全員でソウルに亡命 するという波乱万丈な反省を送った4日 亡命したことによって自由を手に入れた 一方親友や家族との別を呼びなくされた 彼女の姿からは僕がいかに難しい決断で あるかが伺えるでしょう当チャンネルでは 今後も朝鮮関連の情報を解説しますので 動画を楽しんでいただけたら高評価と チャンネル登録をお願いしますそれでは また別の動画でお会いし [音楽] ましょう重大な人権侵害が確認されるとし て世界各国から問題視されている北朝鮮 その中で最も懸念されている例が強制 収容所の存続ですあの悪夢高い アウシュビッツより残酷だという声すら 上がっている北朝鮮の強制収容所およそ 20万人の国民が十分な食事を与えられず 過酷な労働を強制され人権や法律を無視し た非道な措置が日常化しています北朝鮮は 強制収容所の存在を一切認めておらず情報 や移動の厳しい制限も合って詳しい情報が 外部に留出することはほとんどありません でしたしかし近年は強制収容上命からがら 脱出した脱北者の証言によって謎に包まれ ていた実態が徐々に明らかになっています 脱北するのは大半が囚人ですが今回ご紹介 するのは囚人を支配する立場だった警備兵 という非常に珍しいケースです彼はなぜ 脱北するに至ったのでしょうか強制収容所 の元警備兵の主をもに収容所内で起きて いる恐ろしい実態に迫っていきましょう当 チャンネルでは朝鮮関連の情報を発信して いきますので興味のある方は是非 チャンネル登録していただけると嬉しい ですそれでは見ていき ましょうアンミンチョルは1969年に5 人家族の長男として生まれました実家は あまり裕福ではなく末っ子の3男は病院で 駐車を打ち間違えてなくなったそうです こういった経緯があってチョルはぐれて 不良仲間と付き合うようになりしょうも ないいたずらや喧嘩に明けくれます義務
教育を終えた後に農業専門学校に入ります が周囲には初行の悪いクラスメートが多く 環境はあまり変わりませんでした女子生徒 はお金を得るために街角に立って男性を 誘い相手が見つかると2人でトウモロコシ 畑に行って体を売るといった日々を送る ものも多かったとのこと北朝鮮ではラブ ホテルのように気軽に王を重ねる場所が なく男女関係に厳風調もあるため婚姻前の カップルは大抵山奥などの一目につかない 場所で行為に及びますミンチョルと悪友は それに目をつけ夜の山で密かするカップル を奇襲して金品を奪ったり女性に手を出し たりする遊びに教示ていましたしかしある 時襲ったカップルの男性が警察に駆け込ん だことでミンチョルは逮捕されて教科所に 習慣されます教科所とは囚人の再教育を 目的とした北朝鮮の刑務所です構成の余地 があると判断された犯罪者が投獄される ため後に解説する管理所と比較すると比較 的優しい刑務施設と言えるかもしれません 幸いにもミンチョルの場合は両親の支払っ たワイドによって早期に釈放されました彼 はこれまでの悪道ぶりを開心して親高校を 誓い商業給養所に入って運転免許を取得し ます北朝鮮では限られた特権階級しか車を 持つことを許されておらずゆに運転免許の 者も珍しいため運転技術を持つものは重宝 されやすい傾向にあるのですこの選択が4 チョルの運命を左右することとなります 給養所では初めての恋人もできましたが 1987年に軍隊同院例が舞い込みます ミンチョルは家族や恋人と離れて平気に 着きまし た1987年にリンチョルが初配属された 場所が政治犯収容所の完全統制区域11号 でした後に判明したことですがチョルの 祖父が反逆者とみなされておりチョルは 出身性分の低い判断分子として国から睨ま れていたと言いますミンチョルが強制 収容所に配属されたのは政治犯を厳しく 管理できるか道場して庇うのかを監視し国 への中性神を確認するためだったそうです 彼が配属された管理所の完全統制区域とは 北朝鮮の強制収容所の中でも最もも劣悪な 環境で1度習慣されれば一生出ることは できないと言われていますそのため完全 統制区域からの脱北者はほぼ存在せず特に 情報が少ない未知のエリアです管理所で 働く警備隊や保衛員たちは政治犯が少しで も反抗するそりを見せたら好きなように 振る舞っていいという話を上司から何度も 繰り返し言い聞かされ政治犯に対する敵対 心を煽られましたもし政治犯に同上して 施しを与えれば国家へのの裏切りとみなさ
れて自身も厳しく処罰されるため警備隊や 保衛員も残酷にならざるを得ないという 仕組みが作られていましたこのような 仕打ちに耐えられなくなった政治犯が団結 し1970年に1度だけ大規模な暴動が 発生したこともあったそうですしかし報復 として5000人あまりの政治犯が殺害さ れそれ以来政治犯への扱いはより残酷で 過激なものになってしまいました ミンチョルの主によると管理は様施が合し た巨大な敷地を有していたとのこと例外 なく全ての強制収容所が人里離れた山奥に ひっそりと建設され何も知らないものが外 から見ただけでは普通の集落にしか見え ません政治犯の逃亡を防ぐため外壁には 電流の流れる鉄蔵毛やそこに鋭利な木材を 敷き詰めた落とし穴などが設置され軍を 連れて武装した警備兵が24時間体制で 巡回していますまともな装備も周辺境の 知識もない政治犯が要塞と化した韓国から 脱出するのは至難の技でしょう強制収容所 の敷地内には政治犯の住居だけでなく警備 兵や保衛員とその家族が住む住居政治犯の 子供が通う学校病院や畑といった生活に 必要な最低限の施設が一通り揃っています 警備兵や保衛員の住む家は豪かでしたが 政治犯の家は土壁やわらぶき屋根でできた ハーモニカ住宅でチョルは初めてそれを見 た時牛か豚の小屋だと勘違いしたほどです 家の東海を防ぐために丸田で補強された 