【福岡伸一の知恵の学校】第1回 動的平衡ライブ ー『生物と無生物のあいだ』を語るー

[音楽] どうも皆さん こんにちは 福岡伸一でございます 本日も皆さん いらっしゃってくださり どうもありがとうございます 「知恵の学校」は対談のパートナーを呼ぶ会と 私が単独でお話しする会を 交互にやっております 前回は隈研吾さんに来ていただいたんですけれども 隈研吾さんと ここで対談いたしましたが その時来ていただいた方が 何人かおられますね この時は建築と生命っていう 問題についてお話したんです 建築と生命って 建築は人間が人工的に作るものですし 生命は ある意味自発的に この地球上に生まれてきたものなので 本来相容れないというか 全く違うもののわけなんです でも隈研吾さんは 建築をなんとか生命化したい 生命的な建築物を作りたいと考えて ここまで来られた その時にブックリストを作ってきてもらい 隈研吾さんの著作を 1つ 隈研吾さんが読んできて 彼の人生に大きな影響を与えた本を 何冊か選んできてもらい それを元に対談をしたわけです 「知恵の学校」のそもそものゴール 目的は 読書の楽しさ 面白さをもう一度取り戻そうという ある意味の読書振興の試みなわけです ここにおられる方は もちろん本が好き たくさん本を読んでこられた人たちだと思います でも社会全体を見渡してみると 本が売れなくなったとか 活字文化がだんだん衰退してきたんじゃないかとか いろんな危機感が言われているわけです 一方でインターネットというものが どんどん力を増しているので ネットにあって本にないもの 逆に本にあってネットにないものは何かなって考えるのも

「知恵の学校」の1 つのテーマだと思うんですね 建築と生命っていうことを 隈さんとお話しした時に 最後に Q&Aのコーナーを設けて フロアーの皆さんとお話をしたんですが その辺におられた方がですね 非常に面白い質問をしてくれたんですね それは日本を代表する建築物として 法隆寺と伊勢神宮があります 今日も来られてますか どうもありがとうございます 伊勢神宮は20年に1回 建て直すので どんどんどんどん更新されているから ある意味で生命的に見えるんじゃないか 一方 法隆寺は世界最古の木造建築で 今もそのままあるように 見えますけれども 実は今ある法隆寺に使われている 木材や釘は 法隆寺が建った当時のものが残っているわけじゃなくて その都度ちょっとずつやりかえられて 法隆寺というものは存続しているけれども 法隆寺を構成している実際のマテリアルは どんどん新陳代謝してきている その2つを見比べると どちらがより生命的かって言うと 私にとっては法隆寺の方がより生命的なわけです 生命というのは全取っ替えしているわけじゃない 絶え間なくちょっとずつ入れ替わっている それが生命なわけですよね だからもし建築物が生命的であることを求めるとすれば というか建築は 生命が住むための容れ物なので 本来は生命的であるべきもののはずなわけです でもそれを人工的なコンクリートや垂直や水平の面で囲んで 環境から切り離したものとして作られたのが 近代の建築物で 隈さんはなんとかそこにアンチテーゼを投じて なるべく生命的なものを作りたいというふうに考えて 見えない粒のレベル ミクロなレベルで変わっていけるような 法隆寺的な建築物を目指そうというふうに考えて

千鳥格子とか 小さなルーバーというのかな 細かいマテリアルを作って できるだけ生命的なものを目指そうということをされてきたわけですね ネットになくて本にあるもの というのを考える時に 決論的なことを言うと それは 時間軸あるいは空間軸というものが 本の中にはある その本を書いた人の時間があるし その本を読んだ人の時間があるわけです あるいはその本を書いた人が どういう本を読んできたかという それぞれの本にもこの本はあの時に読んだな こんなことに悩んでいた時に この本がある言葉で 私を救ってくれたなっていう風に 本は時間軸の中にあるわけです 同じことが音楽にも言えて 今は曲がどんどん バラバラになってしまって いつでもどこでも ダウンロードできたり ストリーミングできたりしますけれども 昔は音楽はパッケージとして売られてたわけです 本としてというかブックとして売ら れていた つまり1枚のアルバムがあって アルバムのジャケットというものがあって アルバムの何曲目にあの曲があって それを順に聞いてきて 心待ちにしてた あるいはある曲が終わると もう次の曲がどんな音が聞こえてくるか まだ曲と曲の間 なのに聞こえてくるというふうな 文脈というかコンテクストが常にあったわけです それが本にも音楽にもあったわけです 時間軸とか空間軸って私が仮に呼んでるのは そういうことなわけですね 今日は私の単独の講義なので 私が読んできた本を 私がどういう風に読んできたのか それから私が書いた本がどういう成り立ちなのかっていうのをお話していきたいと思うんですけど 私が単独で行う講義のシリーズを通して 少しずつお話していきたいと思うんです というのも よくですね 私の本を読んでいただいた 読者の人とかメディアの人が 福岡さんはすごく難しいことを とても分かりやすく書いてくれて 福岡さんの本を読むととてもよく分かる

どうしてそんなに文章が 美しく書けるんですか みたいに聞かれることがあるんです 私自身は 自分が文章がうまいか 美しい文章を書けているのかどうかは 自分自身では分かりません でも難しい文章を できるだけ読者に届くように書くことだけは心がけているんです 難しいことを分かりやすく書くというのは 一体どういうことなのか 私のこの講義の最終的な目標は 私の生命論のキーワードにもなってる「動的平衡」を 皆さんにも分かってもらいたいということが 「知恵の学校」の1つの大きなゴールなんです でも私が 皆さん「動的平衡」とは 何でしょうというふうに 「とは〜」で語りだすと やっぱり届かなくなってしまうんです テレビの人たちと仕事をしてると 必ずテーマが色々あって キーワードが出てくるわけですね そうすると 動的平衡でもいいですし 何か流行り言葉が色々あります そうすると必ず「動的平衡」とは 何とかですというふうに テーマになってるキーワードを簡単に説明する部分がどうしても必要だというわけです それを彼らは業界用語で「とはモノ」って呼んでるんですよ 「◯◯とは〜」ていうのを語るという でも「◯◯とは〜」というふうに語ると もうそれで分からなくなってしまうんですね なぜかと言うと 動的平衡というものを 私がどういうプロセスでそこの場所にたどり着いたのか どうやって動的平衡というものに いきついたのかっていうプロセスを辿らない限りは 動的平衡というものを 読者の皆さんに届けることは 決してできないんです 動的平衡という場所から 「◯◯とは〜」というのを語ると 絶対に届かない 何か難しいこと 複雑なコンセプトを 読者に届けようと思ったら 私が心がけてることは たった1つなんです 私がそのことをどうやって気がついたのか 私が「あっなるほど」って思った そのプロセスは どういう道のりを辿ってそこにやってきたのか それをそのまま伝えることが

