【能登半島地震その後|記者が見た被災地】迫る津波 住民がどう避難したか【新潟】スーパーJにいがた3月5日OA

能登半島地震では県内を含む広い範囲に、地震の発生からまもなく津波が襲来し、大きな被害が出ました。いち早く避難して命を守った住民はそのとき、どう行動したのでしょうか。

震度6強を観測した石川県珠洲市に2月13日、UX記者が取材しました。
地震発生直後の石川県珠洲市。高齢者施設「長寿園」の送迎車に設置されていたドライブレコーダーの映像です。強い揺れで建物が倒壊する様子や津波が押し寄せる様子が克明に映っています。

珠洲市では地震で109人が死亡。多くは倒壊した建物の下敷きになりました。市内の住宅全体の半数を占める約3000棟が全壊したほか、津波の被害も甚大なものでした。

■池川記者
「春日野地区には津波の痕跡が至る所に残されています。あちらには川の中に津波で流された車が残されています。」

海岸沿いの春日野地区では早いところで揺れから数分で津波が到達し、高さは最大3mに達したとみられています。自宅が津波の被害を受けた、江畑秀國さんです。

■江畑秀國さん
「(Q.これはもう床上まで水が来た?)そうです。」

津波によって運ばれた土砂は、そのままの状態に。家電は壊れ、住める状態ではなくなったことから取り壊すことを決めました。

■江畑秀國さん
「うちの親父が新築したので、先祖に申し訳ないが仕方ないでしょう。先祖も許してくれると思う。」

津波の高さがわかる跡が残っていました。
■江畑秀國さん
「色変わってるところね、これでしょう」

江畑さんは地震の際、自宅のトイレにいましたが、すぐに妻と息子と3人で避難を始めました。

■江畑秀國さん
「ここから先に老人ホームがあって避難した。(Q.ここからどれくらいの距離でしょうか?)500mくらい。皆さんが老人ホームに行ったのでこれは一緒に行った方がいい思った。」

この映像は、江畑さんの自宅のすぐ近くで撮影されたもの。地震から約3分後、大津波警報のサイレンが鳴り響く中住民が避難を始めています。自転車の人もこの様子を見て逆方向へ。高齢者をおぶって避難する人も見られます。江畑さんによると、お互いに声を掛け合い、車に乗り合わせて避難していたということです。

区長の前出勝晴さんに避難場所を案内してもらいました。
■下中ノ釜地区 前出勝晴区長
「地震のあと地区の方が避難した場所です」

この長寿園は高台にあるため、地区の一時避難場所になっています。
■下中ノ釜地区 前出勝晴区長
「年に1回避難訓練をやっていた。市の放送に従ってそこに逃げるという形。みなさん誘い合って山まで歩いてやっていた。」

下中ノ釜地区では毎年、避難訓練を実施。押し寄せる可能性がある津波の高さが8m以上であることや地震があったらすぐに長寿園に避難すること、近所同士で協力し合って逃げることなどを習慣づけし防災への意識を高めてきました。また、過去の地震の経験も大きな教訓になったといいます。

■江畑秀國さん
「十何年前にも(津波が)来た。この川に小さく津波が上がってきた。」
■前出勝晴さん
「去年5月に地震があったので、皆さんが危ないという危機意識は持っていた。」

2007年3月に能登半島を襲った地震では、最大震度6強を観測。死者1人、けが人356人。住宅の全半壊は約2400棟に上り珠洲市では20cmの津波が観測されました。また去年5月には、珠洲市で震度6強を観測する地震が起きています。こうした経験が、「すぐに避難が必要」という意識を住民にもたらしていました。

しかし今回の地震ではこの地区の1人の住民が、津波の犠牲となっています。
■前出勝晴さん
「おばあさんは1階にいて2階に長男がいた。2階に上がろうとしたら流された。年寄りだから皆と同じようなスピードで歩ける人ではなかった。」

67世帯が暮らす下中ノ釜地区。前出さんは「住民全員に声をかけて避難させるのは簡単ではない」と話します。今回の津波を教訓に高齢者へ声かけをできる限りするよう住民に伝えました。

能登半島地震は、迅速な避難の重要性を、あらためて印象付けました。しかし同時に、高齢化と人口減少が進む地域での避難の課題も浮き彫りにしています。

2024年3月5日放送時点の情報です。

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