【原始仏教③】人にどう見られているのか気になる…強くなりすぎた自我と向き合い続ける。【釈迦の推し活】

古田さんお疲れ様ですあこちらこそお疲れ 様です皆さん今日も色々古田さんに仏教の ことについてお聞きしたいんですけどいや 釈迦の仏教ってしめどくさいよね本当に めどくさいと思うもわからないこと ばっかりですうんだけどすごいね心理だ から教えだからね知っとくといいなという おせかいっぷりで今日もやらせていただけ たらと思ってますですねちょっと前回お 聞きしたことで関ムガのことでちょっと まだあのついてお聞きしたいことがあるん ですけどあそうだねちょっとまにこの諸法 がちょっと言っとこう諸々の断り世のね ルールは本当は自我を生きている我々だ けど自分を生きてるけども自分なんてい ない自我は本当はないフェイクの自分を 立ち上げて生きていくのが人間の人生 世の中やに本来のこの世の心理は釈迦はあ あらゆる本当の心理ルールは無がなんで ある我なんていうのは挙行なんである フェイクなんであると言ったという処方無 がこれ大事な釈迦の教えの中核ですはい そこで前回僕が具体例で例えばえ怒られた 時に処方ムガな悪用として例を出すとする ならばはいえそこでいや自分なんていない んで怒られてる自分もいないんですうん うんけどそれはただの開き直りで田さんは 無がじゃなくてボガですっておっしゃった と忘れるそれは間違いないですまあボガ7 ってのは僕の試験だよねガ自我の中でえ 自我の自我初でボガになって我を忘れた ふりをしてるだけだから無がではないって いう風に言った確かにそれは全然無じゃ ないですよていう風に教えていただいたん です教えたつうかねそっからさらに ちょっと色々考えましてこういうことか なって思ったのはうん怒られてるとします でその時に僕の心の中でその怒られてる姿 をを周りで誰か見てる人がいてそこでえ僕 の自我があ怒られてるとこ見られてるの 恥ずかしいなとかえ怒られていや僕は もっとこういう思うことがあるんだけどっ ていうそれが自我なのでそれを消してい くっていうえどう見られてるか気にしな いっていうのが無がになることなのかなと 思ったんですけどそれはどうなんですか うん違うと思いますねそれもあ違うです うんだからまずちょっと今せっかくいい 質問いただいたのでちょっと繰り返しに なるかもしれない前回言ってるかどうかも 忘れちゃったんだけど [音楽] あの 自殺したいと思ってもま本当は死にたく ないんだけど生きることが辛すぎるって 悩みの極地にあった時に僕は釈迦の仏教 ってのは大切な救いになるとは思ってます けども悩んでる死体である自が自分がい ないんだから悩むことなんかないんだよっ て究極の救いになるとは思ってますが急に そこには行けないねいけないからやっぱ命 の100登板とか色々連絡したり色々話し たりする時にもう死にたいんだと本当は 死にたくないけど生きていられないんだっ ていう辛さをねえ持ってる 人に対応してる人から昔聞いたこともあり ますけれどもほとんど悩みの局地にいる人 の 確信 は自分は人からどう見られている かあんな風に見られてるけど本当の自分は こんなんじゃないもっとちゃんとしてる あいつは自分をこう見てああいう風に陰口 叩いてたけど俺はそんな人間じゃ ないだからもうね自分が考えてる自分と 周りが自分をこう見てるっていうのは ギャップがありすぎるなんで人はこう見る んだ私はどこからどう見られてんこれが 大体悩みの中核だとうん言いますよ僕は それはその通りじゃないかなって思って ますだから自我っていうのはくももいい とこでね自分として生きていくってのは 立派なことであるけれども同時に自分自分 自分がエゴになっていったり自識過剰に なったり自我が肥大してくると悩みも増幅 するってのはそこであってそういう時に 本当は自分なんていないんだよって社会の 教えが役に立つよって言ってるだけでで あってもう1回戻りますけど例えば僕が ガガ工藤君に怒って人からどう見られてる かっていうのを見た時にかっこ悪いな 恥ずかしいなと思うとかそれからいや 恥ずかしいと思うのがさらにかっこ悪い からね怒られてそれをちゃんと聞いて 受け流してるふりをして演技しようって 思って一旦右から左に流せばいいやと思っ てるのはふっと楽になるかもしれないけど 全ては自我の演技でしょはい恥ずかしいな と思う自我の素直さでありから恥ずかしく ないよっていう演技を貫いて少し楽になっ た気分になったとしてもそれは詮自我の 振り付けだから無がとは違うんだよ ね分かる無がっというのはそもそもそう やって恥ずかしいとか恥ずかしくないとか 楽になったとか思ってる自分がいない状態 だからそれをめどくさいけど社会は心理で あると本当のことであると言った僕らは許 生きてるわけです僕にも自我がたっぷり あって自分を生きてますから巨ACTから 逃れられないこの世人間世界を生きてると 思うでも社会は人間世界は愚かこの世の システムとか極論すれ宇宙のシステムとし て自我なんてないと言ったわけだから心理 ってのはある時苦いし分かりづらいしめど くさいだもう1回言うけどもそれは自我の なせる技だから無がとは違うと思うんだよ ねももうちょっとなんかある質問そるそれ で言うと 人の目線というか人からどう見られてるの かっていうのが気にならなくなったらそれ は無駄ですかいやそれは自我の開き直り でしょうねああなるほど最後まで人間と いうものは気になると思うだから釈迦は 悟れを開いてそれも前にも言ったね一瞬 ですから釈迦は永続的に悟りを開き続けた わけじゃない人間として生きてる限り必ず 悪魔がさくつったまた自我が釈迦の中でも 揺り戻しで起きてくるのよそれをずっと 冷静に見つめて瞑想してトレーニングして 常に無がの状態を作ろうと努力した人だ からで35の時に苦労の果てに6年間の 苦行の果てに一旦無がの境地に入って悟っ たんでこの世の心理を決してずっと悟り 続けて80まで来たわけじゃないから自分 の肉体引きずって自我を引きずって歩いて たと思うよ釈迦もでもう1回言うとだから いつまでも自我の中なのだから例えば自分 がどう見られてるかってことの一連になる かどうかわかんないけど人間ってのは証人 欲求があるでしょ自我を持ってる生きてん だからね自分が自己評価してんのと他者が 