建物もあり出入り口や窓の位置を判別する ことさえ難しかったと言います家族州は6 畳ほどの今で6人が雑魚する場合もあり 1人が寝られるスペースはわずか幅 50cm程度外の世界と同じ感覚では とても暮らせません離れたところには政治 犯を処分する秘密の処刑状や保衛員が戦闘 訓練を行う施設過酷な生活に耐えられず 精神に異常をきたした政治犯や身体的な 病気にかかった政治犯が収容される隔離 病棟などが存在しますミンチョルによれば 隔離病棟に入るケースが多いのは帰国事業 で北朝鮮に移住してきた在日コリアンの 日本人妻が多いとのこと元々日本での生活 水準が高かったため管理所での生活に能 できず錯乱しやすいのですこのように かつては裕福だった韓国や日本からの帰国 者も多く収容されており日本人立ち被害者 と思われる人物の目撃情報も入っています 推定60歳ほどのその人物は集団で作業に 当たっていた他の政治犯とは異なり1人で ボイラーに石炭をくべていたそうです外国 からの帰国者は文化や技術水準が高い器用 なものが多く作業効率化のために様々な 道具を自作していたとみチョルは話してい
ます彼らのほとんどは自分が要されに至っ た理由を聞かされておらず単なる労働力と してそして保衛員のストレスの吐口として 定期的に補充されては処分されていきまし [音楽] たミンチョルは警備兵の中でも運転技士と いうポジションについていました先ほど 解説したように運転技術を持つものが 珍しい北朝鮮においてこの立場は周囲から 頼られ羨ましがられる存在です上司は緊急 の用事で技士を自由に使い運転技士も出世 のために上司に媚を売っておく必要がある ためウンウンの関係を気づきやすかったと 言いますまたミンチョルは彼自身の経験や 過去の影響なのか政治犯を動物としか思っ ていない他の職員とは異なり内心では政治 犯に強く同乗していましたもちろん表だっ て親切にすると思い処罰を受けるため裏で ひっそりと目をかけるだけでした ミンチョルの前行は政治犯にも伝わるよう になり どんなに罰を受けてもミンチョルに害が 及ぶことは喋らないという誓を立てられる までになります政治犯を徐々に信頼する ようになったミンチョルは趣味で引いてい たギターをこっそり政治犯に聞かせるなど 間接的に交流する機会が増えていったそう ですしかしそのような平穏な場面は ミンチョルにとってご一部でしかなく強制 収容所での経験の大半はまるで悪夢のよう な辛く残酷なものでした彼が主で語った 壮絶なの一部を抜粋し強制収容所での リアルな生活をご紹介しましょうまずは 政治犯の食生活ですトウモロコシや塩水と いった生存に必要最低限の食事すら与え られず誰もが栄養失調で骨と皮だけの姿と なっています流地所に入れられた政治犯は 1日100g程度の豆飯と食塩汁しか もらえませんそのため隠れてネズミや虫を 取って食べたり敷地内に生えている雑草を 隠れて食べして自分で命をついでいく必要 がありますとある政治犯の少女は食堂の 下水道が流れ込む仏だめに浮かんだ麺の 残りカスを食べようとした結果後ろから保 員に蹴り飛ばされておだめで溺れていた そうです生活排水や家畜の餌野生動物まで 政治犯は口にできるものなら何でも 食べようとします続いて強制労働です政治 犯は約12時間にわって過酷な労働を強制 され地所では交代なしで24時間働かされ ます仕事場は農場食料向上炭鉱果樹園森林 伐採籍など様々身体障害者や老人といった 強弱な政治犯はトウモロコシの川向といっ た比較的負担の少ない仕事につかされる こともありますが精子に関わる危険な仕事
もたくさんあります特に炭鉱での作業には 危険が伴い男女関係なく炭鉱の穴に 寝そべった状態で席を掘らなければいけ ません少子や落盤による圧死などで毎日数 命が命を落とし天田の犠牲の上で得られた 石炭は製鉄所や火力発電所に送られて有効 活用されますある時は自然発火による高内 火災が発生して行動が崩れ落ち約50人の 政治犯が生き埋めになったこともあるそう です彼らの身の安全は一切保証されず保衛 員の気まぐれで公開処刑されたり亡射撃 組み手といった実践を想定した訓練を行う 際のサンドバックにされたりしました強制 収容所の敷地内にも医者はいますが彼らは 医療技術向上のため政治犯を練習代にして 麻酔なしの外科手術を行います彼らはこの ような方法で技術を磨き保衛員や警備隊と その家族への治療に役立てているのです 政治犯にも子供がいますがこれは政治犯の 親族であるという理由で巻き添えになって 外から連れて来られたケースと強制収容所 内で政治犯同士が結婚させられて生まれた ケースがあります生まれた子供は敷地内の 学校で多算や引き算といった最低限の教育 しか受けさせてもらえず自分の体重より 重いものを何回も運ばされるなどただの 労働人材としてしかみなされませんゆえに 政治犯の子供が犠牲になることも珍しくは なくビョンチョルは2人の少女が軍用権の 餌になった現場を目撃したことがあるそう です敷地内で買われている軍は幼少期から 生肉を与えられた影響で気象が荒くイシ さえ噛み殺すほど同になりますちなみに 強制収容所で結婚が認められるのは模範州 のみ許可なく出産した場合は妊婦も赤ん坊 も残虐な方法で処刑されてしまいますこう いった非道な行為に毎日のようにさらさ れると保信のために保衛員に媚びへつらう 政治犯と密かに判断を立てる政治犯の2 種類が生まれます全の一部は保衛員に教育 されて情報員になる場合もあり他の政治犯 に不審な動きがないか監視したり拷問し たりする立場に回ることもあるようです 政治犯の中にも階級を作り支配するものと されるものに分断することで一致団結して 判断を起こさないようにしけていると思わ れます最後に政治犯の下半身事情について ご紹介しましょう必要最低限の食料も確保 できず精子をかけた状況で過酷な肉体労働 に励んでいる彼らも危機的な状況に人間の 本能が反応しているのか欲求不満になる ことが多いとミンチョルは語っています彼 らは作業の合間を塗って強い周期が漂う 汚いトイレの中でこっそり交わります自由 に相手を選べないからか隣に親が眠って
