江戸時代の久留米を歩く【福岡】

おはようございます 本日僕は 福岡県の久留米市に来ております 現在見えておりますのが 西鉄久留米駅です 西鉄という名前ね あの本州とかに住んでる方は なかなか聞いたことがない と思うんですが 西日本鉄道の略でして 簡単に言うと この九州で覇権を握っているような そういった鉄道会社です 鉄道だけではなく 向こうの方に ちょっとだけ見えていますが まあメインはね メインというかあの 住んでいる人としては 鉄道よりもバスの方が 使うんじゃないかなという風に思います 実は僕この福岡県久留米市出身でして 今回の動画は 僕の地元である久留米を 紹介していこうという風な動画です まあ簡単にね紹介すると言っても 普通に紹介しても面白くないので このように古地図を用意しております ここに書いてありますが 天保時代の久留米の市街図 という風に書いていまして 天保時代というのはですね 江戸時代のことです だからこの古地図を活用しながら 現在の久留米の街並と江戸時代の地形 そういったものを 比較していこうという風な話ですね 久留米の中心地はどこですか? という風にですね まあ人に聞いてみると大体多くの人が この西鉄久留米周辺を挙げると思います というのもですね ここには西鉄の電車も通っているし バスも通っているということで 交通の要衝 という風になってるわけですね ですが僕が今お話ししているのは 江戸時代のお話ですので 江戸時代にはバスも鉄道もありません 当時の中心地というのは どこかと言いますと ここですね なんか青い部分で囲まれているもの この青いのはですね 水なんですが ここに九州最大の川 筑後川が流れています その近くにお堀がぐるっと囲んでいる これが久留米城です この久留米という街は 城下町としての歴史を持っています まあ昔の人々は歩いて ここまでやってくるわけですが じゃあ久留米城に歩いて入っていく という風になりますと 多くの方はこの道を通って 西の方向に歩いて行き 久留米城に向かっていく そのような道をとっていました なので 現在僕がいる 西鉄久留米というのは 大体どこにあるのかと言いますと この辺り 何もない場所なんですね ということで 皆さん 皆さんというか 江戸時代の皆さんが歩いていたであろう この出入り口に向かっていきます じゃあ移動していくんですが その移動手段は何使うかと言いますと あそこにね 最近行政が入りまして このチャリチャリっていうのかな 自転車の貸しサービスが 出来上がってます ここ広告あったんで見てみると 1分から使える気軽な自転車 電動アシストが下の方ですね 1分間17円で使えて 普通にアシストなしだったら 1分間7円というまあ激安な価格なんで これを使っていきましょうか 使い方は簡単です このアプリをタッチして 開いた後に 鍵を開けるというのを押すとですね このようにカメラが起動します ここにある QRコードを読み込んでしまえば 普通に鍵が開くという風な形です それではこの自転車を使って 移動していくんですが この古地図を見てみると 江戸時代の人々が入ってきた場所 というのはこの東側の方なんですが 赤い部分というのは何かと言いますと これ神社って書いてあるんですね ちょっと文字が潰れて 読みにくいんですが これは五穀神社 という風に書かれています 自転車乗り場から 北側の方向を見てみますと あそこにね細い道があるの見えますかね あの道が昔の道でです ということであの細い道に向かうために この道を渡っていきます 実はねここに歩道橋が見えている通り 歩道橋を通らないと 向こう側にはけません ちょっとね回り道をしていきます ということでこの道を ずっとまっすぐ行きまして 横断歩道を渡り そして向こう側に到着したら このように歩道橋の場所まで やってきました この歩道橋を過ぎてすぐの交差点 ここですね この交差点の道というのがですね 右下の地図見たら分かるかと思いますが この地図に乗っている道です 地図に載っている交差点というのは 現在僕がいるこの小さな交差点 この交差点の道というのがですね 結構細いのを見てみて分かる通り 昔からある道です ではこの道を通って 北東の方角に向かっていきます 大体日本全国どこに行っても 古い道というのは このくらいの幅ですよね そしてこの目の前に広がってくる 大きな道 というのが国道3号線です さて昔の道をね進んできたら また新しい道が出来上がっていて ここ ね 向こうに 通れなくなってしまっているんですが 多分 昔はここに道が繋がっていたんだろうなというのが考えられますので この奥に向かっていきましょうか ということで 再び道を渡るために 回り道をしていきます ぐるっと3号線を迂回しまして 道の対岸に到着しました そしてさっき通っていた道の 続きの道はあるかなと思って 探してみると ここにありましたね この道が昔の道です 右下の地図見たら分かります通り この周辺には何もなく ただ道だけが広がっていた というような光景だったようです また大きな道が出てきました これは古地図に載っていない道だから 江戸時代にはなかった道です この道をぐるっと迂回して 奥の方向に入っていきますと 近づいてきますのが五穀神社です 今左側に見えている ここが五穀神社なんですが とりあえずこの自転車を 置きに行かないといけません 自転車置き場というのは 決まっていまして この中央公園にも1個ありますので そこに置きに行きます そして返却の仕方も簡単でして このように鍵を閉めただけで もうこっちの方に 通知が来ると思うんですが 通知は来ませんでしたが こんな感じで 鍵を閉めただけで自分が通ってきた 道のりというのが表示されまして 何円かかりましたってのが分かる そのような仕組みになっています 