レジェンドレーシングドライバーかく語りき 証言映像化プロジェクト 第1回目 「第1回日本グランプリ」を語る

皆さんこんにちはレジェンドレーシング ドライバーズクラブの会長の大久保で ございます皆さん方に色々お世話になり ましてまレーシングドライバーズクラブと いうのがあるわけですけれどもこの大年の そのチャンピオンを取ったドライバーたち の集まりこれはあの皆さん方が色々なま あの媒体でご存知なことも多いかと思い ますけれどももっと違った話が聞きたいな という方も大勢いらっしゃると思います そういった意味におきましてま映像化 できれば1番いいんだがなっていう話から まこの度クラウドファンディングという皆 さん方のお力をお借りしましてま制作 いたしたわけでございます色々ありがとう ございました この制作しましたレーシングドライバー各 肩というま題名になるんでしょうか ねま普段ですねええ多くの人に知って いただいてることを以外 にまあ今だから話そうというようなこと からま会員1人1人にですね自分の持って いる強い思いであるいは今だから話せる ようなことそれらを1つにまとめてみたい ということでえまとめてみましたこの インタビュー映像はですねえまうちの レジェンドクラブでもまレジェンドを代表 するような会員に集まっていただきまして えまこれから6回に分けてですね配信 いたしますのでどうぞお楽しみにして くださいこのプログラムで1番最初に皆 さん方にお伝えしたいことはま今から60 年前に日本で初めての自動車レースが 始まりまして第1回日本グランプリ自動車 レース大会という名前でした でこの時に出場しましたドライバーもう 何人も残っていませんが津智彦田川弘明 そして不省私大久この3人がですね第1回 どんなレースがあったのかとどんな状況で あったのかこれをお話しいたしますえ皆様 あのこの後のプログラムを楽しみ にしていただければありがたく思い [音楽] ますえっとまず最初にじゃあたさんからえ ご自身が初めてその自動車その小さい頃で も構いませんの自動車にに触れられた ところからお話いただけますかはいあの私 は学生自動車大学自動車部のOBでござい まして和田の自動車部を出てますけどもで もう卒業した後あの普通の生活をしてた わけですけどもたまたま同期に池田映像と いうあのモータースポーツのライダーあの ライターをしてた男がいましてねそれから ある日電話があってえ鈴鹿沢来ないていう のが最初の電話がそれなんですねでそれが きっかけで鈴鹿沢きとに行くことになった のがそれがあの前の年62年の夏頃だろう と思うんですけどもでいや車ないよったら いやあるよっていうのがで行ってみたら それはトヨタ動車の候補者なんですねで コロナとクラウンが置いてあって 池田映像はライターですから後方者を2台 借りて鈴鹿さに置いてあったんですねで彼 は何をやってたかていうとすさきとに来る お客さんの走り方の講習会公使やってたん ええで行ったら乗っていいのおったらいい よって言うんでその講義は聞いてないん です私はね彼の講義は聞いてないんです けどそれで走り始めたのがそもそもでえ ですから自動車乗ること時代は大学時代 から乗ってますから別にどったことない ですしで最初コロナに乗ったんですけど 23週で面白くないんでクラウンに 乗り換えてえそれから何回かにわって鈴鹿 咲に行って乗り始めてえそうしてるうちに 翌年の5月に大会グランプリがあるという 広報があってそでまその池田君と2人でと の候補行ってこの車貸していただけません かと いうことで借りたのがこの車なんですそう いう流れなんですね自分のあの範囲の車 じゃなくてと者から借りた車なんです候補 者なんですで当時のあのレギュレーション はナンバー付きの不通の車ですからその まま借りたままでやらしていただいたわけ ですねご自身でマイカーとして持たれてい たわけではないそうじゃないんですえ借り た車ですトヨタ自動車から出てくださいと 言われたわけでもないそうそう全くない ですこっちから借りに行ったんです池田君 が私が走ってるタイムを測ってたわけです よねそしたら普通に走ってる人の中でえ 結構早いとこ走ってるから行けるんじゃ ないのって話になってまそういうあれが ありましたけどま実際ね蓋開けてみなきゃ 分かりませんからあのどこまで行ける かってのはあれでしたけどまあ一応売り 文句としては勝てそうだっていうな売り 文句で借りに行ったことは事実ですけど つみさんは同じように大学生で いらっしゃる時あえっと高さんは大学出 られた後に29歳で出られたてことでした ねそうそうそうつみさんは大学生でらした 第1回のグランプリの時にそうはいでデカ ベというま輸入者会社で出場されてまし けど そもそもデカベもすごくマニアックです けども会社も珍しいマイカも珍しいそれが 若い大学生が乗るっていうのも珍しい すごく不思議だらけなんですけどどうやっ てレース出られたんでしょうかいや私はね もう自動車のことは全くよく分かって なかったん知らないんですよで本当にね もう偶然が偶然を呼んだんですよ であの実は試合に私親しくさしていただい たのにあの馬早さんとそれから徳さんと さんと偶然あの出会いましてそしてあの 四葉さんのうちに遊びに行ったら私はその 当時あの実は2輪しか2輪は乗ってたん ですねバイクはずっと乗っててで あのまそれこそ大久さんなんかが朝間行か れたりしてとで見てまして浅間は行ったん ですけどねあのとても2ってのはねあんな のの自分でできることじゃないとあんな 恐ろしことはできないとそれで4輪なら できるかもしんないなとは思ってたんです ねそれでそのdkwデカベがあのうちの 近所に売りたしって書いて出したったです ねで元々はねやっぱりあの車あんまり知ら ない無知な私でもねやっぱポルシェが1番 い車だろうと思ってたんですねで私ポルシ 買おうと思ったんです 高くて買えないねこんなの買えないと思っ てそれで自動車の知識ないもんですから ポルシに似た格好してんのが フォルクスワーゲンだなと思ったあの ビートルいゆえビートルだでビートル探し たんですけど当時ねビートルも高いんです よ日本の輸入者ってつっとまずビートル だったんで人気で買えないそそうしたら うちの近所にねガソリンスタンドにね ビートルそっくりな車がね比較的安い値段 で売り出して書いてあったんですよでもう これだと思って え早速電話かけましたそしたらね後々あの ヤマハなんかで乗ってらした望月おさんの 弟さんが乗ってた車なんですねうんそれで そんな関係でそれを買いまし てでとにかく金はないもんですからもう 全部自分でやるっきゃないんでまあの エンジンオーバーホール全部やったりし ましてであのそん時にですねあのデカの あのすごく詳しいあの田口達也さんという 方と知り合いになりましてでその方がもう めちゃくちゃ詳しいんですねでその方から 手取り足取り教えていただいて自分で オーバーホールしたり えチューニングしたりしてえあのデカに 行き着いたわけですじゃそもそもレースに 出たいがために出るために手に入れられた 押える通りです であの2輪は乗ってたんですけどもちろん レースも出たことありませんけども あの2輪でレース出たいと思ったんです けどとてもやっっぱりあ怖いんで4人なら 安全だろうと言んでまそれでレースの出る ためにそれをわけも分からず全くもう無知 で何にもわかんなくて勝手に始めたわけ ですね久保さんはえお二方とはとお スタンスが違ってもうすでにこの時点でえ 2輪のワークスライダーでいらっしゃった はいえ鈴鹿のコケラ落としの第1回の秋の バイクのレースもレサとして出られていた はいということですよねはいとするとその 63年の第1回の4輪のグランプリはえ もう最初から勝つぞというか出るぞという 何か こう目標があったんでしょうか いや あのま鈴鹿ができたのは1962年です からで9月にオープンのセレモニーがあり ましてねで11月に初めてのレースがあっ たのは全日本 えオトえ選手権大会というこれが代替的に 行われたんですでその時に私は鈴木の国内 チームにいましたから鈴木から出んですが もうそれ以前にもうサザパもう4年ぐらい 