朗読 谷崎潤一郎『恋愛及び色情』

谷崎 純一郎恋愛及び 式場もうよほど前に死んだイギリスの国慶 作家にジェロームKジェロームという人が あるこの人の書いたノーベルノーツと 題する本の中に小説なんて要するにくだら ないもんだ昔から世に現れた小説は浜の 政子の数よりも 何千何百何十万冊あるか知れぬがどれを 読んだって筋は決まりきっている先日 詰めればまずあるとろに1人の男があり ましたそうして彼を愛していた1人の女が ありましたと結局それだけのことじゃない かと言って いるそれからまた佐藤春夫から聞いたのだ がラフカディオハンの何かの抗議録の中に 小説というものは昔から男女の恋愛関係 ばかりを扱っているので自然一般が恋愛で なければ文学の題材にならないように 考える癖がついてしまったがしかしそんな はずがあるべきではない恋愛でなく人事で なくとも随分小説の大罪になり得るので あって文学の領域というものは元来もっと 広いのであるという意味が述べてあるそう で ある以上ジェロームの風といいハの意見と いい西洋では恋愛のない文学や小説が よほど不思議に思われていることは事実で ある らしい最もかなり古くから政治小説社会 小説探偵小説等があることはあったがそれ は多く純文学の範囲を出した合理的なもの もしくは低級なものとされてい た現在はやや事情が変わってきて 合理的意義を持って書かれたものがそれの ゆえに定休であるとはされない時勢になっ たけれどもしかし階級闘争や社会改革を 取り扱った作品といえども何らかの形で 恋愛問題に触れないものは絶無だと言って いいむしろ恋愛を禁煙として起こるところ の主持なる葛藤恋愛重きか階級的任務重き かというようなテーマを捉えたものが多い ことであろうと察する 探偵小説もまた恋愛が犯罪の原因となって いる場合がしばしばで あるそしてもし恋愛からさらに人事にまで 範囲を広げれば西洋古来の小説という小説 文学という文学の材料はことごとく人事 ならざるは ないカーテルバイクビューティや野生の 呼び声や稀には動物を主人公にした小説も ないではないが それらは多く空和的作品であるからやはり 広い意味における人事の範囲を出るもので は ないその他例外的には自然日を対象にした ものもあり死においてはことに珍しくない ようなもののそれもよくよく吟味してみる と何らかの点で人事と交渉を持たないもの は極めて少ないような気がする私はここ まで書いてきてふと関先生のちにイギリス 主人の天地参戦に対する観念という論文が あったことを思い出したそして早速初田を 漁ってみたけれどもあにちょっと見当たら ないので残念ながら先生の意見を今の場合 に照らすことができないがとにかく彼らの 芸術においては恋愛にあれば少なくとも 人事がその領域の大部分を占めるもので あることは彼らの文学士美術師を見れば直 に点がので ある日本の作道では昔から支石へかける 軸物は書でも絵でも差してえないがただ恋 を主題にしたものは禁じられていたという ことはつまり恋は作道の精神に反するとさ れていたからで ある火に恋愛を癒し気風は日本の作道 ばかりでなく与においては決して珍しい ことでは ない我々の国にも古来いたの小説や戯曲が あり恋愛を扱った作品に乏しくないけれど もそれらが我々の文学士において定長な 扱いを受けるようになったのは西洋風の物 の見方が始まってから以後のことでまだ 文学士などというもののない時代には何 文学といえばまず文学の末流女子の鉄さび か君のとされていたもので書くものも遠慮 し読むものも遠慮してい た実際においては決した戯曲家や小説家が ありまた彼らの作品が一斉を風靡したこと はあったとしても表面的には品位の下がっ たものとされ1人前の男子の生涯を閉す べき仕事でないとされてい たシでは本来再生警告を持って文章の本領 としていたくらいで死文学の王座を占める 本筋の官文学というものは教書か秘書か 叱らざるまでも就寝国平天下を目的とし たる作が主であっ た私が少年の時時官文学の教科書として 用いた書物秘書だの五教だの式だの文章 規範だのはおよそ恋愛とは最も縁の遠い もので王子はああいうものが真の文学正当 の文学と考えられた らしいそれが明治になってから壺先生の 小説心髄が出たりシェークスピアと近松モ パさんと最悪の比較論が始まったりして 次第に戯曲や小説が文学の主流と見なさ れるようになったのであるがそういう見方 は実は我々の正しい伝統ではないので ある小説や戯曲は捜索であって学や政治学 や哲学は捜索でなくそうしてまた捜索にあ ざるがゆえに文学でないという考えは身に よっては随分窮屈であるとも 言えるもし我々の伝統に従って西洋の文学 を見るとしたらベーコンやマコレやギボや カラールのごときものこそ正当であって シェークスピアのものなぞはそっと隠して おく方が本当であるかもしれない 西洋人の考えでは死は三分よりも一層純分 学的であるとされているがその死において さえ東洋のものには比較的恋愛の分子が 少ないことは最も代表的ななる2代詩人 利博徒歩の死について見れば思い半ばに すぎるで あろう徒歩のものにはたまたま愛別陸を 歌い宅の悲しみを寄せているのがある けれども相手は多く友人であるか稀には彼 の祭祀であって恋人である場合は1つも ない月と酒の詩人と言われる離MRSに 至ってはその月光と支配とに対する熱情の 1/0も恋を思ってはいなかったで あろう森海男はかつてその投資線表着の中 であの有名なガビ三月の 歌ガビ三月 の秋影は平教皇の水に入りて 流る夜整形を発して三経に 向かう君を思えど見えず優秀に下るの死を あげ君を思って水とは表面月を意味する ごとくであるけれどもガビ三月という言葉 から押してなんとなく影に恋人のあること が感ぜられると言って いる海難王のこの解釈は確かに宅建である が利博はそんな具合に時として恋愛をずる ことがあっても思いを月に託したりして 極めてほかに暗示的に述べているそして これが東洋の詩人の嗜みとされていたので あるゆえに恋愛でなくとも小説または文学 になるというラフカディオハンの説は 西洋人としては珍しいかもしれないが我々 東洋人にとっては別に不思議でも何でも ない我々は実は恋愛でも高級な文学になる ということを彼らに教えられたようなもの で ある我々はしばしば浮の美は西洋人によっ て発見され世界に紹介されたもので西洋人 が騒ぎ出すまでは我々日本人は自分の 有するこの誇るべき芸術の価値を知ら なかったという話を聞くが考えてみると これは我々の知力でもなければ西洋人の 宅建でもない我々はもちろんこの方面の 我々の芸術を認めてくれそれを世界に検電 してくれた西洋人の功績を得とし深く感謝 するものではあるがしかし正直に言って しまうと恋愛や人事でなければ芸術になら