五穀神社の目の前にやってきました 向こうの方に続いている これが街道ですね あっちの方に行きますと 高良山といった山がありまして その上に高良大社といった 神社があるんですが そっちの方から人々は久留米城に やってきていました この道を通ってきていたわけです 向こうの方に歩いていけば 久留米城なんですが この五穀神社の目の前に看板があります 神社の説明かなと思って見てみると ここに五穀神社とからくり儀右衛門 という風に書かれていまして からくり儀右衛門といえばですね まあ久留米の人は よく知っていると思うんですが この人 田中久重といった人物です えー確かね 異名として東洋のエジソンとか そんな感じの名前を持っていた と思うんですが まあ簡単に言うと あの発明王ですね 日本でいろんなものを発明した人物 ということがここに書いてあるんですが まあ名前知らなくても この東芝といった会社は 知っていると思います 東芝を創業した人物というのが この田中久重です じゃあなんでそんな人の 説明がここに書いてあるのか と言いますと 田中久重のお家というのはですね 向こうにあります ちなみにこの福岡県久留米市というのは 豚骨ラーメン発症の地 として知られていまして 大体この久留米で 1番有名なラーメン屋さん 豚骨ラーメン屋さん という風に言いますと この大砲ラーメンを挙げる人が 多いと思います もうね多くの人が知っていると 思いますので 今回ここの中に入って食べる ということはしませんが 普段僕がよく行っている ラーメン屋さんは 後で紹介する予定です この目の前 大砲ラーメンの目の前の道を 通っていきまして 久留米城に向かっていきます なぜ戦国時代とか安土桃山時代の人々がお城を作ったのかと言いますと 敵から町を守るためです ということで 現在僕がいた 五穀神社の目の前の道 ここがねグネっと曲がってるのが 分かるかなと思うんですが これはねおそらく わざと曲げています なぜかというと 先が見えないわけですね ここぐーっと曲がってるの 分かると思いますが かつての道も このように曲がっていた というのがですね 現在も面影が残っているわけです このグネっと曲がった道の先に 四角く 黄色くなっている場所があります おそらくこれは枡形と言いまして 防御機構ですね 多分ここに門があって 中に簡単には 入れないようにしていたんでしょう だから この曲がった先なんで もうすぐ見えてくるのかな 今僕はなんか 江戸時代の人々が 旅をしているような気分で この久留米城に向かっていっている イメージなんですが 当然ね 江戸時代より前だったら 平和ではありませんので 戦いが行われています だから戦いの際は おそらく敵が この道を通って攻めてくるわけですね だから この辺りで 枡形があったんでしょうね もう跡形もないと思います この辺りで 敵が攻めてきた場合には 止める第1の拠点があったようです 古地図と見比べながらから 確認してみると 大体ですね この白い車が出てきた辺りというのが かつて枡形があった場所なんですが この今から進んでいく方向と 今通ってきた方向をですね 比べてみると 分かりますかね こっち の方は 平らになってるんですね 今からこの車が 下っていきます ぐーっと坂道になっておりまして 奥の方から車がやってきました 台地の上にいることが分かるでしょう 高低差を見やすくしてみると このように 現在僕がいる場所というのはですね 東西で 土地の高さが違うことが分かります 現在いる場所というのは 標高が15mですが 先ほどいた場所が11mだから 4mくらい上がってるわけですね というのも これはですね 高い位置から 下の方向を見るというのが 戦いやすい地形だからです だからこっちの方で防御しておいて 向こうから登ってくる敵を やっつけるみたいな そんな感じの場所を ここに作ってたんですね じゃあ 向こうの方 久留米城の方向に歩いていきます 現在僕がいる交差点というのが この枡形がある場所なんで まあまっすぐ行ったら 向こうの方 久留米城に行けるんですが これをですね 右に曲がってもまた枡形があります 北の方を上にしてみると このようになっておりまして 現在はですね この久留米市の北側には 筑後川という川が流れております 向こうの方に向かっていったら 筑後川に行けるんですが ずーっと奥の方見てみると 車がね 右側から出てきたの分かりましたか? こんな感じで道が曲がっているんですよ じゃあ地図を見てみると このグネっと曲がった道を進んでいき 現在いる交差点がここ この交差点から右に曲がった先にね ここカクっと曲がってる 場所があるの分かりますか? これが現在の地図ですね ここにグネっと曲がった道がありまして 現在地から右の方向に進んでいきますと かつてグネっと曲がっていた場所が 現在も残っているのが分かると思います まあこっちの向には今回行かずに 先の方に進んでいきましょう ということで この交差点から進んでいきまして どこかのタイミングで 左に曲がるんですね 現在僕が歩いている辺りの 左右にはですね ピンクになっている そういったエリアがあると思うんですが これはかつて商人が住んでいた 場所のことです だから こっち側であったりこの右側であったりこっちの方にはですね 江戸時代には商人が住んでいた ということになります でその商人なんですが ここにねお家があったんですよ昔 商人のお家ですね で向こうの方見てみますと 何やら 石碑があります ちょっとこっちからは何も見えないんで 反対側に回っていきましょうか さてこの石碑を 反対の方に回っていきますと 多分ね書いてあると思うんですが あーあるな ここです 田中久重 生誕地跡という風に 書いてあります からくり儀右衛門が 生まれた場所というのは