【音読小説】ひとつのパラソル/田山録弥【聞く読書】〜作業用BGMや通勤通学のながら聞き、おやすみ前の睡眠導入に〜

大学生のKが 春の休みに帰つてから もう三日になつた。 かれは昨年の矢張今頃に 母と父とを三日おきに 亡くしてゐるので、 そのお祭をするのも その帰郷の大きな理由だが、 それ以上にかれは 常子の眉目に引かれてゐた。 Kはせめてその休暇を かの女のゐるところで 静かに送らうとしたのである。 勿論、 二人の間にはまだ何事も 出来てゐるのではなかつた。 Kの憧憬は 其処にも此処にも その常子の面影を見、 呼吸を感じ、 そのやさしい存在を 描くことが出来るほど それほど強く 色彩づけられて あつたけれども、 しかもその心は 少しも向ふに 通じてゐるわけでも 何でもなかつた。 常子は常にやさしい顔を 静かに裁縫の上に 落としてゐた。 さういふ熱い男の恋心が、 垣に添つて、 または小路をつたつて、 時には塀のかげ、 時には川の畔という風に 既に二年もそこらを 彷徨つてゐるやうなことは 夢にも知らなかつたのである。 やさしい小さな つゝましやかな鳩! しかも今度の帰郷に際して、 ことにKに情け なかつたことは、 既に三日になつても、 未だに一度もその憧憬の心を 満足させることが 出来なかつたことである。 その眉目を 眼の前にすることが 出来なかつたことである。 不幸にして常子は そこにゐなかつたのである。 東京の親類へ行つた といふことは 今日になつて初めてわかつた。 Kは失望したばかり ではなかつた。 いろ/\の不安が かれを脅かした。 東京に行つたのは、 何かわけがあるのではないか。 向うに見合にでも 行つたのではないか。 もはや既にその縁が 決まつたのではないか。 これほど思つた心の一端をも把つて 示しもしない中に、 その小さなやさしい鳩は 飛び去つて了つた のではないか。 さう思ふと ゐても立つても ゐられないやうな気がした。 同級生のSが、 『だつて、それは君無理だよ。 黙つてゐては 何うにもなりはしないよ。 それは、生中そんなことをして、 その珠のやうな恋心に 疵をつけるのは 堪らないといふ その君の心は わかつてゐるけれども、 さういふ風にそつとして 置いては駄目だよ。 もう少し勇気を起し給へ。 恋にも男らしい 勇気が要ると思ふな』 かう言つてこの休みには 是非とも積極的な行動を 取るやうにしたまへと 勧めたことなどが繰返された。 かれは昨日も一昨日も その家の向うを流れてゐる 大きな川に向つて ぼんやりして暮した ことをくり返した。 三日目の朝 KはSからの はがきを受取つた。 Sは今日遊びに やつて来るらしかつた。 __午前の十時には F駅に着くから、 そのつもりで待つて ゐて呉れ給へ__ とそこには書いてあつた。 彼はそのはがきを 引くり返して見た。 生憎だな! と思つた。 あたりの田舎の景色はあるが、 沼や林や大河の眺めもあるが、 それ以上にかれは 自分の恋人を Sに見せたかつた。 むしろそのためにのみ かれを此処に来るべく 誘つたのであった。 生憎だな! 今度はかれは それを口に出して言つた。 しかし何うにも ならなかつた。 かれは二階から下へ下りて、 そこにゐる兄に Sの来る話をして、 『ぢや、ついでに、 お祭りにつかふ 山榊でも取つて 来ませうかね?』 と言つてそして出懸けた。 かれの眼には やがていつもの景色が映つた。 大きな河が。 その河を半ば帆を孕ませつゝ 悠々として下つて行く船が。 自転車や幌をした車や モスリン友禅の帯や 派手なパラソルを載せて 中流近く 静かに動いていく渡船が。 向うのF町の銀行の 二階の硝子に 日のキラキラと 眩ゆいほどかゞやくのが。 遠くから外輪の 旧式の蒸汽船が 古ぼけた青塗のペンキの わるく色の褪せた小さな 船体を此方に見せながら、 茶色の烟を あたりに漲らせつゝ やつて来るのが。 しかしかれは いつものやうに長い間 それを立留まつて 見てはゐなかつた。 かの女のゐないといふことは、 かれに何とも言へない さびしさを与へた。 そのために、 あたりの山も川も 杜も路も沼も 何も彼も すべて全く光彩を 失つて了つたやう にすら感じられた。 