昭和館オーラルヒストリー「平和を願った父 加納莞蕾と家族の暮らし~加納佳世子さんの体験談~」

[音楽] 松江にえ海軍地方人事部というのがあった そうででそこに来ないかということで言っ たようですね戦争が終わってえ海軍に行か れた人がどこでどうなさったかっていう ことをやっぱり記録をするようなことをし ていたようです上にえ海軍少々が帰ってこ られたようだからその話を聞いてくるよう にというお話があったようで古瀬武末さん というえ元海軍少々の方は開校1番に加納 さん戦争はお大きな誤りだったということ を言われたそれでびっっくりしたそうです 特攻体の司令官でもあったという風には 聞いておりますけど古瀬さんはそのことを 若い人のお死に追いやっていった私の罪は 万子に値するという風におっしゃったそう ですフルセさんとお話をする中で あ戦争のことを あの間違いであったといいそして日本語 正しねばならないという風におっしゃっ てるこの人はまあすごい人だなとその時に 心に残ったようでしたそれから え2月半ぐらい経った時に古瀬さんはあの 東京経由してフィリピンマニラの方に行か れることになるんですねその時に古瀬さん はかのさん私はもう日本に帰ってこないと 思うけれど私を助けるなどは考えてくさい ますなとおっしゃったということですはい 荒島駅であのお送りしてえそれから3年 経った昭和24年のあの3月ですけれど マニラの軍事法廷で古瀬さんにはえ銃殺系 の宣告があったと連絡がこの不に入ったん ですねその時 え裁判では古瀬さんは あの我に積みありと処刑せよとしちゃった そうですで私にもしせが与えられるならば あのフィリピンのために残された性を 尽くすという風におっしゃったとそれをま 神来は知るわけですねその時にあ私が1回 目あった時のお話の通りだそして2回目の 荒島駅でお別れした時あの時ともちっとも 変わらないとそして3回目そのマニの軍事 法廷での証言このことをえ聞く限りこの人 こそ あの戦争のことを真の戦争のことを分かり 得てる人で2度と戦争を起こすべきでない とそういうことを考えてらっしゃると思う んですねそうするとあこういう人 日本は失ってはならない日本が 生まれ変わるためにはこの人こそ生きて もらわなければならないということを強く 思って東京になんか手がかりはないかと出 ていくことになりますそれが私の4歳 ぐらいの時でしたはい [音楽] [拍手] 私を連れていくっていうところはなんか あのこれから自分の思うことがどういう 展開になるかもわからないし迷いもあるか もしれないしうまくいくかどうか全く わからないしそういう時にま幼子がいたら 気持ちの慰めにもなるかもしれないとまあ 私は何も分からずあの遠く行くのが嬉しく てるんるんで記者に乗った覚えがあります 当時はここから東京までは夜行に乗って 30時間ぐらいかかっ た東京にさてついてえその古瀬さんを 助けるためにはどうしたらいいだろうかと いうことを考えあねてそんな中でえ奥様が この村の出身でそしてご本人は奥の方のご 出身の方で銀座に大きなかぐ屋さんをし てらっしゃる方のところに行くことになり ますこれがえ 藤谷家具というはい あの大きなお店だったようですねそこへ 訪ねていってそのそうするとその藤原さん が大変あの理解を示してくださってあそれ ならどうぞあのうちの事務所で1つ机を 貸してあげるからここで仕事をしたらどう かという風におっしゃってくださってそこ で大統領に手紙を書くその第1丸所の住所 はえ東京都中央 区西銀座一丁目1番地藤屋オフィスとあの いうことになっております肖像を書くのが 3週間かかったっていう風に後で話をし てるんですけど毎日言ってたんではないと 思いますが父親のの話によると私を連れて 行かないとあの子は今日は来ないのかどう したんかってそのことを関大はあこの人も あのフィリピンに自分の子供さんを置いて きて仕事にね日本に来てる人なのかなと 思ったって子供を思う親心は日本も外国も 変わるもんじゃないなと思ったって言って おりましたそれがあの銀座の今のわびです ねはいそこの5解であの神来は富士山の次 に高いところで俺は絵を描いているとそれ もフィリピンから日本に来られた1番偉い 人ですよね代表の方ですからその方の絵を 