ないと考える彼らには浮きが1番分かり やすかったのである そして何故にこの立派な芸術が日本の同胞 の間において相当な尊敬を払われずにいる かそのわけが彼らに分からなかったので ある誠に徳川時代における浮市の社会的 位置はちょうど下作者や鏡原作者のそれに 等しいおそらく当時の共用ある死体府は右 や下作を見ること春画や陰謀とと遠ざかる ほどに思ったであろうから大河堂や蓄電や 降臨や争奪と諸のや宇や春信や広等同角に 待遇するはずはなく文学においてもまた 白石ソ山陽のとと近松や三角やサバや春水 と一緒に見るものはなかったであろう去れ ばこそ間発競馬のある部分がゴミ脳院の 栄冠に預かったとかその道行きの文章がソ の激勝するところになったとかいう逸話が よほど特別な脅威とすべき事実のように 伝えられているので あるバキが財政の当時自らも他の下作者 より一段高い教示を示し世人も一種尊敬の 目を持って見たというのは彼の作物が もっぱら完全凶悪を胸として人民五上の道 を解いたことに起因しているこれを持って 見ても一般の下作者の位置がどんなもので あったかを知ることが できよう左様に我々の伝統は恋愛の芸術を 認めないわけではないが内心は大いに関心 もしこっそりそういう作品を響楽したこと も事実であるが上辺はなるべくそしらぬ風 をよったので あるそれが我々の慎みであり誰言うとなく 社会的礼儀になっていたのであるだから うまや豊国を稼ぎ出した西洋人はこの我々 の暗黙の礼儀を破ったのであると言えなく も ないしかしあるいは反問する人があろう それなら恋愛文学が王制を極めた平安長は どうであるか我々の文学士にもああいう 時代があったではないか徳川時代の作者は あるいはられたかもしれぬが成や泉部の ような家人はいかに現地物語以下多くの 恋愛小説の作者はいかに彼ら並びにその 作品が受けていた待遇はどうか と現時については古来色々の説がある受学 者は引頭の書として時に攻撃するものが あったのに反し国学者はさながらあれを バイブルのように申請死しあの書の内容を 持って最も道徳的な教訓に満ちたもので あると言い果ては作者の紫式部を定助の鏡 であるとまでこじつけるものがあるように なったがこじつけであるにもせよとにかく 表向きはあの物語が引頭の書であることを 否定しなければそして無理にも道徳的な 教訓的な読み物であるとしなければ文学と しての現時の立場がなくなるように考えた ところにやはり一種の礼儀があり東洋人に 特有な制裁を取りつく癖があるので あるさてここで私は最初の質問に帰り平安 長の恋愛文学について少しく観察すること に しよう昔業務教あねという釘は世にも稀な ブ男であったのにその北の方はまた優れて 気量の美しい人でいつも自分が浅ましい夫 を思ったことを嘆いていたがある時中に ごせのお舞を見に行って今日を晴れと 着飾った万定の釘たちの華やかな姿を眺め 渡すとどれもこれも自分の夫のような見 にくい男は1人もいないみ鳥取に立派な 夫妻をしているのでつくづく夫が嫌になっ てそれからというものは家に帰ってもを 背けて物をも言わず姉妹には奥へ 引きこもったきり顔も見せない夫の扱かは 居かしく思いながら初めは何のことか 分からずにいたがある日九州へ出資して夜 遅く帰ってくると出に明りもとってい なければ召しつわれる女房たちまでどこか へ逃げてしまったと見えて束を脱いでも 畳んでくれる人もないそこで4どなく 車寄せのつまを押し開けて1人物に沈んで いると次第に世が吹けて月の光風の音が身 に染み渡るにつけ白場な妻の仕打ちが檻に 添えて恨めしくやるせなさがひしひしと 迫ってきたのでふと心をすまして七力を 取り出してマの内なる白ぎくもうろを見る こそ哀れなれ我らが通いてみし人も各し つつこそ彼にしかと繰り返し繰り返しだ た北の方は奥に隠れていたがこの歌を聞く と急に哀れを模してあを迎えその後は夫婦 中が非常に細やかになったと いうこの物語は人も知るココ長文中の強食 の巻に出ているものであるいは鎌倉頃か 王朝末期の話かと思うがいずれにしても 当時の京都の貴はまだ平安長の風俗習慣を 多分に伝えていたのであるからこれなぞは 代表的な平安長的恋愛の情景と見てさしえ あまいところで私が妙に思うのはこの場合 における男と女の位置で あるココ長文中の著者はそれよりことに ならいめでたくなりに蹴るとかやゆなる北 の方の心なるべしと言っているように この北の方の不定を責めようとするのでも なくまた夫の預かれの育児のなさを長老し ているわけでもなくいわば夫婦の美談とし て伝えているのであるそしてこれが平安長 の釘の間では当然の常識であったように 思えるブ男を承知で剃ったはずの妻が今更 何のわけもなしに夫を疎んじる夫はそう いう妻に対して愛想つかしでもすることか 女の家の外に立って歌を歌いつつ悲しみを 訴えるそれを聞き入れてやった妻がゆに 優しい心だと言わ れるこれが西洋のラブシーンではなく実に 日本の王朝の出来事なので あるそういえばあは七力を取り出して歌に 合わせて鳴らしたとあるがあの自分の釘は そんな楽器を常に携えてたのであろうか私 はいつも長文中のこの下りを読むと盲人の 宅1が1人シミ線を引きながら自の菊のつ を歌っているあの 壺坂寺へ落ちてなる芋の川をとる船のかに 耐えて買いもなきよと恨みてすぐる重味な あうは別れと言えども愚痴に庭の小のその 名にめでて昼は眺めて暮らしもしょうが 夜夜ごとにつゆの梅雨の命のつれなや肉や 今はこのみに秋の 風芝居の卓一はこの歌の前半本長子の ところばかりを歌うそしてここでもあと じく思いを聞くに託しているのが記念で あるが昔から大阪ではこの歌を歌うと縁が 切れると言って嫌がるがそれはとにかく この上るは団平夫人の作であると言うから さすがに女性の優しが出ているけれども しかし卓一は元より人に哀れまれるフグの 身であるからあかとはだいぶ事情が違う いわんやお里と北の方とは運の相で里の ようなのこそゆに優しい心がけでありそれ でこそ夫婦の美談であるとも言える思に 厚生部門の政治と教育とが一般に行き渡っ た時代から見れば北の方の不都合は論外と してあかのような夫は誠に男子の風にも おけぬやつ男のつよしとして貧DOMされ たであろうことは想像に固く ないこういう場合鎌倉以後の武士であっ たら潔よく女を思い切るか思い切れなけれ ば直に奥へ踏んで存分に成敗を加えるか する女も大概そういう男をこそすくので あって扱かのようなめめしい真似をすれば 一層嫌われるばかりであるのが我々の普通 の心理で ある徳川時代は恋愛文学の流行した点で 平安長に対立するものだけれども今試みに 近松以下の戯曲について考えてみても この厚のような育児なしの男の霊は ちょっと思い出せない稀にこれに似た場合 があっても国慶的に取り扱っているので 美談として伝えているものはおそらくある まい人は原論時代の清そをよほど因美で打 datであったように言うがその実当時の 友野郎は案外いじっ張りで殺伐で向こう水 で博多小女郎の喪失や油地獄の兵はは言わ ずもが真住もに出てくる2枚目はしばしば 人情沙汰に及んだりしてなかなか王朝の釘 のような弱虫ではない下って火星紀以後の 江戸になれば女でさえも張を尊んだので あるから男らしい男がモテたことは言う までもなく江戸芝居に出てくる色男といえ ば大口や業務式の客か片岡直次郎式の不良 少年が多いのである 平安長の文学に見える男性関係はそういう 点で他の時代と幾分違っているような気が する扱かのような男を育児がないと言って しまえばそれまでだけれどもこれを言い 返れば女性崇拝の精神で ある女を自分以下に見下して相図するので なく自分以上に仰ぎみてその前にひく心で ある西洋の男はしばしば自分の恋人に聖母 マリアの姿を夢み永遠女性の影を 思い起こすというが由来東洋にはこの思想 がない女に頼ることは男らしいことの反対 とされおよそ女という観念は崇高なもの 有給なもの厳粛なもの正常なものと最も 遠い対処的な位置に置か れるそれが平安長の貴族生活においては女 が男の上に君臨しないまでも少なくとも男 と同様に自由であり男の女に対する態度が 高性のように暴君的でなく随分丁寧で 物柔らかに時にはこの世の中の最も美しい もの尊いものとして扱っていた様子が思わ れる例えば竹取物語のかぐや姫が最後に 至って焦点する思想などは公生の人の考え を得ないところであて第一我々は芝居や常 に現れる女があのままの服装で天に登る 光景を想像することだに用意でない小春や 梅川は火憐であっても要するに男の膝に 泣き崩れる女でしかないので ある古今長文じで思い出したが混じ物語の 本のぶ第29巻にある人に知られぬ盗の ことというものは日本には珍しい女の サディズムの例でありそしておそらく性欲 のためのフラグションの記事としては東洋 における最も古い稀な文献の1つでは なかろう か昼は常のことなれば人もなくてあける ほどに男をいざと言いて奥に別なける矢に きてこの男の神に縄をつけて羽物という ものに寄せて背中を出させて足をゆいかめ て下めおき て女は星をし水管バカマを着て引きつりて 下元を持って男の背中を確かに80°打ち て けりさていかに思い塗ると男に解ければ男 化しはあらずと答えければ女去ればよと 言いて川野の土を立てて飲ませよき巣を 飲ませて土をよく働いてふさせて一時 ばかりありて引き起こして霊のごとくに なりに行ければその後は霊よりは食い物を よくして持ちきたりよくよくいりて3日 ばかりを隔てつめおいるほどに前のとろに また行きてまた同じように羽物に寄せて元 のつめ打ちければつめに従ってちばしり肉 乱れけるを80°打ちて けりさて答えぬべしやと解ければ男いさ 景色も変えで答えぬべしと答えければこの 旅は初めよりも褒め感じてよくねいてまた 45日ばかりありてまた同様に打ち切るに それにも名を同様に答えぬべしと言いけれ ば引き返して腹を打ちて蹴り それにもなおことにもあらずと言いければ 絵も言わず褒め感じてとあるのがそれで高 生の女足や毒婦などにも残忍な女は少なく ないがかかる死虐性の女ことに男に無知を 加えて喜ぶという霊は高等向けな草造士に もあまり見受けないところで あるこれなぞは少し極端だけれども前の 扱かの場合と この女といい平安長の女はややともすると 男に対して優越な地位に立ち男はまた女に 対してとかく優しかったような気が する聖書名言が艇においてししは男子を へこました話は枕の師を見ても分かるが あの自分の日記や物語や同等の若なを読む と女は多く男から尊敬されておりある場合 には男の方から愛願的態度に出たりして 決して公生のように男子の意思に住kep されてい ない現地物語の主人公は大勢の不女子を妻 めかけに持ったのであるから形から言えば 女を元老物扱いにしたことになるがしかし 制度の上で女が男の私有物であったという ことと男が心持ちの上で女を尊敬していた ということとは必ずしも矛盾するもので ない自分の財産の一部であっても貴重品と いうものはある自分の家の仏壇にある仏像 はもちろん自分の所有品に違いないがそれ でも人はその前に膝まき手のひらを合わせ 勤めを怠れば罰を受けることを 恐れる私がここで問題にしているのは経済 組織や織織から見た夫人の位置でなく男が 女の映像のうちに何かしら自分以上のもの より気高いものを感ずることを意味する ヒカル源二の藤壺に対する余計の状は荒に は表現してはいないけれどもややそれに 近いものだったことが押しはら れる西洋の騎士道においては無人の中性と 崇拝の標的は女性にあった彼らはその尊敬 する夫人のために高められ引き上げられ 励まされ勇気づけられた男らしいことと 女人を割合することとは一致していた近代 に及んでもこの風習は同じであってレディ ハミルトンとネルソンのごときジョン スチュアートミル夫人とその夫のごとき 関係は東洋には全く類例がないと言って いいなぜ日本では部門の政治がり武導が 確立するに従って女性を癒し奴隷すること になったのかなぜ女人に優しくすることが 無らしいことと一致しないで打Black に流れるとされなければならなかった かこれは面白い問題だけれどもそんな策を やり始めると長くもなるし自然後の章で このことに触れる機会もあろうから今は 論じないことにしてとにも各にもそういう 国柄の日本において交渉な恋愛文学の発達 するはずはないので あるなるほど西角や地松の作品はある点に おいて西洋のものに比べても決して遜色を 見ないであろうが正直のところ徳川機の 恋愛もはどんな天才的作品といえども筆記 するに町人の文学であってそれだけ調子が 低いのであるそれもそのはず彼ら自ら女人 を貶め恋愛を貶めながらいかにして気象公 まなる恋愛文学を作ることができよう ぞ西洋ではかのダテの新曲ですら ベアトリスに対するこの詩人の初恋から 生まれたというではないかその他ゲーテに せよトルストイにせよ一斉の指標と仰が れる人の作品は貫通を描き失恋自殺を描き 道徳的にはかなりいかがわしい情景を扱っ てあってもその調子の高いことは到底我が 権力文学の危険しうるところでは ないけだし西洋文学の我々に及ぼした影響 は色々あるに違いないがその最も大きい ものの1つは実に恋愛の解放もっと 突っ込んで言えば性欲の開放にあったと 思う明治の中頃に栄えた研者の文学はまだ 多分に徳川時代の下作者稼ぎを帯びていた ものの続いて文学会や明城一派の運動が 起こり自然主義が流行するに及んで我らは 完全に恋愛や性欲を癒しとする我らの祖先 の慎みを忘れ古い社会の礼儀を捨てた今 試みに紅葉の作品と紅葉以後の大作家で