【1783ch – 027】ゲスト:宇佐美 久夫さん(2024/7/1)

メモ発生 のお願いはしなくていいんですか稲さん いや今日はね神様の前だからキキできない なとじゃ自分できます目にやりまってっ 真面目に真面目にはい真面目にやります 分かりましたはい じゃあはいえ始まりましたあ始まってるん ですか始まりましたスタートですね皆さん こんにちはこんにちはえ本日妙に始まり ました月1 日何時だっけあ夜の7時から8時まで1 時間え私がこんな人いるんだよっていう ことをご紹介したいということでえ稲葉 さんチャンネルというえタイトルでやらせ ていただいてますはいえ今日は新名に 始まりたいあで私バっとやらなくていいん ですねはいよろしくお願いしますよろしく お願いしますよろしくお願いしますはいえ ということで今日は え売り上げに来ておりますはいはいはいで 名取ですねですはい今日はあの私 もう1年ぐらい前ですかねまた会いたい ですねっていうメールを出してそのままに なっていた宇美さんにあお話を聞こうと 思ってお久しぶりにわていただきました えっとまこのえっとこの1時間は私がいつ もですねえ聞きて代表はいんにえこういう 人がいるんだよとかこの人こんな風に 面白いんだよとかいう話をするとですね もっと他の人にも聞いてもらったらいいん じゃないって言われていてまこうやって 流してるということで今日はそのこの人の 話を聞きたいというのは聞かせたいという よりまず私がちょっと久しぶりに聞きたい というのがあってはいはいよろしくお願い しますはいよろしくお願いしますという ことでえっと宇美さんちょっと簡単にあの 自己紹介をあのまあっち向きでもいいです しこっち向きもいいのではいえっとま名前 は宇久と申しますお願いしますえっと実は 稲葉さんとは震災前からのちょっと縁が ありましてあのま講習受けたりそんな感じ であのお付き合いあったんですけどま震災 をですねなかなか そのうちらも継続して受けるとかなかなか できなかったんですけどまあのちょうど 講習を受けて終わった頃に震災が来まして ま我が家は今日移ってるとこよりもう ちょっと西側にあのあ立ってましてねあの ま震災で家はなくなりましたけどま家族 全員無事でまあなんとかね震災後も楽しく やってあの住まいはねあの三園でうん空港 アクセス線のうん1番目の駅のうん近くな んですけどあのというわけが未だにあの 売り上げに来る方が多いというおそうです かそういう生活を送ってま今はあの仕事 からは すっかり離れたんですけどま仕事以上に 忙しいって言われる日々をうん送ってます うんはいここんなとこでいいのかな私の後 はおいおい 仕事以上にっていうことどんだけ仕事 をゆっくりやってたのかそれ いや今が目が回るぐらいに忙しいの仕事 ってお金もらう仕事ってある程度単一では ないですま私電気屋だったんだけどうんそ いっくら忙しくても電気屋さんのことだけ 考えてればいいんですけどうん今仕事離れ たらま あのもう1日中ポジション変わるたび 考えることが違う今 あのいやあのあれとしてはね民院地元の今 住んでるとこのん民てんけどは1日のうだ とちょっとですよねうんうんうんそれ以外 にあのま震災関係のやっぱり語りべとか あるいはこう売り上げを案内するとかうん あるいはあのまちょっと縁があって食料 支援なんかフードバクさんとのお付き合い で食料支援なんかやってそれがね1日の うちに切り替わると若い時だったら多分 忙しくなかったんですよね頭の切り替えが なかなかできなくて結果的に忙しいという 状況ですよえええなんか元々そのお仕事の 絡みで始まったことっていうのもあるん ですかあまずありませんあうん仕事とま 仕事から退職して例えばあのこう繋がり でっていうのはねうんうん一切ないです からねうんじゃ逆に言うとなんか 新しいお付き合いが始まったみたいな感じ ですかまああの人生やり直しみたいな人生 やそのぐらいだ震災やっぱりね震災でうん あのいろんなそういう変わっていったです うん震災の瞬間に全部変わったわけじゃ ないんですけどやっぱりその震災に絡んで いったことでうんま例えばフドバさんのお 付き合いだってうんそのある海後でその 復興会合で隣に座った人がフードバンクの 人だったへえでまうちらには縁がないと うんうんそのフードバンク自体をま思って たわけですようんそしたらいやその違い ますよとその困窮者の方にこう支援する だけじゃなくていわゆるフードロスうん うんの分は誰でも協力できんですよって ああそうですかとうんで私ももほらフド ロスならねあの入の人もいっぱいなかなか その当時だと大変な人もいたしうんうんま まちょっと喜ぶかなと思って始まったうん で最初はコピ写真は全然やってなかった うんうんえだからあのいっぱいもう トラックで運ばれてくるようなのを皆さん にこう時々分けしてたいううんそれ流れが ズルズルズルズルとこういつの間にか名は 困窮写真になったというま困窮写真っての も言い方悪いですけどねうん へえま民選院あたりはねこう住んでいると そこの住んでる人に まあの人ならやってくれかなってお願いさ れるとかそういうのが多い人員もね俗に私 の受賞にはなかったんですあ そそういやほ本当にこれだけはなかった ですねうんあの小さくてもなんかの会社の 社長さんぐらいだったらうんねま社長つ だってね私と女房でも社長になれば社長 ですけどそういうのあったですけど民は なかったですねうんそういう意味であの人 に奉仕するつうかあの嫌いとかうんうん うん好き嫌いの問題じゃなくてそういう 体格はないだろうからってもう格の問題な んですかえ最高の問題ないや勝手に思って ました実はうんで結局今いる場所はあの 集団一転地区なんでまうんほぼ被災者メイ なんですけどまそこで暮らして分かったの はうん私よりま当時被災して当時だとまだ 60代あ60ちょちょっと前なんでうん あの私より若い人はフルタイムでま いわゆる古に働いでるわけですよねうんで 私より上はすと私の親ぐらいの人たちが 体制しめてるうんそんな中で比較的あの 職人だったからあそん時もあの天気工事の フリーだからうんちょっと時間が取れたと うんいうのも1つそこで選ばれたっつうの がですうんうんええあのあの人気が効く柄 とかじゃなくてねうんま時間取れそうだし ままフットワークは悪くない方なんでま その辺でああいつにやらしたらいいんじゃ ないかといううんま影の方で画策してた ようでねうんうんあれ突然来たというまあ ちょっとあの人じゃ困るんだけどって人に は頼まないですからねあの人ならやって くれだろま微妙なせじゃなかった ですあでもねただ1番あのその時に悩んだ のは自分が被災寺に住んでた地区じゃない