いる最中に姉と弟で行為に及ぶこともある そうです容姿に優れた女性の場合は自身の 魅力を武器に保衛員に取り入るものも 少なくありませんミンチョルが配属された 強制収容所にある食料工場は20代から 30代の美人な女性政治犯によって管理さ れていました彼女たちは透けた衣装を身に まとった判断の状態で働いており休息の ために訪れた保衛員の欲望の竹口にされ ますその代わりに衣類や化粧品などを 差し入れしてもらえるため他の政治犯と 比較すると非常に豊かな生活を遅れるの です本来であれば保員と政治犯の行為は 絶対に許されずもし発覚すれば保衛員は 炭鉱を送り政治犯は処刑という厳しい処罰 を受けます軍の幹部は食料工場での秘事を 黙認していましたがもし彼女たちが女性と しての魅力を失った場合秘密保持のために 処刑されてしまうそうです他の保衛員が 女性にうつを抜かす中ミンチョルはなんと か欲望を抑え込んでいましたそれと同時に 政治犯に対する目を覆いたくなるような 非道な行いを見てきたミンチョルは一刻も 早くここを抜け出してこの参上を外の世界 に伝えなければいけないという使命感に 駆られるようになりまし た1994年ロンチョルの運命を左右する 出来事が起こりますみょんチョルが久々の 休暇を取って実家に戻ると我が家が台所と 母の部屋を残して綺麗に壊されていたの ですミンチョルが家を留守にしている間に 父は食料を盗んだという濡れを着せられで 処刑され母も冤罪で逮捕されていました母 の無実を訴えて陳述症を出したものの無効 にされ無事だった妹や友人を残して彼は 再び仕事に戻ることとなります家族が受け た理不尽極まりない打によってミンチョル の北朝鮮脱出の決意はさらにゆなものと なったのでした職場に戻ったみょんチョル ですが周囲からの目が明らかに変わって いることに気づきます彼の両親が処罰され たことに加えて政治犯に同上していたこと も知られてしまったのです仲の良かった 上官や同僚は彼のそばを離れ仕事には復帰 させてもらえず常に誰かから監視される ようになりましたこのままでは自分も濡れ を着せられて炭鉱送りになってしまう どうせ未来がないのであれば1かバチかで 北朝鮮を脱出して外の世界に強制収容所の 実態を知ってもらおう意を決したみょん チョルは本格的に脱北の計画を練り始め まずは周囲の警戒を解くため今まで以上に 職務を全頭するようになります必死になっ て働くミンチョルを見て次第に監視も解か れていきついに上官からの信頼を完全に
取り戻すことができました最終的な脱北先 は韓国を望みましたが安全性などを考慮し 宗長国境付近を流れるトマ貫を渡って中国 経由で韓国を目指すことに決めます実家を 離れてから5ヶ月後車を出す口実をうまく 得たことで脱出の絶好の機械が巡ってき ました車庫にあった車を破損させて追跡 不能にすると警備が薄くなるタイミングを 見計らい自身の車に乗って陣地を出発し ますミンチョルが運転技士でなければこの 脱出は絶対に成功しなかったでしょう トマン貫に到着したミンチョルは食料を 詰めたリュックを持って川に入りますトマ 貫を渡ったらもうそこは中国領土です 1994年9月の明け方チョルは脱北に 成功しまし た中国に渡ったミンチョルがどのようにし て韓国にたどり着いたのかそれを明かして しまえば彼についで脱北する人々が動き にくくなるという理由で詳細な脱出ルート については主に記されませんでした韓国籍 を得たミンチョルは大学卒業後に農業に 勤務し現在は北朝鮮の人権活動団体で公演 などを行っています強制収容所の警備兵と いう特殊な経歴を持つ彼の証言は北朝鮮の 人権状況を知る上で大きく貢献したと言っ ていいでしょう当チャンネルでは今後も 朝鮮関連の情報を解説しますので動画を 楽しんでいただけたら高評価とチャンネル 登録をお願いしますそれではまた別の動画 でお会いし [音楽] ましょう2007年ミンチョルの元に日本 のテレビ局から取材以来が舞い込みました ある人物のインタビュー映像を見て証言の 審議を確かめて欲しいという内容ですアン ミンチョルは1995年に北朝鮮を脱出し た脱北者の1人です北朝鮮の強制収容所で 警備員をしていた人物で当チャンネルでも 彼の恐ろしい経験団を解説しています インタビュー映像を見たアンビチョルは 驚愕しました映像に移っていたのは紛れも なく自分が強制収容所に勤務している時に あった囚人でありそれも完全統制区域の 囚人だったからです北朝鮮の強制収容所に は有期系の囚人が収容される革命化区域と 就寝経の完全統制区域が存在します完全 統制区域には国家に反逆した重罪の政治犯 が収監され極めて強い情報統制や幻覚な 警備ゆえに1度入れば絶対に脱出できない と噂され過酷な獄です実際に完全統制区域 から抜け出した脱北者はアンチルと インタビューを受けている青年新道局の 2人しか存在しませんアンミンチョルは 運転技術を持つ警備員という立場だった