ある漱石の作品とを比べるとの味方に いしい相のあることが わかる漱石は有数の英文学者でありながら 決してハからの方ではなくむしろ東洋の 文人型の作家であるがそれでも三次郎や 具備人層に出てくる女性とその扱い方とは 到底紅葉の策に見出しがいものであって この2科の差は個人の総意でなく自性の 総意なので ある文学は時代の繁栄であると同時に時代 に一歩先んじてその意思の方向を示す場合 もある三郎やグ人層の女主人公は入話で 奥ゆかしいことを理想とした旧日本の女性 の子孫でなくなんとなく西洋の小説中の 人物のような気がするがあの当時そういう 女が多く実際にいたわけではないとしても 社会は相番いわゆる自覚ある女の出現を かつ夢見ていた私と同じ時代に生まれ私と 同じく文学に心ざしたあの頃の青年は大 かれ少なかれ皆この夢を抱いていたで あろうと 思うが夢と現実とはなかなか一致するもの でない古い長い伝統せを日本の女性を西洋 の女性の位置にまで引き上げようというの には精神的にも肉体的にも数大の ジェネレーションにわる修練を要するので あってこれが我々1台の間に満たされよう はずはない早い話がまず西洋流の死体の美 表情の美歩き方の美である女子に精神的 優越を得させるためには肉体から先に用意 しなければならないことはもちろんである が考えてみると西洋には遠くギリシャの ラビの文明があり今日もなお欧米の都市に は至るところの該当に神話の女神の肖像が 飾られているのであるからそういう国や町 に育った夫人たちが金星の取れた健康な 肉体を持つようになるのは当然であって 我々の女性が真に彼らと同等の美を持つ ためには我々もまた彼らと同じ神話に生き 彼らの女神を我々の女神と仰ぎ数千年に 遡る彼らの美術を我々の国へ移し植え なければなら ない今だから白をしてしまうが青年時代の 私なぞはこういう途方もない夢を描きまた その夢の容易に実現されそうもないのに この上もない寂しさを感じた1人であっ た私はそう思う精神にも崇行なる精神と いうものがあるごとく肉体にも崇行なる 肉体というものがある としかも日本の女性にはかかる肉を持つ ものが甚少なくあってもその寿命が非常に 短い西洋の夫人が女性日の局地に達する 平均年齢は312歳すなわち結婚後の数 年間であるというが日本においては18区 から生ぜ245歳までの処女の間にこそ稀 に頭の下がるような美しい人を見かける けれどもそれも多くは結婚と同時に幻の ように消えてしまうたまたま帽子の夫人だ とか女優や芸者などに美人の聞こえの高い のはあるが大概そんなのは婦人雑誌の口の 上の美人であって実際にぶつかってみると 皮膚がたるみ顔に青黒いおしい焼けが染み ができ目元に初代のやつれだの帽子の過剰 から来る疲労の色が浮かんでいることに 処女時代の雪のように白くうたい胸と はち切れるような腰部の曲線と崩さずに 持っているものは1人もないと言っていい その証拠には若い自分に好んで予想した 夫人たちでも30代になるとげっそりと肩 の肉が削げ腰の周りが変に間抜けて ヒョロヒョロしてきてとても要素が聞きれ なくなる結局彼女らの美しさは和服の 着こなしや化粧の技工ででっち上げたもの で弱々しい綺麗さはあるにしても真に男子 をその前にひかせるな崇高な美の感じは ないだから西洋には聖なるイプもしくは みだらなる天府というタイプの女があり 得るけれども日本にはこれがありえない 日本の女はみだになると同時に処女の健康 さと鍛錬さを失い血色も死体も衰えて下品 な淫婦になって しまう確か徳川家康であったと思うが嫁は 夫の寝床の中にいつまでもとまっていては いけない亡の後はなるべく早く自分のとこ へ戻るようにするのが長く夫に愛される 秘訣であるという意味を婦女の嗜みとして さしているのを何かの本で読んだことが あるこれは悪どいことを嫌う日本人の性質 をよほどよく飲み込んだ教えであって家康 のごとき絶倫な肉体と精神力と思っていた 人でもなおこの言葉があるかと思うと ちょっと意外な気がしないでも ないかつて私が中央高論市場へ紹介した 室町時代の小説に3人奉仕という物語が ある読んだ方はあるいは覚えておられるで あろうがあの中の一説に足高内のケのかや という侍が去るやごない東小型の女房を 垣間みて立ちまち恋いにかかるところが ある南北町の時代にはさすがにまだ王朝頃 の優雅な風が武士の間にも残っていたと 見えてやがてこのことが高内将軍の耳に 入り将軍自らかやのために橋渡しのフを 書いて佐々木という侍を死者に立ててその 東系使わすことに なるさては安こよと大ありて片なくもふを 遊ばして佐々木を恩使いにて二条殿へ参ら せけると原本ではかやが自分でその生殺を 物語っているのであるが恩返事には小と 申す女房にて渡り相老ほどに自業へは下す まじにて相老その人をこちらへたりそろ べきよし遊ばされ来し不の返事を我らが宿 へ賜わりそろ ご所様のご音奉じ申すべきよも なしこれにつきてもあきなきよか なたい小江殿に愛祭りそろともただ一夜の ちぎりなるべしこれこそ統制するところと 存じ来しがまた打ち返し思いそろうことは かやこそ二条殿の女房たちを恋い申し将軍 の恩中作にてありけるがして愛さで統制し たるなど言われんこと生涯の恥と存じて せめて一やなりとも愛申しその後はとかも と存じそろてとその時の気持ちをかやは こう告白しているので ある相手は地人の武から見れば身分違いの 常々であるにもせよ1人前の侍がつくほど に恋い焦がれていたものが主人の行為で よよ思いを叶えようという天にも登る嬉し さの場合に五所様の合音奉じ申すべき用も なしと自分でも感謝していながらすぐその 後でこれにつきてもあきなきよかなたい小 殿に愛たまり走ろともただ一夜のちぎり なるべしこれこそ制するところだと思った というのはいかにも異常な心理であるこれ が平安長の貴族ででもあれば格別高内将軍 の部下といえば幾度か戦場をシクしたで あろう乱世の武士の考えであるから一層 不思議ではない か確か西洋の事業に空を飛ぶ数話の鳥より も手にある1話の鳥の方がいいという意味 の語があったと記憶 するしるにこの武士は及びもつかぬ高値の と眺めていたものが意外にも自分のものに なろうという間際に至ってまだその喜びが 実現もされぬうちからいわば来るべき幸福 の予想に浸りつつある最中にこれにつきて もあきなきよかなと早くも統制の志しを 抱くそして結局奥して相もさで統制したる など言われんこと生涯の恥と存じて 思い返しはするものの手に入れた上はどこ までも話さずにそこのそこまで陥落を 極めようとするのではなくせめて1やなり とも愛もしその後はともかくもという心で 恋人の元へ 出かけるけだしこういう心理は日本人だけ のものであって西洋人にもそしておそらく