【事件現場を歩く】地元愛に溢れたもう一人の政治家 田中【渡良瀬遊水地】治水と鉱毒どちらの優先順位が高かった。

2024年7月25日   撮影
撮影カメラ GOPRO HERO 9 JVC GZ-E 235-R   DJI mini 3 pro

子供の頃から興味を抱いていた田中正造さんに関しての動画になります。

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(順不同)
等。

を勝手にご紹介しています。

3 Comments

  1. お疲れ様です。疑問点が多々あるようにお見受けしましたので、少々解説を加えます。

    田中正造は渡良瀬遊水地計画に対して、「鉱毒問題が治水問題にすり替えられた」と批判的でした。

    もともと、洪水は来るのですが、肥料を多く含むため、「洪水の翌年は豊作になる」と住民からは歓迎されていました。水塚を作るなどして工夫していたので、洪水が起こる地域であっても、人々は住み続けたかったのです。

    しかし、その洪水に足尾銅山からの鉱毒が混ざってきました。人々は被害に悩みながらも(谷中村でもっとも多かったのは鉱毒を含む砂で目が見えなくなるという被害だったそうです)、先祖伝来の土地に居続けたかったのです。

    ですから、「洪水が起こるために移住した」のではありません。

    政府が、鉱毒被害を隠蔽して、鉱毒を沈殿させるために、住民を追い出したのです。そのために家屋を強制破壊されました(実行したのは栃木県)。それで出て行った人もいるし、仮小屋を建てて残留して、抵抗した人もいます。田中正造は、そうした人に寄り添い、支援をし続けました。

    自分の意思で移住したとされる住民も、実は少額の金銭や、北海道に肥沃な土地があるなどという甘言によって(実際は雪深い原野)、移住するように追いやられたのです。最も多くの人が移住した先は、隣の古河市ですが、移住後も遊水地内に通って生計を立てようと頑張った人がいたようです。現在でもヨシを刈ってよしずなどを生産しています。ちなみに、夕方になるとこの旧谷中村はゲートが閉まります。河川法により、現在でも人が住むことは許されていないのです。

    追記
    より詳しい解説としては、こちらをご覧ください。
    http://www8.plala.or.jp/kawakiyo/kiyo40_35.html

    最初の地図を見ると分かると思いますが、谷中村の大部分は堤防に囲まれていました(堤内と言います)。ですから、洪水が起こるとしても、堤防である程度緩和して、それでも入ってきた水に対しては水塚で自衛するという形をとりました。これをそのまま遊水地化して、鉱毒を沈殿させればいいじゃないかというのが政府の発想です。実際には堤防の一部を壊して、渡良瀬川の流路を変えて遊水地の中を通すというやり方です。

  2. 遊水地のご紹介、ご苦労様です。古河市に移住した、当方、ひ孫になります。田中正造の秘書でしたが、付いていけなくなり、離反したと聞いております。台風9号でしたか、この遊水地により、東京が洪水にならなかったことを是非、知ってほしい、思います。

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