んですうんそこの団地はああえあのま私の 場合だと売り上げで被災したんですけど今 私がうんうん住んでる集団転築はあの仙台 空港近くの人たちなんですよだから極端ま 極端に言うとあ1人繋がりなかったんです うんなるそれがねやはりねやってって言わ れた時にまちょっと悩みましたねうんうん さすにうんでもまさっき言った通りね周り を見渡すとうんしょうがないかうんうん あとみんなちょっと腰重そうだしあるいは もう完全に子育てのねサ中でうんもう本当 にそういう時間取れない人かなっつうんで ねまじゃあうんあのうまくできるかどうか わかんない けどやってみましょうというような感じ うんうまくいって るってことですかねまあなんとかね今ん とこはトラブルなくうんうんそれで あの幸いそれと こう並行してあのうちうちの方のその民 やってる地区では子供速度を始めたんです へえまあの抗議館でうんそしたら私のその フードバンクさんにお付き合いしてること がそれがまたそこに結びついてええなんか そうやってねぐるぐるぐるぐるあの だんだん雪だるが大きくなっていくように こう色々繋がっていったうんうんうん ええなるほど うんあれもね多分震災であの女生活とか うん仮説生活をしてなければ断ってたかも しれないうんうんうんうんやっぱりそこに はその意識うんそん時あのもう体感に避難 した時からねまこんなにみんなもう12日 で支援物資が来るんだっていう思いが やっぱりあってうんままあ例えばね今だと 熊本とかのに応援に行ってるやっぱり仲間 もいますけどうんまご存知の通りちょっと うちは私が女房が難病なんで初期間開け るってのはなかなかできないからだったら まできることまおて伝たいぐらいだったら できんじゃないかなというねまちょっと そういう気持ちはありましたうんうんだ から多分震災とかあの経験してなければ 多分いや私とっても無理ですからって こだわってたんかなともう思うんですよね うんうんうんうん多分 ね全く違う人生に進んでるんだと思うん ですけどやっぱり大きなね変化のきっかけ ですからねそうですね大きすぎましたけど ねうんえでもあのやっぱりこう色々私に 限らずね仕事辞めたらこうしたらこういう ことしたいとかみ皆さんあるじゃないです かうん全然どこにも当てはまってないです もうお金とかそういうねそういうことで ほらできないことともあるじゃないですか 例えば世界料越したいとかあって退職し たらとでももうねそういうレベルじゃなく ねうんうん人生設けずひまさにないない まま来たて震災うんうんうんだけど まま夫婦で楽しくやってるからねそれでも ねうんそこが1番なんじゃないですですね ええうんいやでも語り部もやってるんです よ ね一応語り部もね最初はねあの特に特に 語りべとした動いてなかったです あの街づくり競技会にいたんでまあの 語り部まで行かなくても最初はちょっと 売り上げの状況をあるいは宇美さんの震災 の時の状況をお話ししてくださいていう ことはほらたまにはうんあったんですけど やっぱりそのその前から語りべとして活動 してた人たちがやはりこうあの最初は 街づくりのそういう競技度がにタッチし てる人間の話を聞きたいつリクエストが たまにやっぱりうんうんあってあの話を 聞きにくる方の中にそんでちょっとま面識 はあったんでうんま待議会に曲がりなりに 在籍してたんだからちょっとちょっと喋れ とそっから うんええやっぱ喋る内容がなんだろ普通の 語り部さんて言っておかしいですね語り部 さんとその協議会にいた人の話っていうの は若干こう違うところがあるとあのそう ですね街づくりのそういうとこにタッチし てた人ってご指名ある場合は質問が結構 多いですようんああねでそそそれでどうし たんですかうんそこで皆さんどうやって 決めたんですかとか例えばなるほどえ やっっぱりねあのあの日あの時まあるいは 犠牲者がいたりの話だと質問ってなかなか 出てこないですよねうんうんうん話初めて 聞いてまさかねあの誰がさわれた時に どんな気持ちでしたってまさかそんな質問 ってないですからところ街づくりであれば そのみんなで我々住民はこう集合宅じゃ なくてて言ったんだけどとじゃあ行政は どういう答え出してきましたかやっぱあ その辺のちょっと違いはうんあのありまし たうんだま最初はそういう風にこう分け 分けてつか街づくりメインで話してたけど やっぱりああのだんだん他の要望もうん あのやっぱり一度にねバスが5台も6台も うんうんどんと来るとやっぱりま変変な方 人手が足らなくてうんちょっと私のどこに もあんたも一緒に喋りと ああああんた乗ってくれたええええだから 例えばこあの学生さんの修学旅行動まで 来るとうんま大学生なら別だけど高校生 ぐらいまでだともう街づくりつうよりもあ あの時うんから始まるわけですよねみんな 津波が来るなんて思ってなかった人が大半 でうんぬんてこう始まるというでま だんだん普通の語り部もうんそれでする ようになったといううんまあ あの喋れる人間がの方がは私まだあの心の 傷とかそういう震災のねから考えると幸せ かなと思うんですうん未だに人前で話すの も嫌だって人もいっぱいいますしねあの この売り上げの血に足をあれ以来踏み入れ てないって人もたくさんいるんですよね うんそれがあるするとまあのまあうはあ まだちょっと幸せの方かなってこういう 思いはしますけどねそう思ってからはまあ 特にグズグズ言わないで引き受けることに ああなんかそれってこう気持ちが 切り替わるものとかああったもんなんです かなんかこんな質問変だなでもね今えっと ねあの我が家は比較的うんかあの勝手な私 の予想ですけどうんこの心の傷はすごい 浅い方だとうんま被害はねえ被害もちろん あの人的被害がなかったからだけじゃなく てうん その私ね最近よく言うんだけどうちのあの 名望は昔からまいいかなんか難問があると ねなんとなく分かると思ですけどまあいい かなんです私はねどっちがつとまあのよく 言えや帳面な方ですなるほどよく言えばね まうにせりゃ単なるインピだって言だけど でも震災を私もに少しうなってきた毎かつ のはでもね危ないこととかそういうことを まい加減にするんでなくてうんこだわりを やっぱりこう何でもかんでもこだわらない でそしたらそれがやっぱりこのうんそう いう楽少し気持ちが楽なのうん我が家は まあいいかでよそ様で大変な思いはそれは じゃあ少し楽な分なんかお手伝えていき ますかっていう言えるようになったうん 最初の頃はもうよそち構ってるわじゃ なかったんですけどねうんだって奥さんに ね言われたんでしょお家のことをだからね うんうちだって1番最初にねうんうちは家 家を自分で家を持つ身分でなかったねうん って言われ最初にねお父さん家ないはて あの時私ほらあの内陸で仕事してたんで 