Kは佗しい憂鬱な 心持で歩いた。 その日のことに霧立ちて 丘辺の松も見えざりき。 行きける妹がふりかへり 見けんも更にわかざりき。 さばかり疎くありけれど 日数もあまた経にけれど….. いつもなら、そうした歌が 若々しい声のもと に歌ひ出されて、 いろいろな憧憬の思ひ出が 絵巻のやうにかれの頭を 掠めるのであつたけれども、 一木一草も その思ひ出の種とならぬのは なかつたのであつたけれども、 しかも今日は心は全く暗く、 親しい友を迎へるにすら、 それほど強い喜びを 感じてはゐなかつた。 かれの心は 亡くなつた父や母 のことで満たされ、 さびしい孤児になつた といふ考へで満たされ、 不仕合せな青年である といふことで満たされ、 いつそそのまゝ あたりの草の上に倒れて、 思ふさま涙を流さう とすら思つたが、 やがて思ひ返して、 そのまゝ崖に添つた路を 歩いて行つた。 ふと向うからやつて来たのは、 沼添ひの村に住んでゐる Tといふ かれより一年上の 同じ大学生であつた。 別に仲がわるいといふ ではなかつたけれど、 曾てその男が 常子の家へ 縁談を持ち込んだ といふことがあつて、 その話が未だに煮え切らずに なつてゐるといふ噂があるので、 今ではとても問題にならない といふことがわかつてゐても、 何となく 敵のやうな気がして 心が置けた。 Tは莞爾して近寄つてきた。 『何うしたね?』 『いやね、今日ね、 友達がやつて来るつていふんでね。 それを迎へ旁々 父母の一周忌の 山榊を採りに来たんだよ』 『誰だね?』 『Sさ__』 『あ、S君__。そいつは面白いね。 来たら一緒に遊びに来たまへ__』 『有難う』 並んで一歩二歩運びながら、 『何うも、 国に帰つても面白くないねえ。 春休みは何処かに 旅行でもする方が好いんだ…..。 まだ三日にしかならないけども もう飽きちやつた__』 『本当だね』 『何処を散歩したつて、 心を惹くやうなところは ありやしないからね。 沼だつて川だつて 面白くないしね…..』 『本当だね』 かう合わせながらも、 Kはそれも矢張 かの女がゐないため ではないかと思つた。 Tも矢張 さう思つてゐるのではないか。 かの女のためにのみ やつて来たのに、 ゐないので、 それで失望して ゐるのではないか。 かれと同じやうに、 矢張あたりが 灰色にわびしく 見えるのではないか。 『でも、君の方は沼があるから、 いかようにも慰め られるぢやないか』 『駄目だよ。あんな錆沼なんか』 かう言つたが、 路が二つにわかれてゐるので、 Tは帽子を取つて、 『それぢや 本当にS君を伴れて来たまへ__』 『有難う』 かう言つて二人はわかれた。 林に添つた路を 徐かにKの歩いて行くのが 長い間見えてゐた。 街道に添つた林の中で、 かれは頻りに山榊を捜した。 林の中はしんとしてゐた。 やゝ長けた午前の日影が 樹間からさし込んで、 それが草の葉の上に チラチラした。 林を透して白い帆が 二つ三つまで見えるので、 そこに川が折れ曲つて 流れてゐるのが それとわかつた。 Kは折つた山榊を手にして、 じつとそこに立尽してゐた。 ふと向うの街道の方に当つて、 軽い物の音がした。 始めははつきりと わからなかつたが、 次第に近く近くなつて、 やがてそれは 車の音であることが それとわかつた。 かれは急いで 林の縁の方へと出て行つた。 果たしてそれはSであつた。 Sは川をHの渡しでわたつて、 それで此方へと 来たのであつた。 街道はさびしく 長くつゞいてゐた。 あるところは、 二三日前に降つた雨で、 ひどい泥濘になつてゐた。 車はそれを縫ふやうに してやつて来た。 十間ほどの距離に来た時、 Sもそれと気が ついたらしかつた。 帽子に手を持つて 行つて莞爾した。 二人はやがて近寄つた。 Sは車から下りた。 『まア、乗つて行きたまへ』 『なアに好いよ。 こゝで下りるよ』 Sは車夫に金をわたして、 『何うも君にしては少し変だ。 こんなところに来てゐる わけはないと思つたんだが、 矢張、君だつた。 迎へに来て呉れたのかえ?』 『さういふわけでもないが、 今日が母の一周忌でね。 