ため比較的容易に脱出することができまし たが新道局の脱北はまさに奇跡という他は ないでしょう今回は完全統制区域で生まれ た新道局の壮絶な体験談をお伝えします当 チャンネルでは朝鮮関連の情報を発信して いきますので興味のある方は是非 チャンネル登録していただけると嬉しい ですそれでは見ていき ましょう1965年のある日明け方の空が 明るくなる前に北朝鮮の警察保安員が突然 民家に押し入ってきました家の中にいた 家族は命令されるがままに荷物をまとめ車 に乗せられて別の場所に連れ去られます 連れ去られた長本人たちは事情を全く 知らされませんでしたが連行された理由は 10年以上前に彼らの親族が脱北を試みた からでした脱北は北朝鮮において重罪で あり親族が重罪人になれば連座性で直系 一族も罪に問われます彼ら自身が罪を犯し ていなくても親族であるという理由だけで 出身成分が悪くなり逮捕されてしまうのが 北朝鮮という国なのです彼らがたどり着い たのは国家保衛部秘密収容所完全統制区域 14号政治犯管理所でした管理所に習慣さ れた一家は全財産を没収され互いに 引き離されて生きているかを確認すること すら難しくなりましたその中の2人だった 父と母が管理所内で結婚し1982年に 管理所で新道局が生まれました強制収容所 では模範州同士を結婚させる表彰結婚と いう制度が存在しますこれは彼らの人生に 意味を与えるためではなく生まれてくる 子供を労働人材として刺激し収容所内の 生産手段を確保するためのものです近年は 20代の60%が結婚しているようで彼の 村に未婚女性はまずいませんでした表彰 結婚の対象年齢は男性が23歳以上女性が 21歳以上で結婚させるかどうかは保員の 気分次第で決められますいきなり員に 呼び出されて相手を当てれ結婚する タイミングも結婚相手を選ぶ自由も認め られません選ばれた男女はい日間共に夜を 過ごして子供を作りますいかなる娯楽も 認められず釈放の可能性もない囚人の大半 にとって唯一認められる結婚は人生最高の 幸せですしかし興味のない相手との結婚を 一方的に決められるため結婚を歓迎しない 囚人がいることも確かでありそういった 夫婦が子供を作っても特別な愛情を注げ ない場合がほとんどですゆえにドヒも家族 の過去や関係に対して何も知らされず父や 母そして8歳年上の兄に対して特別な感情 を一切抱いてきませんでした血がつがって いる家族であると理屈では分かっている だけで産んでくれたことに対する感謝や
会いたいという感情は全くありませんでし た強制収容所で結婚した夫婦は同じ家で 一緒に暮らすことは許されず トはしばらく母と生活した後1人暮らしを するようになります父と会うのは特別な日 だけ働いている途中で出くわすことはあっ ても会話したり挨拶したりすることは規則 で禁止されているため他人同士のように 振る舞わざるを得ません強制収容所で 生まれたド局の生活は一体どのようなもの だったのでしょう か韓国の情報機関や人権団体によると 北朝鮮には6つの管理所が存在します管理 所とは強制収容所の分類の1つであり国の 体制を批判した政治犯を収容する最も過酷 な刑務所です詳細は別動画で解説してい ますので是非合わせてご視聴ください最も 巨大な管理所の規模はロサンゼルス氏より も広大ですが一目を避けた山奥の谷などに 建設されているため外部の人間が発見する ことは非常に困難です一定感覚でで立つ 監視島と巡回する警備兵敷地をほぼ途切れ なく囲む高圧電流の鉄井毛が脱出を固く 阻みます管理所には一部の囚人が思想教育 を施され中性神が認められて釈放される ような地域もありますがそれ以外は死ぬ まで強制労働させられる完全統制区域です ドヒが生まれた完全統制区域の囚人は ほとんどが管理所内で生まれたか大昔に収 されたものであるため管理のの存在を全く 知りませんまた管理所から釈放された人間 を見たことは1度もなくここから出られる と考える人間もいません自分やその先祖が 罪を犯したからそれを償うために一生働か なければいけない誰もがそのような考え だけを持っています彼らには自分が所属 する作業犯の [音楽] 半長靴 あまりに過酷な環境ゆえにある程度の期間 内部で生活していると意識が麻痺するの です外部から刺激を受ければ変化があるか もしれないが自主的に判断や革命を起こす ことは絶対にないド局はそのように証言し ます管理所の敷地は非常に広大でいくつも の村や人民学校寄宿者や病院倉庫や畑など が立てられていました村も独身世帯の村と 家族世帯の村に分けられており東食の 暮らしていた家族世帯の村は4世帯が住む 家が40件ほどあったそうです家族世帯で は母と子供が一緒に暮らし子供が人民学校 を卒業すると寄宿者で生活するようになり ます高齢者になっても労働から引退する ことはできず60歳から80歳までの囚人 のみが働く作業班に入れられます自分たち
の世話すらできないほど弱った老人も健康 な若者と区別されず人生を終える瞬間まで 働かなければいけません完全統制区域の 特徴の1つは北朝鮮国内であればどこにで もあるキムイルソンやキムジョンイルの 肖像画や銅像が設置されていないこと でしょう囚人は生涯釈放されないことが 確定しているためもはや洗脳する価値も ないとみなされているのですそのため囚人 はキムイルソンやキムジョンイル キムジョン運の顔や名前すら知りません 代わりに囚人が巡視させられるのが管理所 の銃の規定ですこれは囚人が検修しなけれ ばならない法律であり違反者に待ち受けて いるのは確実な死ですこの規定はトヒが 管理所で生きる上での絶対的な行動指針と なりまし た管理所の囚人が最も多くの時間を費やす のが強制労働です一般的な囚人は朝4時に 気象して朝食を取り5時に出勤し19時 以降に外を出歩くものはいません農場炭鉱 公務建設食料工場セメント工場等時工場 ゴム工場精子工場法制工場などの職場が あり囚人は作業班という20人から30人 の単位ごとに仕事します作業班には保衛員 が配置されますが保衛員は全体的な統括を するだけで実際に作業を管理するのは作業 