一晩一晩は次の日までは会えなかったあ うんででまその中で家の件をお父さん家 ない家もうないわって言われたうんうん家 持つ身分でなかったねそれでもうすごい木 は楽ですようんええま次で借金どするっ てはいなんかまだ勝って2連だったじゃ ないですかうんいいねうんまだ金利分も 払ってないんだけどどうするそれもねもう ほぼほぼ笑顔ですようんうんまあみんな 助かったんだから頑張って働けばなんとか なるだろうという思でその辺からこう私も 前のうんうんまあの影響を強く受けるよう ですねうん うんだから避難所なんかでもその気持ちが あったから やっぱりそのだいぶ気持ちは軽くうん軽く すまし たへ減りくるとね思わず見上げるんですよ あれからあれからなんですよずっとみんな そうですあの震災からあうんが四角に来る とこう目で追っかけ ていやでもなんか来るたびにやっぱり景色 も変わる し風景も変わってそうですね大体これで 固定うんあとか大きからんのはねもう ちょっとこ後場が立つと思う うん割以上はないなんかあの家決まってる みたいなんですけどそうあのコロナとうん あの戦争のあの物化だでちょっと足うん 足踏みしてるとこもあるらしいんですよ やっぱ水産関係が来るんですかいやあのね 水産関係はねこっちまこっち側あってね見 てる人あるかもしれわこれは早かったです 最初ですうんうんうんうんでそれ以外に あのトラックとかあとなんかそういう建築 か関係とかま1番だしのが今牛太屋さん あああのバーベキューとかできるそうです そうです陣中さんねうんすごいですね今ん とこまだお客さんそんなにとかとはま見て ないですこれからですねう うんそう か うん多分その10何年10年前くらいに その仮説に伺った時に奥さんがそのどう いう風にして逃げたかっていう話とかを 我々に教えてくれたんですよああはい言の も多分辛かったことだと思うんですけど そういうこう体験した話を聞くから私たち も気をつけようって思うしなんかそういう 話聞かせてもらったのすごいありがたい ことでしたね当時本当に やっっぱりねこの13年が一瞬あそれは 震災があったからあっという間なんだが年 を重ねたがあっという間なんだからわかん ないですけど年を重ねたからかもしんない ですねそれもあれですよねどんどんねなか 年ると1年が早いですよねあの10代10 代から20代の時の長さと今はもう1/3 か1/4ぐらいの速さうんまその両方あっ たかもしれないうん年を重ねた分と震災の 分とうんあったかもしんないですけどね うんすごい早かったですよねあっという間 でしたかあっという間でしたよ ええだから あの振り返る時 に資料自分自身の資料がないと年数わかん ないぐらいなんか去年があの震災そのもの でさえ数年前のみたいなこう感じつうん ですかまさすがにね2011年の3月11 日は忘れないすけどま他のちょっとした うんうんそれこそこの前ね震災が何年後に あったよねっつうのん去年だっけて実は 10年前だったというねそうんそういう こといっぱいありますね えうーんでもなんかねそういう10何年が あってこれから先の10何年とかはこう これをやってやろうとかあのもっとこの 活動をやろうとかあの かあ夢夢つったらおかしいけどねあの だんだんいろんなこう今やってることま そういうボランティア的なことからうん こう本当はこう外れてえ外れてまま悪気は 逃げてじゃないですけどねま逃げのはあれ ですけどねあのこうお役ごめにしてもらっ て うんあの車で日本中のんびり回りたいん ですよああ え本当はでかつまこれご覧になってる人は よくわかんないかもしれないですけどね あの稲葉さんたちはあのご存知なんです けどね明本が動けるうちにうんうんま車室 にして今ままだ歩行機であれですかねま車 椅でもいいですから動けるうちにやりたい なってはねうんうんうんさっき話してるん ですようん2人でどうやってこう逃げる このま逃げるってわけじゃないけどま飲み ながらだからあの勝手あのうんは選ばない でうんていうのはやりたいねっては言っ てるけどやっぱりあの震災からのずっと 付き合いで目の前で困ってるやっぱり自分 の親世代とかの人見るとねうんうんじゃあ ねってもできねえなって言いながらねうん ちょっとずつちょっとずつ回ってはこう 帰ってきてちょっと回っては帰ってその手 も考えてます1週間ぐらい例ますあ今回 ちょっと北海道の南の方に行ってこようか とかとただ小出しに行くと良さがかるです よなるほどええ うんだその辺もま年金ぐらしだから逆に 言えば あの互い年金でなくてもうん予定はたわけ ですよねああなるほど働いでどっかあの横 行ってそこでアルバイトしてでないから あの月にいくらは立つんだけどまそれも 踏まえでねまあ時よりうんあのま時率が 2人で飲んでる時はもうその手の話ですよ うん結構えええまずはここまで行って みようかっていうなんか行きたい場所とか あるんですかこれかねうん やっぱりうちのルフはあんまり言わなく なったんだけどねうんやっぱりいわゆる 沖縄 [音楽] うーほりよ沖縄のイメージないですね奥 さんもっとなんか山とか そういうイメージかああそうかあ言って ないのかな知り合ったのが与島なんえへえ ええ実はそうなんですかええ何しに行って たんですか世論と何しに行ってね実はね あの女房があの沖縄復帰の1年ぐらい前に 検証がなんかで当ったらしいんですええ そのへえ与論島のうんその旅行のやつで それで行ったらうん足りなくてうんまツア でったんでねでえっと確か沖縄変換の翌 都市だと思うてねにフリーでお友達と2人 で行ったんですそこに私はその年ねあの春 からまあの七ハクとかあと電車使いながら ま春先は北海道行っててでそっから いきなり北海道知った人とその人その民宿 でアルバイトしてた方がうん夏 はおだつうんなるほど冬はほら好きうんね 北海道でうんじてねなんだかんだってその 間こうあって仙台戻ってきてアルバイトを して じゃあそのその人はヨルのなんか民宿で アルバイトするんですそれを目指して ターって言ったわけですよへえそこで たまたま出会ったというへえ でそん時はもううち房があのいわゆる3点 セットをつけてあのもぐるスりうんうんの 講習を受けてきたんですね奥さんはええあ 受けてちゃんとその3点セットを自賛して 来てたんですよああえ私はあのただ当時 流行りの放浪ですからえまこっちでいや ほつきもやってただけですからあの何も なくてうんであの私手伝ってたスナックで ちょっと まだね私があの自分のマイボトルをこうま お手伝いなんだけどおいでた正面に たまたま座ってたもんねうんちょっと自分 だけ作ると思ってあのご視聴しますつたの が始まりだっったんだけどねへえでそんな