それにあげる山榊を取りに 来ながらやって来たんだよ。 早かつたね?』 それには答へずに、 『そうかねえ。 もう一周忌かえ? 早いもんだな』 いかにも同情するやうに しんみり言つて、 『さうして山榊を持つて ゐる形は詩になるね__』 今もさう思つてゐたんだ…..。 不仕合わせな青年と 母と恋人と…..』 『このあたりの林と草と__』 Sも合せた。 林に添つて歩きながら、 『こゝいらだね。 君がかの女を思つて よく散歩するといふのは?』 『さうだ…..。』 『好いところだな。詩だな…..。』 『しかし、この春休みは 徒に過さなければならんよ』 『何うして?』 『先生、東京に行つちやつたんだ__』 『ゐないのか?』 『折角、君にまで来て貰つたのに….』 『そんなことは構はんがね….。 惜しいなア…..』 『その中に帰つて来る だらうけれど…..』 『それは惜しい。 しかし、君の苦しんだあとは ちやんと残つて ゐるんだから好いサ。 兎に角に好いところだね?』 『田舎サ』 二人はこんなことを 言ひながら歩いた。 昼に近い日陰は 林の中を透して 車や笹の藪の上に 徐かに落ちた』 『つい、さつきTに逢つたつけ__』 『何処で?』 『その向うのところで。 君が来たら一緒に来ないか なんて言つてゐた…..』 『この近所かね?』 『この向うの丘を下りると、 沼があるんだが、その傍らだよ』 Sは黙つて考へるやうにして 二歩三歩足を運んだが、 『Tもな、もう少し本当だと 好いんだけどもな』 Kは同感らしい笑を 唇に漂はせたゞけであつた。 それについては 別に何も言はなかつた。 車を捨てたところから まだ二町と歩いて 来てゐなかつた。 ふとまた車の音がした。 しかしKもSも それを振返つて 見ようともしなかつた。 かれ等は互ひの話に心を 奪はれたといふやうにして 徐かに歩いた。 しかも後から車が 来たといふ感じは、 Kにもエスにも 起つて来てゐない ことはなかつた。 Kはことに それを早くから感じた。 しかしSがかうして 来て了つてゐる今では、 さうした車の音は 何の誘惑をも起させなかつた。 医者か何かの車ぐらゐにしか 思へなかつた。 走つて来る車は やがてかれ等を追越す までに近寄つて来た。 先きにSが振返つた。 派手なパラソルが見えた。 つゞいてそれを 半ば傾けてゐるやうに 白い美しい顔を 微かに見せてゐる 十七八の娘が映つた。 それはSと同じ二等室に 上野から乗つて来た娘だつた。 その眉の美しさに 長い間見とれて来た娘だつた。 Kがつゞいて振返つた。 Kははつとした。 かれはその目をすら疑つた。 そこにはかの女が ゐるではないか。 パラソルを傾けて、 顔を赤くして、 微かに此方に挨拶してゐる かの女がゐるではないか。 その姿を見出すことが 出来なかつたために、 この三日といふもの、 あたりのものが 全て鈍色に見えたほどの かの女がそこに ゐるではないか。 Kは二三歩歩いて そつちへ行つて、 『今、帰つていらつしたんですか?』 『え…..』 常子は顔を真赤にした。 そんな派手なパラソルを ずつと向うにやりすごしてから、 Kはうめくやうに言つた。 『君、あの人だよ?』 『ふむ…..あの人かえ?』 Sもかう言つたきりだつた。 二人は黙つて歩を運んだ。 派手な蝶の模様の出てゐる そのパラソルは、 長い間 徐かにその二人の眼の前に 動いて行つてゐた。 日影は明るくあたりを照した。

作業用BGMや通勤通学のながら聞き、おやすみ前の睡眠導入に音読で楽しむ小説です。

今回の大人の読み聞かせ作品は
田山録弥 作【 ひとつのパラソル 】
https://www.aozora.gr.jp/cards/000214/files/48947_63554.html

田山録弥(本名) – 別名 田山花袋(1872年1月22日 – 1930年5月13日)
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音読者
三宅克幸/俳優
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