長です作業長は囚人の中から保衛員が選ん で任命され彼らは同じ囚人に対して暴君の ように高圧的に支配します現場の中でも 特に危険なのは炭鉱です当時中学1年生 だったドヒは2500mの深さまで行動に 入り石炭をトロッコで運ぶ仕事に従事し ましたトロッコが脱線して足を引き裂かれ たり行動が暴落して生き埋めになる事故が 絶えなかったそうですまたダムの建設現場 も列を極めた作業でした膨大な水量を誇る 手ドガを止ダムを作るのに手押し車以外に まともな装備もない栄養不足の素人が動員 されるのですコンクリートの壁が崩れて 押しつぶされたり鉄砲水に飲まれて流され たりして月に7人から8人は犠牲となり ました定日は1ヶ月に1度毎月の1日のみ であとはキムイルソンとキムジョンイルの 誕生日や正月などの祝日33後の タイミングも休めます休みと言っても自由 時間はほとんどなく事務的な書類整理を 行ったり山に木を取りに行ったりしなけれ ばなりません家族世帯の場合毎日の夕方に 帰宅する際に食料配給があります1日の 配給量はトウモロコシの粉を蒸した トウモロコシ飯が300から700gと 副菜として塩漬けの白菜3株そして塩です 塩漬けの白菜のみをおかずにして白菜1枚 で一食を取る生活が1年中続きますその日
に受け取った配給はその日のうちに消費し なければならず備蓄することは許されませ ん配給だけでは空腹をしのげないためトヒ は管理所内で発見したネズミを捕獲して 焼いて食べていました秋にはイゴバッタ トンボなどを焼いて食べ雑草やキノコも 採集しました住居環境に関しては水道施設 がなく共同井戸から水を組んで生活用水と して使用します自宅には風呂がなく冬でも 村にある川や溝で体を洗わなければなり ません暖房や料理の際には石炭を炊きレタ ガスで死亡するリスクと隣り合わせで生活 しています服で防寒したいところですが 作業服が半年に1度履き物が1年に2速 支給されるのみで靴下に至っては子宮すら されません寒さの厳しい北朝鮮ではただ家 で過ごすだけでも毎日が拷問のようでし [音楽] た大人は1日12時間以上の労働を強い られますが子供は学校があるため大人とは スケジュールが異なります完全統制区域の 管理所にも学校があり逮捕されて習慣され た政治犯の子供やトヒのように管理所で 生まれた子供が通っています幼稚園がなく 5年生の人民学校と6年生の高等中学校で 学生生活はのべ11年間全ての学生を 含めると1000人以上が在籍していまし た投稿は朝8で45分間の授業を60分間 の昼食時間を挟んで6回受け15時10分 に授業を終えてから労働支援に駆り出され ます授業時間だけを見れば北朝鮮の一般的 な人民学校よりも長いのですがキ一族の 歴史や等の革命士地理や音楽といった強化 はなく科目は国語算数体育の3つのみです 政治犯の子供は労働人材でしかないため制 労働するために最低限必要なことだけを 教えられますドヒの場合国語は字を書く ことだけを教えられ本を読む機会はない ため読む練習はさせられませんでした算数 では足し算と引き算のみを学び掛け算や 割り算は学びませんでした体育は基礎的な 運動能力をつつけるためかっこや鉄棒の ぶら下がりのみを行い球技は存在すら 教わらなかったそうです管理所にも車や駅 があったためそういった乗り物の存在は 知っていましたがアメリカや中国などの 外国について耳にしたことはありません でした難しい知識は学校で扱わないため 宿題が出ても学生はきちんと問題を解いて きますもし宿題を間違えても罰を与えずに 政党を教えてくれますただ学校に遅刻し たり授業でいりしたりした場合待っている のは棒や無知による容赦ない体罰ですドヒ の同級生の女子は稲を盗んだことで先生 から暴行を受けて死亡しました行の悪い
子供や間違いを犯した子供は管理所の人民 学校では生きていけません授業の合間に ある10分間の休憩時間には同級生で じゃんけんやお手玉をして遊びますしかし お互いに監視して隙を見せれば密告すると いう環境において友人という意識は特に ありませんでした同級生の家に遊びに行く ことは禁止されていませんでしたが他人を 迂闊に信じられないためトは友達付き合い をしなかったと言います同級生同士の対立 はありませんでしたが彼らの敵は人民学校 の外にいました少し離れた別の場所には 保衛員の子供が通う学校があり彼らは政治 犯の子供を半道分子のガキとして攻撃して くるのです高い位置から石を浴びせてき たり上着を脱がせてベルトで打ったりと 出会い頭に暴力を古います先生に言いつけ ても庇うどころかさらに叱られるため政治 犯の子供は見つからないよう逃げるしか ありませんでした10歳になると人民学校 を卒業して高等中学校に進学し同時に母と 別れて寄宿者で暮らすこととなります寄宿 舎での暮らしでは一部屋あたり最大30人 ほどで営む共同生活です朝5時半に気象し て掃除と朝食を済ませ7時半には学校に 行きます帰宅して夕食を食べたら友人と 雑談をしたり腹を満たしにカエルやみを 取りに行ったりします21時から1時間は 生活相として今日の仕事で自分が犯した 失敗について自己判し同級生の失敗を批判 しますそれが終わり次第就寝で睡眠時間は 意外としっかり取れたようです学校では何 を学ぶのかと言うと実は学校とは名ばかり で授業も教室もありません学生は草むしり や声ため運び農村支援といった仕事のみに 従事させられます夏休みや冬休みなどは もちろん存在せずその時々で指示された 仕事をひたすらにこなしまし た1996年4月6日の朝ドヒが作業に 出ようと準備をしていると担当教師に急な 呼び出しを受けます理由も分からずに手錠 をはめられエレベーターで地下韓国の 取調べ室に連行された彼は母と兄が脱出 しようとして捉えられたことを知らされ ます保衛員はドヒが母と兄の脱走に1枚 噛んでいると怪しんでいるのですドヒが何 も知らないと答えても信じてもらえずその 日から彼は地下韓国に習慣されることと なりました最初のうちは丁寧に取り調べが 行われましたが3日目になると足首を ロープで縛って1日中逆さにぶら下げられ ます4日目になると肛門室に連れて行かれ 手足を縛られて火炙りの拷問を受けました ひどい火傷を追った状態で独房に3近く 放置されましたが別の囚人による解放の