評価してんのがギャップがあるしくて イライラするでしょ自分はこう演じてる 例えば父親を演じてる自分は息子を演じ てる自分は会社で部長を演じてるそれから 好きな女性と会ってる時は違う男を演じ てるいろんな風に1人20 人ぐらいやってたりしない生きるって それぞれ違うじゃん故郷帰ったら娘になっ たりね東京に来たら単身者として演技し てると思うんだよみんなそれぞれ局面局面 で演じてるでその演じてるとこがある程度 満たされてば証人欲求を満たされて人も 同じようにあなたはこういうタイプだって 役柄を評価してくれれば満たされるところ も多少あって後の悩みも乗り越えていける 耐えられるかもしれないけどみんなが否定 的に見て自分が演じてる1人20人役を 全部違う違う違うとかおかしなやつだって 言われたら頭来るよねで通りみたいなこと をやったり電車の中で暴れたり人を刺そう としたり人を殺そうとしたりいろんなこと 起きるよねとんでもないことであれでよく 全てじゃないけどよく言うセリフに むしゃくしゃしてからやったっていう言葉 あるじゃないむしゃくしゃしてたからやっ たってはいこれをよく聞いてむしゃくしゃ してたからやったむしゃくしゃしてたから やった昔役者やってたからと俺には 聞こえるよ昔役者やってたからみんな役柄 演じてんだよこの自分という役柄を分けて こっちの部長の役柄こっちの部屋では父親 の役柄そうやってストレス貯めていくんだ 演じてるからでもそれが満たされてれば 自我もそこそこ満たされて悩みも抱えて 生きていけるけど全否定されたらね昔役者 やってたんだと字がむき出しで人巻き込ん だろわって究極の英語のひどさになってく ような気がするだからがそういう風になら ないために苦しさから救われていくために はこ難しいけど僕は釈迦の武器は大たなと 思って証文の話を生きながら自我の私がさ せてもらっ てありがとうございますうんだからあの 簡単なメソッドは簡単ではないけど メソッド作法はあなたが言ったこと悪い けど全部それ自我のうちだっていうね言っ てるからあのガガ先輩に説教されててその 自我を神に乗っけ身軽になったつもりでい ても神ないごめん荷棚にね電車の荷棚に 乗っけて身軽になったつもりでいてもそこ に自我がある限り自我のうだよなんて名前 なこと言わしてもらったんでもう1つじゃ どうすらいいのっていう無に無の岸辺に たまには行くことはどうしたらいいのよっ て言うんであればそれでや悩みが縮まるん だったら嬉しいことだからどうしたらいい のんだったらそうやってガミガミ言われ てる時間を自我の世界で過ごしだって ビジネスで繋がってる先輩後輩上司と部下 全部ネス全部このよ全部人間世界で起き てることってのは自我の塊りだからみんな ビジネス世界とかだからそこは自我の中の 演義として全部こなして傷つくし悩むし なんであんなこと言われなきゃいけないん だハラスメントじゃねえかいろんなこと 持って打ちで1人になって寝る前にずっと そんなことを色々思ってしまった自我を 見つめるってことめどくさいけどじーっと 自分の心臓を意識するのと同じように鼓動 をずっと聞てたらつまんないのと同じよう にめどくさいけどずっと自分の中の根底に あるその釈迦が巨というよがフェイクと いうがその自我あると思ってしまっている 自我をずっと見つめてこう傷ついたこう イラついたこう頭来たこう嬉しかった ずっとやって自我と向き合ってるとふっと 自我を客観的に見つめる目が出てきたら 閉めたもんだからうんそうするとあ自我 ってこういう世界かなって想像しやすく なるとね僕らは社会にはなれないんだから さ無の境地まで一旦旅することはできない と思うよでもそれをふっと思っとと自我 から一瞬離れそうするとある時自分を 突き放して生きてみるっていう表現が 生まれたりね自分を生きてみようっていう 風に客観的に自我の方を見つめて絶対自分 から逃れられないから自分を生きてみよう と思えるかもしれないそこ自分を自我を 客観的に見つめる作法を僕ら持っとくと僕 も組めたよ僕もできてないから瞑想なんか ちゃんとできてないからそういうことは 大事かなと思っ悩まないためにまた悩みを 小さくするために生きてくことって必ず 悩み うんうんどうでしょうか他なんか質問 ございませんかシフムガのパート2になっ てますね今日はそうですねはい自分なんて いないという社会た心理どうですか小田 さんなんかそうですねホームがそうですよ ね自分なっていないっていうそのま無がが 心理であるっていう話をちょっとして いただいたんですけどあくまでも心理そう ですねでも無がが心理なのであれ ばなぜ自我が生まれたのかという かなぜ人間に自がなるものが生まれちまっ てんだとそうですねムガが心理なら心理 通り生きりゃいいしそうですねなんで人間 にそんな反対のでしかももう自家の塊り みたいな人間という存在うんになって しまっているのかていうはい分かりました 分かりましたっての前だけど私が佐々木静 先生から教わったこと え無活で色々釈迦の仏教古い仏教を ちょっとかじったり中で言えることを 引きずり出しますとねあのまず第1にえ 人間が得意な存在である生物の中で同植物 生命体生物と言われるこの地球という奇跡 と言われる奇跡の星の中で38億年前に 生命体が生まれてそっから動物植物もこう なって今があるでそういう時に人間だけが 得意な存在になりました何回も言うように 人間と同等にあるアングルで見れば頭が いいチンパンジもボノボもゴリラもそれ そんな人間みたいな喋る生態を持ってない し言葉という煩悩をこうやって繰り出し ながら喋って心理の話をしてるという矛盾 もあるわけですけど人間だけが 1450ccあたりの平均値取れば ものすごい脳みそになっちゃったうん自分 っていう設定を作る意識のもしわしわの あの脳みそもめっちゃでかくなっちゃった もう同植物会で得意な存在だよね俺は いくらに呪目意がうん物この大木の桜も この欅も語ってんですよそれを耳すますっ て素晴らしいなと思うけど人間ほど俺 みたいなおしゃべりの俺欅見たことねえし ね動物でもこう我が輩は猫であるってあの 日本語喋ってる猫見たことないしだから 人間だけが頭でっか値になっちゃったから 自我が強いんだよもうどうしようもなく 自我が生まれてしまったんだよ頭でっか値 