ここにあった町人の家です 発明において天才的な才能を持っていたこの田中久重ですが その才能は評判を呼びまして 西の方向に行きますと 佐賀藩といった藩があるんですが その佐賀藩のお殿様が いや 田中久重という なんかすごいやつがいるらしい という風に気づき そして 君 佐賀藩に来ないか という風に リクルートされた という風な歴史があります 田中久重が生きていた時代 というのはですね 幕末にあたります 幕末の佐賀藩と言いますと 薩長土肥の肥前ですからね 日本で初めての反射炉を作ったり 蒸気機関を作ったり そんなことをしているわけです そんな中にも 田中久重の活躍があった と言えるでしょう 引き続き久留米城の方向に 向かっていきます 目の前にあるこの大きな道ですが 古地図を見てみてもね この周辺に大きな道はなかった ということなので 江戸時代頃に ここに道はありませんでした 江戸時代頃にあった道というのは このまっすぐ進んでいける道です 現在僕がいる場所というのが このクネっと曲がった道から 枡形を通り そこをずっとまっすぐ行って 大体この辺りが からくり儀右衛門の家ですかね その先1回左に曲がって 右に曲がって右に曲がるみたいな そんな感じのカクっと曲がった道が あるんですが 大体この辺りにいるのかな だから次は左に曲がるんだ と言うと おそらくですが ここでしょうね この道を左に曲がらないと いけないわけだ だから 目の前にあるこの道というのは 後から作られた道です 昔は こっちの方に進むことはできず 左に曲がるしかなかったわけです 現在僕が歩いているこの道の左右も ピンク色に塗られていますので かつてこの周辺には 町人が住んでいたということが 分かります 右の方向見てみますと 大きな通り道があるんですが まあねこれは拡張された後です 昔はもうちょっと狭かったんですけれど ここが江戸時代頃の 久留米のメインストリートにあたります 通町と呼ばれる場所なんですが 現在この道は 昭和通りという風な名前になっています まおそらく 江戸時代頃に久留米城の城下町に 行こうと思う人はですね この道はまっすぐ進んでいきますと もう大手門の辺りに着きますので 多分この道を ずっとまっすぐ行くんですが まあ紹介する動画という風になりますと それはちょっと面白くありませんので 地形を見るために 回り道をしていきます というのも途中で言った通り お城というのはですね 敵から防御のために作たものです だから 敵が攻めてくるという風になりますと この東ですね 東の方向から攻めてくる じゃその東の方向で 敵を止めるための設備が必要だ という風になるわけです ということでね この周辺に たくさんのお寺を作っています まあお寺がなんで 防御施設になるのかという話なんですが お寺があればですね そこに兵をたくさん置けるわけですよ だから戦いになった場合に まあ一種の陣地みたいなもんですかね そういったものになるわけです この周辺がたくさんお寺がある町 ということで 寺町と呼ばれるエリアです 寺町のこの 現在僕が進んでいるのは ここら辺ですね この角なんですが 現在見えている ここの角を右に曲がったところ というのが寺町になっています 見えるかなあ? 見えますね こっちの方向です 左側見たら 観音菩薩という風に書かれていたり 右側見てもね これお寺でしょう もっと先に進んだらね さらにお寺が たくさん広がっています ここにお寺があって反対側見ても お寺がありますし その横を見てもお寺がありますし こっちにもお寺がある という風な感じでして 本当に寺町という名前に ふさわしい光景が 広がっているんです だからね 戦いになった場合は ここに兵士がたくさん集まってきて ここでご飯を食べたり 防御の準備をしたりとか そんな場所だったわけですね 大体日本のお城というのはですね 基本的な部分というのは まあどこ行ったて同じなんですが このように まあ皆さんが考える お城っぽい部分というのはですね 大体政治の中心地でした この辺りにお殿様が住んでいて 政治を行ってるわけです そのすぐ近くのこの辺りというのは そのお殿様に仕えている 直々の重臣たちですね そのすぐ近くここら辺になってきますと 上級武士そして中級武士がこの 辺りかな 中級武士ってのは ちょっと分かんないんですが まあ下級武士とかは お城から離れた場所 最前線ありになりますので おそらくですが 最前線と言うとこの敵が攻めてくる この辺りになると思うので 最前線のお寺を作っておいて ここで防御設備を作り そしてそのすぐ近くここにはね 鉄砲小路という風に 呼ばれる場所があるんですが まあ鉄砲隊が住んでいた場所みたいな ちょっと下級武士が住んでいた場所 というのはこの辺りになります あこれ先に進んでいったら 鉤型があるんだ ここもね設備の1つで カクっと曲がってるの分かりますかね 多分残っていますよ あー見えないかな ちょうどよく車が来てくれました あの車 あー向こうから来たから 分かりやすいな カクっとね 道が曲がってたの分かりましたか? だから 向こうの奥の方が 見通せないようにしておいて あの角で待ち伏せをしておき 奥の方からやってきた敵をやっつける みたいなそんな感じの構造です そしてそんな寺町の中にですね 有名人のお墓があります こちら書いてあります 高山彦九郎先生の墓 こちらにありますのが 高山彦九郎先生の墓です もう完全にね神様として奉られています 高山彦九郎というのは誰かと言いますと ここに書いてありますが 江戸時代後期の尊皇思想家です えーここに寛政の三奇人という風に 書かれています 寛政というのはですね元号です 享保の改革 寛政の改革 天保の改革 という風な江戸の三大改革という風に 聞いたことあると思うんですが その真ん中くらいなので まあ後期の中でも 幕末が始まるちょっと前くらいの 人物ですね なんでこんな人の お墓がここにあるのかと言いますと 高山彦九郎さんはですね この周辺で自殺して死んだ という風なお話が残っているからです これが高山彦九郎の絵らしいんですが まあね これ見たってわかんない人 多いと思います 京都の人々はわかるかなと思いますが 三条大橋の横に土下座している像が あると思います あの像が高山彦九郎ですね 幕末のちょっと前に生まれて 尊皇思想を広めていった人物 ということもありまして 吉田松陰始め幕末の志士と 呼ばれる人々に 多くの影響を与えた人物と 書かれています だから 日本が近代化する礎になった そんな感じの人 という風に考えておけばいいかな と思います 近くにあった看板には そういった話が しっかりと書かれています 彦九郎さんは久留米にいる 友達の家の離れで これ切腹ですね 切腹してあの江戸幕府に対して 憤りを感じながら死んでいった みたいなそんな感じのことが 書いてあるわけです 腹を切った場所というのはね ちょっと離れた場所にあるんですが 現在地からま歩いて行こうと思えば 行ける距離なんで うーん今回は行きませんが 興味がある方は歩いてみるのも いいと思います それでは高山彦九郎のお墓がある お寺の南側の出口から出てきまして 現在地は多分この辺りです でここから 久留米城の方向に向かっていく という風になりますと 西の方向に行きますので 西の方向に行けば カクカク曲がってるんですね この道も おそらく残っているはずです 残っていますね ここで 左に曲がって すぐに 右に曲がらなければならない道です そして右に曲がった先には 多分地図上では左に曲がる道が あるんですが あーそうか ありますね この斜めに入っていく道が かつてあった道のようです 先ほども言った通り この周辺は鉄砲小路と 呼ばれる場所だったんで 昔この周辺には 下級武士が住んでいた というような 使われ方をしていました ご覧の通り地形としてはですね ここ が1段低いにありまして これカクっと登っている で奥の方には坂道で ぐっと上がっていく場所なんで こっちの方が 台地になっているのが分かると思います だから 下級武士が住んでいたのは この台地の上ですね こっちの方向です もう道を見てみると分かります通り ぐにゃぐにゃ曲がっていて 先が見通せないような作りをしています このぐにゃぐにゃ曲がっている 道に関しては 残念ながら古地図には 載っていないようです が まあ多分 下級武士の道なんで もうここら辺は本当に自治的なことが 行われて作られていたんでしょうか ここに見えている道から 出てきたんですが この地面の地形を見てみたら ここに見えている道で ぐーっと下がってるの分かりますか? 下がった後にぐーっと 上がっていっているわけですね 高低差が分かるマップで見てみると このように 少しここにくぼんだ部分があるのが 分かると思います 視点を広げていってみますと ここに台地がありまして ちょっとしたね 台地の分断が行われてるわけです まあ1つ目こっちの方が 大体あの寺町だったり鉄砲小路が あったりする場所なんですが その向こう側 ここにも区画があります 古地図を見てその区画が どこにあたるのかというのを見てみ たら この辺りが まあ1つの寺町があったり 鉄砲小路があったり そんな区画なんですが そのちょうど中間にね このなんて言えばいいんだろう 黄緑色の区画がありまして ここが田んぼの田という風に 書いてあります ここぐーっと下がっている ということ はですね 水がここに溜まっていくわけですよ という風になりますと ここが湿地帯に なりますので ここで稲を作っていくという風な 使われ方がしていました 現在僕が立っているこの台地には 鉄砲隊のような 下級武士が住んでいまして ちょっと下がってここに田んぼがあり その田んぼの向こう側に まあ下級武士が住んでいた という風な作りですね まあ昔ここには道はなかったんですが その地形を見に行きましょうか 少し進んできて 地面の起伏を眺めていたんですが まあこの場所はね あんまりわかんないなと思って この高低差の地図を見てみると 北側の方が 結構大きな段差があるっぽいんで 北側の方向に見にいきましょうか 1本北側の通りにやってきたんですが これ分かりやすいですね ここが低い場所で ぐーっと登っていって こっちが高くなってるの分かりますかね だからこっちの方には 下級武士が住んでいたわけです だから坂道の上ですね 坂道の下 この辺りは水が溜まってきますので ここら辺に田んぼを作っていたんです ああ すごいな ここもう完全に坂道になってますね 古地図で見てみると 現在僕が立っている 場所というのは この人の名前が書いてある 武士が住んでいたエリアと この黄色になっている田んぼのエリアのちょうど中間の部分 ここの坂道です そして道をまっすぐ進んでいき ある程度歩くとですね また大きな道が出てきます この道が下級武士が住んでいたエリアの まあちょうど真ん中に当たる道です こっちの方向が南の方向で こっちの方が北の方向なんですけれど まあこの周辺にたくさんの武士が 住んでいたわけですね 古地図で現在いる場所を確認してみると さっき言った鉄砲小路がここで ちょっと大地の低い部分が ここの田んぼ さらに向こう側にあった 下級武士の住む場所というところなんで この縦線の部分が 櫛原小路のメインストリート じゃあまっすぐ進んでいきまして 2つ目の角を左に行くと ここにお掘があります 次はこのお掘を探しに行きましょうか まず1つ目の角というのが これは十字路になってるんですね 2つ目の角に関しては まず右側に曲がる道がきた後に 左側に曲がる道がある ということで 現代の地図と見比べてみると まず1つ目がここが十字路で その次2つ目が 右に曲がる道がきた後に 左に曲がる道が来るという風な感じなんで この道を進んでいけばいいんですね この十字路 そして次に見えてくるのが 右に曲がる道の向こう側に 左に曲がる道がある あの道を進んでいきます この道をね進んでいこうかな と思ったんですけれど 見えますかね? 