山室静と柿生 「ムーミン」翻訳家と詩人たちが集った川崎市・片平の「修広寺」

柿生に住んだ文学者、山室静は1906年(明治39年)、鳥取市生まれ。7歳から長野県佐久市で過ごしました。

プロレタリア文学に傾倒したのち、埴谷雄高、小田切秀雄らと「近代文学」を、堀辰雄らと文芸雑誌を創刊するなど、評論と創作の両方で活躍しました。

とくに北欧文学についての評論と翻訳で知られ、1975年に「アンデルセンの生涯」で毎日出版文化賞を受賞。トーベ・ヤンソンの「ムーミン」の翻訳も手掛けました。

また、エッセイスト、詩人としても知られました。

山室は戦後、ひょんなきっかけから、長野から神奈川県の柿生に引っ越してきました。

そのいきさつを、山室はこう書いています。

「今度の戦争末期、郷里(長野県)に疎開していた私は、一日ふと小海線の汽車の中で東大物理学科の学生さんと知合った。それが柿生の修広寺の息子さんで、やがて終戦を迎えて小諸の町で私が高原学舎という青年相手の学校を始めると、それを手伝いたいと申込んできた。

 やがて学校は経営に行きつまって解散、僕が上京して生活をやり直すことになった時、金がなくてどうしようもないままに修広寺の裏山のやぶを切開いて、そこに信州から安く買って来た農家を移させてもらったのが、いま住んでいる柿生の家だ。」

「登戸・柿生界隈」『老いの気晴らし』

当時の柿生は、長野県に長く住んだ山室にとっても、とくに自然が豊かな場所でした。

山室は、移り住んだ直後に、こう書いています。

「その丘陵の南面の中腹に家を移してから、早いもので、もう三年あまりになる。小田急電鉄柿生駅から、約十分。松と雑木の林を背にし、小さな竹林を前にした一軒家だ。(中略)

 家の敷地は、もと葛や藤竹が茂っていた斜面をわずかに切り拓いたものだけに、庭はもちろん、縁側や壁をつらぬいてまで、そこここに藤竹などが顔をのぞけ、蛇や百足をはじめ、いろいろな虫どもの訪問がたえない。」

『植物的生活から』

山室が柿生に移る2年前に、文芸批評家の河上徹太郎が、いまの多摩線「栗平」駅近辺に住みはじめていました。

山室が引っ越してからは、修広寺の周辺に、知り合いの文学者や芸術家が移ってきました。河上徹太郎邸とは別の、もう一つの柿生の文学社交場となりました。

1960年代に、山室はこう書いています。

「私の柿生生活ももう十八年になる。河上徹太郎さんが私が来る少し前に疎開先の鶴川から越してきておられた。私が来てからぼつぼつ友人が移ってきた。その一番早かった平野謙君は柿生があまり不便なのに驚いて、一年ばかりでまた引越し去ったが、藤原定(さだ)、山崎斌(あきら)、長尾宏也さんたちが代って越してきて、どうやら家の近くに小交際圏ができた。

 いままで四十回くらい引越しをしてそれも大半は田舎で暮らしたのだが、柿生の今の家ほど自然に取囲まれたところはない。」

「登戸・柿生界隈」『老いの気晴らし』

平野謙は文芸評論家、藤原定は詩人、山崎斌は草木染めの染色家、長尾宏也は登山家兼エッセイストです。

しかし、1970年代が近づくと、ここにも開発の波が押し寄せました。1960年代の終わりに、山室はこう書いています。

「多摩丘陵のはずれの丘の一角に引っ越してきてからほぼ二十年。私の住む柿生地域は、いままで開発から取り残された形で自然の面影を豊に残してきた。それがこのごろ急に開発づいて、丘を切り開き、林を切り倒しての団地づくりが、四方から猛烈な勢いで進んできた。この勢いで開発という名の自然破壊が進んだら、どういうことになるのか。カールソン女史が「無言の書」と警告したような事態が、もはや目の前に来ているのだ。」

『植物的生活から』

山室は晩年の1980年代に入って、柿生や片平川の今と昔を、こう語っています。

「周囲は山林と田畑で埋まり、商品はたった二軒あっただけで、随分不便であった。そんなわけで私より二、三年おくれて移ってきた友人平野謙などは、一年足らずでまたさっさと成城の方へ引越してしまった。「あんまり買物が不便だし淋しすぎると女房がうるさく言うもんで」と。だが私はそんな鄙びたところがむしろ気に入っていた。その後、草木染の山崎斌、詩人の藤原定さんなども近くに住みついた。もっとも山崎さんはとうに世を去ったが。(中略)

 川にはかなり魚がいた。僕も長男と行ってハヤを二、三匹釣ったことがあり、長男は友達とかいぼりをして、ウナギの大きいのを捕らえたこともある。ザリガニやシジミもかなりいて、初夏には蛍もしきりに発生した。

 いまでは駅の近くはかなりの商店街になり、スーパーや銀行や病院もでき、喫茶店や飲み屋は軒を並べるほどになった。それだけに田畑や山林はだいぶ削られた。(中略)

 ことに片平川は改修で、両岸の木を切りはらったばかりか、岸も川底の土までパワーシャベルでえぐり取って、何億か何十億かかけて両岸も川岸もコンクリで固めて柵をめぐらしてからは、魚も蛍も見られなくなっただけでなく、人間と川の交わりも断ち切られた。」

「柿生に住んで三十五年」『老いの気晴らし』

1975年から片平に住んだ歌人の馬場あき子は、こううたっています。

いく春の戦後を染めし草木寺、片平川も衰えにける

馬場あき子『ふぶき浜』(1981)

「八十歳を迎えて」という詩で、山室は自分の人生を、こう振り返りました。

「つらつら生涯をふり返ってみるに、いかにも意気あがらぬ面白くない男だったと思う

山があっても登らなかった、苦労して頂上を極めるのはしんどかったし、

山の彼方にも誘われなかった

海があっても泳がなかった

スケートもスキーもやらず、自転車にさえ乗らなかった

もちろん好きな女の子が現れても、

むりやりに押し倒したこともない

なぜその娘にのぼせるのか自分でも納得がいかなかったし

悶々と悶えるのも好まなかったからだ(中略)

嵐があったらそれの吹きすぎるのを待ち、いつもしょんぼりと本を読んだり

裏庭で花を眺めたり草むしりをしてやり過した

青春の客気や喜びの何物も知らず

ひっそりと人生の裏通りを足音を忍んで辿っているうちに、いつか八十を迎えたまでだ(後略)」

『老いの気晴らし』(1986)

1992年には神奈川文化賞を受賞。

山室静は、2000年(平成12年)、老衰のため93歳で亡くなりました。

参照:杉山康彦『川崎の文学を歩く』(多摩川新聞社)

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