で自分とは何か世界とは何か宇宙とは何か この人間が生きていくとはどこ何なのか 自分はどっから来てどこへ行くんだろうっ てのは脳みそがでかくなっちゃったから 時間が肥したってのが一点だから他の動物 たち生き物たちよりかなり悩んで自我が 強いなってのは言ってでもじゃあ動植物 全部入れて動植物に自我はないと思われ ますが言葉もないし自我もないと思われ ますけども本能的に生きてるわけじゃない 動植物人間も含めて全部一食端にすれば みんな本能的に生きてるよねでそれで言う とえ人間だけは得意な存在だっっていう第 1点と第2点に入るとなん で釈迦が言うように現れもない真実は本来 は無がなのに自分っていうのを設定して 生きるかっていうと頭でっか値で社会的な 動物になろうとして人間はここまで頭が でかくなっちゃって社会文明社会を作った からああ織田さんああ工藤さんああ古田さ んって言い合うこれがもう社会的システム じゃんうんねあなたは無駄なんだから名前 なんかない俺なんかも名前ないんだた そもそも俺っていう設定もねんだとか本質 的なこと言っちゃったら社会的な動物とし てビジネスもできません学校にも行けませ ん働くこともできません経済原理の システムのこの強行の原理で生きてくこと もできませんだから自分っていうの設定し ざるを得ない環境があり頭がでくなっ ちゃったから文明を産んだんであり言葉を 産んだんであり神和宗教を作ったんであ りっていうことがあるからなるもう どんどん釈迦の言っている諸法ム画という 心理の一端から離れてったのが1つで2点 目さっき言いかけて途中で終わっちゃった んですけどあらゆる動植物にも本能があり ますこれが第2点目ですこれ本能これ釈迦 の仏教で佐々木静先生からった言葉に 言い換えると自己保存の法則を人間は1番 強く持ってます自我が強いから他の動植物 生命体も自己保存の法則を持ってます本能 を持ってますなぜかつったら3宿命的に 38億年前太古の海で我々の祖先が初めて この星で生まれましたこれは科学が証明し てることです38億年前体育の海でチアの バクテリアと呼んだりもしますけども今の 我々の核遺伝核この核が生まれたそして今 の我々の1つ1つの細胞の中に入って酸素 を共通する重要な役割を果たしてるって 言われてるえミトコンドリア ミトコンドリアは別物でしたこの前も言っ たけどでそれがこうある時M&Sでツルン と中の核の大人しい核の中に活発的なえ ミトコンドリアの元祖が入っちゃいました ほでM&Aが成立してえなんだろうね言っ てえラインyooみたいになったわけです よ1つの細胞になったわけですよでそれが え我々の祖先え単一の単細胞の生命体だよ ねもうすでに2つが1つになって袋の中に 入ってたわけでしょ波一側の岩場とか海水 の泡がちょうど風船の袋のようになって その中で野さんとかいう期待が結びついて どんどんどんどん複合的な寄り合い状態の 生命体も生まれてきて5億年前の古代冠 焼きなんつったら今で言えばもうイカでも タコでもないような多様性の極みの脊椎の 魚がある骨がないもう海の生物がうめえて 多様性になってその1番始まりの386年 前で言えば本当にその38億年前の生命 生まれいずる瞬間からすに袋に守られてた うん袋に守られてるから外的から身を守っ て生き延びていこうという本のがもう すでに放がとしてそこにある芽がでそっ からどんどん寄り合い状態になってしまえ ば寄り合い状態が今度はわーっと 生き延びるために集合の方がいいからイの 大軍のあれと同じですよねそれが1個体に なってしまえばもっと逃げやすい生き延び やすいっつって身を守ろうという本能が あらゆる動植物に生まれてるわけだでそう いう摂理を産んでしまた以上本能がある 限りエゴイスティックに生き延びようとし て自分を守ろうとするでそういう果てに 挙句に進化圧これは適者生存だから偶然と いう言葉しか言いようがないけど神様が いるわけじゃないから偶然700万年の 歴史でこんな頭でかで喋るようになって しまった人間になってしまえば不自然な までにでかいんだから特殊な存在なんで 自我は強くなるよねうんそうすると釈迦の 言った本来は諸法無がですよこの世の断り はっていうことから大きくかけ離れて例外 的に生きてこの星を80億のウイルスが 制圧したそれが人間 でしょっっていうことなんですよだから 釈迦の言ってることと我々が生きてる常識 が大きくかけ離れて自我から逃れられない 私がいますっていうことなんですよねだ から科学が進展して文明が進展したから 科学れて科学が進展したから本来自我 なんてないですよって科学が証明しちゃっ たんだよね言ってみれば人間はこうだから ああだからこういうのを持ってこういう風 になってるだから従って永遠不滅の魂は ないとかこのあられもなく科学の方がいっ ちゃったんで釈迦の仏教と今進展1つあっ てあられもなく人間とは何かっていうのが まだもちろん人間の意識心ってのは未着種 の科学だけどもそういう科学と釈迦仏教が だんだん距離を詰めてることは事実ですよ ねだから僕はこういう風にデータが神様に なってデジタルでこの世の中が進展して いくAIの登場があった時に今こそ釈迦の 仏教かなつと思ってその釈迦が言ってる ことの手裏とか心理みたいなものを時折り 拾ってこういうに話しうんだからなんで 自我が発生したとのは素晴らしい質問で女 も心理のままで無がで行き合いのになんで 心理生まれたったまず我々は生命体である 生物がどうしようもなく宿命的に持っ ちゃった成り立ちがあるさらに人間がと いう風になっても少なくともホモ サピエンスという元政人類は20万年経っ てますから20万年の間でこんな風になっ ちゃったってことは昨日今日急に人間に なったわけでそれがまた宿命的に自我を 膨らまして自我がなきゃ生きていけない 社会的なシステムを今こうやって作って るってだからそういう時に絶対悩むでしょ 悩むよねだから釈迦の仏教が必要だねと 言ってるんで我々は間違った世の中を生き ていくしかないと思います 質問してもかはいはいありがたい です今その出た本能っっていう言葉があっ たんですけど本能と無がはまたちょっと 違う本能っていうのはムガではない釈迦の 言ムガではないと思われますというのは 本能っってのは自分が生き延びていくため