描いているっていう風なことを誇らしげに 言っておりました私が帰ったのは あの昭和24年がもう暮れる あの12月の終わりですねもう東京でも もうダメだとここまでかと思って仕事を 諦めるように東京から帰るその時に私も 連れて帰るんですはいその時のことはね私 も覚えておりますもう5歳になっており ました家族がみんな祖母やら母やみんなが 両手を広げて待ってくれて東京で元気だっ たかって言われて元気だったよでそれで歌 も歌えるよって言ったどんな歌か歌って こせやって言われて歌った歌があの カンカン娘の歌でした皆さんが褒めて くれそれがなんか非常に幸せ感に浸ってい たように思いますでもふっと見ると父親は その時沈んでましたその先が見えないよう ででもそのすぐ後に の代表部から手紙が来るんですね [音楽] それで25年になって今度はこの田舎から 発信していかなきゃならないという仕事に なっていくんですけれど家の仕事どころで はありませんもういつも座って所管を書き 続け えてタイプもありませんからそして英語 じゃないといけませんからえ中学の先生 村上先生に翻訳頼んでそれがも本にガリバ でやっておりました母親はえ松江の街中の 育ちでしてそれから千中え形状の方に渡っ てもちょっと学校に勤めたりしておりまし たから田んぼ屋畑の経験はございません でしたでもあのおばあちゃんと一緒に 田んぼしたり畑をしたりあの本当に朝から 晩まで働いてい たようです昼間はして田んぼとか畑行くん ですが夜はやっぱり夜で仕事がありますお ばあちゃんが名をなうでそれを今度はね 母親がドマのところに座って小を編んで いくそれはどうなるかというと炭を入れる 俵になりわですると米俵になる当時は 60kmぐらいのなんか大きなタあって それみんな編むんですけどそれを仕事で 夜鍋していましただからそこでもう うとうと寝てしまって気がついたら朝に なってたっていう風なことを親も言って おりましたけど私は姉が3人だったです けど あのみんなあの教員になりましたそれで 1人この増村で不小学校を勤めてる姉が これ2番目の姉ですけれど現金っていうの はその姉の給料 をあの少し当てにしてたことはあるんじゃ ないかと今に思うんですけどね姉は大変 だったと思いますおばあちゃんもお母さん も我慢してるなっていうのはね分かって おりましたけれどお前がせえないかんこと かっていうようなことをおばあちゃんは 言ってましたそれから母親はあなたがし なければならないか一生懸命なのは分かる けれど子供のことも考えてくださいと 私たちのことも考えてくださいと父親も いい返事ができませんからまあもうすぐ 待っとけというようなことを言っており ましたけれどなんか幼心にその話になると なんか すごくなんか悲しい思いがしてまし た私と一緒にいる時は本当に優しい父でし たでいつもこう膝の上にあの抱えてくくれ たりし てそれで耳に残っているのは義を見てセザ がゆうなきなりだぞと言ってましたでそう なのかはだからお父さんのしてていうこと は義という意味のあることなのかとそんな 風に思ってましたね兄はあの安木高校に あの入学しましたで1年が終わった時に 事業料も能だし え寄宿者のお金もなんか払ってなかったと いうようなことで真宮が難しいということ で自転車で家に帰ってきましたねそれでま 父親はあのやっぱり座ったきりでタバを 吸いながら次への単眼所の文章を考えて兄 があの両手をついてお父さん学校に行き たいが勉強がしたいって言そしたらあの 母親がお父さんこの子は金家の長男ん です高校ぐらいは出してやりましょうてそ しお願いしますって母親とその弘樹兄は あの本当にあの両手をついて泣きながら 頼んでました父親も泣いてたと思いますで で もちょっと返事ができなかったようですね はい結局はお金がなくてであのあはえ2年 生に進学をすることができなかったお友達 はみんなあの生き生きと高校生活をして いるのにと言いながら自分はあの今度は 母親と一緒 に畑や田んぼの仕事をしたりあ家に現金 収入がないからいろんなところにあの近所 の人と働きに行ったりそれからえアイス キャンディーだとか魚だとか冬場はせ behって言ってましたけど行商したりし て母を助けて頑張っておりましたね はいそのうち え父の妹栃木県の方におばさんがおりまし