唯一難しいことを分かりやすく 伝える方法なんです 「◯◯とは〜」というふうにその定義をもとに話さないようにする あるいは例えることは 色々あります この宇宙というのは実は紐のようなものです みたいな例えっていうのは色々できるわけです でもその例えっていうのは 上から目線で例えたら絶対に通じないんです 難しいことを単純化して喋っている だけにすぎない 例えはある難しいコンセプトに行きつくまでの 道のりの上で伝えることができたら 例えは有効になると思ってます 私は下手くそなんですけれども ほとんど私はあの運動音痴なんで 何をやらせても スポーツは全然できないんですけれども 唯一まあまあできるのが スキーなんですね スキーは大学生になった頃から たまたま友達に連れてってもらって始めて 最初はもうひどい スッテンコロリンばっかりだったんですけど なんとなくこれは面白いかもしれないなと思って 少しずつ少しずつ練習しながら まあまあちょっとずつ滑れるようになっていきました スキーってスピードを競う旗をバンバンって 肩で倒していくような スピードのスキーヤーと もう1つはいかにこう綺麗に滑るかっていう 基礎スキーっていうのがあるんですけど 基礎スキーの方は辛気臭い理論とか 練習法がいっぱいあるんです でも私がハマっちゃったのはそっちなんですけれども 級みたいなのもあって 全日本スキー連盟というのがですね 検定会をやって それに合格すると級が上がるいう 5級から始まって だんだん上がっていくんです 自慢じゃないんですけど私はSAJ(全日本スキー連盟)の2級 っていう位を持ってまして これはまあ結構滑れるっていう部類なんです スキー場に行くと スキーがすごい上手いスキーインストラクター 略してイントラって呼ばれてる人がスキーの滑り方を教えてくれるんですよね まずは自分がこう華麗な滑りでバーっと下りていって 下の方でポールを上げて じゃあ次滑ってこいみたいにして その後滑っていくわけです 私がよろよろよろっと滑っていくと それをそのイントラが下で見てて

「ああ」ってため息をついて なんで君はこう何回言っても滑れるように ならないのかな みたいな雰囲気を漂わせながら もうちょっとこの外に足を踏んでとか 色々言うんですけれども 私はその辛いスキーの経験を通して 学んだことは何かって言うと 難しいことをどういう風に優しく伝えることが できるかっていうことなんです スキーが上手な人は、実はスキーを上手に滑れるけれども それを人に伝えることはなかなかできないんですよ なぜかと言うと 彼はもう小学生になるかならないかぐらいの頃から、スキー場の風となって ビュンビュン滑っていたので自分がどうしてうまくなったのか そのプロセスを 自分自身の中で再現することができないんです でも私はすごい苦労してスキーが上達しました だからもちろん私はオリンピック選手を育てることは絶対にできません でもスキーが全く滑れない人に そこそこ滑れるようにしてあげるのは ひょっとしたらスキーのインストラクターよりも 私の方がうまいかもしれない 私がスキーを上達するっていうプロセスを自分の体験として覚えていて それを言葉にできるからです そういう風にして私は自分の本を書いてきたわけです 12月1日に『芸術と科学のあいだ』っていう本を出しました これは前『生物と無生物のあいだ』っていう 私の中で1番売れた本がありまして この本は2007年に出したのかな 今もう8年目ですけれども 未だに売れ続けています 講談社現代新書というところから出したんですが 毎年毎年 講談社現代新書は 1ヶ月に5冊ぐらい出てんのかな でも今年出た講談社現代新書の 僭越ですけれども 並の講談社現代新書よりも 今年の私の『生物と無生物のあいだ』の 売れ行きの方が多いことがあるんです 今も80万部も売れているんです これは私が書いた時には 全然予想できなかったことで 著者としては本当にたくさんの読者 に届いたっていうことは嬉しいんですけれども なぜこの本がこんなに売れたんでしょうと 問われることがたくさんあります 本当に本が売れるか売れないかっていうのは 神のみぞ知ることですけれども 少なくとも『生物と無生物のあいだ』という本で 私が書いたことは 私の学びのプロセスを書いたんです 今お話したように どうやって分子生物学者として出発して

小さな遺伝子部品を一生懸命追い求めていることばかりやってた私が「動的平衡」という 古くて新しい生命のコンセプトにが気がつき その重要性にもう一度光を当てるようになったかっていう プロセスを書いた それがたぶん読者に届いたんじゃないかなと思うんですね 家で息子が仕送りしてくれるみたいに 毎年毎年 印税が入ってくるというありがたい本なんです 『生物と無生物のあいだ』の「あいだ」っていうコンセプトを使って 日本経済新聞に芸術と科学あるいは理系と文系のあいだに橋をかけるような物語を 美術品とか絵画 建築 そういうものを取り上げて 連載していたものに少し加筆して 写真もより美しいものを使って まとめたのが『芸術と科学のあいだ』で ここに出した建築と生命 隈研吾さんの建築物とか かつて生命的であらねばならない 建築は生命的であらねばならないという メタボリズム運動っていうのが黒川紀章さんたちをリーダーに 行われたことがあるんですけれども 結局メタボリズムしなかった 1度もメタボリズムすることがなかった 中銀カプセルタワービルとか あるいはその軸っていうかな 建築と生命っていうのは もう1つ 対立するキーワードを この下に並べるとすれば 建築っていうのは人間が考えて作るものなので 非常に設計的なわけです それに対して生命というのは どういう風にできてくるかというと 生命は設計されてるんじゃないんです 生命は発生的に現れてきているんです さらに言えば 建築物を設計するのは人間の脳ですよね 脳的なあり方っていうのはこちら側にあって 生命的なものは 1つの細胞が徐々に増えていく 相互関係を保ちながら増えていくというように 発生的にできるものであって それは脳に対して身体的なものだ ということが言えると思うんです 今日お話しするキーワードの1つは 建築的なもの 設計的なもの 脳的なものに対して 生命的なもの 発生的なもの 身体的なものっていうものがあるとすれば こちらは地図が好きな マップラバーっていうふうに 仮に私は名付けていますけれど

地図が好きで地図を元に世界を捉えようとするあり方 でも生命的なもの 発生的なもの 身体っていうのは 最初から地図なんか当てにしてないんです 地図なんかいらなくても 生きていくことができる これはマップヘイターなんです 今日はマップラバー対マップヘイターっていう 世界の見方の2つのあり方っていうのを お話してみたいなって思ってるんです 人間というのは 皆さんもそうだと思うんですけれども 私もそうなんですが 本を読んで本が好きになって世界のことを知りたいと思って さらにまた 本を読むていうのは 避け難くマップラバー的に育たざるを得ないんですよ マップラバーであり続けるその先に マップヘイター的なものが現れてくるっていうのが 私の読書体験でした 今日はそういうことをお話していこうと思うんです 今から3、4年ぐらい前かな 池袋にジュンク堂書店っていう大きな本屋さんがあるんです ひょっとして今日ジュンク堂の人は来られてますか ジュンク堂では 緑色のエプロンを店員さんが皆しています その7階の奥の方にちょっとしたスペースがあって そこを著者に貸してくれるんです そこに自由な書店を作っていい もちろんジュンク堂さんの本を売るんです 本棚に自分の好きな本を並べていいっていうことで 私は「福岡ハカセの動的書房」と名付けて 自分の好きな本をそこに並べました それはまさに私が読んできて面白いなと思った本なんですね 少年の頃からこんな本があったな こういうのも読んだなっていうふうに並べて 本棚を構成してみたわけですけれども そのプロセスっていうのはまさに マップラバー的なあり方から出発して 世界を見始め ああ こういう風になってるんだ といういろんな発見があり そしてだんだんそうではなくて 実はマップラバー的に捉えた 生命というのは実はマップヘイターだったんだという風に分かってくる プロセスが私の読書体験というかな 読書歴だったんですね 皆さんも自分の書店を作って見てください それは空想的なものでもいいし 何か本当に 自分自身の部屋の本棚をそういう風にレイアウトしてもいいんですけれども 自分の読書体験のプロセスを整理し直してみてください