雨が降ってきたんですよ ちょっと今日はここまでかな また別の日にこの続きをやっていきます ということで途中でお話ししていた通り 僕がよく行くラーメン屋さんを ご紹介します 僕が久留米にいる時に よく行くラーメン屋さんというのは この3号線と九大本線が交差する交差点のすぐ近くにあり ます 向こうの方見て右の方行ったら あそこにラーメンといった 看板があるんですが あちらのラーメン「旬」です 夕方の時間帯になりますと この道路がね信号ですごく混みますので ここで並んでいる間に横の方を見まして ラーメン屋さんあるなという風に 気になっている方も多いと思います 建物は結構小さいので 駐車場がないのかなという風に 思う方も多いと思いますが 駐車場はですね この向こう側にあるここ ここの中に入っていったところに いくつか駐車場があります 久留米は本当にラーメン屋さんが多いので 各店舗で味が全然違うんですが ここは正当派の豚骨ラーメンで 勝負しているようなお店です 僕はInstagramを登録していますので ここのサービスを受けることができます メニューの内容を確認してみましょう 僕は豚骨ラーメン以外 頼んだことがないので まあ他の味は知らないんですが いろんなメニューが取り揃えられています まあ1番最初はですね 豚骨ラーメンを頼んでおけば 間違い ないと思いますよ こちらがその豚骨ラーメンです 卵はですね 普通乗っていないんですけれど さっき言った通り Instagramを登録しておけば 無料で卵を乗せてもらえます 久留米市民はラーメンに関する こだわりが強いので 自分の贔屓のお店みたいなものが あると思うんですが そんな久留米市民も満足できる味です このように ラーメンを食べ終わった後にですね 福岡には替え玉という制度がありまして ここに替え玉150円という風に 書かれています これを注文すると このように お代わりの麺だけが出てきます スープを残しておけば 経済的に 2杯目のラーメンを楽しめるわけです 以前静岡県か どっかそこら辺でラーメン食べた時に 替玉ありますか?という風に聞いたら え?何ですかそれ?という風に言われて カルチャーショックを 受けた覚えがあります ということでこの日のお昼ご飯は終了 久留米にお住まいの方で 新しいラーメンに 挑戦したいなと思っている方は 是非試してみてください さて日付が変わりまして この前撮影をやめていた場所に 戻ってきました この前はですね あそこに見えている道を 向こうに行きますよって言っている時に 雨が降ってきました どこまで話したかを思い出すためにも古地図を見て現在地を確認したいんですが 現在地はこの櫛原小路といった場所の この道を通っていくところです 通っていった先にはですね ここに 水色の部分があるのが分かると思います この水色の部分何かと言いますと 久留米城のお堀です つまりここに見えている この道を進んでいきますと かつてお堀があった場所に 到着するんですが 実はですね この道を見てみたら その頃の地形が 残っているのが分かると思います ずっと奥の方を見てみますと 1 回ここで ぐっと地面が下ってるんですね 何も考えずに歩いていたら まあ何も気づかずに 普通に歩いてしまうんですが ここが グっと下がっているのが かつてお掘があった場所です こういう風にね 地面の方に近づいてみると分かりやすい 古地図でこのお掘の場所を 見てみるとですね こんな感じになっていまして まあ分かりやすく見たらこうですね 現在僕がいるのが 大体この辺りなんですよ この黄色い部分ですね この向こうの奥の方にあるお掘を 見ているということなんで このお堀の先にはですね道が ちょっと曲がってる部分があるの分かりますか? 1回左に行って グネっと曲がって右に曲がり まっすぐ行くみたいな そんな感じなんですよ これはですね まあ奥の方が見えないような防御の設備でして 枡形と呼ばれるものです つまり現在車が通っている あの辺りですね あの辺りに昔 枡形がありました Googleマップで現在の地図を見てみると 大体この辺りにお堀がありまして ちょっとね道がくねっと 曲がってるの分かりますか?ここ この曲がっている跡というのが 枡形の跡です そして地形が結構へこんでいる部分までやってきたんですが まあこの辺りにかつてお堀があった ということ なんで 地図を見てみるとですね 実はこの南の方ですね ここに少しだけ お掘の跡が 残ってるんですよ まあ後からですね この枡形の方向には 向かっていきますので 一旦 こっちの お堀の跡を見に行きましょうか お堀の跡というのはですね この南の方向を見て見える あの木がある辺りです さて先ほど見えていた木のある辺りに やってきたんですが ここを見ていただいたらですね 下の方に水がありまして 何やら石垣があるんですね ここの辺りは ちょっと分かりにくいんですが 奥の方を見てみると ここが分かりやすいでしょう 石垣があります この左側が久留米城の内側で この右側に今もう家が立っていますが この辺りにですねお堀がありました 堀の向こう側に 人々が住んでいる町があった そのような状況です 石の切り方に注目してみると 結構荒く切ってあるんですが 積み方に関して見てみたら まあ結構こちらは綺麗に積んであるな といった印象 現在僕がいる場所を