んで日中そのスナックのまあげ時間にうん あの一緒に泳ぎに行っ たらあの足切りはさすがにサイズがあるん でうんあれだけど水中見ないだけ貸すから うん言ってみなさい と本当は普通みんなそれやるわけですよね 沖縄に行ったらねうんうんうんしたらミド 住むじゃないですかうんでまそっからえ縁 があってうん私帰ってきてすぐ12連 で仙台戻その年の阿に戻ってきてそっから 1年ぐらいだか ないきなり先生プロダイバになっては ライセ取っ たえいなが面白いっつってでそれこの力 すごいで東京こっちでほとんどやあんまり なかったんじ東京で公衆受で最低限の講習 上ででとこからあの仙台にあるあの ショップでうんあの作業のうんアルバイト うん元々建築あのその旅行にその旅行に 行く前はエレベーターの施工事やってたん でうんある程度のことできるんでその アルバイト に行ったんですよそのダイビングショップ で工事やってるとうんうんでそこやってる 時ちゃんと国家免許ほらあの先生し免許を 取って姉妹社員になってしまったという なんかこう縁で縁縁ていうかなんか不思議 な繋がりでずっと人生決まってるみたい あのその旅行にグでいわゆる台場うんなん つのは片隅なかったんですそれまで私ね バイクうんうん大体まあのあの頃特にみな そうですけどね男の子みバイクんですけど バイバイク人生だったんですふーでまあの 旅行するのも別にあのバイクで動くのもだ けど旅行もだけどそうやってこう引履くと かなんかあるいは自転車とかで歩くのも 好きだったうんあとやっぱりダイバーの 選択肢はなかったですよねうん [笑い] で へえじゃあれ元々仙台そまれ仙台の出身 育ちも仙台の奥さんはえわ浅草あ東京なん ですか東京なんですよええでね浅草っての がまだポイントだったんですよどう ポイントなんですかあのあの頃は上野じゃ ないですかうん乗り換えはうんああそう あのたっぷり時間あった時すぐ行けると ですであの小さんでもなんとなく あのちょっとあれだったら行ってみようか なって言ほこちらねあの浅草あれが渋谷と か銀座って言ったら多分訪ねて行ってない んじゃないかなと思うんです けど へえそっからがま始まりというか全然全然 海の感じしなかったですよちょっとこっ から言っとこうかだらえっとねパーキに なってからもうねもう何年なるけあれでも 去年去年も泳いでますからええへえ泳いで るっていってもねもうあの体なんであの 本当に浮かんでパシャパシャですけど去年 も小笠原で小笠原ええでまあ一応泳いで ますなんだかんだ言って言ってるじゃない ですかそんな日本一周はまだ無理とか言い ながらあのそれもちゃんあの理由なんです よちゃんとそのさっきのあの家身分で なかったねっていう話にうんうんあの最初 はキットのキットで売ってるログハウス 建てようかと思ったうんま土地だけ残った わけでなんで2人でクラスロングハウス ぐらいだったらなんとか予算もなるかなと うんでいう予定であの体育館に避体育館の 避難所にいるうちにもうパソコン買ってき てのの中 できそのもう人いるかたけどロマハの きっと探ししたんですうんこれがいいとか あれがいいとかでもすっかりそのつもりで いででもだんだんそのそっから月日に連れ て12年じゃ売り上げに戻れないって 分かってきたんですうんま結果的に重あげ してねうんうんま78年ぐらいかかった うんでその23年で戻れば暦前だから自分 でこううんなんとかねうんでも60幅に 過ぎるからたたまにもうこっちがもうパっ となって楽しむのじゃないんじゃないかっ つ風に2人で話がなってのそれもうん 決してね現金でポンと立てる立つとかそう いうわけじゃないんだけどだったら立てた つもりで旅行うん毎月旅行ってことううん だからま立てればまあ月3万か5万か わかんないけどロ組まなくちゃないわけ ですよねうんうんだからそれを組んだ つもりになってうんうんじゃあの横ざま しようとまそこでやっぱり病気のことも あるんでうんあのま中には人によっては 自分の家であのずっとね健やかにうんその 病気の信仰をと付き合うっていう考え方の 人もあるでしょうけどうちの場合はじゃあ 旅行ざまうんだからコロナ機でも行か なかった月ないんですよあうん本当に毎月 行って毎月行ってますうん今月は2回軍 ですそれ行く場所はどうやって決めんです か行く場所は ね あの自分でこうネットで調べんですねあの 1つは新聞とか色々こう折り込み入ってき た中からこう追っかけでってで大体いつも 飲んでる時にねお父さん来月いつといつ 開いてんのていうね何気なく私飲みながら うん例えば 123開いてるよつとなんかポチしてん ですねはいその日あげせねとかでも決まっ てる でその内容あの食事なんか宣伝のなんか ポイントを拾って自分でここに行って みようていううん大体じゃあ行く先は奥 さんが決めてるんですかほぼほぼそうです ねくりくりくり一輪ぐらいは意見を言える と一応意見も聞いてはもらえる一応もう もう最近諦めてじゃあ私はいくらいくらお 金用意すればいいんですかだけどま大体 そういうそれもうちゃんと割り勘とかねえ 割勘割り勘とか今回私出しますとかああね まそこその辺はねうんあのま喧嘩喧嘩もせ ずうんやってますじゃあ理想的な風うんね どうぞ早もねそうですねいいです ねるねまやっぱりその辺はね合うんですよ ね元々ね一緒になった時からねうんそう ですねそれえ他のことでは応化してもね うんそっかじゃあまた沖縄とか世論とかは 年に1回ぐらいのペスでこう初心に変える ためにも行かないねにまね毎年いらいです けどなかなかねうんそうもね沖縄本当は 比較的ツアで行くとほら安いも行けるんだ けど世論あ高いんです世論て沖縄まで行っ て乗り換え乗り換えか鹿児島か福岡であの プロペラキに乗り換えてちょっと直接 なるほど 私が行った時は空港なかったんですけどえ 船あの船はい3日未晩で船旅です大阪から えあ私なんか行った時大阪から出てんだ 大阪神戸からえあと鹿児島もあるんです けどやぱこっからだと大体大阪神戸になり です うん行ったことないですからね今よろよん 聞いてますけどね私今飛行機でするですか 南の方とかね私あ福よく行かれますもんね まそうですね僕も学生の時にあの九州1周 車までしててでその時にあの沖縄に渡ろう てま友達と2人で行ってたんですよで言っ てたんですけど台風が来てあで諦めたん ですね今回はじゃああのやめようって言っ てうんまそれ以来沖縄に行けてないです けど意外とねその台風もエすぎなんですよ ね沖縄に行くとねうんあのちょっと 面識あって帰るはずだったのがそうです 台風で3日ぐらいりああなるほどそその間 もちろん運命に行って泳つくことはでき ないそ何するかさら生ぜ飲むぐらいそう ですね缶詰になるわけですよねえそういう