自分の読書の時間軸っていうものが出てくる どうして小さい頃にこの本に夢中になったのか その本の次に読んだ本はこういうもので その本がこういう世界を教えてくれた 必ず読書の道筋っていうのは その場所に行かないと見えてこない次の風景というものがあって そこに行くとまた違う風景が 見えてくるっていう風に展開しています ですからそういうプロセスをですね もう1度体験してみたらどうかなと思うんです そしてそれをまた誰かに語ってみて ください そういうことを行うことによって 本の面白さ 読書の楽しみ方っていうのは再発見されると思うし 復建していくと思います 決して本というのは 電子化しようが ネット化しようが なくなることはないという風に思います 福岡ハカセの本棚なんですが 結局この動的書房をもとに1冊の本まで作ってしまいました 並べた本がどんな本だったかていうのを 皆さんに見ていただきながら 私がどうしてその本がそんなに好きになって そこから何を得たのかっていうのを 紹介してみたいなと思うんです 私は虫が大好きな昆虫少年で 現代の少年はまた全然違うものに 心を惹かれてるんだと思いますが 私は昭和の少年でした 昭和の少年は昆虫とか 化石とか 釣りとか 天体とか ナチュラル系ですよね ナチュラリスト系のものに惹かれるグループと 鉄道とかモデルガンとか プラモデルとかロボットとかラジオとか メカ系に惹かれるものに早く分かれてしまうわけですね この世界を知りたい 世界というのはどうなっているんだっていう 探求から出発してることは間違いなくて 虫にしてもモデルガンにしても そこにはフォルムがあり 形があり 色があるわけですね 人工物であるか自然物であるかにかかわらず ある種のメッセージ つまりデザインっていうことです デザインってその世界から何か メッセージを抽出してくるっていう行為ですよね それに反応してそれが好きになっちゃう っていうのがまず出発にあると思うんです 私は虫が大好きになって

綺麗な蝶々とか 光るカミキリムシとかを追い求めて彷徨っていました 私は練馬の辺りで育ったんですが まだまだ本当に自然がいっぱいあって 昆虫もたくさんいました でもネットも何もなかったんでローカルなことしか 分からなくて この世界に一体どんな蝶々がいるのかっていうのは断片的にしか 分からなかったんですね 私は虫の虫だったわけですけれども虫のことを知るために 本も読むようになりました 近くにあった公立の図書館に通って 一生懸命本を調べて 虫のことを勉強しました 最初は私は虫の図鑑みたいなものばっかり読んでたんです 図書館は開架式の本が面陳してあるところと 別に書庫っていうのがあるっていうことに ある日気がついて 書庫に入るためには司書の人というか貸出しテーブルがあるところの 脇を通って挨拶しないと入れないようになっていて そこに入ると大書庫 大と言っても公立の図書館なのでそんな大したものではなかったんですが 私にとっては迷宮に入るみたいな バラの名前の書庫に入るみたいな感じで 入っていっていろんな本が置いてある だから自然に日本十進分類とか 覚えちゃったわけです 皆さん知ってますか 図書館の本がどういう風に 整理されてるかって言うと 100番台 200番台 300番台 400番台っていう風に 分野別に分かれてるんですね 私が好きなのは400番台の自然科学の 460番っていう虫のコーナで そこに行くと虫の本がバーっと並んでるわけです でも多くの人はそんな所には絶対来ない だから図書館の書庫のその本棚の間は 誰にも知られない秘密の場所みたいになって、いつも私はそこにいて 本を調べて見ていました そこに行くといろんな本があるんで 460番台とは言いながらも そこに行くまでに他の本も見えますから 本って本当に色々あるなっていう風に思ったんですね 書庫と開架式の本の部屋と別に 参考図書室っていう小さな部屋が図書館にありました 参考図書室にはですね 本の背表紙に 赤いシールが貼ってあって「禁帯出」という貸し出さない本がそこには たくさん並んでたんですね そこにあるのはどういう本かと言うと

まず大型の美術書みたいな本 それから高い本ですね 貸出して無くなったら困るような本が そこには並んでました でもあんまり私の昆虫の分野としては、参考図書室に 心惹かれる本はなかったので いつも参考図書室には入らなかったんですけれども ある日たまたまなぜか参考図書室に入って ぼんやり美術全集みたいなものの背表紙を眺めていたら 非常に地味な背表紙の本があって 横文字の英語が書いてあったんです それがこの本で背表紙に”Butterflies of the World”って書いてあったんです なんだこの本はと思って その本を取ってみたら 実は世界中の蝶々が 原色原寸大で書いてあるっていう豪華本があったんです 昭和33年初版の本なんです こんな本があったのかと 私はもう びっくり仰天して 目を皿のようにして見ました この本には世界中の 美麗な蝶々がずっとあの並べてあって 今から見るとそんなに 印刷技術も甘いんですけれども 何もない時代にそんな世界中の蝶が列記してあるっていうことは 考えても見なかったんで 私は世界地図を手に入れたような気持ちになりました ただそれ禁帯出なので貸し出せないんです だから必ず図書館に行かないといけ ない でも禁帯出のマークは他の人にも 絶対に借りられないっていうことですから いつも私はその参考図書室に日参して この本を端から端まで見ました 思いあまってですね 当時ですら この本は4000円か5000円ぐらいでした 昭和30年代?40年代の最初ぐらいかもしれない その時代にすでに6000円ぐらいの値段が定価としてついていたんです 市中の普通の本屋さんには売ってなかったんです 私はこの著者の 黒沢先生っていう人に手紙を書いて この本を入手したいんで 先生がお手持ちの余分が あったら譲っていただけませんか もちろん買わせていただけませんか という手紙を書いたんですね そしたらなぜかすぐにお返事がきて 多分昆虫学者って意外と暇だったんですね すぐにお手紙のお返事がきて 実はこの本は残念ながらもう絶版になっていますと