の防衛本能を本能と僕は言いましたので袋 に守られてる宿命があれば袋から出たく ないし袋を攻撃して人間から身を交わそう とするでしょうんうんはいでしょでまして その1個1個の細胞膜が僕らあって白血球 です積極球ですつって秩序が保たれてその 37兆の寄合状態が1つの人間1個体の 人間だからそうなった挙にはどんどん 生き延びようという本能が強くなってる でしょはいだからその自己保存の法則本能 を持ってる限り苦しみは嫌ますよと釈迦は 言って心理として本来は無だからねでも 自我の世界を生きるんだたら無の世界があ るっていう風にほどほどの自我で行き なさいと言ってると私は解釈してますはい 必ず20代30代の方は僕は70代に 差しかかったからこんなことを自我が陸戦 して攻殻が飛ばして四つにまみれながら めえてますけども自我の塊りですけどこれ から確実に思い通りに行かない世界が待っ てますからこれ失礼あのネガティブに言っ てんじゃない喜びもえ楽しみもいっぱい あると思うよでもそれも全部ひっくり返し はえ社のいうとこは苦しみになっていくの でまず無がで本来は無だけど無がにはなれ ないなっていう自分を見つめる自我を 見つめるから諸行無常で固定した自分 なんか嫌しなくて自分自身もどんどん 移り変わっていくんだなっていうことにも なるわけだしえ今度また機会があったら 話したい一切かくって釈迦はまた心理の1 つとして言ったこれ全部所業無上と諸法 ムガと繋がってますけど人生生きる上で 一切が苦しみなんだ皆苦しみ超ネガティブ シンキングに聞こえることも機会があっ たら今度ね話したいと思うしもう1つ今 思いついたんだけど工藤君が前回か今回か あの質問してるあのあれで自が自分って いうことで言うとやっぱり自分から離れ られることはできないよねうんだからこそ その自分を冷静にどう見つめるかっていう 話に尽きるような気がしますうんうんその 言ったたもう1つの質問なんですけどこれ はちょっともしかしたら釈迦とは離れて しまってすたちさんのご意見を伺うって 感じになるかもしれないんですけど さっき言葉っていうワードも出てきたん ですけど古たちさん は言葉が生まれたゆえに自我が生まれたと 思いますかそれとも自我が生まれたから 言葉が生まれたと思いますか簡単に科学的 に言うと脳みそが発達したから言葉が 生まれたと思ってますなるほどだから脳 みそが発達するってのは偶然ですからはい はい進化の過程ですから神様が決めたもん じゃないんですよ宗教的には神ってことに なりますけどもえ大場仏教的には仏なのか もしれないけどの仏教ではそういう絶対的 な存在を認めませんのでそれで言えば偶然 自然としか言いようがないそこでこんな風 に頭でっかちになっちゃった時に言葉って いう道具立てや言葉っていう煩悩のツール を持たないと自分はどっから来ての自分 どっから来ての言葉どこへ行くんだろうっ ていう探求心は脳がでかいから生まれるん でその時言っていうのが自然の中で生まれ てきたと思ってるんですだから言葉があっ たから言葉とうん煩悩があったから自我が 生まれたんじゃなくて元々自我の目が脳 みそが大きくなったことによってさらに 強まりえ脳みそがでかくなってからえ自我 が強まり言葉も生言葉ってのは区分けして いくから自我そのものですよはいで言葉を 生みそして宗教を生み神話を生み文字を 5000年前に生み文化文明が生まれて 文明が進展して今のテクノロジー社会 そしていよいよAI人間を超えるかAI かっていうとんでもなくデータ試乗し データという神様の登場した今の時代に 途中のしてだと思うだって売れる製品が昔 よりないんだからあらゆるものを人間は 物ぐさになりたいために自我の塊として 色々生んで成功してきてでも人間の心は いつまでたっても救われない人間の頃は いつまでたっても悩みを大りしものしかし ながら道具建てには恵まれて自分が金稼い で豊かになって前座有作みたいになれば あらゆる欲しい物品は手に入るかもしれ ないいつまで言っても埋蔵作さん話した ことないから失礼な例出しちゃったけど いつまで言っても俺なんかは心に空気さ ありますよこんな風に喋り手としてやり たい仕事やらせてもらってこんなにも幸せ だと思ってる反面どっか心にすま風が吹く こともありますよ年なそういう時に釈迦の 仏教をそんな心理には近づけないけど俺は 釈迦の仏教を多少は触れてるって思いたい だけなんだと思いますよだからもう1回 言うけど僕は順序を言うんだったら鶏卵か もしれないけどやっぱり脳みそ自我そして 言葉だと思ってますうんはいありがとう ございますはいあの工藤君はどうですか なんかあった1番の話に戻ってもいいし いつまでもあなたは自我の中だって言った けどもあのいつまでもってそのあの例えば 自我の中だって言ったけどそれでも ちょっと堂々めくりでなんかあったら聞き たい色々まだ頭の中で考えてるんですけど はいシフム画っていうのは結局煩悩がなく なるって煩悩がゼロになる状態ですかそれ は違いますか ないない状態ではあるけどもそもそも煩悩 ってのは虚偽だからね人間の自己保存の 法則本能そして釈迦の仏教ではこの後の 仏教も言いますけどその後も豪ですカルマ とも言いますでその豪が根っこにありえ5 とかもっと下に式とか色々あるんですけど 5というものがあって脳みそが頭でっかに なったからですよと僕は科学的にはそう 思ってますけど豪発凡の豪発割愛うん乾い たもっともっともっと自分が愛す前に人の 方から愛してこい愛愛したい愛されたい 割愛要求あんなに楽しかったんだから ディズニーCでUSA行ったらもっと 楽しませろその分タイマ生て金出してん だっていう自我こういう煩悩や自我や欲望 とも言える活こういうもの一切合さが 根っこに自我とかそういうものを含んで あるわけですよ5だからこの豪を外した 状態が本来の心理無ですからうん全部自我 の中にあるじゃないですか自我の根っこに 今みたいなのがあるじゃないですかだから 楽しいことも大かしだけどそれと当分の 苦しみがやってくるだって最高の腰をこの 後3人で食べたら次同じもの食べても前の が美味しかったねっていうのが所業無常で あり処方自我でありていことなんですよで 苦しみも産むんですよもっとうまいもん 食いたいっていうさっき言った煩悩とか そういうものがどんどん出てきちゃうって