のもありますあ ええ結構ねなんかあのなんだかんだ言って 海とお酒ですねそうですよねそういうこと はえ一はまあ2人で2人とも飲むんで ええだから まあいい意味でねうんたまに家中の避け なくなって喧嘩する時あり ますお父さんみ飲んだんでしょうておかれ てる わけいやだからあの旅行行ってもうん片方 がお酒飲んで片方が散歩して歩くってそう いうパターンはうんなくうんまずつけば とにかくまずいっぱいとだからあのオール インクルブで安いとこなんかよく探すん ですよあえなるほど 結局打ちみたいなとこだとうんほらすごく 1泊の3万も4万もとまだそういうどこ別 ですけどあんまり高くないどこだと結局い ぱいぐらでうん頼むより結果的に安いし あと面倒でないっつうのうん最近はねその 手とねあとあの鳥になってきたんねお風呂 うん家族風呂あると思うんうんもう ちょっとであの大浴場行けなくなうんあの 家ブロなり貸切ブロある貸切え前はね同じ 病気のお友達とみんな夫婦で行ってるから ま他の健常者の奥さんととがって入れたん だけどうんやっぱコロナでうんああまうち はコロナでも誘ってはいたんですけどうん まあ普通の家庭は子供に止められますから ねいやそうでしょうねましてそう秒持っ てんのにコロナの中でなんかあったらね 本当にでねでやっぱりでもそん時そうやっ てあの引きこもった分病気進んだたああ他 の人た見てうんま結果論ですけどねうん うんうちも2人で見事に1同時にかかり ましたコロナに同時に同時にてだって持っ てくる人1人しかいないでしょ私出なかっ たんですよってきたのればじゃないじゃ ないですかうんよそでもらってきて潜伏 機関あるわけじゃああなんと ねあの卒論をあの書くのに大阪の学生さん を止めたんですほう多分それしか考えられ ないなって印象で学生さん若いから発症し ないケスが多いんですすてねうんうんで 彼女は帰って2日が3日し たら私が熱出てでちょうどまあの病で美容 院に行く日だったんで行って隔離されでま 検査したらはいはい先生におめでとう ございますコロナでせ割れて打ち帰ったら お父さん私も熱っぽいだ けどうんな同時にかかってもう同時にう あの引いたというねうんええ仲良くねそう うんそこまで仲良くなくてもいいのに なかったやつなんだけどねまたまたまそう いったのもあるいやあでもなんかひどくは ならなかったんですねろねうん日中ね熱 下がるんですようん6日間らしで夜寝ると ちょっと熱高くなって少しるしまだ日中次 の日だからま酒も切らさず過ごしてました アルコール消毒しながら消毒まさに アルコール消毒消毒夜にな聞かねえな熱 できたよね ていやなん結局 ですねまでも2人とも飲めるっていうのは いいですやっぱりねあの大きかったですね やっぱり震災で避難した時なんかも あのうちはうちのお母さんは3月11日の 晩は飲まなか飲めなかったの私は内陸にい たんで3月怒られけどねみんなにね3月 11日のバンも飲んでましたそれは怒れ ます 散々みんなに怒られたからえ今でもその 売り上げにそ土地はあるんですかこのいや あの両性に手放しましたえうんじゃもう 本当トレーラーハウスじゃなくてなんだっ けロングハウスロングハウスはもう本当に もう諦めてええうん旅行ざまというだあの ま結果論だけど正解だったかなとううちの 場合はねあの揚げして戻ってき来てるお家 の人っていうのもいらっしゃるわけですよ ねあのま1000人以上いますねうんこっ からだとちょうどねあの集合住宅とか見え ますけどうんうん最初はねだいぶ空けあり ましたよねうんやっぱり 20002500人ぐらいの予定ではあの 区生率か重して予定したけどやっぱり 1000人台ぐらいでうんうんうんええで 今はあの仙台とかから入ってる人あるいは 土地あの家立てるからて土地確保したんだ けどそれ手放してそこに家土地を買って外 からで入ってうんで公住宅もうんうんうん あのま市住宅としてうん入ってきてますね でまこの場合だと全員そうではないんです けどあの小中観光ってのすごいこう若い お父さんお母さんがうんそれを1つのこう 目的つったらかもしれないですけどうん それでこのこの街にあの引っ越してくる方 もいるみたいですうんふま今今風つたら あれですけどねうんあじゃ震災を知らない 人たちが引っ越して入ってきてますえ やっぱりちょっとちょっとあのカリベ仲間 たちとはちょっと懸念懸念つったら店さ ですけどそれはありますねやっぱそうやっ てここのあのに津来たことがもう大人だ から知りませんじゃないんだろうけど普段 の意識の中にはないなくて生活してる人 たちが増えてきたよねうんあの懸念はある んですうん元々の売り上げありって元々 住んでた数の今だと半分ぐらいの人数と 元々の人の1/3以下ですか1あのま性格 な数字どう捉えかあれです54500人 ぐらいって言い方ま5700っていう言っ てる人 それに対して多分元々売上げの人が 1500いるがいないからなのかな ちょっと把握できないでうん役所から出る 数字もちょっと1年前とかなんで私も最初 一生懸命把握したんだけど最近は大体大座 感だから1/3から1/4うんうんうん うんぐらいなんですかね へえ やっぱりどうしても戻ってきたいっていう 人と戻らない人もういやもう戻りたくな いっていうことやっぱり分かれますよね 分かりますねでどうしても戻りたいって いう人は重ね関係ないんですようん傘あげ したからじゃあ安心して戻るそういう分 じゃないないですね話したらねえなんとか 自分の家を立てる場所を確保してくれ俺は 塩風が当たるとこで暮らしたいんだって いう感じですよねうんで逆にもう2度と あの海は見たくないって人は逆に重しても うんうんうん日本のクラスでも仮にね来 ませんよとうんそういう問題じゃないです うんえだ から傘あげしたことがねうガラスと果たし ていかったんだか悪かったんだかつうのも なるうんそういう意味からするとね もちろん行政からするとねただ手放しして 設置したからそこで暮らしてくってもい じゃないとは思うんだけどでもかなり 難しいかな今でもねまその分お金かかっ てるわけだから大のお金るわけですから それをま考え方によってはさらっとせ区画 整理だけして別なお金に使うていう風に 思ってる人もいるかうんうんでもそういう 地域だからこそその街づくり教員会さんと か街づくりやる人 は多分ご苦労あったんじゃないかなと思う んですけどあのねでもねここの場合はね もう今言っていいだろうけどねあのある 程度ね行政で決めたことを変える気は なかったと私は街教員会にずっといてうん うんもうだから時々うらはアリバイズぐれ に使われたっていうはい あれでまちょっとそれは本当に あの誰にでも言うわけじゃないですけどま 