私も当時は知らなかったんですけど 黒沢先生は日本を代表する昆虫学の泰斗なんですね 黒沢の元にも自分の分しかないんです ですから 古本屋さんに行って探すしかありません というふうに書いてあったんですね 古本屋さんていうのがあると知って 私は当時池袋が最寄りの駅だったんですけど 神保町の古本屋っていうのを知りました 古本屋に回っていくと それぞれ古本屋さんに個性があって 歴史書が置いてあったり 漫画が置いてあったり 古い文学書が置いてあったり いっぱい本がある街があるんだなっていうのを発見しました 皆さん 神保町の神田古書センターの3階にある鳥海書房って知っていますか 鳥海書房に行ったことある人いますか 本好きの人なら知ってるかもしれませんけども 生き物の本だけの古本屋があるんです 魚類とか鳥とかありますけど もちろん蝶の本もあるんです 苦労してそういう本屋さんがあることを知って そこに駆け込んで探したら『世界の蝶』がちゃんとありました ところが もうプレミアがついていて4万円でした 小学生には絶対買えない値段ですね 私は涙を飲んで こんなに高いのか これは無理だって思って ずっと後になってから大人買いしてしまいましたが 当時は買えなかったんです この本が私のある種の地図の原点ですよね この本の1ページ目に出ている 蝶はアレキサンドラトリバネアゲハっていう世界最大の蝶の一つなんですね ニューギニアの高地地方にだけ存在している蝶で 非常に綺麗なグリーン色と ブルーと漆黒で構成されていて どんなデザイナーでもこんな鮮やかな デザインはできっこないっていうぐらい すごい素敵な蝶が描かれていました この図鑑は蝶の図版と その蝶にまつわる解説ですね それからその蝶にまつわる エピソードも書いてあるんです そこになんて書いてあったかっていうと アレキサンドラトリバネアゲハは20世紀初頭に発見されたと この発見っていうのも 西洋人が発見したっていうことで ニューギニアの人はもちろん もっと昔から飛んでることを知っていたわけですけれども 発見して名前がつけられて図鑑に学名が載る っていうプロセスを経て図鑑に記載されるわけですけれども 最初に発見した人が 鳥と間違えて銃で打ち落とした っていう風に書いてあったんですね そんなことがあったのかと思って私は 図鑑を見ていたんですけれども それからだいぶ経ってから あることに気がついたんですよ 図鑑に載っている蝶っていうのは 必ず最初に

それを捕えた人がいるから図鑑に載っているわけです 最初に捕えた人がその蝶が これまで誰も知らなかった新種であるっていうことを認定し 学名をつけて 登録するというか 新種であることを論文にして そのことによって図鑑に載るわけです ということは何を意味してるかって言うと この図鑑に載っている全ての蝶 あるいは人間が名付けた全ての生き物について 必ず最初にそれを発見した人がいてそれに命名した人がいて 第1号となっている標本がある っていうことなんです その第1号となっている名前をつけた ことを示す標本は「完模式標本」って言われてるんです 実は全てのものに完模式標本があって それが世界のどこかに保存されている メートル原器みたいにして保存 されているがゆえに そこに名前がつけられる それがこの世に存在してるっていう ことをがわかるっていう風に その地図があり 図鑑という地図があり そこに地名が載っている 1つ1つの蝶々が載っている そしてそこに名前がついている っていうことはそれだけじゃなくてこの地図がその名前と その名前のもとになった 現物の蝶の標本と1本の糸で結ばれていて その先に必ず完模式標本というものがある っていうことですね こういう風に世界が成り立ってるんだ この私たちが世界の あらゆるものに名前をつけるっていうことは その名前の元になってる 存在の現物そのものがちゃんと保管されているから そこに名付けられるんだなっていう風に なんかパーっと頭の中にも すごい地図と現実世界が対応してるっていうことに非常に感動しました これはずっと後になってからなんですけれども 私はこの蝶の本当の完模式標本っていうのが どこにあるか調べ出しました 大英博物館自然科学分室の標本庫っていうのにあるって言われてるんです 日本の蝶の専門家に聞いたら いやそれは絶対そんなものはもう失われてるか 見せてもらうことなんかできませんよって その人は高笑いしてたんですけど オタクは絶対諦めないんです そんなこと言われても 自分で見るまでは 大英博物館に出かけていって 昆虫担当のキュレーターに お話をつけて標本庫に入れてもらって その標本をちょっと調べさせてくれないか

っていう風に言ったんですね そしたらその人は親切にも許可してくれて 大英博物館の標本庫に入りました 標本庫は図書館の書庫に似ています でも本は1冊もなくて 本棚みたいな棚がずらーっと並んでいる 体育館みたいなところに いけどもいけども棚で 両開きのキャビネットで覆われています キャビネットを開くと そこに薄いこう 衣装ダンスみたいな引き出しが上 から下までバーっと並んでて その引き出しを引くと そこに標本が木箱に入って並んでるんです どの列のどの標本箱にどんな標本がある っていうのがカタログ化されていて アレキサンドラトリバネアゲハの標本は この辺りにあるっていうことを 教えてもらってそのキュレーターと一緒に見に行ったんです これかなって引き出しを開けたら アレキサンドラトリバネアゲハがありました 驚くべきことにこれじゃないんですよ 完模式標本がちゃんとそこにあったんです 驚くべきことに完模式標本の後ろの翅には 散弾の跡がついている つまり最初の人が鳥と間違えて銃で打ち落としたっていうその第1号の標本がちゃんと今も 大英博物館に保存されているわけですね だから私はその地図を辿って 名前とそれに結ばれている線の上にある 蝶の原点みたいなところにまで 到達したんですね だからこうやって世界をある意味で 設計的に知るっていう風に 世界に線を引いてグリッドを作って グリッドの1つ1つに事物を当てはめて 名前を知り 名前に対応した現物がある っていう風に世界を理解していったわけです ところがそうじゃないよっていう声も 聞こえてきていたんですね その時はその声がそんなに重要なものだとは 思わなかったんですが そういう声がありました それはどんな声だったかというと 最近たまたまNHKがこの人のことを取り上げたい っていうことで作った番組「蝶の山脈」っていうドキュメントドラマで 本当は今日 皆さんにこの映像をちょっとだけ見てもらおうと思ったんですが こういうところでNHKの番組を放送すると著作権違反で どうしても放送したいんだったら お金を払いなさいって言われてしまって 今日お見せできないんですけれど

これがどんなものだったかと言いますと 日本に田淵行男さんっていう写真家がいたんですよ この人のことは 私は図書館に通い詰めてたので 知っていたんですが この人が田淵行男さんです もうだいぶ前に亡くなってしまいましたが なかなか美男子なんです 彼は山岳写真家で 山に通い詰めて山岳のかっこいい写真をいっぱい撮っていました 同時に 彼は山の高い所にしかいない 高山蝶っていう蝶々の生態写真を 一生懸命撮って 生体写真を撮るだけじゃなくて その蝶がどうしてそんな 寒いところにいるのか しかもその寒いところでどういう風に生息しているのか そういうことをつぶさに調べた人で もあったんですね 実は蝶の生態とか 幼虫とか何を食べてるかっていうのは 学者が調べているわけじゃなくて アマチュアが調べていて その結果分かってることがたくさんあります 実は自然科学のかなりの部分はアマチュアが支えてるんですよ 蝶々とか虫を最初に発見するのはアマチュアですし 化石を見つけてくるのもアマチュアです 日本で1番有名な化石の発見の物語は 鈴木少年っていう高校生が 福島県の阿武隈山渓の断層で フタバスズキリュウっていう すごい大きな海竜を見つけた 日本にもそれがいたってことを発見した物語で またちょっと(話が)横道にそれちゃいますけど 鈴木君は中学生ぐらいから 化石を掘るのが好きになって 彼はいわき市に住んでいたのかな 毎週日曜日 自転車を3時間ぐらい漕いで 化石の産出する断層のところに行って 貝とかサメの骨とかを探して 喜んでたんですね ある時その山の表面の断層に 見たこともない楕円系の丸いリング みたいなものがあることに 気がついたんです 彼が直感したのは これはひょっとしたら 首の骨の断面かもしれないと思ったんですね でもそれにしてはすごい大きい 直径5cmぐらいあるわけです そこが鈴木少年のすごい素晴らしいところだったんですけど その時にそれを掘り出すのをやめたんですよ