おかげで徐々に回復に向かいます独房に 習慣されて約7ヶ月後出獄を命じられた ドヒが最初に連行された取調べ室に入ると 同じように拷問を受けた父の姿がありまし た2人は地下韓国の存在を絶対に外部に 漏らさないという制約書を欠かされ奇跡的 に解放されますどうやら冤罪であることが 分かってもらえたらしい安したドでが解放 されてすぐ車で連行されたのは公開処刑が 行われる空地でした公開処刑の対象は母と 兄です脱走を立てた罪により母は公主刑で 兄は銃殺系によってあっという間に命を 奪われました処刑の様子を見る父は涙を 流していましたが不思議なことにドヒは 全く涙が出なかったそうですこの出来事は 後に彼に大きな意根を残すこととなります 家族が公開処刑されてからというもの周囲 の風当たりが露骨に強くなりました担当 教員には真冬に薄着で6時間も正座させ られたり傷が感知していない状態で重労働 に駆り出されたりし反逆者の家族として罪 を償えと何度も激されました教員がドヒに 辛く当たるためそれに便乗して同級生の 態度も変化します授業で少し回答を間違え ただけで教員の命令をた同生全員に殴られ たり特に理由がなくても言葉や肉体での 暴力にさらされました地獄のような学校 生活は教員が変わったことで終わりを告げ ます新しい教員は非常に親切でトヒを攻撃 する同級生を静止した上に時折り食堂に 連れて行ってザパをご馳走してくれたの です少しずつ元の生活に戻っていったド でしたが自分をこのような目に合わせた母 や兄への像そして自分を産んだ父を否する 感情は根深く残りまし た高等中学校を卒業したド局が最初に配属 されたのは東社です東社では約200人が 働いており掃除や豚の餌やりなどに従事し ました東社の食料配給は他の職場より少し 恵まれており資料用のトウモロコシを隠れ て食べることもできます作業長からの体罰 も比較的控えめで仕事をして余った時間を 急速に当てることもできたた管理所での 生活の中で最も楽な仕事だったそうです 卒業生の60から70%は危険で過酷な 炭鉱に配置されるためトヒは非常に運が 良かったのでしょう炭鉱は事故のリスクが 高い上に7割ほどが肺病などの病気に かかり40代で命を落とすと言われてい ますもしドヒが炭鉱に配属されていれば 脱出する肉体的な余裕などなかったかも しれませ ん 東社で4年半働いたド局が次に配属された のは法制工場でしたそこで出会ったのがパ
4チョという男です40代半ばの中年男性 でトヒは先に配属されていた先輩として 教育がかりに任命されます仕事を教える傍 で雑談を交わしていくにつれてパクという 男が自分とは全く異なる人間であることが 分かってきました彼はももぴょんやんで 暮らす為幹部で997年の香港変換時には 随行秘書としてキムジョンイルと握手を 交わしたこともあるそうですところが人間 関係の悪化を気に好意職を知り妻の親戚を 頼って中国に渡りましたそこで1年半ほど 生活し選挙に参加するために北朝鮮に帰国 したところ逮捕されて管理所に習慣された と言います海外都行経験のあるパの話は 管理所の世界しか知らないドヒの好奇心を 強く刺激し ついには2人で管理所を脱出しようと 考えるようになりましたもし母と兄の公開 書見や管理所での苦しい生活がなければト は北朝鮮を批判したパを保衛員に密告して いたでしょう北朝鮮の外の世界でいい 暮らしをしてみたいその一心でトヒは パクトの管理所脱出計画に賛同しまし た脱出を決行したのはトヒが23歳になる 年の2005年1月2日です本来その日は 休日でしたがセメント工場の裏山で木の 伐採を命じられていましたそこから電気 鉄蔵網を抜けて国境を越え中国に住む白の 親戚の家に行くという計画ですこれを計画 というにはあまりにもずさんで単なる希望 的観測に過ぎなかったと後のドヒは語って います脱出に成功した他の脱北者曰東のい た管理所はあまりに警備が厳しく脱出の 可能性は夢にも考えられなかったそうです 自動火を携帯している保衛員に打たれる 危険もありましたが2人はその可能性を 根拠のない憶測で否定していました2人に は高圧電流が流れる鉄井網をどうやって 抜けるか管理場脱出した後にどのルートで 国境を超えるかなどの問題についても完全 に無作でした当日を迎えても寒さに備えて 普段より服を多めに着込む程度で脱出の ための特別な準備は一切ありませんでした ドヒの見立てでは脱出できる可能性は 10%程度でしたが外界への憧れが最好調 に達した彼はその可能性にかけることに何 のためらいもありませんでし た脱出の血行日2人は木を伐採する仕事を 進めながら慎重に機械を伺います日が暮れ て自分たちへの監視がないことを確かめた 2人はフェンスに向けて一気に走りました 初めはおじけづいたパをトヒが引っ張る形 でしたが途中でドヒが凍結した地面で滑っ て点灯したことでパが先にフェンスまで たどり着きます彼は地面に膝まづいて一番