要は行政のである程度もう1本は大きく 動かない部分ってのはもううちらがあの 競技会の時には決まってたんだなうんうん うんであの後から感じましたねねその前に 2つか3つギの場合組織があの住民集めて で私らの時に最初はあの行政の方から 声かけしたうんやっぱり町内会長とかね 区長さんとかうんうんあるいは企業の社長 さんとかで私の時にま3つ目ぐらいでもう 住民が自前打線問わず参加できるだその 時点である程度こう方向性決まってたいう のはああなるほどいね あったみたいですよそれはいつ頃なんです かあの美さんがその街づくり協議会に参加 した時期っていうちのがねもう14年です かね 確か2014年ですからねええそれでも まだあの重とか終わってないうんうんうん あのやっといろんなものがなくなってそう ですよねまだこれからみたいな時期ですま そうですねあの速度がなんかあの埋設物の 結が終わった頃ぐらいですかねそういう あれ次がするとね ええ震災後にえっとま最初にま避難所って いうか体育館ですよねにいてでその後仮説 仮説住宅で集団移転の所が決まってってま そういう 流れねその辺はまこ途中ウはあの大丈夫 だったけど多少仮説の集約とかのはあり ましん あえま私仮説がその集約地位だったんで ああそうなんですねえだから後は動ない 集まってくる感じになっえあのそのおかげ であの面識が増えたんですああなるほど ええそれまでやっぱり違うま災した瞬間 っていうのはう引越して2連たらずだった んでま周り近所 ぐらいま一番長くなった大工さんがまあの 犠牲になっちゃったんでうんうん避難所に 入った時は誰 うん知り合いいなかったんですよで避難所 でだんだん知り合ってうん仮説で知り合っ てうん仮説を集約したことによってまだ さらにあの広がってっつうのでうんあの そこで本当はそういう風に誰も知らなかっ たんでずっとこここにとまらない手もあっ たんですよ私らもああそうですねね皆さん はふさを生まれそうだったとこ同級性 幼馴染みいっぱいいるんだけど私は私と ようん 誰もいないんですよその選択肢もあったん ですけどうとっとととかに譲ってしまえば それまでだったんもしれないやっぱり難所 仮説って一緒にいるとうんま超出てきます からねうんじゃあせっかくこがでな良く なったんだからいっかこのままこっちで こっちでつかクラスるもいいかっていう ようなこう雰囲気でうん残っちゃったって いうよねだだあの売り上げの災害公園に 入らなかったのはあのま三の駅の近くに 入ったのはうちの房がその頃はねまだあの 杖ぐらいで歩ってたんでうん病院に自分で 通いたいあそう駅前うんとまあのこう言わ れるとね反対できなかったあの動けるう お父さんの料理ご飯なるべく作ってやり たいから早く入りたいそうえってね私は 一見を狙ってたんですけどうんうんそう 言われと反対的です で自分で申し込んできたんです か奥さんがうんその3住宅アクティブです よねすぐ申し込みすごいな旅行もねポチっ とそれもうあの集合住宅やって申し込んだ わけうんそしたらまこういうんですねまず ねこっちの人たちは一軒屋にみんな住ん でる人だからまこだけじゃないですよね あん時の被害を受けたとほとんどそうです よねだからなると一はなるほど 集集合は抽選にならないからって言ったら ぴったり当たったんですへええ買だけかな うんその何回にするかっていうのだけは こうまじゃんけんみたいなんだけど言と そのものはねうん最初からばっちりでね ますます文句の誘が ないでもまそれもね結果のなんですけど あやて体動なくなってきたんであの在宅 避難に決めたんですようはふもう火事ない はまこれどんなとこにでも暮らしても火は もしょうがないですけどだから火事以外は もう3階なんでうんで新しいハザード マップでもうちもここもそうですけど1回 は浸水しちゃうんですよねああえ三園でも 三園でもあ3mぐらいになってるですねえ だからま1回は避難しなきゃいけない3階 なんで3階でここちなみ来たらこれこそ 日本沈没だと思ってじゃあ在宅避難に しようとやってで幸いそのちょっとフード バンクのあのお手伝いもしてるんでうん 食べ物飲み物は会で何もしなくていいと うんうちにそ普段こう皆さんに配達する分 をそのままそ使えばいいうんうんまあとは 水とトイレぐらいうんっていう風に決めて ねでやっぱりね在宅避難できる 環境にあればうんやっぱりあの時避難所に いて特にあのちょっと辛い病を抱えてる人 とかやっぱり高齢の人はうんまあの環境に で寝泊まりするだけで体調崩しちゃいます もねうんやっぱり自宅が1番うんいいと私 も思ったんですようんだからなおさらあの 今の要望の体調とその環境を考えてもう 在宅避難にまここん年かなにしましょうと うんいうことを2人でうん決めてそうする とまあのライフライン止まっても寝るうん ま要するにベッド布団うん昼もうんあは いつもと変わらないうんもの切れるんで うん あのだいぶその健康状態にうんいいかな うんでやっぱり あのあの時見てると やっぱりきちっとした食べ物を出して もらってもうんあの環境だけでやっぱり こう弱っていくようなねうん人たちが やっぱうんわがまま できないしうんま実際はしてるんだけど いつもの夫婦玄関もできないしみんな やっぱりあのそういう人たちにとっては超 ストレスうんてのがあってねあのま結局 集合住宅には入りたくなかったんだけど 結果的にはまこれでいいかまさにまいかの ずっと人生になったうん最終的になんか 正解に行ってるような気がし今のとこはね うんあの私ね入った時に引っ越して引た1 番目に引っ越したんです よ本当はあの建物でで1番うん本当はね あの役所から言われたのは1番目じゃ なかったんですこれエレベーター書ある じゃないですか集だけどうんだからそれで ある程度役で順番決めたんですけどあ私が その頼んだ引っ越し屋さんに話をしたら そういう話をしたらああ3なんか別に エレベーター使わなくてもいいですから ほううんえおじゃっつで井島にうん引 しようとうん後から行くのがねなんとなく 嫌だったみんなこう入っててね誰来たのか なってこうああ嫌でで井内にあの引っ越し してで引っ越ししたその日にあの建築さん だから詳しいのあの玄関を閉めバタンと 閉めたあの手はほら防火扉じゃないですか 要は玄関の扉がねけうんもう全部割って バタンつだめ俺ダメつってその日から日中 げっぱなして へえでうは起るとまあ6時半今6時半が 60ぐらいから玄関は結あり です寝玄関ってげ 玄関玄関 えずっと開けぱなしないえ売り上げに住ん でた時もそうまあまああの鍵はかけてない ですねうんゆの人た鍵かけなかったあの海 以外とみんなそうねだから買い物がない ちゃ鍵かけないからあ帰ってくると 