た私の実家の長男が え高校にも行けないこと でそんなことがあっていいかねという風に して私が引き取るからということで栃木県 の田高校にあの2年生からま他のお友達と は1年遅れになりますけれどそこの高校に 行くことになりました兄はね私にはこんな 風に言いましたよく見とれよって兄ちゃん はな絶対大きくなったら社長になるそれ から家族を守る男になるからなかこ見 とけよって言いました私はそうかお父さん のことを見てるから兄ちゃんはそう言うん だなってその頃兄ちゃんならできるよって 言ってたようにあの思いますが本当にその 意思であの人もまた人を頑張った人だと いう風に思ってい ます2年生の時に母親は子供育てることが できないから私もあの学校に務めたいとで もそれで母親が仕事に出たら家のことも できなくなってしまうしそれはまあ なかなか父親もふんと言いませんでした それでままたまりかねてですけれど母親は あの妹を連れてあの家を出て行って あの学校の教員にえなるんですねですから 私の小学校2年生の途中からもう母親は家 にはいなくなりました私とおばあちゃんと その姉と父とだったですけどその姉 も私が4年生終わる頃に転勤で安木の方に 変わりましたので家には私とおばあちゃん と父親と3人になりました家にはそれこそ 本当に元気のない暮らしでだから学校時代 は あの散発もなかなか行けなくて昔の子って はっきりものをやっていたんでしょうかね かゆちゃんの頭は山賊みたいねって言われ てなんかそれが自分では鏡も見ないしわか あそうなのかと思ってそれは褒められてる 言葉じゃないということは分かったんです けどでもだってお金がないから散発に行け ないもんって言ったと思いますでもそんな 中でやっぱり今思う と先生たちがとても優しかったです先生 たちが私にそっと鉛筆をくださったり消し をくださったり明日までにこれを書いてこ いって言ってなんかみたいなの新しい ノートに書いてくださってお前にはかかっ てそれで一生懸命考えてそれを持っていく とこれは私ノートをくださることだったん ですね先生たちには私の家族のこととか みんなあのよく分かってくださってたと いうことで [音楽] 私はちょうど3年生でしたま周りはみみお 喜びでした近所の人も来られるしま もちろんラジオのニュースとかも言ってる しえかの先生良かったですこれは大きな ことで良かったですわってよく頑張られ ましたみたいにそれから家族もまたよで もなんか神来はその時 に私も覚えておりますがうーんて言って ああこれがスタートだっ て言いまして私もと何のことかなとで周り のご近所の人も皆さん巨としてらっしゃい ますこね いやあこれからいかに日本が生まれ変わっ ていくのかキリノは試しをしているんだぞ と大きな課題を与えているんだ言ってみれ ばこれは大きな復讐である とそうすると我々これを あの立ち上がっていかなきゃならないと いう風に言っていましたねそこからまた 神大の本当に大きなスタートが切られる わけですね母親はもうすでにいませんでし たから母親が姉のところに手紙があの来て いたのがあの後で見つかりましたラジオで 大統領が斜面をしたということを あのニュースで流れていました私は あのたくさん日本に帰ってこられる人 たくさんの人本当に良かったなと思いまし たお父さんもよく頑張られたと思いますだ けど私たちの家族はどんなに辛かったか そんなことも考えたら涙が止まりません でした これがあのキリノの斜面のあった昭和28 年の7月はいまそのスタートだという時の 思いで書いたのがあのこのアさえの絵に なり ます平和を気づくっていうことは我々が 1人ずつが皆あの自分たちの村をいい村を 作るとというところからまず始めなければ いけないという風なあ関内の思いだった ようです今まで単眼書を書いていたのが 今度は不村民に継ぐというような見込みし と言いますかそういうのを書くようになっ て村民のみんなにあのまキノは何のために 許したかを皆さん知ってほしいと我々も この大きな課題が与えられたと思っていい 村を作ろうではないかもう民主主義のと いうことをなんか言い続けて昭和29年の 9月に上村長になりましたそして村議会で も あの増村平和5000元っていうのを掲げ てそこら辺ではね皆さん本当に平和を向け