ことちょっとそれた今答えいえいえいえ うんだとするとえうんだからあなたは無が を今分かろうとしすぎ自我の中でわかん ないんですよずっと俺も織田も工藤も一緒 にして悪い けど自分の自我という化け物自分という 設定しまった化け物と付き合って添い遂げ て生きて死んでいかざるを得ないんだから それに寄り添って自分を冷静に見つめてい くって作業の果てに無がのほりがどっかに ありそうだなという匂いを限るように なれるかなっていうことのことを言って その方が自我がシューンて縮むから悩みが 半減するよってことを仕切りに叫んでるん であって何もあなた方に他方刀を売りたい わけでもこの晴天を3000万で買えつっ てないんだからここは信じてほしいそう いうこと言いたいんだって今頭の中で整理 整頓して商法ムがということを理解しよう と思いすぎそれは自我の中ののサイクルで ホームがは分かった気になってもそれは 自我の範囲ないこれは長い時間かんだだ から分かろうというのも自我だからあの 自我とは何ぞやが分からない前に分からな つってる自分の思考回路が分からないって 話ですから釈迦の仏教を突き詰めていくと だから分かんないことをとりあえず言葉で 分かった風に決めて分からないことは忘れ ましたって忘れたって言葉を使ってさあ 明日のために寝ときましょうって言葉を 使って洗面所行って歯が寝るっていうのは 全部自我の世界のこの世のをやらなきゃ いけないことだからそこで生きる宿命は あるよだけどそれだけでいいですか本当の 心のリゾートを持ってた方が悩みが多い時 には役に立つよねって話でしかないんです よだから全面的に幸せになりましたつうん だったら自己啓発セミナーに行った方が いいんですねうんという話なんですだから 今ちょっと3分間で自我を分かろうあ処方 無を分かろうとしてるそれはどっかの 早分かりセミナ言ってくださいもう明らか に時間かかりますこれは漢方薬なんてもん じゃないですホムが言ってる俺が分かって ないんだからよく少しずつ分かりかけよう と努力してるだけの話ではいうんなんか それ私の意見も自我になると思うんです今 の感じだと違になっちゃうとは思うんです けどはいはいなんか自分なんていないって いう心理を解きながらうん自我を人間は 自我を捨てることなんて無理だって言われ てる気がするんですよ私は人間は自我を 捨てるこ捨てるってか自我をなくすること なんてうん無理だ言われてる気がする言っ てんですよ言ってんそうそうですね真理は 無だけ無と言い つつ人間は自我をなくすことはできないっ てあのよほど釈迦みたいにならなて悟ら ない限りねもう釈迦自体から言われてる気 がしますなんかそう勝手に勝手な私のその うん イうんそうだと思います俺も俺もそう思い ますだからこそ知っといてきいうの我々は 巨を生きてる偽りのよを生きてる幻想と巨 を生きてるで自我という虎に囚われて生き てくってことを知った方が知らないで自我 なんかを自我なんて言葉も知らないで もっと幸せになりたい生きて生まれてきた からにはもっと良くなりたいなれるはず だっていう風にポジティブシンキングした がゆえのしているがゆえの苦しみそこを 逃れるためには初捨てらいないんだけど それの根っこをちっちゃくしよって話です からうんだからこれを抱えて生きてくるん ですその抱える心の中のリサを軽くし ましょうっつってる話ですから絶対捨て られないと思います釈迦もそう言ってるだ から釈迦は私のようになるなんて何も言っ てないです本当の心理はこういうことなん でそれを踏まえたよで生きた方が楽ですよ と我々働いて汗に垂らして働いてる連中に 言い続けたのが80歳まで ずっとコジのにして歩いたのが釈迦なんで そういうことなんですよ苦しみを軽減 するってこだから処方部がを理解しようと いうよりまず自家を見つめようと思うこと が僕らに大事なんだ自我の塊りで生きてる んだとそれもこれもエゴイズムそれもこれ も古たちのわがまま偉そうに言ってること も全部自分の自我のうち偉そうに言葉で 塗り固めてるけどっていう風に自分の中の 悪を見つめないとどうにもならんと思ほで 悪じゃなきゃ生きていけませんからこの 世界そうですよだって無で生きるってん ならあのもうもうちょ今まで生きたんでえ 十分生きたんでそれじゃああの死なせて いただきますみたいな話になっちゃうから それはそれで良くないと思うんでやっぱり その悩みから軽減されるっていうのに とっても大事な教えだなぐらいの感じが いいんじゃないかとそれでもまだ字があ 諸法ムガをすぐ理解したいですか考え ちゃいますそれは難しいですよずっと 考える自分を見つめることしかないですよ うんまた次一切回とかねそうですね ちょっと回の話もちょっと聞きたはいこれ は苦しみ生きるということは全て苦しみで ここにあの一切回復の橋渡しと僕が思っ てるだけで違うというもう佐々木先生に 聞いたら違うよって言われちゃうかもない けどでも一応僕の勝手な捉え方では一切 回復の前に1つ置かないといけないのは小 老拍子あるいは小っって生まれるこれを 取った老拍子とこの頃は言ったりもします けども昔は小浪拍子この4つの言葉で 表せるのが人間の人生だと社会行ったん ですうん生まれてどわか頼んでもいないの に生まれてきておいてそして病にかかって 死んでいく小浪拍子が人の一生だとまた ネガティブなこと言ったわけです釈迦はで その後に一切回っていうことを言ったかな と僕は順序を勝手に決め込んでます違うか もしれないだから一切回復のお話をさせて もらえるんであれば今度老病死だっって いう風なことを頭の中でとりあえず仮に 理解しないとに人生は苦しいよって言っ てることは理解できません楽しいことも 嬉しいこともあのに何も思って全部 ネガティブ言ってんだになっちゃうんです けどもう俯瞰で見てますから人間の一生 釈迦は自分の一生も自我も全部俯瞰で釈迦 は無がの境地から悟ったんで見てますんで 自分の自我も認めつつ人間の人生の一生 っていうのは生まれておいて山に勝って 死ぬことこっから見た時に人生は一切回復 だっていう方位3つの印のうち3つんを 言ったんですねこのようのルールでこれ 今度お話できたと思いますけどはいぜひ はいちょっとじゃあ小量拍子のお話から ちょっとはいありがとういけ [音楽] 思JA