は死人にもある まい前に行った家康の教訓は変則な恋愛や 一時的にパッと燃え上がる恋愛にには 当てはまらない場合もあろうが少なくとも 正式な結婚生活を営むものには甚適切な 注意あって実は嫁よりも夫の方が彼が日本 人である限り誰しも痛感しているであろう 私なぞもしばしば覚えのあることで妻は 言うまでもないが恋人に対しても直後 しばらくは最も短くて23分間長くて一晩 以上1週間も1ヶ月も離れていたくなるの が常で過去の恋愛生活を振り返ってみるの にそういう感じを起こさせなかった相手と 場合とはほとんど数えるほどしか ないこれには色々の原因があることだろう がとにかく日本の男子はこの方面において 比較的早く疲労するそして疲労が早く来る ためにそれが神経に作用してなんとなく 浅ましいことをしたという感じをさせて 気分を暗くさせ消極的にさ せるあるいは伝統的に恋愛や式場を癒し 思想が頭に染み込んでいてそれが心を憂鬱 にさせ逆に肉体に影響するのかもしれない がどっちにしても我々は性生活において甚 タパな悪どい引落に耐えられない人種で あることは確かである横浜や神戸ありの 開場にいる婦に聞いてみてもこのことは 事実であって彼女らの話によると外国人に 比べて日本人ははるかにその方の欲望が 少ないと いうしかし私はこれを一概に我々の体質の 弱いことに期したくない我々が今後大いに スポーツを盛にしついでだから言っておく が西洋人のスポーツ好きはよほど彼らの性 生活と密接な関係があるに違 うまいものをたらふく食うために腹を 減らすのと同じ意味で ある西洋人なの競争な肉体を持つように なっても果たして彼らのように悪くなれる かどうかは疑問であると 思う全体我々は他の方面においてはかなり 活動的な勢力的な人種であることは過去の 歴史に照らしても現在の国性に照らしても 明らかなことである我々が欲にくないのは 体質というよりも気候フード食い物住居 などの条件に制約されるところが多いので はない かそれについて思い出すのは西洋人は日本 に長く在留すると次第に頭が悪くなり体が だるく物うくなってきてついには仕事が できないようになるだから4年に一遍 くらいは休暇を取って帰国し故郷に半年か 1年ぐらいいてまた戻ってくるかそんな暇 のないものは日本のうちでやや欧米の気候 に似た土地へ転地する新州の軽い沢が開け たのは全くそのためであるというがつまり 日本は欧米に比べてそれだけ湿気が多いの である我々でさえ入梅の季節にはとか神経 衰弱にかかったり手足が大義になるので あるから入という現象のない乾いた空気の 国から来たものはこの土地にいると1年中 入倍のように感じるかもしれ ない最も世界には日本以上に湿気の多い ところもある私の友人のある会社員で 長らくインドのボンベに務めていたものが たまたま帰国しての話にいやもう年が年中 虫厚くってベトベトしてとてもたまらぬ あんなところにまたやられるなら自食した 方がマだというのでそれでも時々帰国 できるんじゃないかと言うと4年に1度 ぐらい帰ってきたんじゃやりきれない あそこに長く住んでみろ誰だって頭が馬鹿 になって体中が骨のずから腐ったように なるだから日本人だって西洋人だって みんな行くのを嫌がるんだと言っていたが とうとその男は本当に会社を辞めてしまっ たけだし数多い在留外人のうちには日本に 派遣されたことをちょうど日本人がボンベ へ派されたごとく感じているものもあるに 違い ないあまり乾燥しすぎた土地も健康のため にどうかわからぬが性欲に限らず例えば 脂っこい食い物や強烈な先に飽満した時 など全て悪どい陥落の後ではすっとのぼせ の下がるような清々しい空気に触れ綺麗に 住み切った大空をあいでこそ肉体の疲労も 回復し頭脳も再び冴えるのである ところが湿のいには従って雨も多いから 青空を見る時が割に少なくごとに日本は 島国のせかよほど海岸から遠い高原地で ない限り冬でも空気がじめじめしていて 南風の福日などはベトベトした潮風のため に顔がぬらぬらと油汗を沸かして頭痛の するようなことが珍しくない私は旅行家で ないから確かなことは言えないけれども おそらく日本中で比較的雨が少なく温かで しかも乾燥した土地そして交通の便利も 悪くない地方といえば私の現に住んでいる 六甲36の一体と沼津から静岡に至るあの 沿岸などであろう一頃の医者は巨 characterな人に海浜へ転地する ことを進め東京ならば湘南地方京阪ならば 須磨明石ありへ両用に行くことが流行った もので今でも鎌倉ありから東京へ通勤する 人を見かけるが私の経験によると海辺の 土地はなるほど冬は温かいことは温かい けれどもその代わり霊のポヤポヤとした 生ぬるい潮風の福費が多く着物などがすぐ べっとりと湿ってきて頭がかっかとのぼせ てくる1月2月はまだいいとして34月に なると一層これが甚だしいもしそれ夏の 蒸暑さに至っては鎌倉などは東京よりも ずっと歓談系が上がるくらいで何を苦しん であの飲水のまずい蚊の多いところへ秘書 に行くのか気が知れない私などは人波以上 にのす症の成果沼にも小田原にも住んだ ことがあるが大頭部にドツ覚えない日は 少なくことに小田原では激しい神経衰弱に かかって体重が恐ろしく減った下阪におけ る須磨明もほぼこれと同様であれから西の 方へかけての中国筋は一体に雨がないから 見たところは明るいけれどもどういうもの か空気がベタベタとねばつくような感じが してもう桜の咲自分から蒸し暑くやがて夕 ナの季節になれば手足がとろけるように物 く自分の体は元よりのこと海を見ても青葉 を見ても出来たての油のようにギラギラし てびっしり汗をかいて いるそういうわけで何しろ日本という国は その中数部の大部分がこういうベトベトし た気候なのであるから悪い陥落には誠に 不向きであるフランスありでは真夏の酷熱 の際と言えども汗が1人でに乾いてしまっ て決して肌がべたつかないというではない かそんな土地でこそ悪なき性欲に吹ける こともできるがじっとしていても頭痛がし たりひだるかったりするのではとても 毒々しい遊びは思いもよらない実際瀬戸内 地方の夕などに合わせたらほんの少し ビールを飲んでさえすぐ体中がネトネトし て浴衣の襟や多は油染み寝転んでいながら 節々がほれるようでそういう時には全く欲 もとくもなく帽子のことなど考えても うんざりするそれに気候がそんな具合で あるから食い物もまたタパであり住まいの 形式も解放的であってこれが大いに影響し て いる貝原一件が白中に防をすることを進め ているのは日本のようなフードにおいては ことに健康な方法であってそしていっぺん 晴ればれとした日の目を見風呂でも浴びて そこらを散歩してくれば憂鬱な気分に陥る ことも少なく広も早く言えるわけだが遺線 普通の民家の間取りでは密閉しる部屋と