2輪のレースやってましたからまレース そのものは慣れてましたんで ねただあまりにも鈴鹿のコースの路面が ものすごくいいことだとかれから施設が いいことだとかこんなとこでレースができ るってのはやっと夢はかなったなという 思いだったんですそれでまだんだんと2輪 の方もこういうところでレースが続くんだ と思った時に本当に将来へのま明るい希望 を持ちましたけれどもところがですねあの で次の11月でしょうで翌年の5月半年後 に4輪のレースやるっていうんですよその 時考えちゃいましたね一体4輪のレースと 言ったって誰が出るんだろうとで多分ま 当時でもま日本スポーツカークラブのよう なですねま裕福な人たちがあのMGだとが まトライアのスポーツカーとかですね色々 乗ってる方がおられましたからまそういっ た方々が当然出るんだろうなと思ったん ですねと私あのま先ほどまここにメンバー てのは4輪時当社も持ったことありません からで事実私も4人当社って持ってなかっ たんですよで唯一持ってたのはメッサー シミットという3輪者でね前2輪でしょ 後ろ1人で200cc年ですからででも ひょっとしたらこいでも出られるかと思っ て電話したら3輪者はダメですって言うん でね正直そんなに出たいと思ってません でしたから諦めたことは事でなんでそんな 今まで2輪やって半年後にいきなりもう 全然聞いたこともない4人のレスでしょ なんでこんなことになったんだろうとそれ はまあ後年まどういう事情か分かりました けもま今それはねななかお話するのは 難しい内容がありますねでまそれはベスと してえま出るきゃ本当になかったそうし ましたら突然ま猿出版社の方から え4人のレースに出てみないかという話に なりましてねでその時に初めてあ4人 なあ2人でだいぶ走ってるからコースは 知ってるしま簡単だから4人なったら対し ともことはないからじゃあうんじゃ出ても いいですよということになっていろんな メーカーの名前をあげられましたでその時 にま進める方あれじゃないですかね最初 から決ましたんじゃないですかねあの富士 中行から話があるんだけどもえどうかねっ ていうわけですよねそれで富士子ってあれ ですか刑事動者のあれですかつったらうん そうなんだけど今あんなちっちゃな車しか ないんですかたらいやなも富士中行と言え ばね昔は もうとんでもない立派なね戦闘機だとか 売券機作ってた中島飛行機の流れなんだ から将来的には非常にまあ楽しみなんじゃ ないかなそれとなくスバルに乗れよ乗れよ というのはねべきなんですよですからお 任せしますということでま話終わったん ですけどそうしたらいつの間にか富の ドライバーたっていうだけの話で自分から 進んだわけではなかったですはい大久保 さんの5本拝見するとえあのコースが 出来上がるまで総一郎さんがどんな思い出 というかどんな場所に作ってえていう ところから全部う書かれていたと思うん ですけれどもえーまずああいった大きな 本格的な国際的なレーシングコースがえ できると聞いた時それから出来上がったの を初めて見た時 えつさんとタさんは鈴鹿咲とどう最初感想 持たれましたか ま漠然としか覚えてないんですけども あのただその自動車を走らせるというのは 学生代からあの一生懸命やってましたので ね車自体を走らせるという場所については あの割にそんなり自分の中に込んできたの は全くある意味では全くなんか抵抗感が なかったような気がするんですけどただ あの経験上から言うとそのちゃんとした レシのそのコースを走るという そのなんてですかね経験っていうのはあの アウトインアウトのそれはあの理論的には ね知ってますけどなかなかそれが場に実際 そのちゃんと提供していくかってこととは なかなかあの1回では無理な話なんです けどねですから何か1回言ってるうちにま そういうことになってきたんで割にその サーキットそのそのなんていうか印象って いうのはそのに驚きとしてはなかったん ですね自分としてはですねただまあの自動 車の話をしちゃうとちょっと話が長くなる んでまそれはま別の話として あの確かに最初からから見るとその ステップを走ってるステップによって だいぶ自分の中にこうとけ込んできた部分 でサーキットってのがそのままあの すんなり入ってきたのはあのあまり悩んで もいませんでしたしえ自然に溶け込んで あのいったような気がするんですねえです から印象的に私はあんまりそう感じなかっ たんですけども津さんはいかがでしいや私 はねびっくりしましたあの本田宗次郎さん がね咲と作るんだとそれはあの自分とこの バイクをね育てるために えレースは実験の場だというようなことを おっしゃっててね行ってみてその規模の 大きさにねもう腰抜かしましたもうあの 入り口からでかくてそれで中入ると本当に もうあの細も綺麗な舗装ですしそれから あのえあのなんて言うんですかロソ体ラン ランアウトした時のロソ体がすごく安全を 高く取ってあってなんてすごい安全で 素晴らしいサーキットなんだろうと思い ましたそれであの当時ですね今でも 思い出すんですけどあのすごく咲とね参加 者のもう入る人がものすごくね大事にする んですねで僕ずっとねサーキットって神聖 な場所だという感覚がありましたというの はサーキットの入り口にあのシェルの スタンドがあったんですけどそこで先生が あるんですねでみんなそこ で車の底を全部洗うです綺麗に泥1つない ようにで綺麗に洗ってから入 るっていうのがね当時のマナーだったん ですねだからもう皆さんさき口とまずがあ のボディじゃなくて床下を洗って泥下 フェンダーになんかドローないように綺麗 にしてもう本当にあの綺麗に磨いあの汚さ ないようにそしてサキト入ってましたんで もうとっても神聖な場所だというね イメージがもうずっと私たち長くありまし ただからまず洗車して入りましたいざ コース入られてレーシングスピードで走ら れた時は覚えてらっしゃいますかいやあ もう感激ですよもうあんなソクでね車の 限界で走ったことないですからねそして もう本当に気持ちよく伸び伸びと走れます しからサーキットの楽しさありましたそれ からもちろんやっぱりねブレーキミスたり スピンスソになると危ないですから楽しさ とその怖さと言いますか車の限界のお怖さ もも知りましたし逆に面白さも分かりまし たんでなんてさと車で走ると楽しいんだな という気持ちがあってもう本当にね ワクワクしました本当にワクワクしました でやっとね僕たちのね夢が叶えられたんだ とで走ってるとねやっぱ俺が将来やりたい のはこれなんだという感じがしましてそこ でやっぱりあのやっぱりレスドライバー やりたいというのがあのもしっかり自分の ねあう道をなんか見つけた感じがしました 大久保さんはもうバイク で本コース走られてたわけですけれど も4輪に乗ってみたら鈴鹿はどう見えまし たかえっと ね 正直まあ2輪で何百週走ったか分かりませ んけどもま全部分かってますから4輪なん となちょろいもんだろうということで全然 この心配も何もなかったですよねじゃあ1 つ乗ってやろうかて でそれで まあなんかいきなり私の場合にはあの メーカーだったですからねやるもうその 最初に走る時からもうメカニックから サポーターからワンワンワンワンこうつい てきてくるわけですよでその中でま走りお 広めするんでしょうけどね走り出した時に まじゃあも1番いいタイム出してやるわっ てそのぐらい生意だったですよところが ですね走り出してからこれはとんでもねえ ことだなと思いましたのはねコーナーじゃ 曲がらないわけですよオートバイみたいに もうリンすればねさーっともう曲がれる ところは全然曲がれない で今度コーナーの手前でもうブレーキは 全然いかないしそれでご周もするとね タイヤから何か丸坊になっちゃってで ブレーキなんかも全然効かないでドラン ブレーっていうリスクじゃありませんから ねこれ全部上げちゃうんですねでそういう ところから日本の自動車レス始まってま 市販者にも影響してくんでしょうねです からその5周走っただけで気を取り直して 本格的にこれは取り組まなければも とんでもないことになるなということに なりまして1番怖かったのはま自分自社の 