釈迦の教えを古舘節で解説します。
前回の『諸法無我』の続きです。

①諸行無常

②諸法無我 其の壱

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🔽仏教対談シリーズ
・みうらじゅんさん

・笑い飯 哲夫さん

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🔽古舘と客人と(会場:丸の内コットンクラブ)
vol.13ゲスト:山里亮太さん
7月18日(木) 1830開場/2000開演
https://www.cottonclubjapan.co.jp/jp/sp/artists/ichiro-furutachi-240718/
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🔽書籍
📚『人生後半、そろそろ仏教にふれよう』
7月17日(水)発売決定!
大手通販サイトや全国書店にて予約受付中!
https://x.gd/vjqWZ
PHP新書 1,144円(税込)

📚『伝えるための準備学』
7月22日(月)発売決定!
大手通販サイトや全国書店にて予約受付中!
https://note.com/hironobuto/n/n6554fd89084f
https://x.gd/DutWa
ひろのぶと株式会社 2,200円(税込)

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◯古舘伊知郎/YouTubeチャンネル『古舘Ch』公式

◯【非公式】TalkingBluesファン倶楽部(仮)

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34 Comments

  1. 大乗の解釈や伝え方ならもっと伝わるかもしれないけれど、釈迦牟尼の教えを純粋に伝えるのは相当難しいからな。

  2. まさに私のツボのお話し。それを懇切丁寧にしてくださって、とても嬉しく古舘さんのファンになってしまいました。ありかとうございます。これからも引き続き、このお話し聞かせてくださいね。