なぜかと言うと 化石はうっかり掘ると 失われてしまう ジュラシックパークみたいな映画を見ると 化石を掘る人はハケみたいなもので 砂をパラパラパラってよけたら ゾゾゾゾって恐竜の骨が出てくるみたいに 描かれてますけど あれは嘘なんですよ 実は化石っていうのは石に埋もれた 生物の遺骸の部分が 周りが石になっていく速度よりも遅く 他の鉱物に置き換わっていくプロセスなので 岩の中に入っている化石っていうのは 実はすごいもろい 周りよりも柔らかいんです だからうっかり掘ると その骨の部分が失われてしまって 台無しになってしまうっていうことを 鈴木少年はよく分かってたわけですね その場所を自分だけの秘密にして それ以上掘るのを止めて どうしたかっていうと 国立科学博物館に連絡したんですよ 国立科学博物館の人が ちゃんと鈴木少年の声を聞き届けて 現地調査をして すごい竜の骨がこの先に埋もれてるかもしれない っていうことで 道路かなにかができる工事の予定だったらしいんですけど それを中止させて その部分 縦横5mぐらいを慎重に切り出して そこにすごい海竜が眠ってるっていうことを掘り出した 今 国立科学博物館にバーンと ほぼ完全な竜の化石が 置いてありますけれども これもアマチュアの少年が発見したものですよね きっかけは あと天体 新しい彗星とか新星とかも ほとんどアマチュアが発見してます 自然科学における発見のかなりの部分は アマチュアが行ってるんですけれども 田淵さんはですね 高山蝶の生態を調べて 写真に収めたり 絵に描いていたんですが この絵がまた素晴らしいんです これは彼の本の1つなんですけど 高山蝶の絵が描いてあって 彼が自分で描いている絵なんです

もう1つあって これも彼が自分で描いている絵なんですけれども すごい細密に書いてるんですね でももう1つ私が気がついたのは 図鑑に載っている蝶の絵って 先ほどの アレキサンドラトリバネアゲハみたいに展翅してあって綺麗に開いて 置いてあるわけですよね でも田淵さんは昆虫のほとんどのスケッチを 裏側から書いているんです 不思議だなって思ってたんですけれども ある時私は気がついたんですよね 田淵さんは蝶々の裏側を描いているけれども 実は裏側って 呼んでいるのは人間が勝手に裏側だって呼んでるだけに過ぎないんです 蝶々の表側を展翅して 図鑑に開いて載せているのも人間が勝手にやってることなわけです 蝶々が高山で何かに止まっている時 にメッセージとして私たちに見せている 表情はこちら側なんです だから本当の表側はこっちなんです 自然からのメッセージとしての蝶の表側 表情は それを田淵さんはそのまま 描きとめようとしているわけですよね 何かを記述する時に それをできるだけあらわにするために 私たちは蝶を開いて フェイスをこっちに向けて 描こうとしていますけれども 蝶というのは その時点でもう乾いた 干からびた標本になっていて 蝶の生命というのはそこにないわけです そこにあるのは蝶のある種の命の抜け殻ですよね でもそうじゃなくて蝶を本当に描きとめようとしたら こっち側を見なきゃだめだよ ていう風に 田淵さんは教えてくれているんじゃないかなっていう風に私は思ったんです だからずっとマップラバー的なあり方で 世界を見てきました けれどもそうじゃない見方もあるのかもしれないなっていうのを 田淵さんは教えてくれました でもその時はそれほど私はそのことにコンシャスになることはできませんでした 今日はいくつか本を紹介していきますが 『よるのおきゃくさま』という本です 『ちいさなかがくのとも』っていう 福音館書店から出ている本で 加藤幸子さんていう 芥川賞作家なんですけれども 自然のことも好きでいらっしゃるようで いくつか楽しい物語を書いています 『よるのおきゃくさま』っていうのはどういう本かっていうと

可愛い絵が描いてあるんですが 少女がおばあちゃんのお家に遊びに行くんです 田舎のおばあちゃんのうちに お婆ちゃんはどうもお爺ちゃんの方は 先に死んでしまっているようで 1人で住んでるんですね 孫が来てくれたんで喜ぶんですが「おばあちゃん 1人で住んで寂しくないの?」って言ったら おばあちゃんは「寂しくなんか全然ないよ夜にはいっぱいお客さんが来るから」って言うんです お客さんって何かなって思ったんですが その時はおばあさんは それ以上のことは言わなかったんです お父さん この子のお父さんだから おばあさんの息子さんだと思うんですが おばあさんと息子さんはご飯を食べて 色々話してて 少女は遊んでるんですが 実はここにもうお客さんは来ているんですよね そのお客さんというのは ガラスにやってきた虫なんですよ 虫はガラスに止まると こっちから見ると虫のお腹側が見える つまりさっきの田淵行男が描いていたのと同じ 虫の本当の表情がこちら側から見える これオオミズアオってすごい優美な 画なんですがオオミズアオとカメムシっていう 小さな虫がやってくるのを この子は見て 夜の女王様が家来を連れてやってきた っていう風に書いているんです いっぱいお客様がやってきて 窓中にいろんな虫がやってきて 夏なのにクリスマスみたいっていう風に 終わってですね 夜にくるお客さまが何かっていうのが明らかになる っていうなんでもない物語なんです が 自然をどう見るかっていうことを 加藤さんは私たちに示してくれている 非常に優れた本じゃないかな というふうに思いました それからマップラバーっていうことで 今私は加古里子さんっていう もうだいぶおじいさんになったんですけれども 科学絵本をずっと書き続けている人と一緒に 本を作ろうと思っているんですけれど 彼の本にですね マップラバー的なあり方というのは非常によく現れていて『かわ』っていう絵本は ひょっとしたら皆さんご存知かもしれませんけれども 非常にロングセラーになってる本で おそらく多摩川をモデルにしてるんですけれども

川ができる最初の源流のところから その川がどういう風に大きくなっていって 最後 羽田飛行場の横に 海に開く河口のところまでが 書いてある本なんです この本が非常にマップラバー的に優れているのは この川の端はちゃんと次のページの 同じ位置に繋がってるんですよ ぴったりに だからこの『かわ』っていう本を開いて 1枚の絵物語にすると川の最初から最後まで全部寸分違わず見えるっていう ある種の地図を私たちに明らかにしてくれてるっていうことで マップラバー的には ある種の解釈とか強調とか 切り取りじゃなくて 全てを網羅的に公平に扱って 世界を記述していこう っていうことに共感を覚えるわけですね だから地図っていうものを提示している本が すごく私にとっては好ましいものでした 『海のおばけオーリー』っていう絵本で これも私は小学校ぐらいで読んだんですが これはあるアザラシの子供が ボストンの海岸で捕えられて お母さんと引き離されて連れて行かれて シカゴの水族館に飼われてしまう という話なんです アザラシの子供は急に親から引き離されたし 人口的な水槽の中で飼われるんで すごい元気がなくなって物も食べなくなっちゃうんですね そこで飼育係りがかわいそうだと思って ある日このままだと死んでしまうので シカゴはミシガン湖っていう湖のそばなんで その湖に離しちゃったんです 実はシカゴのミシガン湖はちゃんと 五大湖と繋がっていて 五大湖を辿っていくと セントローレンス川っていう川に 繋がっていてそれをずっと行くと ちゃんとボストンの海に戻れるようになっている っていう地図の全部の行程が この物語に入ってくるんです 私はこれを読んでアメリカのマップが もう頭の中にバーンって入っちゃったんです 地図のあり方 物語としても面白いんですけれども 地図的な面白さっていうことで 私の好きな本なんです これは皆さんも知ってると思うんですけど 『エルマーのぼうけん』っていう物語で エルマー少年が捕えられた竜を みかん島とどうぶつ島