知り合いがこう新聞シに包んでこう玄界に ポっとああ魚が浮いてあるなるほどであの 刺身があの星が映画で誰も来たかわかると いうすごいみなそうです他の人だって古 からの人だと冷蔵庫に入れてってくれる よっって言ってますから刺身のか刺身だと え冷蔵庫に入れて行ってくれるからま意外 とM聞くとみんなそういうとこ多いみたい ですようんうんうんだそういうのもあった のどあのやっぱりその密閉度が今特に今の ね集合住宅24時間換気で密閉道がいいん でうんあその最後に引っ越した日の最後に パタンと閉めた時ズンとなってあ俺これ 耐えられないってなってそっからは寝る時 外はげったですま冬はさすがにこんなもん したらこう副産物的なものでそう何かあの やっぱりそれた若いからもっぺとか あるいはブレーカーが落ちたのうん引 やすいんですね開いてるとね見じゃない ですかそれじゃょがねなてそれはなさら あげた開いてる今日うさんいるから回中 ですうん開いてと思でもほら頼むかってい るっつあれでもある信号でもあるんで なんか聞あの6時半ぐらいから来んですよ うんピンポ朝え朝ええブレカをしたとかね あのテレビなんかつんでんだけどうんあの 具合割りとかそういうなんじゃなくても うんうんま不思議なのはね醤油貸してとか 塩貸してってこないですよねその割に 昔だったらそういうのあったんですけどね うんでままあそういうのまできるおそれも お手伝いだなっつうんでねうんもうあの 営業中っていう看板にさすがにそれはねそ しとお金とんなくじゃないからね そう放中とか書い書いとでそれもね偶然だ 最初そもそも私がその息苦しくてうん開け てたならみんななんかやっぱり宇美さんい んでしょってこう声かけられるうんうん うん ま全部設計図のないことばっかしですよ うんなんかも自然にそういうねお付き合い ができる環境にまあなんか自然に自分で 作っちゃってるねうちのお母さんも 受け入れてくるでも私は手伝わないよって は言いますけどねうんえ無なことしない けどまいいんじゃないってうんうんあげ あの受け止めてくれるからうんうん嫌とは 言わないんですい嫌とは言いないですね うんええ まあそのおかげでねあの野菜もらったりね おけもらったりしてそういう付き合いがね あのやっぱだんだん少なくなってるの にそういう付き合いができるのはいいです でもね実はあの私が古に働いてる頃はそう いうのは私大嫌いだったんです逆に逆に 近所付き合いとか腸内会とかピーって いうもう全部うろかされちゃってうんで私 富もねあのまい何にも自にも何もなです ほら子供よにいるじゃないですかうんで 一応なんだかんだって1人が高校卒業あと 3人はいろんな形で大学まで行ったんです けど4人がそこほぼ大学まで行ったのに 入学式と卒業式と私1回しか行ってない ですああと全部うのお母さんうんその1回 もどうしてもダブってうん同じ時間で なるほどでしょうがないからお父さん ぐずらないお父さんが言ってもぐずらない 長男のとこに行っ てそのぐらいだもちろん長内会もその ぐらいねなんつうんだろうマイペース自分 ともう1人プラス1以上は自分の女房だけ だたうんだ旅行も私 あの普段は1人かうんまあ一緒になって からうん家族 とそれそれがねまだでも実際面白いその 入学式長男のたまたま行ったらその高校 だったんですけど学校の事務が中学校の 同級生 で中学校じゃない小中かうんの同級生で 呼ばれて職室に何悪ないですそしたらま 結構俺がきだったりそんな旅行とかそんな ことばっかりしてんの知ってておめんちも 生活楽でねえんだろいろんな小学金とかや 全部教えてこっちから聞く前に教えてくれ てええそれらうちの母さんはそれを今度 ばっちり活用して子供たちを学校出した うんうんその時に覚えてたまたま私行った 私の同級性がいててうんうんなかなか恵ま れた人生だなってねそんなまちょっとま 2人でねん 飲むと言うんだけどうんうんまそのぐらい ね私そういうこの町内会とかそういう コミュニティにうん参加しなかったうんで 避難ちの時はまあのう体使うのは動いてた けど うんあの仮説でも最初の2年ぐらいは集会 場行ったこともないですうんあの集会場で 役所の手続きとかあまそういったのは別と してうんその誰が来て歌歌とか茶会あそう いうなんとか会みたいなね毎日のようにさ 前半は特にありますあの午前中午後でね うんうんそういうのも ね行かなかったですま仕事に行って るってのもありますけど最初そもそも 行こうともしらなか明日なんか歌んだった よつってもねあそうぐらいのうんまそれが そんなきっかけで行くようになってから 行くようになったらいろんなことさせ られるようになったんですねさせられる がありますけどうんちょっと人足ないから これ手伝ったよまそのぐらいはねお世話に なってんだからいいがなってうううなんて 言ってるしなんか盛たくさんになっちゃっ たっていうねうんうんだから本当にもう 80度本当にある意味うんえでほらあの宇 のお母さんはねお父さんあのいっぱいこの 下でうって受けてくる けどそれで大人になったからて言わ れ褒められたんですね褒められたんです奥 さんにそうよかっ たまさより随分大になっ て ええでもねは半分は本当に笑い話じゃな うんうん私自身もこのうんやっぱりこう人 との付き合い方とか対応がま少しは良く なったなってやっぱりうんうん思うとこ ありますしねそれが決してあの尊徳で 考えることではないんだけどまあの人とし てそんなことではないなていう風になる ええだからね今でも誰かの嫌なことを いかって変えるとねうんうんお父さんそう いう人だ付き合わないのとかね何行こう お母さんにねうんお母さん大丈夫かな熱く ないかな大丈夫かあのあれの時手話よこす だろああええそろそろうん1時間になる マジですかそうですか え今日全然時間見てなかっ たいやえ1時間になるんですかもう多分 過ぎてるかもしれないですねほかああ多分 ちょうどぐらいかなちょっとはいなんだ何 も気がねじ終わったっていやなんかあの もっと質問することあったような気 がそうですよねちょっと第2弾をどかね 質問される前に私喋ってたも面白かった ですねいやいやいやいやいやでもね やっぱりなんて言のかなこうその時にあっ た人との縁みたいなものをうんすごく大事 にしてるから今に至ってるんじゃないか なっていう気がしだからそれも多分私1人 じゃそうなんなかったと思うですようん あのねねま映しても映さなくてすっごい あのエエピソードつうかうんあの今の住ん でる公営住宅におあのま兵庫兵庫県からか な支援の人来られてうんあん時はね3 人3人2人で来たのかなま私もう何度も 会ってる人でそこに私のあの同級生の中 学校の同級生の女の子も一緒にこう縁が あって渡ってうちで宴会したんですよ宴会 