  3. 自我錯覚は大乗仏教の唯識思想に入ります(末那識)
    佐々木閑氏も動画内で原始仏教において自我のことではないと言及していました

    我というのは実体のことで、五蘊という世界を捉える自己意識に実体は無く変容し続けています

    心も含めて自分の所有物は一切無いということ

    世界(諸行)は因縁によって変容し続ける(無常)
    自己(諸法)は実体が無い(無我)
    と覚ると苦を受容しなくなるので、結果、苦滅に至ります

  4. やはりわたしは釈迦になんかなれないしなりたくもない
    道徳と理性を持って、自分の心と相談しながら生きればいい
    自分を大切にしてあげなきゃ❗

  5. 諸法無我?。物には凡て我が有る。あなた、我が有るが故に今存在して居る。故に我が有る物が実在する。我は固定しており不変なもので、我は芯。凡ての物には芯が有りこれで世の中は成り立っている。自然界に於いて凡てが固定しているが故にその法則の下にもの事が動く。「流れは絶えずしてしかも元の水にあらず」水は我そしてこの水の流れも我。この固定とは宇宙の法則。法則は最大の我。これが無ければ生物は存在出来ない。我の無い物は無い。実在する物は凡て我を以って存在している。依って自我を以ってわれ有り、と言いたい。しかし思考に於いては固定ほど愚かな事は無い。

  6. 古館さんのご見解は大変参考になります。
    次回の生老病死の際にぜひ伺いたいことがあります。釈迦の説くように愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊取蘊、まさに人生は一切皆苦ですが、だからこそ何ものにも執着することなく我々の目を曇らせる色受想行識全てから自由になることで、苦しみから解き放たれることができるというのはすごく分かります。
    が、日々の生活は変わることなく、会社のトップは相変わらずサラリーマンに目に見える成果を求め、無茶な顧客要求に応え、勝てそうもないコンペティタに勝つことを強要します。ありのままに生き、変化の全てを抗うことなく受け入れ、成果だけを求めずに穏やかに争うことなく行きましょう、と上司に言ったら、会社をやめるかお前?と言われるでしょう…。
    俗世ではこうしたしがらみからは逃れられないので、釈迦は出家することを勧め自らも妻子や国を捨てる覚悟で出奔したわけですが、ほとんどの人はそこまでの覚悟を持つことが出来そうにないように思えます…。家族を食わせていくことが生きる目的のようなものですし…。
    我々を苦しめ続ける色受想行識全てから自由になる一番手っ取り早い方法は自ら命を絶つことですが、仏教ではカトリックほど自さつに厳しくないですけど、それが答えとは考えていないようにも思えます。
    大乗仏教の浄土真宗では、末法濁世の衆生は煩悩具足の凡夫であり、自らの力ではいかなる善も完遂しえないとして他力(阿弥陀如来の本願力)によってのみ救済されるとしていますが(キリスト教っぽいですけど)、如来や菩薩は時間の感覚が我々と違うので(弥勒菩薩が悟りを開いて衆生を救済するのは56億7千万年後ですし)あんまり救いにならない気がします。
    ぜひ、次回の動画では、現代社会に生きる我々にとっての救いとは何かについて、詳しくお考えを伺えたら大変嬉しいです。

  7. ここ数年、原始仏教について興味を持っています。古舘さんのおすすめの原始仏教、初期仏教本などありましたら教えていただけないでしょうか?

  8. 人間の脳はさらにスマホ クラウド AI と 拡張し続けていると思う 自我があるとすれば 朝起きて 意識というスイッチを入れた瞬間に自尊心という 自分と他を区別して自分を守る警備システムが発動し シュミュレーション(虚構)を作り出す 色(具体=矛盾)空(抽象=宇宙や素粒子) 色即是空 空即是色  素粒子とエネルギーの組み合わせが宇宙を作っている その現象の一部(縁起)に名前を付けて人間とか木とか車と名を付けているだけ 唾液も自分だけど 垂落ちた唾液は自分なのか?どこから自分でなくなったのか?諸法無我 具体(解像度)を上げると矛盾が生まれる 抽象(解像度を下げる)と 人 木 車 も 地球の一部になる 我は情報の一部として存在できるが実態はない事を知れば悩みが減るみたいなこと?  砂も地球の欠片なんだとー(アン・ルイス) みたいな 釈迦の説法すら無いけど あると思えば ある

  9. 人間というデバイスの限界。色んなことが起こるけど人間なんて社会なんて所詮こんなもんだと思って生きています。足掻いてみるのも楽しそうに思えるけど、今はちょっと疲れちゃった。

  10. 人生は楽しいんだから生まれた方がいいとか
    人生は平等にできてるんだから努力しないのが悪いとか
    やっぱり人間や生というのを悪い風に捉えるのはある程度頭がいいからだと思う
    悲観主義だとかお前が負け犬だからだと言われるかもしれないが
    生きてるのは苦しい
    これはどんな人間でも真理だ
    認められない人もたくさんいるから仏教はすべての人に合うものではないが、

  11. 無我というのは、小我への執着をすてなければ、大我を確知できないと言っています。確信は、その大我が何なのか、生活にどういう影響があるかです。

  12. 釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし
    そう言われる所以は、やはり我々が人道に生きているが故ですね。
    大宇宙に目を向ければ、仏覚に到達した者は五万といるとお経にも説かれてますが、人であるが故の井の中の蛙です。
    それは人が科学や宗教を駆使して永久に探求する、仏にしかなせない御業です。