っていう島に助けに行く話なんですけれども 最初に地図が出てるんですね 空想上の地図が出ていて その地図をたどりながら 目的の場所に行く だから基本的には地図を元に何かを求めてたどり着く っていうシーク・アンド・ファインドという物語の構造 そこには必ず地図があって 全体を俯瞰的に見ながら出発点とゴールが分かっている っていうことがある種の学びの上で とても快感であったわけです 皆さんもご存知の『十五少年漂流記』で 少年たちが船で遊んでたら 船が港から離れてある島に漂流してしまうので そこは無人島なんですが なんとかそこでその島の地図を自分たちで作りながらサバイブしていくっていう ジュール・ヴェルヌというまSF作家の 今から200年ぐらい前の物語です でも今読んでも全然古びていない ジュール・ヴェルヌさんは例えば 『地底旅行』っていう本も書いていて アイスランドのある火山のふもとにある穴から 地球の地下に入っていくことが出来ることに気がついて 地下に入っていって 地下世界を探検しながら いろんな冒険をして結局イタリアの辺で 地上に出てくるまでを書いてあるんですが これを読むとヨーロッパの地理が 頭に入っちゃうわけです ここからいろんな物語世界に入っていくんですが 私の大好きな物語に『ドリトル先生物語』っていうのがあって 皆さんもご存知と思いますけれども ドリトル先生っていうのは元々 人間のお医者さんだったんですけれども 人間を診ることの あれこれに疲れて動物のお医者さんになってしまう しかも自然を観察していると ちゃんと動物は固有の言葉を持っているっていうことに 気がついて動物とコミュニケーションする 動物語があ話せるようになってくわけです 最初はオウムみたいなもの それから犬とか豚とかアヒルとかと コミュニケーションできるようになって 世界中からドリトル先生のところに 患者さんがやってきてしまう この物語がすごく優れているのは ドリトル先生のところに スタビンズ君という少年が弟子入りしてきて スタビンズ君がドリトル先生の いろんな冒険や業績を書きとめているっていう 構造の物語になっているんです つまりこれって聖書の構造と同じなんですよ

聖書は弟子たちがキリストの足跡や言葉を 書きとめている書になっていますよね ドリトル先生はドリトル先生という人が これこれしましたっていうことをスタビンズ君の目を通して書いているんです そしてこれを訳してるのは井伏鱒二さん さんという人なんですが ここにまた 物語の非常にうまい構造があって スタビンズ君は11歳か12歳の少年なので 自分のことを「僕は◯◯します」って会話の中で 「僕」という一人称を書いてるんですが この物語が作られたのはずっと後になって スタビンズ君が大人になった時に どういうことがあったのかを思い出しながら 書いているんで 地の文は「私が○○したんです」 っていう風に異なる2つの時間を 「僕」という1人称がリアルタイムの 当時の少年の気持ちで 地の文は「私」っていう風構造にしてあるんですよね ずっと後になって村上春樹が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 で使ったのと同じ方法で 2つの世界を「僕」と「私」で 章ごとに書き分けてる これを英語に訳そうとした人が 英語は「僕」も「私」も「I」ですから非常に困った 結局どういう風にしたかって言うと リアルタイムの「僕」の方を現在形で訳して 記述的な「私」の部分の物語を過去形で訳す 「私」の部分を過去形で訳す 時制を変えることによって 英語では「I」でしかないものを 「僕」と「私」の物語に書き分けるっていう すごいことをやったわけなんですが 実はそんなことは『ドリトル先生物語』で 井伏鱒二がすでにやってることなわけですね 日本の本の豊かなところっていうのは 実はここにあると思うんですね つまり『ドリトル先生物語』は ヒュー・ロフティングという人が英語で訳したので 英語の原書っていうのは これなんですけれども これは1920年に出た 『ドリトル先生航海記』の初版本で すごいお宝なんです 一通りの文章しかないんですが 日本語では様々に訳しうることが できるわけですよね 私はドリトル先生の物語を愛するあまり ドリトル先生をリスペクトするあまり 井伏鱒二訳を現代語に 訳し直した本を作りました

これはちょっと大それた行為で 井伏鱒二訳っていうのは 本当にスタンダードなドリトル先生の物語で これを読んでみんなが ドリトル先生の物語を知り これだけ日本でドリトル先生を知ってる人が多いのは 全て岩波書店版の井伏鱒二訳のおかげなんですけれども そうは言ってもですね ちょっと古びてきてるんですね 井伏鱒二がこの本を訳したのは1960年代ですから ドリトル先生は「わしが〜しとるんじゃ」みたいな訳なんですよ でも物語を読むと ドリトル先生はそんなにおじいさんじゃないんです もうちょっと若々しいし 運動神経もいいんですよね ですから色々ですね 当時の限界として 仕方がないことなんです 訳もちょっと違うところがあるっていうか 船に積み込む食料なんかで よくわけがわかんないものがたくさん載っているんですよ これ一体何かなというような「塩漬け肉」とか「脂身のお菓子」とか 色々変なものが たくさん井伏鱒二訳にあるんです 「塩漬け肉」って粗塩で処理したコーンビーフですよね それから「脂身のお菓子」っていうのも クッキーみたいなものなので そういったことを少し現代語っぽく それからドリトル先生をもう少し若々しく そしてスタビンズ君の新鮮な思いを ちゃんと「僕」と「私」で書き分けて 初版本に忠実な訳を出しました 日本ではドリトル先生の物語っていうのは すごい愛されてますし ドリトル先生のいいところは非常にフェアなところなんですね スタビンズ君を呼ぶ時に スタビンズ君は「トミー」という名前なんですけど 「トミー」とか「坊や」とかいう風に子供扱いせず ちゃんと「スタビンズ君」って 名字で呼んでくれるわけです 子供は子供扱いしない斜めの関係の大人っていうのが とても大事なわけですね 親とか教師っていうのは常に上から抑圧するものですけれど もうちょっと斜めの関係として 自分を大人扱いしてくれるフェアな人っていうのを求めている そういう意味で理想の先生と出会った少年の物語がドリトル先生なんです そしてドリトル先生のフェアネスっていうのは こういうとこにも表れているんですよ ドリトル先生は豚をすごい可愛がって食料係にしているんですけれども 一緒に生活してるんですけれども ドリトル先生の好物は 食べるものの好物は ソーセージとかスペアリブなんです つまり私は動物が好きなので