車ではありませんでしたが他のメーカー さんあるいは他のまクラマの人たちが走っ てる中でねもうどんどんどんどん車が点灯 するわけですよだからええ4輪者って ひっくるめてねそうしましたらもう次の 練習の時にはうちのチームでも ひっくり返り出したわけですよだからその ぐらい危ないもだったあのお二方はあの そういったメーカーで出られてる選手だっ たらお車をどうどんな目でご覧になって ましたか私は あのこ主催者であるJSジャスていうあの 団体が主催してるわけですけどそれはあの 社会人で自動車大好きな人たちが集まっ てる会なんですけども学生時代からずっと お世話になってる人たちが結構いたんです ねですからパトックの雰囲気なんかも結構 知ってる人がいたんであの割に溶け込ん でるしでなおかつ私は学生者から結構走る 走る方だったんですよ町の中でねで当時 日本の自動道路っていうのは東京の外に出 たら必ず砂利道ですからねあのどこ走っ たってじ道ばっかりし走ってるわけです から車が横になるそある程度ドリフトする ある程お尻振るそういう経験ってのは ずっと育ってきてるわけですね当時の現役 は私にしてみればで学校卒業して何年も 経ってますんで割にそういう自動車をやっ てああいうとこを走るということについて はですからその住君のちょっと言われた ような音はちょっと雰囲気は違うのはその 早く走らせることに自体割に抵抗感がない というか えですからそのなんていうかグループその ものについてもあの結構知り合いがいまし た し割にパドックの雰囲気なんかもえ別に あんまり抵抗感なくあの入りたいような気 がするんですねえその辺は あのなんて言うんですかねえにその5月3 日ま4日まで進んでいったっていうような 形になってきてますてねあの先ほどの大久 さんのお話5周で車がちょっとダメなる みたいなお話ありましたけれどもうん高さ のクラウンは見た感じすごく重そうに見え ますがレースあのコースではどうな感じ でしたかえ実は あの私は都動車の車乗ったのが生まれて 初めてなんそん時がつのは学生時代自動車 部はあのアメリカの車が主でトラックに 日産のトラックがありましたし日産のセダ があるんですね学生にこれはあの当時の 日本の軍隊の商工さんが乗る車ですごい いい車だったんですけどそれが自動車に あったんですねでセダはそれあとは パッカードアメリカのパッカードにあり ましたしまそんな関係で国産者の車って あんまり繋がりがないままでなおかつまそ 当時の自動車部早稲田の自動車部の監督が 日産自動車の先年のせ課長さんなんですよ ねですから日産との流れっていうかあの あれはあるんですけどト同車っての初めて あの載せてもらったわけですけどねだから まそういう意味ではねあの全く新しい車に 乗った感じはするんですけどもえ乗った車 があのいわゆるスタンダードの車ですから 1シートでえシートベルトが1本しかない わけですねえでリモートコントロールの3 速ですねえハンドルのこっち側にシフト レバーが出てきて手前に引っ張ってして やるとローでセカンドトップと3速でで このこっちの上がバックなわけですねでま レースですからバックは使いませんけど その3速で走るということのその サーキットとのサイズが合わないのはもう これはもう目に見えてるわけですですけど ねでその辺はですからその前の年の何回か の走りの中でだんだん分かってきてあの どこで何を使うということがね分かって くるような形になっていくわけですけども その初乗りに関して言えばえほとんど トップで走ってるような形になってなんで これがレスなのって話になるわけですけど でからだんだんタイムを追いかけることに なってあのセカンド使ってなしろローは もうスタートした時しか使いませんしええ セカンドがあの登り坂なんかは全部 セカンド台走るそれで直線なるとトップで 走るというだけでえですからある意味では 物足らない分があるわけでまそんなこんな でえ雰囲気的にはえオガルについては え約半年半年はなかったですね4ヶ月か5 ヶ月ぐらいの感じであもう少しですかあの レースに向かっていくわけですけどねさん ははいいやもうね羨ましかったですよ ワークスチームがこっちは1台の車でね あの車 であのさとまで行くあの要するに運搬車で もあるしそれからレスカでもあるしでさき と走った後は今度その中で野宿するわけ ですねそれであの近くに川でありました けど鈴鹿川のえところでも1泊したりそれ からあの130Rの上の方が松林だったん ですけどあの松林の中で え車の中で野宿ですよねでトランクがもう ツールツールがいっぱい入ってるのとから ツールの他にスペアエンジンとミッション も気乗っかってるわけですねでもう満載な んですよそれでもう壊れ自分で直さなきゃ なんない しですからあのもうそのリさんたちみたい な ワクスがあの積載者で車でバーンと来ると ねもう羨ましかったですねであの僕の コンペティターがあの戦ったのがえ コンテス日野のコンテスだったんですけど コンテスのチームが確か石者2台ぐらいに ですねバーっと積んでくるんですよそれで またねあ多分コンテスト難しい ドライビングがすごく難しかったんだと 思いますねあのリアエンジン車でで結構ね 1日何台も点ひっくり返っちゃうんですよ でもう目の前でひっくり返ってうわあ怖い なと思って ねあの本当先ほどあの大久保さんも おっしゃったましたけど車点灯するなんて 目の前で見たの初めてなんですよねもう びっくりするわけですね自分の車点灯し たらどうしようと思ってでもう恐る恐る しか走れないんですけどもワクスの皆さん はねもうひっくり返ったらすぐパンと 新しいのパンと出てねもう新品です どんどん走るんでそのま力さんもワクスな んですけどワクスのねあの方々はね 羨ましかったですねでこっちはもう1台 潰しちゃうと帰れなくなっちゃいますし あの宿泊もできなくなっちゃいますから もう恐る恐る大事に走るしかないっていう んでえ本当にね あのが貧乏学生がやるこっじゃないなと 思いましたねとても羨ましく思いました あの当時はえっとメインレースっていう ような特に位置付けはなくていろんな排気 量ごとに車両ごとにえクラスが細かく 分かれていてま長い大きなレースでも30 周ぐらいというようなえですのでおさ方は 多分一緒のは出られてないしえ戦われても いないしえまあえ厳密にはライバルでも なくてでもま当時同じ空気で同じ場所同じ パドックピットにいらっしゃった方々なん ですよねそういう意味ではファンというの かな自動車レースそのものを初めてご覧に なる方が多い中えどんな場の空気だったの かって今今あの分からない人たちに教えて いただこうとするとどんな表現になる でしょうかそうですね あの私 は日は あのスタンドに誰だったかなあのちょっと 知り合いがいましてねだからトンネル くぐってスタンドに行ったんですねその人 の多さには驚きましたねこれはあの パドックに入ってしまいますんでその観客 席が見えるんですけどそっちはあんまり気 にしないで自分のねことが結構ありました からですけどそのたまたまスタンドに行っ た時にその人の多さには驚きましたけども えそれはあの物に本によると20万人って 言ってるわけでしょ観客がえでこの20万 っていうのはすごい数字でえこの60年の 間でこれ最高の人数ですからね第1回は えこれはあの本当に大変な騒ぎだったこと は間違いないわけですけど まあ私は あのその借物の車は名古屋の駅前に置いて ある豊田自販の車駐車場にあってそれを駅 で降りて車借りてそのまま佐と言って走っ てまたさ名古屋駅前まで帰ってありがとう ございましたで車庫入れて電車乗って帰っ てきちゃうっていうことを何回かしてまし たんでねあの本当に借物なわけですねえ ですからあのメンテナンスがどうのこのっ て話はあの誰もあトヨタの人に会ってませ んしえその広報の人とコンタクトだけでの 話で車を借りしてたわけですけどもねです からあの大会グランプリっていうのは メーカーは全く関りのないことであの約束 ができてたわけですから私はそういう意味 ではちゃんと守ったつもりでおりましたん でこの車のそうものについてののあなんて 言うんですかメンテナンスとかそういう