Googleマップで表示してみると この場所にいます この場所をですねよく見てみると 江戸時代頃の久留米の地形が 浮かび上がってくるのが 分かると思います 特にですね この木の辺りを見てみたら かつてお掘があった場所の 輪郭が見えてくるでしょう さて昔 枡型があったという風に 言っていた場所にやってきました こういう風にですね現在道を見てみると その江戸時代頃の地形が 残っているのが分かります ここに スーっと進んでいって ぐっと曲がって奥の方向に進んでいく みたいなそんな感じなんですね つまり現在僕が歩いている この辺りから先が 久留米城のお城の中にあたります さて枡形に入っていって すぐ先の道をですね 右に曲がることはできません なぜかと言ますと 右側にはお堀があるからです 左の方向に向かっていきますと ここにね カクカクと曲がった お掘の場所があるんですが 今から向かっていきますのは この左の方向です もちろんですが このお掘は残っていません じゃあ一旦右見ましょうか 右側には お掘があった形跡としまして まあここもですね 地形が坂道で下っていく そんな地形になっています 左の方向に向かっていきますと あ あっちに見えている あれが久留米市役所ですね 市役所の周辺が かつて先ほど言っていった カクカクと曲がった お堀があったエリアです なのでこっちの方向に向かっていきます もうお堀を渡りましたので この周辺はお城の中にあたります ということは 江戸時代頃この周辺には 上級武士が住んでいました 現在地をこの古地図で確認してみると 僕がいるのはこの辺りになっています 周辺見てみると白く塗ってあるんですね この辺りが まあ文字が書いていて ちょっと読めないんですが ところどころね ここ吉田って書いてあったり ここは松田って書いてあったり まあ文字が書いてあるのは 人の苗字だということが分かります 今までいたのもまあもちろん 武士が住んでいた場所なんですが この鉄砲小路なんかはね もう人の名前が書いてないくらいなんで この周辺は下級武士が住んでいたのが 分かるでしょう まあお城の方に近づいていけば 近づいていくほど お家の大きさも 大きくなっていきますので 偉い人 が住んでいきます さて先ほど言っていた かつてお堀がカクカクとあった辺りに やってきました もう現在はですね お掘が消えてしまっていますので 分かりにくいんですが 大体この辺りにお掘が あったんじゃないかなという風に 予想できます 昔はですね この道はあったんですが かつてお掘が通っていましたので 橋がこのように通っていました じゃあ今からですねこの橋を渡って お堀の外側に一旦出ます つまり お城の内側というのはこっち側でして この向こう側がお城の外側です イメージとしては 現在僕が通っている道の辺りに 橋があったんだろうなという感じ 今渡った橋というのがこの橋ですので ここからすぐ左に曲がったら 左側にお掘がある状態ということ で 橋を渡ってすぐ左 こっちかな だから現在この 久留米商工会議所という建物が ある辺りは 多分昔お掘だったんでしょう と思って歩いていったらですね ここに おそらくこれが かつての石垣でしょうね 現在も残っているんでしょう 見えますか?これです これはですね まあ久留米市民の方なら 分かるかと思いますが 久留米役所の横にある公園です この辺りの石垣はさっきの石と 比べてみて分かると思いますが 切り方がね もう真っ平らになってるんですよ で しかもここ ぴっちりとね 隙間なく作られていますので おそらく江戸時代頃に 作られたものです この石垣の横にですね こんな感じで 久留米城下町復元図 といったものがあります 現在僕がですね歩いている時の 元にした地図というのはこれでして 現在地というのがここに書かれています 現在地は ここですという風に書いてあるんですが このね えっとこれか これですね この四角い建物というのが さっき言っていた 久留米商工会議所なので 商工会議所はかつて お堀の中にあったことが分かります 現在地の右側を見てみると お堀がずっと進んで行きまして さっき見に行った この辺りが 木が生えていた辺りのお掘です この看板の右下には かつての久留米藩の お城の城下町の地図が載っています ちょっと分かりにくいんですが 現在地は この辺り 今回通ってきた道を確認してみると 一番最初はですねここ 西鉄久留米駅からスタートしました この久留米駅から向こう側にある道が 昔の道ですよと言ってたのがこの道です 先の方に進んでいきますと この23番と書かれている場所が 五穀神社ですね これも行ったと思います 五穀神社の辺りからスタートしまして ぐーっと曲がっていくこの辺りが 大砲ラーメンの本店がある場所 曲がっていきますと こっちの方に行けば 昔歩いてる人がいたんだなという風な そういったお話をしたと思います オレンジ色の部分が町屋 つまり町人が住んでいた場所です 大体 この辺りがあのからくり儀右衛門が 生まれた場所でしょうね こっちの方向に向かっていきますと この緑の部分29番の場所が 寺町 だから高山彦九郎のお墓があった場所 というのは多分これですね ここです はい この辺りから 12番の方向に向かっていきますと 12番というのが鉄砲小路ですね 鉄砲小路の辺りを見た後には この間にちょっとねえ くぼんだ部分がありますよ という話をしたと思います 11番の辺りが櫛原小路ですね 櫛原小路この辺りも 武士が住んでいたんですが このさらに向こう側に行きますと お堀があり そして枡形がありまして 現在地のこの辺りまで進んできた というわけなんです じゃあちょっとね 今から見たいものというのが この26番なんですよ 26番何かと言いますと ここに札ノ辻という風に書かれています