お肉は食べませんみたいな ある種の偽善っぽい 動物愛護をしてるんじゃなくて 食べ物としての肉は当然食べていかないと生きていけない 生命を殺めないと自分が生きていけない っていうことを受け入れつつも 他の動物 全ての動物に対して リスペクトしてるっていう フェアネスがある そういったフェアネス(公平さ)のあり方を スタビンズ少年が知りながら成長していく っていう物語なんですね 地図を作りながら世界を冒険する物語に 発展していくのですが そういったことが少年時代に私が好きだったものがテレビになったり 翻訳をしたりっていう風に 基本的には私は自分が好きだったことを もう一度好きであり続けるために 新しい形で息吹を吹き込もうっていう風にして 本を読んできました 今日は時間がだいぶなくなってしまって マップヘイターの方にどういう風に転換していったかっていうのはまたのお楽しみにいたしまして 先ほどから時間係の人が 「そろそろあと何分です」とか 盛んに出してくるので 今日はこの辺で 一旦終わらせていただきまして 皆さんからのご質問の時間に 変えさせていただきます どうもありがとうございました [拍手] (スタッフ)質問がある方はいらっしゃいますか (参加者)大変楽しく 興味深く 拝聴致しました 福岡先生が 蝶の図鑑や本を 図書館に行かれて読んで 釘付けになってらっしゃるっていうのは分かったんですけども そういう風になる前の過程っていうところで 皆がそういう風になるとは思えないんですね 先生がやっぱりそういう風に 図書館に行った時にそういう風に行動できたり 突き進んで調べていこうと思われるプロセスを 伺いたいと思うんですけれど (福岡)多分ですね 私が友だちがいない 孤独な少年だったからですよね 虫が友達で 本が友達 リア充の逆ですよ

つまり現実世界で友だちと遊べないから 図鑑の世界の中に入っていって この世界のあり方を知りたい ですから私は自分で虫を取りにいくのと同時に 日本にいる虫の本は 『世界の蝶』にいくまでに『日本の蝶』『日本の甲虫』 っていう 誰にでも買える本 図鑑があったんですが それはもう隅から隅まで 何回も何回も読んで日本にいる虫だったら ほとんど全てそらんじれる みたいなぐらいになっていました ですから『世界の蝶』と出会った時に 新たな小宇宙がそこにあるっていうのに気がついたわけで 自然にそこに入っていった ある種の孤独さというものが 人を本に向かわせるっていうことは あるんじゃないかなと 思いますけれども 私のオタク的な性質っていうのは 持って生まれたものなのかもしれません (参加者)ありがとうございました アートの方でも創造的な子供を作るには 孤独の時間が必要だっていうことは 今言われてまして 今すごく心の中でなるほどって思いました ありがとうございました (参加者)福岡先生が図書館に通われていた時に たくさん司書さんとかとお会いになったかと思うんですけども スタビンズ君のドリトル先生のような 福岡先生にとって司書さんとの 素敵な出会いとかエピソードとかあって 図書館に行ったとかあったんでしょうか (福岡)それはね ほとんどありませんでした なにか勧められて読む本とか 先生が推薦する本とかいうのは 大体私にとってはつまらない本なんですね 図鑑もドリトル先生の物語も全て 偶然出会った本です 自発的に知った本ですね ドリトル先生の本の岩波版はですね すごいデザインが優れてるんですよ 岩波版は これは廉価版なので分からないんですけど もう1つのハードカバー本は市松模様みたいになっていて そこにドリトル先生物語の 著者のヒュー・ロフティングっていう人は 挿絵も自分で描いてるんですね それがいちいち配されていて デザイン的にすごい優れているんです そういうのを見て「ああ この本面白そうだな」っていう風に発見する

やっぱり自分が自分自身で発見したものじゃないと 本当に好きになれない 本当にその世界に入っていかないんじゃないかなって 私は思います あんまり勧められた本で 面白いと思った本は 特に初期の頃にはあまりありませんでしたね あと図書館の人っていうのは あんまり構ってくれない方がいいんですよ こっちが何か求めた時だけ教えてくれる あるいは貸出しの時だけ ハンコを押してくれるぐらいで あんまり構われない方が オタク少年としては嬉しいです お店に入ってすぐ店員が寄ってきたら嫌じゃないですか そういう感じです (参加者)ちょっとだけ先生のことを調べてきて 今回の話に合わせて聞きたいんですけれども (福岡)何を調べてきたんですか 怖いな (参加者)課題図書があるんじゃないかなと思って当たりをつけたら やはり『生物と無生物のあいだ』があって 福岡先生が 隈先生との対談の時にはここぞという一文を探してきてほしい という課題が前回あったと思うので 僕なりに自分でこれかなと思ったものは ちょっと見つけてみたんですよ (福岡)素晴らしい! それがエピローグの276ページ (福岡)スーパー読者が今日は 来てくれてたんですね (参加者)一応 学校ということだったので (福岡)今日そこまでいかずに すいませんでした ぜひ発表してください (参加者)福岡先生の練馬の話ではなくて 松戸に引っ越したという話がエピローグで書かれていて 松戸って場所は それこそ永井荷風や平井呈一みたいな文豪が 浅草とか 都会に近づく境界の場所という意味で 多分「エッジ」っていう言葉を使ったと思うんですよ 界面という場所だと 松戸のちょうど福岡先生の親子さんが 公務員の宿舎に当選したという エピソードから引っ越しました その場所は実はかつて陸軍の工兵学校があった跡地で もっと前だったら実は競馬場があった らしいんですけども そこが千葉大になっていると そこで何かいかがわしい何かを見つけ 焼夷弾じゃないですけど

なんかそういう化学薬品みたいなのを見つけてしまうとか 防空壕にあったとか そういう強烈な経験をした ということが書いてあって 〈界面(エッジ)とは 2つの異なるものが出会い、相互作用(エッジ・エフェクト)を起こす場所である〉 という一文が 僕は惹かれて過去の面と現在っていうところの2つの異なるものが 出会ってる場とともに空間的には都会というところと郊外というところがなっている ちょうど江戸川沿いの場所っていう ところが僕は気になったんですけども これをマップラバー・マップヘイターっていう リアルな実際の体験 という風なところで僕は読み取ったんですけども 松戸体験というか TV「ようこそ先輩」でも話したことかもしれないですけども そこを聞ければなと 練馬体験に加えて松戸体験を 聞かせていただければと思います (福岡)素晴らしいですね 『生物と無生物のあいだ』の書評というか評論になっちゃってるんじゃないかと思います なにかそういう書き物系の人ですか? (参加者)本屋の者です (福岡)そうですか 本当に素敵に読んでいただいて 素晴らしいと思います 私は品川で生まれて練馬で育って 小学校入ってちょっと経った後 今お話があったように 松戸っていうところに父親がたまたま宿舎に入ったので行ったんですよね やっぱり少年の時に どこに育ってどんなものを見たかっていうのは ある種の刷り込み体験みたいなことで 少年だけじゃなくて少女にとっても 非常に重要な影響を与えるんじゃないかなと思います それは良い意味でも悪い意味でも 自分の原風景というか原体験みたいなものとして でも別にこれは都会に住んだから 都会っ子になって田舎に住んだから田舎っぽくなるっていう意味ではなくて そのプロセスの中で 自分が何を気づき 何を発見するか っていうそのきっかけを与えてくれたものとしてあると思うんですね 当時 昭和40年代の松戸っていうのは本当に 東京のサブアーバンエリアがどんどん郊外に進展していく ある種の最前線で 江戸川を挟んで向こうは 千葉県松戸市だし こっち側は東京都の葛飾区っていう 界面にあったわけです でもそれは明確な線じゃなくて 常に前進している