いうものがないのだからこれもなかなか言 べくして行いがたいことになる それならインドや南しありのしけた国の 人々は我々以上にその方面がタパであって いいはずであるがどうもそうでもなさそう である彼らは我々よりはずっと濃厚な 食い物を取りもっと都合のいい間取りの家 に住みそれ相当に悪暮らしていそうに思わ れるがその代わりコラシが多く北方から 征服された歴史を考えまたインドのの現状 などを見るとそんなことのために彼らは 勢力を消費しすぎたのかもしれない武士の 豊かな大国の人民はそれでも良かったので あろうが日本人のように活動的で身近で 負けず嫌いでしかも貧しい島国に生まれた ものは到底あの真似はできなかったので あろう良くも悪くもとにかく我々はごく 精霊して武人は部を磨き農婦は工作にいみ 年中頼みなく世と働いていなければ国が 立っていかなかったもし少しでも気を緩め て平安長のクのような安一な生活を続けて いれば立ちまち近隣の大国から侵略されて 朝鮮や蒙古や安々と同じ運命をたどったで あろうその事情は昔も現代も変わりはなく しかも我々は甚負けじ魂の強い民族なので ある我々が今日東洋に石しながら世界の 一等国の犯に列しているのはすなわち我々 が悪どい陥落をさぼらなかった由縁である とも言えるで あろう恋愛を露骨に表すことを癒しみかつ その上にも色欲に白な民族であるから我々 の国の歴史を読んでも影に働いた女性の 消息というものが一向明らかに記して ない私などはその職業上過去の人物を題材 にして歴史小説を書きたいと思うことが しばしばであるがいつも困るのはその人物 を巡る女性の動きがはっきりわからない ことである言うまでもなく市場の英雄合憲 も必ず裏には何かの形で恋愛事件があった に違いなくそういう方面を忌憚なく描写し てこそ人間身を出すことができるのであっ てかの太公が夜気に送った恋文なは誠に 貴重な資料であるがああいう文書の伝え られているものは割合に少なく稀にあって も専門の歴史家が多くの日誌を費やして ようやくわずかに1つ2つを集めうるに すぎない花式は歴史上著名の人物であって その性質の生むさえも分からず母の会った ことは確かだとしても彼女の崇や名前も 知れない場合があることは初夏の警を見る ものの常に感ずるところでであろう実に 日本の昔からの系書きというものは神は 皇族から下々の家族のものに至るまで男子 の行動を伝えることは比較的つまびらかで あるに関わらず女子の場合には単に女子 もしくは女と記入してあるのみで生まれた 年も死んだ年も名前も書いていないことが 普通だと言っていいのであるすなわち我々 の歴史には個々の男性はあるけれどもの 女性というものはないそれは系図にある 通り永久に1人の女子あるいは女なので ある原地物語に末つむ花という薪がある 現時のために恋の取持ちをする左右の明部 という女が心ばえ形など深き方え知りはら ず潜め人うをもなしたまえば酔いなど物越 にてぞ語いはべる金をぞ懐かしき語い人と 思いたえるとこ日宮の姫君のことを噂する のである秋の夜の20日余りの月の出る頃 に原地がしんで荒れたる宿に世を詫びて いる姫君の元へ通うことに なる姫はひたすら恥ずかしがっていたが 色々と明部に進められるとさすがにの言う ことは強も否ぬ恩心で先の言うことを黙っ て聞いているだけで返事をしないでもいい のだったら皇子を隔てて会うことにしよう と おっしゃる皇子の外ではあまり失礼だから というので明部が原地を人間の内へ入れ襖 を中に置いて 合わせる現時には姫の姿は見えないが都を そそのかされていりよりたえる気配忍び なかにエのかと懐かし香りで大かなるがぜ られるそして襖のこちらから現が何を 語りかけても姫からは一言の依頼も ないくそ度君が四島に負けぬらんもなそ 言わぬ頼みにとやがて現地が口ずさむと襖 のうで付き添いの女房の事というのが気に 変わって 答えるつきてじめことはさすがにていえ 浮きぞかつは綾 なきこんなやり取りがあってから結局現地 は境の襖を押し分けて入り姫とちぎりを 結ぶのであるがやはり室内が暗いために 相手の人柄は分からずにしまうこうして 現地は長い間姫君の顔を知らずに通って いるうちにある雪の降る日の朝手からら崎 のをあげてのを眺めながらおかしほどの空 も見たまえ尽せぬ恩心の隔てこそ割り なけれと恨みを言うとお月の老女たちも はやいでさせたえ味気なしと進めるので姫 はよよみいをして初めて明るみへいり れる末つむ花の場合にはこの姫君の花の頭 の赤かったことがその時に分かってさすが の現時も強めがしたという形団があるのだ がしかしそういう国慶事件が成立する くらいであるから相手の顔も知らないまま に通い続けるということが当時は普通で あったと見える第一取持ちをする左右の 明部にしてからが心ばえ形などえ知り はべらずさき酔いなど物越にてぞ語い はべるというのだからまだ姫君の実物を見 ずおそらく貴重か何かを隔てて話したこと があるばかりでことを引くのを楽しみにし ていらっしゃいますとたったそれだけの 心もとない工場で あるこんな工場で取り持つ方も取り持つ方 だがそれにつられて出かけていくのみか 正体も確かめずにそのままちぎりを重ねる というのは今から見れば男の方も随分 物好きすぎて いる思うに個性ということをずる現代の 男子であったらほんの人世ののいたずら なら知らぬことそんな風にして真の恋愛を 楽しむことができようとは夢にも考えられ ないであろうが前にも言うように提案長の 貴族の間ではこれが実に普通であっ た女は文字通り深層の家人で水中光景の奥 に垂れ込めておりその上当時の最高の悪い 家の中では昼までさえも薄ぐらいのに ましてとかのほかの鈍い夜であっては人間 のうちに鼻をつき合わせても容易に見分け がつかなかったことが想像せられるつまり そういう暗い奥の方に貴重だのミスだのと いう育のとばりを据えてその影にひっそり 生きていたのであるから男の感覚に触れる 女というものはただ着れの音であり 抱きしめた甲の匂いでありよほど接近した としても手探りの肌触りでありたけなす神 の焚きであにすぎ ないここでちょっと余談になるがもう10 年あまり前かつて私は北京に滞在していて 夜を非常に真っ暗に感じたことがある近頃 はあの都にも自伝がしけたそうであるから 町通りもよほど明るく賑やかになったこと であろうがあの自分はまだ世界戦争の最中 で場外の色町や芝居町のような盛り場を 除くは日がくれると実に真っ暗であった表 の大通りはそれでもいくらか明りが漏れて いるけれどもちょっと横丁へ入ったりする と全くうしのような闇でほたるほどの明り も見えない何分あの辺の屋敷町というのは 高いどべを巡らした小さな上客のような 構えばかりで門には厳重に一寸の隙間も なく板戸が閉めてありその戸の中にはまた 