こういった まあ古地図で巡っていく場合に札ノ辻 という風に書いてありますと 1番ですね かつて人が通っていた場所 という風なイメージでいてもらったら いいと思います じゃあなぜそんなことになったのか と言いますとですね この南の方向に向かっていきますと 柳川といった場所があります 柳川藩があるんですね 久留米藩と柳川藩は結構関連が 深い場所でして 柳川の方が大きかったので まあこっちの方向柳川の方向に向かっていく道ができていた こっちの東の方向に向かっていきますと 高良山といった 高良大社ですね 筑後の国の一宮がありますので その2つの道が交わる場所というのが この26番の場所だから ここに札ノ辻が作られていたわけです じゃあその札ノ辻というのは どこかと言いますと 向こうの方見てみたら セブンイレブンがありまして そのさらに向こう側あそこに 札ノ辻跡といった 石が置いてあるのが分かると思います じゃあこっちの方向に歩いて札ノ辻を 見に行きましょうか ちなみに現在僕がいるこの左側は かつてお掘があった場所です この回転寿司スシローさんの 目の前にあるこの 石の看板が 札ノ辻跡という風に書いてあるんですが 札ノ辻というのはですね 通町筋と柳川往還 これは通町というのは ここの道のことです 昔は通町と呼ばれていました まあ今でもね呼ぶことはあるんですが 柳川往還というのはさっき言ってた 柳川に向かっていく道ですね その交差点に置かれた 高札場という風に書かれています 高札場はですね多分 実物見た方が分かりやすいと思うので 萩の高札場を今見ているかと思いますがまあこんな感じの あの幕府のお達しが出るような場所が 高札場です 久留米藩というのはですね ここが道路の起点 という風になっています だから 今はもうね見えなくなってるんですが かつてはここに柳川往還といった道が ありました 向こうの方にね 大きい道が出来上がってるので あっちの方をみんな通ってるんですが 昔はこのフタタさんのあっちにね 出口専用という風に書かれた場所が あるんです が この辺りの道 あありますね ここにある道が柳川往還でした ということで ここの柳川往還と通町の筋が 交じっているこの辺りに 高札場があったということで 札ノ辻という風な名前で 呼ばれていたんです 要するにこの辺りが 城下町の中でも 一番人通りの多い場所でした さてさっきの城下町の地図に 戻ってきたんですが もうね結構お城に近く もうお城に近くというか ここから北側に行ったらすぐお城なんで 後はお城に向かっていくだけかな という風に思います 現在地から まずこっち通ったがいいかな こっちが多分昔の1番大きな道ですので ここ太いな 確かねこの辺りは火事が起こって 昔は家があったんですけど その家をなくして ここに広場を作ったという風な話だったと思います まあなんでかって言うとこのお城 すぐ近くにありますので もしもこっち側で 火事が起こった場合にですね お城の方に燃え移らないように このように火桶地を作った という風に言われている場所です じゃあ今から向かっていきますのが 現在地から北側の道を ずっと進んでいきますと この道を通っていけば もうお城につくんですね だからほぼ1回曲がるだけのようです ということで 現在地からお堀の横を通りながら 北の方向に向かっていきます じゃあこれがお掘なんで まあお掘をできるだけ歩かないように こっち側を通っていきましょうか 石垣はここで途切れてしまっていますが 本来であればこの石垣はですね こっちの方向に曲がっていたはずです ということで 久留米市役所の裏側の道を 歩いていきます この道の右側の方つまりこっち側ですね こっちの方はかつてお掘があった場所 そんなことを言いながらね歩いていたら向こうの方に何やら 石垣っぽいものが見えるんですけど どうなんだろうあれは? 当時のものかな? ちょっと分かりませんが まあ何にせよこの辺りに お堀があったことは確かです 多分この道の右側にあるお家 というのが昔はなくて この辺りが火桶地の 広場になっていたんでしょう 向こうの方にですね 子供たちが渡っている信号がありますが あの辺りに久留米城の正門 大手門がありました ここがかつての久留米城の大手門です 現在久留米城には篠山神社といった 神社がありますので かつての大手門があった場所と いう場所はですね 鳥居が建っています この鳥居をずっと先に進んでいきますと 久留米城に到着します それじゃあこの鳥居がある道を 通っていきましょう さて久留米城の大手門を通り過ぎましてすぐ左側にはですね かつてこの周辺には明善堂といった 藩校がありました 現在は明善高校 あ 書いてあるな ここに明善高校という 公立の学校になっています この周辺に住んでいたのは 久留米藩の藩士の中でも 結構上位の人々だったので そういった上位の人々の 子供たちがですね さっきの明善堂といった藩校で 学んでいたわけです さて大手門を通りすぎて まっすぐ進んでいきますと またお掘がありまして そのお掘をですね過ぎた先には 左に曲がって さらに右に曲がるという風な 道になっています このお堀の中 こっち側がですね三の丸 そしてこの後が 二の丸 そしてここが本丸 という風になっています なので今から向かっていきますと 左にカクっと折れ曲がるんですね というのが 目の前進んでいきますと 道が左に曲がってるのが 分かると思います だからあの辺りに かつて門がありまして その先が三の丸という風になっていたわけです 古地図を見ていく限りでは この左側に曲がる手前の辺りに お掘があったということなんで 多分この辺りに橋があったんだろうな という風に思って 歩いてきたんですがここにねちょうど 久留米城三の丸堀跡 という風に書かれています 昔お堀があったんでしょう もうね そのような形跡は全然ありませんね ちょっと盛土っぽく 見えるのは見えるんですが うーん これをお堀の跡ですという風に 紹介するのには ちょっと難しいかなという風な感じ まあ何にせよここを 左に曲がっていきますと 次に見えてくるのが すぐに右に曲がる道です 昔の道が現在も残っています さて現在僕が通っているこの辺りが かつて三の丸だった場所で こっから先に進んでいきますと またお堀があって 二の丸になっているはずなんですが お堀はどこなんだ? 