ものはただ1つあのお願いしたのは当時 タイヤはダンスエフというあのホワイト リボンのついたタイヤなんですけどその まま走んじゃ恥ずかしいからって裏返しに 組んでもらったんですですからこれ写真 見ると分かりますけどホワイトリボンが ついてないわけですね中側にホワイト リボンがついて外側はゴムのまんまなで それで走ったんですけどねあのいわゆる バイアスタイヤです からそれしかないタイヤでえあの最後まで 走ってるわけなんでえ唯一お願いしたのは それぐらいですね車についてはねそういう わけでま大会雰囲気そのものはえ あのあんまり意識しなかったというかそう いう暇がなかったのか分かりませんか印象 的にはあんまり覚えてないですねつみさん は第1回のその20万人ですかお客さん いらっしゃる中 で自分が走るレースするどんな雰囲気を ましたいやもう大変なあの盛り上がりだっ たですねそれで あの観客席のになんかで行きますとね日本 の超有名なデザイナーの方ファッション デザイナーの方がねいらっしゃったりです ね ものすごくその賑やかというか晴れやかで それでまあのあのねあの式場早きさんたち なんかあのねあのモデルさんたちと一緒に いたりしてねもう本当にきらびやかなん ですねでまるでねあの咲きとかね日本のね 最高の社交上になった雰囲気だったんです ですからあの頃の咲との雰囲気ってのは 本当にねまあ今でいうF1のサーキット エァの大会のようなね煌びやかさがあって すごく輝いてましたね 本当にあの最先端のえモータースポーツが 1番輝いた時じゃないでしょうかねそれは じゃあ晴れがましいお気持ちなんですか それともちょっとこう緊張しちゃうような いやいやあの晴れがましいことよりも私 なんかあのりさんみたいにレース経験あり ませんからもう本当に緊張してまして もう本当にスタート前にあのコースイする 前はですね あのもうパドックのところに座り込んでね もうすっかりねなんて言いますかねましげ てはいないんですけど緊張感の高まりが あってで例えば私あのスタートラインに 座ってるとそこに我々のピットが見えるん ですけどピットにね56人友達がやっぱり みんな応援に来てくれてるんですけどね そん時思ったのはねあいつとわりたと思い ましたよ誰か変わってくんないかな俺が あっちきたいよとそしたら楽しめるなと誰 か変わってくんないかと真剣に思いました 本当に怖かったですもう緊張の極みですね 私なんかもう千望の目身で見てました口 ですから炭の方であののしながらただすか にね練習に行くようなことになってからね まあ彼なんかたは随分長 もう本にれでねじしてテト貼ってね罪何 食ってんだなん仲良くさせていただいた方 ですからねもう第1回終わった後ねやっぱ おさんがねあのみんなで貝を作ろうよって に声かけてくださいましてドライバを作っ たんですくださいましてねそれからあのり さんとはあの ずっと何かとあの兄貴分であのあれを やらしていただいてますで高さんはその後 ね色々また高さんとは世になってんです私 お二方にものすごく逆に大久保さんは えもうメーカー バトルがもう第1回からやっぱりあの立前 場は関与しないということでしたけれども やっぱりそうした体制が組まれていた ところを見るとスバルはスバルでま勝てる 勝って当然と思ってたかもしれませんが 松田ヤバあ松田えといったライバルを意識 しての結構ピリピリしたものだったん でしょうかえ えま高さが 同じメーカーの車がまお金にしたのかどう かまでもちょっとメーカーというメーカー チームという意味合いではないねえところ があのま私の場合は冒頭に申しましたよう にもう最初からメカニック付きのからもう 車なだも積んでくるようなそういうです からあのただ あのレースが1963年の5月でしたから 2月ぐらいまではさほど人はなかったん ですねでそのうに このまどこの車どうあるがうちが1番早い だろうって言ったようなつもりで出てきた あの他のメーカーさんたちもま実際に走っ てみてえここの重大差に初めて気がついた というなことでどこも同じなんでしょうね あのトラブルはもうタイヤは減るし ブレーキは行かないし ひっくるめみんな一緒なんですじゃあそれ に対してどういう体制が組まれたかって 言うとまあのオイルメーカーからあの プラグメーカーすいからタイヤメーカー そういうものがだんだんともう3月ぐらい から増え出したってことは事実ですよねで そういったあのサポートの人たちも 入り込んきたためにもう常にま練習日は もうパドックの中がいっぱいという感じで ねただこの中でも先ほどまあつさんが言っ たように華やかなところとそいから油 だらけのところとそれからもう1つは ちょっと怖そうなグループと大体3つ くらい分かるわけですよま華やかないうの はまバファッションの番をね中心とした それでえま週刊誌のレチだかなんだかそう いったあのも式場なんかのちょっと ファッションが高いねクラスがこうあるで やはりそこから出る人たちもえスポーツ カークラブなんかで走ってた人たちです から自分の車でもう輸入の輸入されていい 車に乗ってるわけよねま津さんみたいにえ 投げ出しので買って中古者は全然違うで そういったグループが1つそれからまあ 我々みたいなあのメーカーチームっていう のはもうみんな泥だけでつなぎもね汚よな のま来て集まってるあれですからあので もう1つは ねいわゆるなんていうのかな今でもそう いう連中いるんでしょうけど もワコが1番早えんだっていう暴力的なね えま癖を持った連中ですよねですからもう パドックの場所なんかでもやはり暴力の強 強いやつが1番やはりいいところを閉めて しまうといったようなそういう本当に離島 者を通してのあ人間社会のそういった区別 というものがねあそこに出ていましたよね ただこれがですねだんだんとこの決勝日に 向けてえ整ってくるのはやはりあの早い ところに対してのレスペクトというか あるいはあの恐ろしさというかだんだんと 早いものは早いなりのいいポジションに いるすいからサービス隊も多くなってくる とそういう力の世界になってきたのは はっきりしましたよねでうちの場合はどう かって言とうちのメーカーが目指したのは 当時日本でももっと車をあの庶民に普及さ せようということで国民者構想というもの をで政府がぶち上げましてねその中心が あの刑事当社だったわけですよで刑事当社 でそれに対抗して刑事同者の枠を出た トヨタでは パブリカこのパブリカとすいからスバルと 鈴木それから 松田そこがあのいわゆる国民者クラスのま 一番底辺ですねその覇を競いだけですよね ですからあのそれに対するうちはうちが 1番だというとこどこも持ってただろうし でま当然スバルはあの実際の市販でも数 多いしまスバルからえ次にステップアップ したってのはもうその時代でもかなり 多かったですからね絶対勝てるもんだと いうつもりでいたんじゃないですかで私は あの同じチームなんだけれど ももうもう勝手にしゃがれっていう風に 思ったことになるわけですよ なぜかと言いますと360ccクラスは誰 が走ってもね勝てるだろうというなんか うれがあったんですねそれで僕のようなま 2輪レースの熟練者 はもう36時には何も盛ることはないと その1つ上のクラスねこれはパブリカなん ですよでトヨタのパブリが700ccで スバルの方で360CCをですねボア アップして450ってのがあったんですよ でこれ普通車のこの大きなナンバーつけ てるわけですよねこれ輸入あ出用だったで それに乗ってくれっていうわけなんですよ 片や700ccこっちは450cc でしょ倍違うわけですよねそれでじゃあ何 をどうやって走ればいいんでかたら多分 多分というか当然勝てないのは分かってる しかしトヨタのパブリカにどのくらいまで ねうちの450ccの車で食い込めるか そこが狙いなんですよということなので じゃあなるべく上のこに行きゃいいわけ ですねていうことで えただやる気なかったですね最初最初は 1番最初ははいそんな思いで過ごしました まあ1番あの当時でいわゆる衣装ですよね あの今でこそみんさん当たり前な話です けど大会グランプリでレーシングスーツ来 たのは私だけなんです