壁というついたてのよ兵があり2にも30 にも閉ざしてあるのだから家の中からは 一点のほげもこという人声も漏れるでは なく不気味な廃墟のような壁が暗い中に 木々として続いているその壁と壁との間の 屈曲した狭い小道を私は初め何気なく歩い ていたがどこまで行っても闇があまり濃く あまり静かなので間もなく言い知れぬ恐れ を感じて何かに追い立てられるように走っ て抜けたことが あるけだし近代の都会人は本当の夜という ものを知らないいや都会人でなくとも この頃はかなり返品な田舎の町にも鈴蘭島 が飾られる世の中だから次第に闇の両分は 口くせられて人々は皆夜の暗黒というもの を忘れてしまっている私はその時北京の闇 を歩きながらこれが本当の夜だのだ自分は 長らく夜の暗を忘れていたのだとそう思っ たそして自分が幼いおりおぼつかなアドの 明りの下で眠った頃の夜というものが いかに凄まじく詫しくむくつけきあきない ものであったかを思い起こして不思議な 懐かしさを感じたのであっ た少なくとも明治10年代に生まれたもの はその頃の東京の夜の町がちょうど北京の それと同じようであったことを覚えている だろう私は香町の自分の家から柿原町の 親戚の家まで鎧ましを渡ってほんの56兆 の距離をしばしば弟と一緒に行跡切って 夢中で走っていたことを記憶している無論 その自分はたい下町の真ん中でも女の1人 歩きなどは夜はできるものでなかっ たすでに10年前の北京40年前の東京が そんな風であとしたら今から1000年 近くも前の京都の夜の暗さとしけさはどれ ほどであっ たろう私はそこまで考えてきてぬたの夜と いう言葉や夜の黒髪という言葉を思い合い とその頃の女というものにつきまとうある 有園な神秘な感じをはっきりと読み取る ことが できる女と夜は今も昔もつき物であるしか しながら現代の夜が太陽光線以上の幻惑と 交際と思って女の裸体をくなく照らし出す のに反してイニシエの夜は神秘な暗黒の とばりを持って垂れ込めている女の姿を なおその上にも包んだので あるかの渡辺の綱が戻り橋で女にあったり 来光が土雲の妖精に襲われたりしたのは こういう夜であったことを念頭に置く必要 が ある住の江の岸による波よるさえや夢の かいじひめよらと言い意せめて恋し時は うばたまの夜の衣を返してぞ塗ると言い その他昔の人の夜に関する草草の歌もそう 考えてこそ初めて実感が湧いて くる思うにイニエの人の感じでは昼と夜と は全く異なった2つの世界だったで あろう昼の明るさと夜の暗さ誠に何という 華々しい装いであることか人を開ければ 夕べのものすごい暗黒の世界は立ちまち 千里の彼方に去って空は青々と晴れ日は キラキラと輝くので あるその白日の光を仰ぎつつ夕べのことを 考えると誠に夜というものはあともなき 不思議な幻何かこの世の他なるもののよう な気が する春の世の夢ばかりなる玉にと泉父は 歌ったがはくも短い夜の無事を改装すると 泉部でなくとも夢ばかりなる感じがしたに 違い ない女は実にその常闇の夜の奥に隠れてい て昼間は姿を見せることがなくただ夢 ばかりなる世界にのみ影のごとく 現れるそれは月光のように青虫の根のよう にかけ草の梅のようにもろく要するに暗黒 の自然界が生み出す声援なる地味の1つで ある昔の男女が歌の象頭にしばしば恋を月 に例えたり梅雨に例えたりするのは決して 我々が考えるような意味の火ではあるま キギの朝つに多元を閉めらせながら庭先の 草を踏んで帰っていく男を思えば梅雨も月 も虫のも恋もその関係が甚密接で時には1 つのもののようにも感じたで あろう人は現地物語以下昔の小説に現れる 婦人の性格がどれもこれも同じようで個性 が描かれていないことを攻撃するけれども イニシエの男は夫人の個性に恋したのでも なくある特定の女の要望日肉体日に 引きつけられたのでもない彼らにとっては 月が常に同じ月であるごとく女も永遠に ただ1人の女だったであろう彼らは暗い中 でかかなる声を聞き衣のこを嗅ぎ髪の毛に 触れ生めかしい肌触りを手探りで感じ しかも世が開ければどこかへ消えてしまう ところのそれらのものを女だと思っていた で あろう私はかつて小説たう虫の中で主人公 の感想に託して文楽座の人形芝居のことを 島のように記し たそれを根気よく見つめていると人形使い もしまいには目に入らなくなって小春は今 や文五郎の手に抱かれているフェアリーで はな しっかり畳に腰を据えて生きていたなが それにしても俳優がふする感じとも 違うバコや福助のはいくらうまくてもバコ だな福助だなという気がするのにこの小春 は純粋に小春以外の何物でも ない俳優のような表情のないのが物足り ないといえばいうものの思うに昔の有利の 女は芝居でやるような 哀楽を井戸に出しはしなかったであろう原 の時代に生きていた小春はおそらく人形の ような女であっ たろう事実はそうでないとしてもとにかく 上りを聞きにくる人たちの夢みる小春は バコや福助のそれではなくてこの人形の姿 で ある昔の人の理想とする美人は容易に個性 を表さない慎み深い女であったのに違い ないからこの人形でいいわけなのでこれ 以上に特徴があってはむしろ妨げになるか もしれ ない昔の人は小春も梅川もお春もみ同じ顔 に考えていたかもしれないつまりこの人形 の小春こそ日本人の伝統の中にある永遠 女性のおかげではないの かこのことは1人人形芝居についてばかり でなく絵巻や浮きに描かれているを見ても また同様な感じが する時代により作者によって美人の方にも 幾分の変化はあるけれどもあの有名な高義 源二以下の絵巻物にある美女の顔はどれも これも同じであって全く個人的特色がなく 平安長の女というものは皆1つ顔をしてい たのかと思うほどである浮においても俳優 の似顔は別として少なくとも女の顔のを 関する限り宇には宇まの好んで書く顔春信 には春信の好きな顔というものはあるが 同一の画家は絶えず同じ顔ばかりを書いて いる彼らの題材とする女の種類は友助芸者 町娘女房その他様々であるけれどもいつも 同じ顔に違った気付や神形を与えるにすぎ ないそして我々は各々の画家が理想として 書いた多くの美女の顔立ちからそのれもに 共通な典型的の美人を想像することが できる言うまでもなく昔の浮の巨匠たちは モデルについて個人的特色を見分ける力が なかったのでもなくまたそれを描き出す 技術にかけていたのでもないおそらく彼ら はそういう個人的色彩を消してしまう方が 一層美的でありそれが絵描きの嗜みである と信じていたのであろう 一般に東洋流の教育の方針というものは 西洋流とは反対にできるだけ個性を殺す ことにあったのではない か例えば文学芸術にしても我々の理想と するところは全人未党の新しき美を独走 することにあるのでなくイエの姿勢や火星 