ピンク・レディー / カメレオン・アーミー / DANCE REMIX / 歌って踊れるww歌詞付き!

Yeah You Made For she For Love Rainbow dancing and What For Water No

ヘッドホン推奨です!
ピンク・レディー / カメレオン・アーミー / REMIXしました!
「カメレオン・アーミー」は、1978年12月5日にリリースされた日本のアイドルグループ・ピンク・レディーの10枚目のシングルである。
売上枚数は約70万枚 (オリコン調べ)、125万枚(ビクター調べ)。正式な発売日以前にフライング発売された分がオリコンに集計されたため、初登場88位→翌週1位という87ランクアップ記録を達成した。(1998年にSPEEDの「ALL MY TRUE LOVE」が参考記録ながら113位→1位を記録している)タイトルに合わせ、テレビ番組では歌の最中に衣装の色が画像処理で変化する演出があった(ゼネラル(現・富士通ゼネラル)が開発したソフトクロマキーによる)。
ミーやケイ本人達の談によると「ピンク・レディーの全曲中、最も振付けの激しい曲」とのこと。最盛期当時もこの曲を完璧な振付けで踊りながら歌い切るには相当な体力・気力が必要だったようで、当時のテレビ映像の中には、本人たちが振付けを誤って踊っているものまである。
前述の理由により、後年の再結成時には一時期ライブでも封印されていた曲の一つでもあった。
しかし、2004年の復活ツアーの際には当時の振付けで歌い切る技術を取り戻し、初披露の舞台では歌唱後にミーとケイが観客に「カメレオン・アーミー、またできるようになったよ!」と喜びをあらわにする一幕があったという。現時点では、ピンク・レディーによるオリコンシングルチャート首位獲得としては最後の作品となっている。首位獲得通算週数は今作品を最後として63週で途切れることとなったが、これは2015年1月26日付けチャートにてB’zが追い抜くまで、36年にわたりピンク・レディーが最多記録保持者であった。当時コナミ工業(現・コナミアミューズメント)から『スペースウォー (レジャック)』というアーケードゲームが登場しているが、
同じ内容で『カメレオンアーミー』と表示されるバージョンもある。これは上記の曲、およびその伸びるビームがカメレオンの舌を連想させることから。『ルパン三世 (TV第2シリーズ)』第74話「恐怖のカメレオン人間」にて、挿入歌として使用されている。初主演映画「ピンク・レディーの活動大写真」のエンデングテーマに使用され同サントラにも収録されている。
メンバー
名前 本名(デビュー時) 生年月日 出身地 現芸名
ミー 根本美鶴代 1958年3月9日 静岡県静岡市葵区 未唯mie
ケイ 増田啓子 1957年9月2日 静岡県静岡市葵区 増田惠子
出会い
中学2年時(1971年)に、ミーの在学する静岡市立末広中学校にケイが転校して来て演劇部に入り2人が知り合う。1973年に、ヤマハ音楽が主催するオーディションにそれぞれ合格する。授業料免除の特待生にも合格したことから、ヤマハボーカルスクールに通うことになる。講師の勧めで、当時人気のあった「キャンディーズ」にあやかった『クッキー』というフォークソング系のデュオを結成し、プロデビューを目指すことになった。1974年のヤマハ主催のポプコン東海地区大会決勝に進出して、「恋のレッスン」を歌っている。ヤマハ所属のセミプロ歌手として同社の新商品発売イベントやキャンペーン開催時に参加し、歌を披露することもあった。
スター誕生
プロをめざし、ヤマハの全国オーディションに出場しグランプリを獲得するものの、デビューの話は具体化しなかった。次にオーディション番組『君こそスターだ!』に出場するが不合格。
最後の挑戦と意気込み応募したのが『スター誕生!』である。第224回(1976年1月11日放送)合格者となり、決勝大会へ進む。1976年3月14日、『スター誕生!』第16回決勝大会に出演。白いシャツにサロペット(ミーは赤、ケイは紺青)を着用、化粧もほぼ施さず、垢抜けない雰囲気を演出して登場。当時ほとんど無名に近かったフォークグループ、ピーマンの「部屋を出て下さい」を披露。合計8社のレコード会社や芸能プロダクションから獲得の意向を示すプラカードが上がった。熱心だったのは、アクト・ワン・エンタープライズ(同年4月にT&Cに吸収される)の相馬一比古とビクター音楽産業の飯田久彦。2人は両社に所属することになる。
クッキーと契約を交わしたレコード会社・ビクター音楽産業でディレクターを務めていた飯田久彦は、ミーとケイをフォークデュオで売り出そうとする上層部に異議を唱えた。ディスコミュージックブームの波が押し寄せ、フォークの時代に陰りが見え始めており、洋楽の要素を含んだ楽曲の時代を予見していた。何よりも、ミーとケイの溌溂とした若さと魅力的なルックスは武器になり、リズムやビートの効いた楽曲を歌わせることで新たな魅力が引き出せると確信していた。
上層部に粘り強く交渉して方針変更の許可を得てプロデュースに本腰を入れる。
『スター誕生!』出演時の時のような、化粧ひとつしない素朴なイメージを封印。大胆に肌を素出させたボディラインにフィットするデザイン(マイクロミニ丈のミニスカートやホットパンツ、キャミソールドレス、ワンショルダーやチューブトップなど。デザイナーは野口庸子)の衣装に身を包み、セクシーでありながら爽やかな可愛らしさを前面に打ち出した。活動名も、大人っぽく都会的なイメージに変更。作曲家・都倉俊一が、カクテルのピンク・レディーに因んで『ピンク・レディー』と命名した。『ピンク・レディーズ』(複数形)としなかったのはこのためである。デビュー曲選考にあたり、「乾杯!お嬢さん」「ペッパー警部」の2曲が挙がり、前者が有力視されていた。しかし、楽曲提供した阿久悠と都倉がインパクトのある「ペッパー警部」を推し、デビューシングル(A面)に決定した。
1976年8月25日、レコード・デビュー。『スター誕生!』決勝大会から半年足らずでのスピードデビューである。デビュー直後はキワモノ的な見方もされ、ミニスカートから伸びた太ももをがに股に開け閉めする振付を行うことから成人向け深夜番組の出演が多かった。しかし、リリースされる楽曲が次々とヒットチャートを駆け上がり、人気音楽番組に出始めるようになると、当時の子供たちがこぞって振付を覚えて真似をし始めた(振付師・土居甫が担当)。そのため山本リンダに代表されるかつてのセクシー歌手とは対照的に、老若男女に幅広く人気を獲得することに成功した。人気が高まるにつれ、衣料品や文房具、食器、自転車や食品まで多くの業種のさまざまな商品に2人の姿がプリントされたキャラクターグッズが販売された。2人の写真だけではなく、ミーとケイをネコに模したマスコットキャラクターも考案され、こちらもグッズ化された。
ピンク・レディーの存在は想像を絶する巨額の経済効果を派生させることになった。
1976年
ピンク・レディーのデビュー・シングル「ペッパー警部」(1976年8月)は売上60万枚(オリコン調べ)、出荷ベースではミリオンセラーのヒットとなり、1976年末の「第18回日本レコード大賞」新人賞を獲得、翌1977年に掛けてロングヒットとなる。この曲では両脚をがに股に開くポーズを含む斬新な踊りが、当時の世間に大きな注目を集めた。第2弾シングルの「S・O・S」(1976年11月)、第3弾シングルの「カルメン’77」(1977年3月)もオリコン1位を記録する大ヒットとなり、大きな注目を集めたことから人気が社会的に広がった。
1977年
第4弾シングル「渚のシンドバッド」(1977年6月)は、ピンク・レディー初のミリオンセラーとなった(オリコン調べ)。この曲によって、ピンクレディーの人気はもはや“社会現象”となり、日本列島に“ピンクレディー旋風”が吹き荒れた。当時はデビューしたばかりのサザンオールスターズがピンクレディーの「渚のシンドバッド」に敬意を表して、同年1977年に大ヒットした沢田研二の「第19回日本レコード大賞」受賞曲「勝手にしやがれ」と「渚のシンドバッド」の曲名を掛け合わせ、自分たちのデビューシングルの曲名を「勝手にシンドバッド」としたほどである。