てこの増村が一致していたと思いますそう する とその先は5つ宣言の1番最後に掲げたの がえ世界自動検証子供たちを大事にする 世の中を作らなければいけないキリノは 自分の子供が犠牲になった何のために犠牲 になったかその子たちが浮かばれるために は次の子供たちが幸せになるためだろう これを教訓にしなければなていうような そういうことを掲げそしたら村の中では 一致したこのことをもっと広く広く伝え なければいけないということでま村長とし て市長村長会があったように思いますが あの長野県の方にあったらそこに行く東京 であればそこに行くま 結局出ていくことが多いんですね聞くとこ によると日本一給料の安い村長だった自治 体で給料決めてたようですけどそれを前 がり前がりしたような形で出かけていって はそれがもう自分はやらなければならない ことそしてキリノに答えることだと言って 一生懸命だったように思いますねはいで私 はって言いますと学校 に集金でお金を持っていくんですけお金が ありませんそれ で何日しても持ってこないま私に思いに なった先生があんたのお父さん村長だろ うってはいて言ったらほんならこれ役場に 持って集金袋ね役場にはいなんかちょっと 辛かったですけどそれを持っていてそし たらあの役場の方があ父親はもちろんその 時も言いませんでしたけどどし たってでうんて言ったそして私が集金袋を 持っているのに気がつかれてあちょっとみ あそれかって2人の方がなんか相談をされ ていましたで私は俯いてたと思いますがお 金を入れてくださってああのよきたなって 言ってこれを学校に持っ て行けておっしゃってありがとうって言っ てそれで学校にも集金袋持って行ったん ですけれどおそらく ご自分たちのお金だったじゃないかなと今 にして思うけどもうあ本当にいろんなこと を周りの方に感謝ですねはい中学2年のえ 夏休だでしたけれどえもう広島のくの方に あの姉がもう家庭を持っておりまして子供 が1人おりましたけど夏休みに帰ってきて からお父さんもうこんなにお金のないこと この子高校にも行けないよそんなことで いいですかっていうなことを父親に厳しく 言ってました父親返事もできないような うーて言ってましたけど私の義の兄になる 方ですけどとても優しい人でお父さん僕 たちが面倒を見るからって言ってくださっ てそれでどうもその相談をする時に私の中 学校の担任の先生もそれからその英語の 先生だったいつも翻訳してくれた村上先生 もなんか一緒に相談をして結局先生方も この子はもう少し勉強させた方がいいから かの先生と一緒におったんじゃちょっと 高校にもも意見結局あの兄もそうだったし それで広島に預けた方がいいんじゃないか ということでで結論が出ましたね 当時こちらの方からは準急地取りっていう のがあってそれに乗って広島に行くんです ね原島駅から乗った時にあの父親は送って くれましたで父は入場件を買ってホームで 私も別れるかと思っていましたそしたら 父親がね乗り込んであの列車にそしたら姉 がお父さんお父さん入場件だよてそしたら ああの車掌さん来たら払うけいいけんて 言ってそれで私たち一緒に座ってそれで駅 をいくつかいくつか過ぎるんですねそし たら あのだいぶ立ちお父さんいつ降りるのって 姉がまた聞きましたそしたらあのまあ島根 県まであの送ってやるからって言って島根 県キ戦行って中国産地の中にずっと入って いくんですけど出雲坂そそして三原か なもう島根県終わりですよって言ったけど 父親うんて言って動きません雪っていう駅 になった時にそこから広島県なんですね お父さんって言って姉が言いましたそし たらあの父親はそこで降りましたであの ホームに降りてでま私は窓から手を振って あの本当にあまあまずっと一緒におりまし たから分かるのが辛かったかなと思います がはいそんな別れでしたね [音楽] 私はやっぱり母もそうだったし姉たちも そうだったしそして確かに毎月給料があ るっていうので学校の先生っていいなと 思っておりましたねそれで夏休みの終わり ぐらいにあのこれを受けてみろって言われ た試験があの1ヶ月に8000円 いただける あの小学金制度の試験だったんです先生に 呼ばれてかのこの試験が受かってるから あんた大学に行ったらもうこれで学習が