下の有子鉄線の隙間に体を潜り込ませます が有子鉄線に接触してしまい激しい火が 散り肉の焼ける匂いが立ち込めました動か なくなったパの重みで有鉄線がたんだこと で1段上の有子鉄線との間に大きな隙間が できますドヒは絶縁体代わりとしてパクの 背中を乗り越えどうにかフェンスを抜ける ことに成功しましたもしド局が先に フェンスまでたどり着いていたら感電して いたのはドヒの方だったでしょうパは ピクリとも動きませんでしたが彼を 救い出す余裕も時間もなかったドヒはその まま山奥に逃げ込みました管理場を脱出し たドヒは逃走しながら行く先々で食料を 調達して監禁しワイを駆使して列車に乗り いくつもの検問をくぐり抜けていきました なりとも経済的に余裕がある脱北者は ブローカーに依頼して韓国への移動手段を 確保しますが管理所の外に身よりが1人も いないドヒは自分の力だけで国境を超え なければなりません唯一幸運だったのは 国内を大量の不労者が彷徨っていたこと です当時は大基金を経て経済や法律が機能 しなくなり生活困窮者が仕事や食料を求め て町を出歩いていました北朝鮮では国内を 移動するだけでも市民症が必須となります が社会の混乱によって規制が緩和され市民 症を所持していないドヒも移動しやすく なったのです不労者の波に紛れ込んだドヒ は1か月ほど北朝鮮に潜伏した後に国境 警備兵を買収して中国に影響しました中国 に不法入国してからは職場を点々とし ながら働いてお金を稼ぎつつ中国後の習得 や脱北の情報収集を進めていきます賃こそ ったものの肉をお腹いっぱい食べて熱いお 湯で体を清潔にでき温かい毛布でぐっすり と眠ることができました管理所の生活に 比べると想像を絶するほど贅沢な生活で あり管理所の拷問や脱出の際に追った傷も 徐々に言えてきました中国で捉えられた 脱北者は北朝鮮に強制相関されますがトヒ を雇った中国人が彼を警察に密告しなかっ たことも非常に幸運だったと言わざるを得 ません そんなある日ド局は上海の朝鮮料理店に 出入する男と偶然出会います男は韓国の 大手メディアに勤務する上海に駐在してい た特配員でした事情を把握した男の手引き によってトヒはそのまま韓国領事館に 駆け込みます中国に入国して約1年半後 トヒはついに韓国への脱北に成功しまし た韓国に脱北したドヒは脱北者支援施設の 花員で社会復帰に向けた学習に愛しみまし た1年間中国社会に溶け込んで生活してい たため肉体的には至って健康でしたが問題
は精神面の異常です家族やパが命を落とす 悪を見るようになり不眠症になって自分の 殻に閉じこもるようになりました北朝鮮に いた頃の名残りで自分以外の人間が信用 できず対人恐怖症に陥ってしまうのです これは程度の差こそあれほとんどの脱北者 に見られる症状でしたド局は精神病棟に 移って治療に専念し悪夢にうされる日が 少しずつ減っていきましたその頃から治療 の一環としてこれまでの体験談を日記に つけておりカウンセラーの進めを受け日記 を主としてまとめて出版することが決まり ます本は3000部を印刷して500冊 程度しか売れず韓国人の脱北者への無関心 査にドは落胆しました人がもおらず職場に もなじめなかった彼は経済的に困窮して 韓国社会に取り残されつつありました しかし本の出版を気にトヒは脱北者団体や 人権活動家と交流を始め完全統制区域から 逃れた脱北者として地名度を徐々に高めて いきます北朝鮮の強制収容所の存在を もっと多くの人に知ってほしいそのような 指命感を抱き始めたドヒは北朝鮮人権保護 団体の招待を受けてアメリカに移住しまし 実際に人権活動家としての活動を始めた ドヒは大きな困難に直面します自分の過去 と向き合おうとするとストレス障害の症状 が再発しスピーチをする際は内容をはって 表面的な話しかできませんでしたそんな中 アメリカ人ジャーナリストがドヒの元を 訪れ北朝鮮での体験談をさらに詳しく描写 した本の出版を提案しましたド局は9ヶ月 悩み抜いた末にそれを了承し本を完成さ せるために2人の共同作業が始まります しかしその道のりは決して容易ではあり ませんでしたドヒは自分の過去に対する 強いトラウマが残っているだけでなく互い に罪を密告し合う環境で長期間過ごしてき たせいで未だに人を信じることができませ んでしたそのため面談では話が2点3点 することが珍しくなくジャーナリストを 度々混乱させたのです情報統制の強い 北朝鮮の については脱北者の証言が最も重要な ソースであり内容の審議を検証することが できません中には整形を立てるために人権 活動化などの意見に合わせ体験していない 逸話やまた聞きの情報を話すものも存在し ますただドヒの証言は冒頭でお伝えした アンリチョルを始め他の脱北者によって 裏付けられ矛盾はないことが立証されまし たこうした取り組みの末に管理や脱の体験 団をより国名に記した本が出版され国内外 で大きな反響を呼びましたこの本でドは彼 が韓国に入国してからずっとついてきた嘘
について告白していますそれは母と兄の 処刑についてでしたドヒは母と兄の脱出 計画について何も知らないと証言し彼の 取り調べを担当した韓国政府もスピーチを 聞いた徴も最初に出版した本を読んだ人々 もそれを信じていましたしかし真実は母と 兄の脱出に感づいていたどころかドヒこそ 2人を密告した長本人だったの です高頭中学校に通いながら寄宿者で生活 していたドヒは教師から許可を得て久し ぶりに母の家で食事を取りましたそこには 普段別の場所で暮らしている兄も珍しく 帰っていたのですが母と兄はトヒに隠れて 脱出を立てていたのです全ての話を 盗み聞きできたわけではありませんが兄が 母に逃亡計画を話し母はそれを引き止め ようとしませんでした管理所の規定には 脱出の立てを目撃しながら通報しなかった 場合即座に射殺するという項目が存在し ます兄が逃亡すれば自分も巻き添えで処刑 されるとっさに危機感を覚えたドヒが信頼 できる友人にどうするべきか相談した ところ保員に密告するよう言われますすぐ に2人は学校で夜勤をしている保に母と兄 を密告しましたこれで自分がとばっちりを 受けることはないと思ったドヒですがどう いうわけか翌日の朝に地下韓国に連行され 共犯者とみなされて尋問を受けます後ほど 判明したのですが昨夜に密した保衛員が 手柄を独り占めするためドヒからの密告で あることを上司に報告していなかったの ですこうしてドンは母と兄を密告したにも 関わらず拷問を受けて約7ヶ月間も独房 です過ごすはめになります幸いにも密告に 付き添った友人が無実を証明してくれた おかげでトヒは韓国から生きて解放され まし たこの出来事によってドヒは自分を生産な 目に合わせた母と兄を強く恨み脱北後は 2人に対する罪悪感に苛まれることとなり ます周囲からの避難を恐れてずっと真実を 隠してきましたが罪の意識がどうしても 消えず道徳的な人間になりたいと思い 打ち明ける決意を固めました許しをこう ためでも罪滅ぼしのためでもなく管理所が いかに人間の人格を歪めるかを伝えるため に彼は本当の意味で自分の過去と向き合っ たの [音楽] です労働力を確保するためだけに管理所で 生まれたドヒ両親の愛情を受けられず互い の失敗を密告し合う環境で育った彼は憎し でさえも信じることができず密告に走り ました 囚人を肉体的精神的に抑圧するだけでなく
囚人同士を対立させて像を煽る管理所が いかに恐ろしい施設であるかが伺えます 北朝鮮の強制収容所での行いを外部のもの が理解してくれることで初めて自分の罪が あわれるのだとド局は語りました当 チャンネルでは今後も朝鮮関連の情報を 解説しますので動画を楽しんでいただけ たら高評価とチャンネル登録をお願いし ますそれではまた別の動画でお会いし [音楽] ましょう
30 Comments
絶対に笑ってはいけない金正日前総書記追悼240時間 終了
この内容を聞きながら寝るのは、流石に鬼畜すぎて草
日本には脱北YouTuberとして有名なキム・ヨセフさんがいらっしゃいますね。思い出すだけで発狂するような経験なのに、それを赤裸々に語る鋼のメンタリティ、すごいと思います。
脱北者の多くはその経験を世界に伝えようとする使命感があるのだと思います。
一体この期間にどれだけの人が強制連行されどれほどの人権すら無い人々が死んだのか…
藤本さんの話を聴くと、こうして日本人料理人とも友情をかわした金正日、脱北して北の内情を暴露した藤本さんを怒らずに出迎えた金正恩を見ると結構、情があるんだと感動した
金正日は暗殺に怯えるからこそ、常に人の表情をしっかり見ていたんだろうな。だから藤本さんが恋したこともすぐに見抜いていたんだと思う。元々何の才能もないのに一国のトップをやらされる運命にあったのは可哀想だな。やったことはえぐいけど、暗殺に常時怯えながら媚びへつらう部下ばかりのところに、自分に媚びへつらわず職人としてのプライドを突き通した藤本さんを逆に信頼したのは理解できる気もする。
総集編はありがたい
北朝鮮拉致問題も今も完全に日本に帰されてないことから、この問題に取り組んでいる
非常に貴重で詳しい解説、改めて [ 総集編 ] ありがとうございます。感謝致します。
年末なのによう頑張っとるな
睡眠用とか書いてるわりに広告おおすぎやろ
何で京阪電車の写真を選んだんだろw
藤本のコウモリっぷりを見てると本当考え無しなんだなって思う
睡眠用ほんと助かる
少しタイムテーブルがずれている気がするのですが…
内容が充実してるので別に気になりませんけど
眠たくなるの私だけじゃなかったんですね,,w
月給50万て破格なのか..?
長いなあ。😅
日朝関係の悪化は必然です
なぜなら米国の属国だから
金に目がくらんだオヤジじゃん日本戻らず北にそのまま模度なければよいのにもう死んだのか?
25:06
無能そうな顔
藤本を美化してはならない。
信念のない、その場の欲と感情で動いた人物であった。
藤本氏が行ったことは拉致被害者の実行指示者金正日のご機嫌とりをしただけ、よくのうのうと日本に帰国したと怒りをおぼえますよ。民主党政権はやっぱり足を引っ張りましたね。いまだになぜ日本に向けて、ミサイル発射してくるのは何故ですか❓
映画「The Interview」とその騒動についてまとめていただきたいです!
南の方か北の方か中華の方か知りませんが、気使いをした考察、丁寧な解説、大変良くできている。日本のマスコミにもこれくらいの真摯な姿勢が必要ですね😂
なんだかなー😅
日本の風来坊の料理人が北朝鮮に舞台を移しただけで、日本では鳴かず飛ばずで居酒屋の店主にすらなれそうもなかったレベルの料理人だからこそ、結局フラフラして終わっただけ、って思ってます。
【天皇の料理番】レベルで観てはいけない笑
私欲のままに生き来ただけ。そんな人がたまたま北朝鮮に関わっただけ。
でもまぁ、信念ある料理人なら50万程度で北朝鮮になんか靡かないし、信念持って北朝鮮に行ったなら既に命はなかったかも知れないんで、フラフラで良かったとも言える。信念とは、国交の無い場所に行くなら全てを捨てる覚悟でその地で骨を埋める覚悟で行くものですからね。
国交無いのに行き来出来るなんて特権階級だからこそ出来るもので、そのバックが無くなるとどうなるか想像できなかったのは甘いです。やはり美化しちゃダメです。
藤本さんの話すごくよかったけど、あまり日朝関係に首を突っ込む様な事はしなくてよかったかなと思う。
それ故に自分で思い悩んで自分への信頼を裏切る形になってしまってる。
藤本さんが中学の先生に激似すぎるんだよね。いつもタオル頭に巻いてサングラスしてた。元気だろうか。
藤本、めちゃくちゃ裏切りまくってて草
もう日本にも北朝鮮にも帰って来なくてOK
ジョンイルに溺愛されるってどんなけ人たらしやったんや