気象でいう前線みたいなものでした ですから中途半端に都会で 中途半端に田舎だったんですね あの常磐線というものが走っていて 常磐線は東北地方への入り口ですよね だから松戸駅の踏切りで電車を見てると 福島県側からやってきた電車には雪が積もってたりするわけです 自分が知らない世界と今いる場所 それと東京という都会を繋いでいる 本当にある種の地図上の交差点であるのと同時に知らない世界と私を繋ぐ 交差点であったわけですね 空間的な意味で界面であったわけです もう1つ奇しくもご指摘にあったように 自分が生きてる時代とそれの前に 自分が生きていなかった時代を繋ぐ 界面でもあったわけですね どんな時代に生きてもその人が生きた同時代と その人が生きる前の前時代それから未来 っていうものとのある種の回路というか通路がどっかにあって そこに興味を持つかどうかっていうことが その後の人生や読書体験にも関わってくると思います けれども当時 私が住んだ場所は いろんな昭和の異物がたくさんあったんですよ 陸軍の工兵学校跡だったらしくて 昭和40何年ですから戦後まだ20数年しか経ってなくて いろんな残骸がいっぱい残ってました 昔の学校を崩したようなものとか 地下に降りていくような防空壕の跡とか そんなものは本当は危険だから ちゃんと封じたり柵をしたりしなきゃいけないはずなんですが たぶんそこまで行政も何も手つかずだったので いろんなものが残ってたんです 薬品庫みたいなものがあって (何も入ってないんですけど)毒物の瓶が置いてあったり 防空壕があったり これ隈さんもどっかに書いてたんですけども 隈さんも神奈川県よりの方で やっぱり山の表面に防空壕があって その前に貯水池みたいなのがあって そこでザリガニを釣って遊んでた っていうのと全く同じような体験を私は松戸でしていて 陸軍工兵学校跡にプールでもないんですけど すごい広大な貯水地みたいなものがあったんですよね いつも水がいっぱいあの張ってあって 周りは草で囲まれてるので そこに貯水池があるっていうのは外から分からないようになっていて 草をかき分けていくと バーンっと広い貯水池が広がっていて 満々と水が満たされているんです その水はちゃん流れがあって 入ってくる水と出ていく水があって 生きてるんですね水は ある時私は友達とどれぐらい深いか

重りをつけた糸をスルスルスルって送って 底の深さを調べようとしたんです 囲いも何にもないし 危険ですとかいう表示もないので 落ちた時どれぐらい深いか調べておこうと思って ずっと糸を繰り出していったら 準備していたタコ糸が全部なくなっても まだ底につかないんです これは恐ろしいと思ったことがあったんですが でもたぶん3mぐらいだと思うんです それは戦前は何に使われてたのか分からない 本当に貯水池として使われていたのか 訓練のためのプールみたいなものとして使われていたのか分からないんですが 貯水池があって そこにまた様々な生物が生息してるんですよ そういった今と昔を繋ぐものがまだそこに残っていて そこから本当に時間旅行ができそうな入り口でもあったわけですね そういう意味で 私が過ごした昭和40年代の東京と千葉県の間のある場所っていうのは ある種のトポスというか場所として いろんなことを私に気づかせてくれた そういう地点であったと思います 丁寧に読んでいただいてありがとうございます (スタッフ)それではそろそろお時間となりましたので質問はこちらで締め切らせていただきます (福岡)今日は私はまだ時間がありますので しばらくここにおります 何かお話されたい方がいればぜひ 個人的に会話させてください ありがとうございました [拍手]

2015年12月12日に「福岡伸一の知恵の学校」で開催した、福岡伸一による講義、第1回 動的平衡ライブのアーカイブ映像です。

※情報は全て開催当時のものです。

(目次)────────────────────────────

00:00  「福岡伸一の知恵の学校」とは
03:28  建築と生命ー隈研吾さんと対談を経てー
06:31  ネットになくて本にあるもの
08:46  難しいことを分かりやすく伝えるためにー生命論のキーワード「動的平衡」ー
17:26  『生物と無生物のあいだ』と『芸術と科学のあいだ』
22:50  マップラバーvs.マップヘイター
28:45  福岡少年と本の出会いー『原色図鑑 世界の蝶』ー
48:14  高山蝶の観察に生涯を捧げた写真家、田淵行男
58:14  おすすめ本の紹介『よるのおきゃくさま』
1:02:13 おすすめ本の紹介①『かわ』
1:04:27 おすすめ本の紹介②『海のおばけオーリー』
1:06:13 おすすめ本の紹介③『エルマーのぼうけん』
1:07:09 おすすめ本の紹介④『十五少年漂流記』
1:07:46 おすすめ本の紹介⑤『地底旅行』
1:08:28 おすすめ本の紹介⑥『ドリトル先生物語シリーズ』
1:19:49 質問コーナー①「少年の頃に図書館に通い、図鑑などで調べたり、探求するようになったのはどうしてか」
1:22:42 質問コーナー②「福岡先生にとってドリトル先生のような、司書さんとの出会いはあったか」
1:25:38 質問コーナー③「『生物と無生物のあいだ』に書いてあった、幼少期に過ごした千葉県・松戸での体験について教えてほしい」

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◎課題図書
『生物と無生物のあいだ』/福岡伸一/講談社現代新書

◎参考図書
『原色図鑑 世界の蝶』/中原和郎、黒沢良彦/北陸館
『せいめいのれきし』/バージニア・リー・バートン/岩波書店
『よるのおきゃくさま』/加藤幸子 文 、堀川理万子 絵/福音館書店
『かわ』/加古里子/福音館書店
『海のおばけオーリー』/マリー・ホール・エッツ/岩波書店
『エルマーのぼうけん』/ルース・S・ガネット/福音館書店
『十五少年漂流記』/ジュール・ベルヌ/新潮文庫ほか
『地底旅行』/ジュール・ベルヌ/岩波文庫ほか
『ドリトル先生航海記』/ヒュー・ロフティング/岩波少年文庫

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「世界を解くキーワード、それは動的平衡」

【福岡伸一の知恵の学校】は、読書を通して新しい知識や価値観と出会う楽しさを実感できる、「本」の価値を再発見していく取り組みです。

校長は生物学者の福岡伸一。福岡校長に事前に選んでもらった課題図書を講義の中心として、これまでの読書歴から辿ってきた時間軸を見つめなおします。

「動的平衡ライブ」では、地図を通して世界を見るマップラバーと、地図がなくとも世界を見ることのできるマップヘイターという二つの軸をもとに、福岡校長が本を入り口に生命を「科学」ではなく「物語」として新たに解釈し、科学の専門知識がなくとも、小説を読み進めるように理解が深まる内容となっています。

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9 Comments

  1. 今回も素晴らしい講義でした。ありがとうございます。私も孤独だったので、家で本を読むか、野原や海辺で自然と戯れる方が好きでした。福岡先生のお話を聞きながら、自分の過去を追体験しておりました。あの頃はわかりませんでしたが、年をとってから幼年・少年時代が自分にとってどういう意味を持つのか解釈できるようになりました。福岡先生がご自分の体験、大切な本との出会いについて明快に言語化なさっていくのを拝聴していると、とても幸せな気持ちになります。それにしてもNHK、我々の受信料でつくった番組をこのような講義で使うことにすら著作権料を要求するとは….

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