  13. 言葉は世界の母と老子もいっていますね。
    母をどう捉えるのかは、皆様次第です。私は礎と捉えます。

  14. 昔から、釈迦の悟りに興味がありました。諸行無常、一切皆苦、涅槃寂静はなんとはなしに理解できそうですが、諸法無我だけは何回見聞きしてもしっくりこない部分がありました。古舘さんのお話を聞くにつけ、原始仏教とは科学的を突き詰めた理屈のようにも思えてきました。遺伝情報を次代に託すのが一つの使命ならば、その乗り物である我々人間は、周囲との関係性により自然となるべくしてなるようになっているのかも知れません。あと、釈迦は一旦悟りを開いたが、その後は人間釈迦として、何度も悟りを振り返ろうとしていたとの解釈は目から鱗で、そのとおりだったように思えました。原始仏教はあらゆるものの恐怖や苦難を和らげてくれるものだという点で、全く同感です。いかなる人も死をはじめとした苦難から逃れることはできない。だからこそこの瞬間を全力で生きるのでしょう。あのよく見知った古舘さんが同じように興味を持ってらっしゃったことに親近感を感じました😊

  15. なかなか仏教の真実は残酷なものです。一般的な虚構を無自覚に易しく生きていると、感覚や感性が歪んでしまいます。例えばコンプレックスや死を悪い事の様に思ったり。
    この世界は死ぬ事が苦しみの原因だと思ったり。

    仏教で重要にしているのは自己の妄想を捉えて認識しようということですね。
    人間は言葉にして表現出来た事は大抵実現させてしまいます。言葉は妄想の一部分ですが物凄いパワー。妄想は地球を壊し尽くせる力です。
    ではそのパワーを使う者、人間とは?

    法の内側と外側

    法の内側に住む我々は、その行動や行為が初期OSとしてインストールされた状態です。普通なら初期設定に疑問を抱きませんが、ブッダは悟った事で法の外側に出ることが出来た。
    法の外側に出ると法そのものの矛盾が見えて来ます。人間は煩悩によって戯論が生まれ自分都合の妄想が生まれ、怒りや喜びの感情が生まれる。
    自分もそうであるように、法を作った人間にも煩悩や戯論や妄想があって、そこには必ず自分都合が入り込んでしまう。法は正しいか疑わしい。私達は誰かの決めた勝手な法の模倣者だった。

    自然との対比

    一方で自然は偶然であって諸行無常であるのに因縁果の法則が表れる。それを分析したのが八正道。
    仏教は法の外側に出る教えであって何もかも実体が無い事と向き合わなければならない世界に生きていると認識すること。

    量子生物学などが明らかにしたミクロの世界では生命は霧のようなものだと。
    炭酸水が作り出すある一瞬の状態を自分とするのは妄想だと。一瞬一瞬の泡に名前がつけられるのかと。炭酸水の泡立つあの速度で身体は変化している。変わりまくってあっという間に違う実体へと変化してしまう自分。
    そこで問われるのは何が出来るか?から何をするべきか?に問いを変えていくこと。

  16. 自我が完全に無くなった時、人はこの世界で肉体を持つ意味を無くす
    という概念を思いだしました。

  17. 近年、自己肯定感が注目されていますが、自分を肯定するのも自我なんですよね
    我を張って自己肯定のハードルを高くすると逆に自己否定感を強める羽目になります
    そこに虚勢の自分を作って自己肯定しようとすれば、さらに複雑で安らぎのない状態になり、現実にもバイアスを持ちやすくなるでしょう
    これは多くの人に関係する問題だと思います

  18. 自分はダーウィンの進化論を否定しているので、初めに進化論ありきの仏教はとてもじゃないが信じられません
    袋の中でバラバラの時計の部品を何億年振り続けても決して時計にはなりません
    宇宙の設計者、創造主がいなけなければ万物は存在し得なかったと思います
    然るに釈迦は、宇宙の森羅万象をあるがままに洞察、分析し、その極一部を理解しただけなのではないでしょうか?

  19. 無我(本当の自分はいない)を体感する訓練は欲や怒りが湧いてきた時にその感情に気づいていくやり方があります。心髄観(チッターヌパッサナー)といいます。その体験を少しずつ集めていくと、ある時点で無我に心が気づく瞬間が悟りの一瞥と言われています

  20. 「古舘伊知郎と仏教」というコンテンツを展開するのであれば、99年のトーキングブルース「お経」をフルサイズをチャンネルに上げ、広く世に問うてみてほしい。現状のぶつ切りでは、拡散力に欠ける。また、仏教に限らず、過去の傑作を知っているかいないかで、世間の「古舘伊知郎」というブランドイメージの重みは変わる。世知辛いが、「何を言うかより、誰が言うか」でYouTubeは動いている。その点で、一番いいときのトーキングブルースが死蔵されている現状は、古舘さんにとっても、ファンにとっても、非常にもったいないと感じる。

  21. ありがとうございます!
    夏の怪談ではないけど、そんな雰囲気で楽しい。
    今日もフル自我発揮!
    今日は深く眠って無我の中で
    体を休めます。メラトニンにお願い頼む電源OFFって!
    俺は自我を愛している無我だとすべてはみんな同じだが、なぜだろう、同じ自我などない。教育は自我に向けてだと思うが、同じ自我は形成されない。凄いなあ

  22. 自我は弥生時代に稲作が伝来して、比較競争が起きるようになり、分離の意識が発生する様になったのがはじまり、というのがスピリチュアルの見解のようで、縄文時代はテレパシーでコミュニケーションをとっていた、縄文回帰する事で、言葉による制限や分離を終える時代なのが、令和であり、スピ系ユーチューバーは縄文回帰を促してます。時代は釈迦を超えて西田幾多郎の純粋経験や夏目漱石の則天去私なのではないか、と思ったりしますが、如何思われますか。

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