ねすごいぱですからそこでねあのその 向こうから大阪兵庫から来た方は近くに ホテルとってあったんですよ2人分にうん であのまエも竹縄だけど帰りなくちゃど かってホテル大丈夫なのチェックいいの かっつったらいやこのままで朝まで伸び ましょうってなってう止まっては2人行っ てねホテルホテルはそうでうちのお母さん もったいないから私泊まりに行き ますでその私の同級生の彼女はお酒飲んで ないで飲まなくていい人でうん車で来て おまけにあのルートインがあの主役所ナト 役所の近くにあるうん家がそのそばだった んですで私乗せていくからうちのお母さん 泊まりに行って私のそのひの3人 でそんなさすがの私もねびっっくりしまし たよいやお母さん面白いですねははやあの 50年脱 にそれび やっいやなんか今日新しい姿をもなんか海 の話も聞けたしあのびっくりですよだから ま仮説に入ってすぐまず一とめだしうん あの支援に来てたこうん山形から支に来た こともだし今でもさっき言ったみくあの 卒論であの下位をうつる時に最長3ヶ月に なんですへえあ3週間あ3ヶ月3いう人 よくそういう人が宇さんち見つけましたね あのねあの大学の先生たちからちらっと あの声かかんじゃないんだけど行くから 今度少し世話してって言われた時にでどこ に止まんのつといやこれ考えてなんだよね 女の子だからじゃあうじ泊まればいいさ みたいな感じ でその代り女の子の場手伝いなうの お母さんなれうんうんそんなのもねもう そう一緒に宴会 毎晩あ毎晩飲ませなってあれ勉強しに来て た人じゃないんですか学生さんはででも ちゃんとあちゃんとであの1つね真面目な とこあるんですよ私誘うのもあの東武台の あの災害国際研究所なんかの学生さんで やっぱりここにもう何年も通ううんてる子 もいるんですよでもあの払って話するまで 2年2年かかっちゃうんですよねうんうん やっぱりそれはそれで悪いことじゃないん ですけどただひとかあのあっちのあの兵庫 県立大学の災害ああれですかあの1と未来 ポさたにうんまさかそそんなに通えない じゃないですかうんだそこで先生から話し ちゃった時にじゃあ私がなるべく連れで 歩くからだったらなおさらうちに止まれば 私暇な時朝から引きずりますからうんうん うんうんとすぐお茶会やってとこにトンと うん入られるんでうん最初は誰ってなん ないからなうみさんなにその新しい彼女 がってほら馬鹿にね新しい彼女がって孫 みたいなこう連れてそっから始まるから 彼女たちもあるいは学生さんも入りやすい んだねうんそこで私もあのあの日の11日 の中学校でのあの悲惨なトイレ話してやれ みたいなこう冗談ぽく言ってそ早あのと 兵庫柄でもその回数少なくとかうん時間 短くうん済むというまね自分で0から開拓 すんのももちろん本当はいっぱいあるん だろうけどやっぱり時間的距離的要素うん それで34人ぐらい止まってるのない今 まるとこああ止まんなくてもいいけど私も ちょっとうみさんの元で色々調査しようか ないや止まって一緒に飲んで必要 そそううらもこうなんつうの勉強にな るっつかうんやっぱり あのそんなはあの語りべじゃなくても話す ことによってこう忘れないうんこうねある 程度心あのいつもこう意識できるっつうん ある しだからま結構 ね今年あれやなうんクレに求めてるです うん学生さんはねまだだからもうただお 手伝いしてもらわないともうこれちょっと 無理だよっていながらうんうんでやっぱり あのあとま最 まそんなね不便じゃないんだけど災害公営 住宅に実際に寝泊まりしてレポート書い たらあつうんうんうんのもああええ なかなかできない体験ですうんうだけじゃ なくてその 集合住宅だとそこに住んでるいろんな人の うんがもう遠く柄じゃなく見えるわけです よねあるいは飲んでる時ピンポンて来てし たらあのま例えばブレーカー飛んだにして もちょっとじゃあ一緒一緒にその予算地の 部屋に行こうとか ね もう今日もね午前中ねあの社さんのうんお 弁当入ったずのドライバーやうんしてたん ですそれで1番今日は1番最後がに入った するのがうちの下のおばちゃんのうんたら なんか洗濯の星て出てこないんだねで ドライバーは普通ほらあの車邪魔になない ように乗りっぱなしなんだけど下から見て たらあれ出て出てきてねえなこの時間と 思ってでま知ってるわけだからあの行って うんしたらいやなんか押したんだけど出て こないんすよつから まガチャってあげてあれ鍵かかってないっ その人は言うのあゆげの人いれば鍵かかっ てないかなつってそこう覗いたらベランダ の方にいんの見えだからそのまま私はもう ズズズ上がっていって今呼んでくるからま そんな感じでうんだから やっぱり学生さんとかまあるいは研究し てる人そういう若い人ね特にね見るとね やっぱりそれ自体がもう1つのなんかうん うん研究課題じゃないんだけどあのへえっ て感じでうんそういうルあってまよく止め てたし うんま毎日ねそんな感じです よそんな感じの今日は宇美さんのお話 をお伺いしましたこまポイントは震災は 大きなきっかけなんですけどこう人と人の 繋がりをすごく大事にしてその時にできた ものをまたプラスにして何か今に繋がって るっていう感じがうんしました 今日全然早朝喋ってないけど質問も ほとんどしてない引き手代表ですからそう はい大丈夫ですじゃ最後の締めの言葉 ぐらいをはかさんお願いして締めくりたい と思いますんでよろしくお願いします第2 弾ですね第2弾え今から予告です予告はい はいということで え次の第2弾はいつになるか分かりません けれどもまた宇佐美さんにお目にかかり たいと思います はいありがとうございましたおち様でした

<ゲスト紹介>
宇佐美 久夫(うさみ ひさお)
仙台市出身、名取市在住。
平均的な中学生が、高校時代にオフロードバイクにはまる。さらに、二十歳の時の気ままな旅先での奥様との出会いをきっかけに、潜水夫や海外ラリーに出場など、人生観の大転換。
老後は海沿い暮らしをしようと名取市閖上(ゆりあげ)に転居したが、東日本大震災で自宅を流失。この経験から、現在は名取を拠点にボランティア活動や地域活動に奔走している。
奥様から「お父さん、震災で大人になったね」と、言われ続けているとか。

<1783ch(いなばさんちゃんねる)とは?>
毎月1日、夜7時~8時、稲葉さんと早川さん、そして素敵なゲストの3人によるトークチャンネルです。

1 Comment

  1. 久し振りだね、宇佐美さんは昔と何も変わらないね、楽しかったです、奥さんもお元気そうで何よりです。また、チャンスがあったら飲みましょう!!🤗🤗🤗

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