なんとかなるかもしれないって言われて その小学金であの大いに助けられてで今に 至るということになりますけれど ありがたい小学金でしたそれと家庭教師の アルバイトをして私はあの学生時代ずっと タイトスカートはい入っておりましてもう 本当大学卒業してあもう随分経ってからも ナイトスカートがとても似合ってたよって 友達が言いますそうかなって私言いながら いや実はねプリーツスカートとかフレア スカートとかそういうのも吐きただった けれどタイトスカートは半分の値段で当時 500円であのできたプレヤースカート プリッツスカートは倍ほど生地がいります タイトスカートが1番安くできたので本当 にいつもタイトスカートだったっていうの もねあの当時の節約でございます はい私の大学卒業することは島根は本当に 仮想があの加が進んでおりましたそれから はも本当に採用がなかったです広島で採用 があったにしてもなかなか あのどこに飛ばされるかわからないでそれ で私もそれならばでちょうど当時高度経済 成長のであの大阪ありは万博ですからあの 学校がどんどんどんどん増えます人口が 増えるとこそれから東京川崎あの辺りあの の方も増える頃でえいろんな教育委員会が ね大学の方にあの来ませんか来ませんかで その時に私はあの なんか大学卒業して社会人の生活っていう のを1人で試したいみたいな気持ちもあっ て誰も知らないところでもなんか行けるか なってそんな気がしてはいで大阪に行き ましたはい H [音楽] [拍手] 神来はあのえもう晩年そして亡くなる前も あのキリノが戦犯を許したということはえ 次の世に必ず伝えていかなけならない キリノのこの決断というのは平和の模範と なるべきだという風なことを言っており ました誰かが後に伝えなければいけないと いう風なこと言っておりましたけれどあの 確かに誰に託すということなくも亡くなっ ていくんですけどおそらくこの長男の弘樹 がこの美術館作った時には私はその思いを ついてたんじゃないかなという風に思い ます兄の弘樹が美術館ができて10年ほど で亡くなるんですがそれでま引き継いだの が私たち2人なんですけれど色々美術館の あるべき姿だとか色々考えているうちにあ ここに秘められているのはやはりこの神来 の平和への思いこれをつぐことだったんだ なそのまど関大の思いがあってそしてそれ を後につぐ土台を作ったのが加納弘樹だっ てそれでもしかするとこれを広めていく 確かなものにしていくのが私たち2人だっ たかもしれないという風にあの思ったわけ ですねおかげ様で今はこうフィリピンの方 に解されてフィリピンとのキノファミリー はめそしてえ大使館などともそえフィリピ の日本人学校などとも繋がりが持てている ことそれから え教育の中で島根では道徳に入りそして 今回はえ全国に広がる中学校のあの社会化 の教科所に入り関内の望んだキリの思いが あの界に伝わるようにこれは本当に誰かに 託さなければいけないと言ったことが本当 にたくさんの誰かさん誰かさん誰かさんに あの行きつくようでより多くの人に 行きつくようなバトンのような役割を私が とそしてあの一緒にります夫とできたらな と思ってるところですね はいOG

昭和館YouTubeチャンネルでは、所蔵映像の一部を紹介しています。
https://www.youtube.com/channel/UCAfoUh020NR5ZSKe3ccat3Q
また、昭和館デジタルアーカイブでも、たくさんの映像や所蔵資料を検索、視聴できます。ぜひご利用下さい!
昭和館デジタルアーカイブ https://search.showakan.go.jp/

#加納莞蕾 #政治家 #島根県 #キリノ大統領

【資料情報】V1R0300201905
加納佳世子さんは、昭和19年(1944)に京城で生まれた。画家であった父の莞蕾(本名 辰夫)は、戦後、フィリピンの日本人戦犯の助命を求める嘆願活動を行った。父の活動の影で苦労していた家族の生活の様子と、時を経て父の想いを受け継ぐこととなった経緯を語る。

※ 映像を使用される場合は、昭和館図書情報部情報検索係(03-3222-2574)へご連絡下さい。

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