第5弾シングルの「ウォンテッド(指名手配)」(1977年9月)もオリコンで12週連続1位を記録する大ヒットとなり、アメリカで外国人歌手によるカバーソングまで発売された。1977年末、ピンク・レディーは日本レコード大賞において「S・O・S」「カルメン’77」「渚のシンドバッド」「ウォンテッド(指名手配)」をノンストップメドレーで歌い「大衆賞」を受賞した。
1978年
第6弾シングル「UFO」(1977年12月)もミリオンセラーを記録し、1978年末の「第20回日本レコード大賞」を受賞する。それまでピンクレディーのような“ディスコ・ポップス系”のアイドル歌手がレコード大賞を受賞した前例はなく、ピンクレディーのレコード大賞受賞はまさに“前代未聞の革命”であった。また『UFO』では、“地球の美女が異星人に恋をする”という阿久悠作詞の歌詞も、当時としては画期的なものであった。第7弾シングルの「サウスポー」(1978年3月)もミリオンセラーとなった。この「サウスポー」では“左利きの女性投手が王貞治と一騎討ちをする場面”が描かれており、これは当時一世を風靡した“読売巨人軍の四番打者・王貞治のホームラン世界記録ブーム”を背景としたものである(この頃、王貞治は第1号の国民栄誉賞を受賞した)。
ピンク・レディーの作詞家・阿久悠は「作詞とは“時代”である」をポリシーとしていた。
さらに、次のシングル「モンスター」(1978年6月)も、「渚のシンドバッド」・「ウォンテッド(指名手配)」・「UFO」・「サウスポー」と続いた“大ブームの勢い”を受けて、
ミリオンセラーを記録した。1978年のブロマイドの年間売上成績でも人気No.1を獲得した。また「サウスポー」や「透明人間」(1978年9月)などのように、男女の恋愛を直接のテーマとしていない曲も、当時の歌謡曲には見られない特徴的なものだった。このように、ピンク・レディーの人気絶頂期は、1976年から1978年までの3年間、実質的にはブレイク後の1977年から1978年の2年間[8]にわたって続いた。絶頂期のピンク・レディー人気を支えていたのは主に子供たちであり、1978年のオリコンの調査によると、ピンク・レディーの支持層は3歳から12歳が42.5%を占めていた。人気は爆発的に高まり、オリコンで連続9曲1位・10曲連続ミリオンセラー(出荷ベース)は、当時の新記録。オリコンシングルチャートにおける通算首位獲得数(63週)は、2015年1月26日付に、B’zが「有頂天」で記録更新するまで最高記録であった(ピンク・レディーは9曲で通算63週を達成。B’zは47曲で通算64週を達成。また1977年7月第3週から1978年2月第3週までの28週のうち27週にわたり、ピンク・レディーが1位を獲得していた)。
また、女性グループアーティストによる通算9曲首位も、2006年11月20日付に、モーニング娘。が「歩いてる」で記録更新するまで最高記録であった。

ウィキペディア引用
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6 Comments

  1. 1番ッ‼️👍💕
    昨夜、マダガスカル島のカメレオン、見たばっかりッ‼️👍💕
    昨夜のカメレオンの姿が、まだ目に焼き付いてますッ‼️👍💕
     コレでジルバは、イケますッ‼️👍💕  
    だけど のつまそり 歩くヨ
      「糸ようじ」ッ‼️👍💕テカァ~~ッ‼️👍💕🤣🤣

    あざァ~すッ したっけネェ~
             ☮️☮️☮️

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