がいてれ得た境地へ自分を到達することに あった文芸の極地美というものは昔から 唯一普遍であって歴代の詩人や家人はその 1つのものを繰り返して歌いなんとかして 頂上を極めようと 務める分ける麓の道は多くとも同じ高値の 月を見るかなという歌があるが馬笑の境地 は要するに作業の境地であるごとく時代に 応じて分隊や形式は違ってくるけれども 目指すとこは結局ただ1つの高値の月で あるこのことは文学よりも絵画ことに南画 を見ると分かる南画の優れたものは山水に しろ蓄積にしろ個人によって技工は色々に 異なるとしてもそこから受ける一種の真因 全身というか封印というか演歌の木という かとにかく5道に達したような崇高な美の 感じは常に同じであって南画家の究極の 目的は秘境この気品を売るに ある南画家がしばしば自分の政策に対して 誰々のひに習うという断り書きをつつける のはすなわち己れを無臭して前人の後を 踏もうとするものでそういうことから 考えると古来シの絵に岩作が多くかつ岩作 を巧みにするものが多いのは必ずしも人を 騙そうとする意思からではないかもしれ ない 彼らにとって個人的巧妙などは問題でなく ひたすら己れを個人に合致させることが 楽しいのかもしれないその証拠には偽物と 言っても実に単年な密があってそういう ものを似せて書くにはその人自身によほど の手腕と大勢な制作熱がなければならず 欲得づくではなかなかあまでにできるもの でないすでに個人の美の境地を極めること が主であり己れを主張することが目的で ない以上は作者の名前など誰であっても いいわけで ある皇子は祭りごとを行春のイシエに返す ことを理想とししばしは洗脳の道を解いた この絶えずイニシエを模範としそれに復帰 しようとする傾向のあったことが東洋人の 進歩開発を妨げた遊園であるがよくも悪く も我々の祖先は皆その心がけで倫理道徳の 収容においても自分を立てるというよりは 先哲の道を守ることを第一とした特に女は 己れを殺し私の感情を去り個人的長所を 没却して定助の典型に当てはまるように 務めたのではないかと思わ れる日本語に色気という言葉があるこれは ちょっとに訳しよがない近頃エリナグリン によって発明されたイトという言葉が アメリカから渡ってきたけれども色気とは 甚意味が違う映画で見るクララボのような のはホマなる一途の所有者であろうが およそ色とは最も遠い女で ある昔はよく家庭にシュトやシュト目がい てくれた方がかって嫁に色気が出ると それを喜ぶ夫があった今日の新郎神父は親 たちがあっても大概別居してしまうから ちょっとそういう心持ちは分かりかねるか もしれないが嫁が親たちに遠慮しつつ影で 夫にすがりつき愛を求めようとする 慎ましやかな態度のうちになんとなくそれ が伺われるその様子に多くの男は言い知れ ぬ魅惑を感じ た放銃で露骨なのよりも内部に抑えつけ られた愛情が包もうとしても包みきれない で時々無意識に言葉遣いや仕草の端に 現れるのが一層男の心を引いた色気という のは毛だしそういう愛情のニュアンスで あるその表現がほかな弱々しいニュアンス 以上に出て積極的になればなるほど色気が ないとされたので ある色気は本来無意識のものであるから 生まれつきそれが備わった人とそうでない 人とがあって柄にないものがいくら色気を 出そうと務めてもただ嫌らしく不自然に なるばかりである肥料が良くって色気の ない人もあればその反対に顔は見にくいが 小とか皮膚の色とか体つきとかに不思議に 色気のある人がある西洋でも1人1人の女 について見ればそういう区別はあるに違い ないけれども化粧法や愛情の表現法が あまり技工的であり挑発的であるために 色気の効果が消されてしまっている場合が 多い生まれつき色気のある人はもちろん たいそれが乏しい人でも心の奥にある愛情 あるいは欲情をできるだけ包み隠して一層 奥の方へ押し込んでしまおうとする時に かってその心持ちが一種の不全を帯びて 現れるそういう点から考えると女子を受的 に武導的に教育することすなわち女大学流 の定助を作るということは反面において 最も色気のある夫人を作ることだったので ある東洋の夫人は死体の美骨格の美におい て西洋に劣るけれども皮膚の美しさ決の 細かさにおいては彼らにまさっていると 言わ れるこれは私のま経験でもそう思われる のみならず多くの通人の一致した意見で あり西洋人でも同感するものが少なくない が私は実はもう一歩進めて手触りの会館に おいても少なくとも我々日本人にとっては 東洋の女が西洋にまさっていると言い たい西洋の夫人の肉体は色つやといい 釣り合いといい遠く眺める時は肌魅惑的で あるけれども近く寄ると決が荒く産毛が ボボと生えていたりして案外小が覚める ことがあるそれに見たところでは師子が すっきりしているからいかにも日本人の 喜ぶ肩beauのように思えるのだが実際 に手足を掴んでみると肉付きが非常に 柔らかでブクブクしていて手応えがなく キュッと引き締まった充実した感じが来 ないつまり男の側から言うと西洋の夫人は 包容をするよりもより多く見るに適した ものであり東洋の夫人はその反対であると 言える私の知ってる限りでは皮膚の滑らか さ決めの細かさは死夫人を持って第一と するが日本人の肌も西洋人のそれに比べれ ばはるかにデリケートであって色は白石で ないとしてもある場合にはそのアギ色を 帯びたのがかって深みを増し眼を 添えるこれは境現地物語のイニシエから 徳川時代に至るまでの習慣として日本の 男子は夫人の全身の姿を明るみでまざまざ と眺める機会を与えられたことがなくいつ も乱闘ほのネヤのうちにほんの一部ばかり を手触りで相したことから自然に発達した 結果であると考えられる 流のイと女大学流のイケといずれがいいか は人の好き好きに任せておくべきことだ けれどもしかし密かに心配するのは今日の ようなアメリカ式ロス教時代レビューが 流行して女の裸体が一向珍しくも何とも ない時代になっては一途の魅力はだんだん 失われていきはしないかどんな美人でも 酸っぱ高になる以上にむき出しになること はできないのだから裸体に対してみんなが 鈍感になってしまえばせっかくの一途も 結局人を挑発しないようになるであろう

『恋愛及び色情』
1931年(昭和6年)「婦人公論」

谷崎潤一郎
1886年〈明治19年〉7月24日 –
1965年〈昭和40年〉7月30日

5 Comments

  1. なぜがわかりませんが、文章と文章の間の空白の時間にザーという音が流れます。
    パソコンのせいかと思いましたが、他の方の朗読ではそのようなことがありません。
    もし可能であれば、改善していただけると幸いです。

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