一時歩いていきますとこのように 久留米城二の丸跡という風に書かれた 石碑がありますので もう二の丸に来たということは 多分この辺りに お掘があったんでしょうね 向こう側が三の丸 こっち側が二の丸という風に 久留米城の中心地に近づいている様子が分かるん ですが 久留米城二の丸 四方を堀で囲まれた台形状の郭で 藩主が生活した二の丸御殿があった という風に書かれています かつてこの周辺で藩主が 生活していたらしいです お城でお殿様が生活している というのはですね なんとなく皆さんちょっとイメージが あるかなという風に思いますが 昔のお殿様というのはですね あの皆さんが想像するような 天守閣に登って 生活していたわけではなく このようにですね 天守閣があった場所とは 少し別の場所で生活をしていました だから天守閣は ほとんど使ってないん ですね そして道をまっすぐ進んでいきますと 二の丸からさらに奥の方に 本丸が見えてきます こちらが久留米城跡の篠山神社です 大体久留米にお住まいの方々 というのはですね 久留米城というのを このくらいの区画しかなかった という風に考えていますが まあ今回の動画を見てきた中で あ!そうじゃないんだ! ということが分かったかと思います 実際の久留米城というのはですね 大体このくらいの大きさがありました そして城下町なんかまで含んでしまうと もう大きさはさらに大きくなりまして この寺町辺りまでが久留米城という風に考えることもできますので 大体ですねこのくらいの大きさが 久留米城でした まあそう考えるとね 今見ているこの久留米城の跡というのは すごく小さい1つの部分しか 残っていなかったんだ ということが分かると思います あ ここに分かりやすい さっきの地図が載っていますね それでは最後 今回の動画のゴールとなります 篠山城に向かっていきましょう 久留米城の解説がありました ちょっとね読んでみましょうか 戦国時代より土豪・豪族の間 だからこの周辺で 偉い人がいたわけですね そういう人々の間でこのお城を巡って いろいろな戦いが行われていました ということが書いてありますが まあなんやかんやそういった戦いが あった後にですねえ 江戸時代でですね 1621年に有馬豊氏という方が ここにいらっしゃいました 元々はどこにいたかと言いますと 丹波福知山 現在の京都府ですね その辺りにいた人だったんですけれど そこから転封入城し だから 出世したんでしょうね 出世してここに入ってきました 福知山城よりも 久留米城の方が 大きかったようです 以降 廃藩置県になるまで 11代二百五十余年の間 有馬家がここの居城として 藩をなんて言えばいいんだろうな 政治を行っていましたという風に 書かれています このお城は ああ 後はお城の構造ですかね 構造については まあ読みたい人が読んでください さっきの看板では もう小早川の話とかは 全部吹っ飛ばして しまっているんですが 江戸時代以前にはですね 小早川といった武将がここにいたり あとは田中氏ですね 田中氏といった人が柳川にやってきて その市場としてこの久留米城は 扱われていた時代もあります しかしこの説明を見る限りでは そういった昔のことは ほとんど書かれていないようで もう久留米城というのは 有馬のお城という風に扱っています そしてこの久留米城の本丸にですね 確かここだったかな? 昔来たことがあった んですけれど 展示室があるんですよね あったあった 有馬記念館です 展示室内部は撮影禁止ですが 僕の動画が好きな方はですね 結構楽しめる場所だと思いますので 行ってみてください それではご視聴 ありがとうございました

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#観光 #歴史 #旅行

8 Comments

  1. ぬおぉ!凄ぇ身近な場所!!!
    (筑後市出身)

    篠山城は正月に帰省したときの初詣スポットです(笑)

    太宰府みたいに混雑してなくて、良い感じに閑静な雰囲気の中で・・・
    境内の焚火している所で暖まるのが風情があって良いんだわ。

    あと、境内にある祠が凄く個性的。
    本来は神道のはずだった祠の扉にアンドレアス十字が刻まれ、背後に仏式の卒塔婆が立つという宗教的カオス(笑)
    初代城主がキリシタンで、初代城主だから神道的に祠に入れて崇められ、何故か供養のために卒塔婆が立つという・・・

  2. 久留米に祖父母がいてよく遊びに行っていました。田中久重さんがうちの祖先の塾に通っていたそうです。高山彦九郎の亡くなった森家は親族らしいです。すべて懐かしい話でした。ありがとうございました😊

  3. 太宰府市出身です。久留米へは高校受験の為に一度だけ訪れました。古地図を見ながら探索すると地元民でも一生気づかない事を見つけられるから良いですね。

  4. 高低差を示されているので分かりやすいですが、寺町、螢川町の西側の古地図の田んぼになっているところは、まさに今でも大雨時の冠水エリアですね。久留米警察署があるあたりです。

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