ああでこれはあの小林翔太郎さんってカー グラフィックの選集さんあのが池田君を 通じてあの小林太さんがお持ちのあの レスレストンてあのイギリスの あのなんてですかあの有名なF1の レーシングスーツをお持ちだったんです それをしていただくことになってですから 当日は私はあのダロスーツを着てあの唯一 シングところはヘルメットがないわけです よ当時はねで土木産業のこういうやつで これたまたまここに川のついたやつが売っ てたんでそれを買って被ったのを覚えてる んですけどねそういうものを着なさいとか そういうヘルメット被りなさいていう規定 は何もなくてえある意味ではちょっといい なとあって皆さんあなたどういうヘルムと かったの僕はねジェット型ですあそうそれ で今高さんのお話伺ってねたさんはね かっこいいブルーの薄いブルーのね レーシングスツ来てらっしゃるのこれ かっこいいんですよ雑誌なんか見るとね あの向こうのF1ドライバーが来てるん ですよねそそんなの知らなかったんです ねやもちろん知らないですよね私たちも 知らないんだけどたまたまそういうわけで 貸していただいたんでえ予選の時はです から普通のあの白いパンツでテニス用の パンツでなんか上は何来たかよく覚えて ませんけどいい加減な格好してヘルメット だけはそういうわけで自に買ってあったん であれでしたけどねあのおさ方たレースの 賞金って覚えてらっしゃいます商品賞金 賞品なんかないですよなんか当時の雑誌を 見るとクラスごとにあの分れていて優勝者 4万円とか10万円とかあるんですけども さんのクラスだと4万円っていうあの記載 があるんですけど 覚いだいたんですかねうん多分今だと結構 な額なのかなまあ何十万かになってるんだ と思うんですけど価値としては覚え てらっしゃるないですかあの プレゼンテーター はあの宮様なんですよねあ えでですから私の経験から言うとしばらく の間私がトヨタモータースパスの会長やっ てレス主催してるわけですけど大きな イベントに宮さ来ていただいたことあるん ですそれはそそういう流れがあって来て いただいたことありますけどし大1会の時 びっくりしましたもう皆様から直接こう いだいたのはすごい感激でしたね私はあの 副生にあのレオニダスっていう僕はよく 知らないんですけど多分ヨーロッパの性の あのトップウチおをもらいましてそれは すごくよく記憶に残ってますねですから 賞金はちょっとよくわからないですねあの 貧乏学生でしたから賞金入ればもう絶対 忘れるはずないんですけどね はいあそうだ腕腕とけいただきましたね ああそうですよ あ私はストップウォッチでしたお大久保 さんはメーカーの契約だとそういうのは どうなったんですかなんかえあの賞金類は 覚えてませんけれども第1回の時は パブリカにちょっと食い込んで総合9位で それでクラス優勝です からいくらかは入ってたですね第2回は ゴーンと増えたんですけどねそうですね その第2回のお話まだ伺いたいんですけど も あのもうかなりメーカーによっては本を 入れていてもうお客さんも結構目の超えた 方がいらしていて鈴も鈴ですごい 盛り上げをしていて えあれはあれでやっぱフジスピードウェイ ができる前の1番大きな あそれこそ日本のレースシに残る大きな イベントだったように思うんですけれども そうしたその違い第1回との大きな違いえ レースで優勝することの大事さえみたいな ことはおさん方たどんな考え方あのつさん なんかだとその憧れのワークスドライバー になられて望まれてるわけですねんの ブルーバード乗られてそうしたその大きな 違いまで久保さんの場合はえ剣将来でも 絶対に勝たないといけないという活動と いう大会ですよねえどんな違いを感じられ ましたでしょうかねこれね第1回トヨタが ね1位あのクラウンクラスま田さんでしょ それからコロナそれから パブリカ大体1位になったあれね当時え あの各家々にね少しずつ増え出したテレビ でガンガンガンガンコマーシャルやった わけです よそれでこの重大差に他のメーカーも気が ついたんでしょうね宣伝になるって売上に つがるというええそれ実際にそのテレビの コマーシャル通りにね売れたわけですよね えところが反面うちのスバルの場合には 全国からのブーイングでね本社大変だった んですよねでま第1回の時にはまえその おり高ぶった361スバルが鈴木鈴ライト にやいちゃうわけですよねでなんであんな 鈴木ごきトラックに負けるんだっていう ことでれでま本社はもうまさ大変なことに なっちゃったんですがそれでこれじゃいけ ないっていうことでもうとにかく第2回は 勝つことがメーカーの仕事だとで車の開発 も第2回次のグランプリに優勝するための ね車作りだというに変わってきちゃうん ですねでもう異常なわけですよですからも 当時のお金でいわゆるそのレースに カスタムの第2回グランプリ用の費用と すると奥の単位のねえ予算を皆さん使って ましたそれで鈴鹿のねコースをね占有し ようって借切るでしょ当時の間で1時間 25万円するんですよ1時間 ええところが通鑑の方はその初人休が 大体8000円とか1万円の時代ですから ねそれで1時間25万円ですからいやただ それだけの価値は絶対あるんだとこの コースをね1時間走ってみれば自分とこの 車はどうすればいいのか全て分かるんだだ 安いもんだというごをしてるわけですよ ですからその1時間25万円のコースをね トコなんですよ それでまはっきり言っちゃえばねま大 メーカーの視力にねま我々はか叶わなかっ たんでしょうね日産でもトヨタでももう ほとんどのねこの日日をねもう抑えちゃう そうすると弱小メーカーはね取れないん ですねうんで仕方がないんでもう鈴鹿に 泣きついてもう早朝で見から走らせてくれ とかねでうちなんかの事故の場合にはあの 車を作ってる工場太田群馬県太田ですから その近くに春奈さんがあるもんですからえ その春奈さんの有料道路を全部借り切って サーキットに見立ててあそこの有料道路を 上がったり下がったりねしてで谷そっっ たりまちょっと口には出せないの全部あり ましたよねそのくらいもうねもう必死だっ たんですよねでそこに各メーカーが気がい たのは勝たなきゃならないそのために やはりドライバーを獲得しなきゃいけない という風に気付いたんですよねで当初1番 最初に輪から4人に行ったものたら僕だと か行沢かええいから何にもいなかったわけ ですよで逆に2輪の方から見るとあいつら もう堕落したんだと箱の中でぬくぬくし 上がってねえもう安全な道を選んだんだと いう 馬鹿にされたんですけど何のことは第2回 になったらつさんはいるわ田中健治郎いる わ高橋ク入ってくるわね2輪の早々太も みんな4に行っちゃったそのぐらいね メーカーが力入れた片山さんも いらっしゃいましね片山さねただそれがね やはり間違ったんですねそれで日本のメカ こんなことしてちゃいけないということで 第3回から中心になっちゃう んでもその話だけ聞くと本当に今につがる えメーカーバトルというかそういう ワークス戦争というか自動車の開発競争と やっぱドライバーとというもうそれが第2 回の時からあったということなんですねす さんはそのブルーバード乗られて第2回 また違うお立場になったわけですけども そうですね私もやっと晴れてワークスにま 慣れたわけですねですからあのすごく精神 的には楽でしたねお金の感じしななったん ですごく楽になりましたでも今度は逆に ですねやっぱそのチームの中でやっぱり 私立な争いがあるわけですよワークスの中 でももうね大久保さんなんかもずっとそう いう私立な中え高さんもそうでしょうけど ワクスの方ってのはやっぱりそれぞれ 私立ですよねまプライベートだとね自分が 負けれゃ負けたで自分が責任とりゃいい だけの話なんですけどですからやっぱり あのワワクスなりのまあの経済的には すごく楽です全く楽になりましたけども 違う重さがずしとかかってきましたけど ねたさんは2年目のそのクラウンはあれは 別のクラウンなんですか私にとってみれば あの大変な1年間なんですねもう全くの様 がりで1番最初に結局クラブを作るそれ からドライバーを 集めるこれは車が あの作らなきゃテストをするその3そのつ のカテゴリーを全部こなすことになるわけ でこれはこの1年は本当に大変でした特に ドライバーの選定ってのはオーディション やりましてね鈴鹿さとで人の車運転する車 の横へ乗ってその人の義量を見るという その恐怖の集会を随分やりましたんでね えそれでまああのいろんな選手を集めまし て3種目何しろ3種目優勝から始まってる わけなんで えトヨタ車にしてみれば全部私の方にこう 向いてきてそれはトヨタからのお仕事と いうかグとしはいその3種目を同じように ダイスを揃えて出場したいからってい話に なってその分のドライバー集めなきゃなん ないということである意味ではデューティ が出てきちゃったたんでましはなくて いろんなとこに声かけたりいろんな人に声 かけたりしましたけどオーディションは あの当時トベ同行会っていう全国組織の会 がありましてねそこへ声かけてあのま いわゆるモータースポーツが好きな人っと いうかそういう人をあの来てくださいつっ て鈴鹿崎を来ていただいてオーディション やったことありますけどねえまそういうの 中にさっき出てきたあの特大事君昔は救世 っていうか本名は杉君とんですけどあそれ からあの四葉君とかね色々あのあの関係の お方々随分来てくれましたしそれから車の 方は えマニュアルだったあのマニュアルという かリモコンだったのはフロアシストになっ て4速になったり次の年のあまその年の ですね夏過ぎまではそれで順調に行ってる わけですけどまあ正直言いますとあの当時 のプリンス自動車ですねれにスカイライン に2Lのあの沖縄エンジを乗ったえ車が出 てきたわけですねそれで鈴鹿で走り始めた わけですよこれはめちゃ早いわけですよで ただそれはあの多分GTで出るだろうから 終られると関係ないだろうっていうのこと で様子は見てたんですけど当日で エントリーを見たらグローリアにその エンジンを乗せた車がドサンと出てきまし て え予選で走りましたらやっとこクランが6 台6台中3台下の方にいるわけですねえ 1番上が四君で3位ですねで5位と6位が 6位が私ですけどもまそんなような形でえ 絶対に勝てないというのはあのもうそれは 前の年の秋頃には分かったんですえで大体 これは絶対このエンジンであのいくら 足回り方してミッションを4速にしても とても立できるあれではないというのは もうタイムを見ただけで分かったわけです けどねですけどまあの何しろ体制作って 動き始めてますからちゃんとエントリーは したわけですけどねそれはあの本当にこの 1年はあの私の60年のモータースポーツ の関わり合から行ったらすごい凝縮した1 年間だったですね確かにプリンスは ものすごい体制でしたから2年目は全く1 年間親不幸してそっちの方にかり切りの ような状態だったんですねませっかく こんなバナなのであのずばりお尋ねし ちゃいますけれどあの式場さんのポルシェ の904はトヨタが裏で手配したという噂 がありますけどそれは私には関わりなない こと でえ私の関わりの範囲の外にあったことで で車来て走り始めてびっくりしたわけです けどねま結果的にはあの対決がすごく話題 になってドラマになって今に至るまで ずっとGTRの伝説があるわけですけれど もまそれも含めてすごいイベントだったな という振り返りですけどねとかメーカー 同士のスパイ合戦がすごいんですよ うんそれでまあ何月何日にはトヨタが全部 借り切ってるとかってのそういうのは全部 分かるわけですからねしますとね必ずも スパイが いるで当初のね鈴ってあのどっからでも 入るよなまだね感じでしたからねいわゆる ヘアピンのとこのあなたがのちしたさ林の 中にねいわゆる農家さんのかっこした干し かぶったトヨタに人間がストップウォチ 持ってるとかねえそういうのはもうざに ありましたよあでも市販者のその売上に 直結しちゃうっていうのはやっぱり今とも また 違うね筆派感があるわけですもんねそれで 映画で黒の思想者っていう映画がね有名に なりましてねもう映画がもうふさが行く ようなその自動車レース物語りの映画だっ たんですよねまさにその世界演じてました よ ねあのもうその頃だともうおさ方ともその もうプロのワークスドライバーというか プロフェッショナルドライバーのもう走り だと思うんですよねで契約もされてテスト もバンバンされてレースでは勝つこと義務 付けられてえでも一方では えまそうしたプロ野球選手であるとか相撲 さんであるとかえそうした当時のプロ スポーツの中でえちょっとずつレーシング ドライバーというものが存在感を得たり 致命度を得たりえステータスを得た りっていうようなのの最初かなと思うん ですけれどもえズバリ そうした人気商売のようなことを実感され たりとかまずり持てましたかということを 聞いてみたいなと思ったんですけどどう ですかレーシングドライバーってその頃 どんな見られ方だったんでしょう かそうですねまあの私自身はね もう年齢的には一番てっぺんですからえ そういう とちょっと違うクラブの代表としての動き があの主ですからま我が法のチームの中に はあそういう人もいっぱいいましたしえ それは個人のプライベートのことですから あれですね えただまあ12回という意味から言ったら まだ そのプロフェッショナルになるレーシング ドライバーってのはありえないまだ時代 ですからえそれはずっと後の話もう少し先 行った話になりますんでねそれずっと 携わってはいたんですけれども その第2回 グランプリあたりから言えばまだ本当に 幼稚な話でなおかつ そのトヨタの車に乗って出てもらう人と中 はあの金星的な動きってのはいくらもない 話なんですねえですからまだアマチュアの 範囲の方が圧倒的に多い話でそれはもう 少し後になんないとならない話ですねえ ですからまその12回のグランプリの タイミングで言いますとで第3回がない わけですからその辺までいわゆる3年 ぐらいまでの間はっていうのはでそのそこ の33年目に何やったかと船橋であの クランマンレースやってるわけですけどね その辺から少しずつ変わってくる雰囲気は 出てきてるわけですけどもえーまそんな わけでまだ あのなんていうかモテるという話から言い ますとねまだ少しちょっとえ事態的にもう 少し時間がかかったような気がしますね ちょっと話題が変わりますけどねあの やっぱりあの第2回あたりから ドラスティックに変わったのが日本社日本 の国産者の性能が画然上がってきたんです ね 1番感じたのはあの輸入者は えほとんどディスクブレーキがついてたん ですけど国産車ってディスクブレーキが まだついてない時代だったんですけどあの 頃からえ国産者もディスクブレーキが装備 始まって え画然そのインターナショナルな車に げっと近づいたなと思っているんですね ですからやっぱりあの日本グランプリが 起こしたその このいい部分ですねあの鉱石は国産者が え国際的な競争に入っていく窓口 とっかかりがねできたんじゃないかなと 思ってでやっぱりレースがね国産者すごく 育てましたよだからその後え輸入が輸入で 伸びて日本の国力を上げてきたのは やっぱりあの鈴鹿咲との鉱石は大変大きい なという風に思いますあの高さんも大久 さんもおっしゃってましたけどブレーキと ミッションこれがもう画然ヨーロッパ車に 近づいてきたわけですねです からその早い 高速高速ツリ化ってのはどういうもんだっ ていう1つのうんターゲットがねあれで 見えてきたんですね各メーカーさんがだ から鉱石が非常に大きかっだったと思い ますテストドライバーはまその時代ある面 ではテストドライバーの中からレースも やるあの社員ライダーもいや社員 ドライバーも出てくるんですけどねあの そのテストで何が1番必要かっていうと 早く走ることそれから限界まで極めること もこれは必要なテクニックとしてしかし それで感じたものをどう技術者に分かって もらえるか理論的に説明できる人でないと だめうん感性で感性を伝えるんですよで 感性を伝えるっていうことはこれ難しい ですけどね例えばこのえおし子はどうのと かこっちのあのなん甘さはどうのってその 違いが同じ甘いでもこううんあの別ですよ ねねそういったものに例えて説明するとか ね ええからいわゆるコーナーリングの時にぐ と字がかかってお尻お尻が寄ってるんだ けど途中からもっと強くなるんだよとか そういう説明の仕方とかね僕の場合には そういう風にしてたつさんはどうだか知 いや同じですよ全く同じですよそれあの エンジニアが考えてることと実際に今起き てる現象とエンジニアはその実際に現象 感じてないわけですからあの想像ので世界 で彼らは走るわあの考えてるわけですよね でそこをうまく説明する時にまあの あんまり大きな葛藤はないですけどでもえ 葛藤というか対立はないんですけどもあの エンジニアがイメージしてることと違うと ねそこでちょっとお互いにずれてるわけ です違うこと考えてるわけですからだここ を合わせるってのは必要ですねでそういう ことはありますよでもその激論化はしてね あの互いに絶対愛入れないみたいなことは なかったですね大抵説明すりゃ理解して もらえた し市販者の場合には僕らありましたね激論 がそれからレースのあのスプリントレース と耐久レースとの差がありますねあで スプレットレースの場合は本当に20周と か30周とか短いあのラップで終わって しまうわけですからそれとそれからその 例えばあの300kmだ500kmだ 1000kmだとかっていう耐久レスに なると1これ2人乗せたりしますよねそう するとその組み合わせ次第でまき違う動き をするドライバー合わせてしまうと 組み立てになんなくなってしまうんですね でそういう組み立てもちゃんとしなきゃ いけないわけですこっちがね乗せる方が そういう組み合わせを作って乗せるでそう いうのを特に私トヨタは耐久レース結構 いい成績残してるあのあれなんですけど それはあのそういうのであのあれその 乗せる方っていうか我々の バックグラウンドの方が一生懸命そういう ことを考えたりしてやった経験があります けどもその後のえっと日本のま高速道路と かえ市販車も含めてそれからえ大久保さん はブディストタイヤ開発なんかもされたと いう風に伺いましたけどもえタイヤの進化 も含めてえ途中には大きなレースのブーム が起きたりとかえ大きな先とも色々日本中 に出来上がってえていうよのが時代があり ましたそうしたあのモータースポーツが すごく皆さんの車好きの中に入って広く なっていくのをおさ方どうご覧になられて ました かだんだん市民権を得て人気が高まって 大きなビジネスになっていく様をご覧に なってたと思うんですけれど 車両技術から言ったらブレーキですよ今つ 君が言ってくれたけどもブレーキが12回 ともディスクブレーキありませんからね ドローンブレーキですからだからあの ディスクブレーキに変わった時代っていう のはある意味近代モータースポーツの やっぱり原点でしょうねあのディスプレイ 変わった時代っていうのが1番の進歩だと 思いますね結局エンジンをチューニングし てパワー上げていくっていう技術ってのは 割に早く行くわけですけども止まんないん ですよねえでドラムブレーキで皆さん大変 な苦労してるわけですけどもその時代が あのしばらくあるわけですけども筆ディス ブレーキがホモに使えるようになったって のがえ本当にあの大変な違いで最初にデス デスクブレーキを積んで鈴鹿の第1 コーナーで1回で終わったブレーキがある んです それはコーナリングチューリングブレーキ 踏んでるわけですけどてのは第第1コー ナーってのはあそこは中途半端に行って 1番奥でちゃんとスピード合わせるわけ ですねだからブレーキのラインが長いん ですその間に加熱してディスクが剃るん ですよそもう2回目はそれ踏めないんです もうパッと開いたままになりますからその 車それで帰ってきてピッと入るしょうが ないわけですねそういうチャンスがあるん です1回 だけそういうディスクブレーキを踏んだ ことあるん ですえこれもう次にブレーキない ですそういう流れを私は経験してますんで えですからやっぱりこのディスクブレーキ が単純に使えるようになっ たその瞬間っていうのが次のレシンの世界 の大進歩になってんですそれと同じように タイヤもそうですけどね次はタイヤですね えこれは大変はやっぱりラジアルに変わっ たっていうのが大変な変化ですねえこれは あのバイアスタイヤでどこまで追い込める かったら絶対にありえないんですねていう のはあのプロフよりから言ってバイアス タイヤってのはほとんど真四角にこあの いくら増やしても増やしようがないわけ ですてのは中の繊維が違うわけですからえ こういう風になってるわけですからそれを そのラウンドにしようっていうのは無理な 話なんですねですからやっぱりラジアタが できたというのはやっぱり1番の変化です ねでこのやっぱり2つがやっぱり1番 大きなことだろうと思いますけどねすさん は80年代90年代のグループへのレース なんかも監督されたりご自身に走られたり ものすごいお客さんが来てる時代もご覧に なってますけれどもそうしたのと当時ご 自身が走られてた60年代と比べて1番 大きな違いというかすごく変わったなって いう部分っでどんなところだったですかね いややっぱりそのお客さんが熱狂的に やっぱり あのレース を新しい自分たちのエンターテイメントだ という風に感じたのはやっぱり当時の日本 グランプリですよねやっぱりねもちろん 後半にそういうグルペレースもありました けどもでも ねやっぱりあの当時の日本グランプリの あの熱気はですねやっぱり同じものは大き てませんよねやっぱりあの当時は本当に もう全く新しいものを初めて日本の人たち がモータースポーツの そのドラマティックなですね迫力がある ものを見たわけですよねこのね熱量は すごかったと思いますですからやっぱり何 と言っても当時の日本グランプリーは偉大 だなと思いますあのまあお2人おっしゃっ たんであの付け加えることもないんです けどお2人とも あのエンジンブレーキそしてタイヤと おっしゃったんでねやっぱりそのタイヤに ついては私も同感ですねあのタイヤが ものすごく進みましたやっぱりモーター スポーツのおかげで日本のタイヤが国際級 に進化してきたわけですねですからそれも 私も付け加えさせて くださいただねブレーキタイヤまどんどん どんどん進化するんですけど ねあのプラグね ああこれねプラグ屋さんがいかに気の毒 だったかというお話しますとねうん リタイアするでしょそうするとと例えば僕 みたいにまワークスだと車のあそこが壊れ たとかねなんとかって言えないわけですよ 実際 にあの契約してる以上ねと大体がねプラグ が被ったとかってねプラグのせいにさせ られるわけだで当時のNGKさんなんかが でとんでもないとそんな被るわけないんだ で怒ってましたけどねそのくらい何かある とねプラグブラグって言ったあの言われた 時代ですよね ですさんがね先ほどおっしゃったように2 つのこの大きなレースってのがあってそれ で市販者がねいきなりなんでこんなことは 今までできなかったのっていうぐらいね 良くなってくるわけですとらね僕はね とんでもねえ間違いしてんじゃないかなと 思いましたのはその鈴鹿をどんどん早く 走るようになってくるじゃあ早く走るその 根本は何かっていうとサスをまず固くする ことそれから車高を下げることからまあと は軽量化することですけどね市販者も同じ ようにサスペンションを固くすればね スポーツカー並になるだろうって言った ようなね車がどんどん出てきたわけですよ んで乗ってみグってグってグてねだそう いう誤った方向も随分ありましたよ ええまそれがだだと治ってくるのはねあの ま私は早くにまとじあのマカオなんか行っ ちゃいましたからあのその後どんどんあの ヨーロッパなんかに行くドライバーもえ 出したんですけどねその辺りが変わってき たってのはやはり外国行ってツーリング からなんかののレースなんか見てるともう 確かにふわふわふわふわしてるんですけど ねいわゆるダンパーとかねいわゆる スプリングのねいわゆる考え方が違うわけ ですよだこうでなきゃいけねえんだがなっ ていう風に思いましたけどねなかなか日本 では初機がなくてねえそんなこと感じたい ですよねえ鈴鹿が60年を過ぎましてえ もうすぐ富士スピードウェイも60年に なってくるんですねでそうすると [音楽] おまオイルショックとかえバンクが なくなったりとかいろんな大きな事故が あったりとかいろんなそのさっきのバブル のお話とかいろんなものを含めて日本の モータースポーツが60年をたまかなりの もう更新国とは言ってられないえ歴史を 持つようになってきたわけですけども本当 におさ方あの個人的なものでも構いません のでえちょっと大きなお話になります けれども60年間の日本のモーター スポーツレースえ振り替えられて何を思わ れるでしかまたもしかしたらえ今のレース 会に対して何かえおっしゃりたいことが あればえ伺いたいなと思うんですけれど も じゃあ女郎からあじさんからはい伺います かえそうですねま あのJFの年間表彰は私はあの欠席した ことないんですね毎年顔出させていただい てますそれであの表彰式でいつも思うのは やっぱり大勢の人がその年間のポイントを 揃えて表彰に乗るというそのフィンドに ついては非常にあのちゃんとしてますし あの中身があの例えば車のカテゴリーとか によってバラバラ少し動いてる部分がある んだろうと思いますけど少なくとも表彰式 で年間表彰される人の人数については減っ てないでちゃんと確保されてるでこれは あのある意味あの喜ばしいことですし ちゃんと繋いでいってくれてんだなという のがあるわけですけどもま私自身はあの 直接今レース関係繋がっておりませんので えたまにしかレースは見てませんけど そんなわけで あのそれをその表彰式を通じて私が感じる のはやっぱりちゃんと繋がってきてる ありがたいことだなと思いますただあの私 があの当時1番最初スタートから始めて クラウマンレースっていうのを数多く主催 してるわけですけどこれはあのベーシック にあの全国組織で全国で展開してたんです けどもやっぱりその自分の車を使って自分 でサーキットを走ってそのやるいわゆる スポーツとしてのモータースポーツを底辺 を広めるという意味でクラマレースという 名目で私はレースを出しったわけですけど もそれがあの今割にないんですねその ベーシックになる部分ってのがベーシック のレースものが相当レベルが高いというか そんなんで入り口がすごく狭いというか もう少し文句を広げていいんじゃないかな というのを私はあのずっと感じてますね それはあのやっぱりあのそれがあってこそ 層の熱いあのモータースポーツの世界が あるんだろうと思うんでその辺はあのみ 主催する人たちがもう1回そういうとこを 振り返っていただいてクランマンレース的 ないわゆるクランマンとしてのレースを あのベーシックレースを作ってやって いただいてあのただサーキット使用とか そういうのは高いですからなかなか難しい んですけどねえまその辺はあの妥協点を 向けてなるべくそういうことをして いただきたいなというのは私としてはあの 言いたいですねはいレースがあったおかげ でま先ほども何回も申しましたけど あの自動車の洗練路がどんどん高まってき てで国産者がやっぱりあの欧米の車に越し て え高い性能で走れるような性能アップが どんどんされてきたことがやっぱり モータースポーツの大きな1つの え こプラスの部分だと思うんですねそういう 意味でますますこれ今後も やはりあの自動車の安全性という兼ねて え自動車の体力が繋がっていくことが ボータースポーツがやっぱり大きなえ能力 になるんじゃないかなとますますえ日本の 大事な え輸出品である自動者がレースと共に育っ てってほしいなというふに思いますこの 50年というねことを考えた時 に私あの愕然としたことがあるんですが まあ前年ですよね2023年が60年です からだ から自動者に関わる人は特に製造に関わる 人たちがそのレースが始まって60年で私 は何もそのレースが1番だとは思いません けどもねいわゆるさすさんが言ったように レースが日本の車を育てたことはこれ事実 なんですよところがどこかでそれをね 認めようとしないあのことがあるのも事実 うんでそのその力が強いせなんでしょうか ねいわゆるもっとその202023年は 自動車レースが始まって60年になります ねとで我々のその自動車参議はここまで そういう風になったのもやはりレースが1 つの大きな役しましたねというようなこと がねもっと大きく捉えるかと思ったうんし たら自動車を作ってる人たちさえそういう こと知らないわけですよでまた問題に しようとしないうんからま誠に申し訳ない けども自動車の専門士にしてもそう いわゆる自動車ジャーナリストだか ライターだかどういう名前だ知りません けどね私も自動者ジャーナリストのはくと して言えばその彼らもそんなこと知らない 私はね安全としたんですよねそれで名前は 出せませんけどもまあ日本の自動車産業の 大物と言われる人に直訴場を出しましたよ これこれれこういうことでね日本のその 自動車社会が出来上がったのは騎自動車 レスが始まってこういうことがあってこれ が1つのエポックメイキングでしょうと なぜそのことをねもっと自党社会はね表 出さないんですかとしたら残念ながら返事 はたですけどね まその人が関わるその団体の中で大騒ぎに なったこと事なんですが結局ねこれあの コロナでねいわゆる社会に対することが 忘れちゃったあこともあるかもしれない けれども日本の自動者に対する文化 あるいはその社会に対する貢献度うんそう いうものはね全然深く考えてないんですよ うんこれダメですねこんなことじゃねだ からうちのそのレジェンドクラブとすれば これを1つねやはり我々だけでもその60 周年経ったんだよということを知らせる ためにはどうしたらいいのかってことを 考えてましたらねちょうど あの旧東京モタ賞のモビリティ賞ですか これがあるということは分かったもんです から急遽いわゆるそこに出展して日本の 自動車レース60周年っていうことでね 大体のことこう説明してしたら熱心な人 たちは随分ねよく見ていただいたりして いただいたりで昔のビデオなんかも回し ましてねああ60年も経ってるんですかと 初めて知る人も多かったわけですよね特に 若い人たちがそういった歴史に対して興味 を持ってきてま質問してくるのも多いま その日に非常力強く思いましたよねです からもうその時はもう僕もダメでしょう 生きてませんですが70周年の時にはね せめていわゆる60周年でできなかった 何かの記念行事をね全自動車メーカーまた メディアの方も一緒になってねやって いただきたいなとそういう1つの年の節目 節目で何かをやることがねやはり文化を 育てていくんですよでそれがね今んところ 自動社会には非常に少ないというとは非常 に残念に思いますねはいそれもう酔い思い ましたよだだね1つけその60年前の時代 でもね日本のそのギリシってのすごいもん だなと思うた随分ありますようんまう ちゃんとこっちのことをね伝えるとその 通りになってくんです もんそれで鈴鹿のコースがこうあるでしょ そうするとここのコーナーをその何キロで 回ると1周のタイムがこうになるはずだと でところがうちの車はヨGが何時までしか できないからそのその1つの0.1G 超えることができればタイムがこういう だけ上がるとかねこれがねソバとか計算機 でやるわけですよありはたげましたよね今 みたいにコンピューターないわけだからね この計算機ですあとは計3弱うんあと他の 人はソロバンとかね電卓とかPCがそう そうそう電卓がないまだうんだからそんな んで03作ったんです ねはいとではいありがとうございました ありがとうございましありがとうごい [音楽] まし [音楽] [音楽] [音楽] [音楽] [音楽] ne

日本モータースポーツの歴史を語り伝える!

1963年、第1回日本グランプリが前年開業の鈴鹿サーキットで開催されてから60年、オイルショック、バブル経済崩壊、日本を襲った大震災、コロナ禍など、様々な社会情勢とともに紆余曲折を繰り返しながら、熱い思いを持って応援をいただいているモータースポーツファン、多くのスポンサー、レース関係者などに支えられ、日本のモータースポーツは発展を遂げてきました。その中で、命をかけて戦いに挑んできたレーサー/レーシングドライバーの存在を決して忘れることはできません。そんな彼らの栄光と誇り溢れる足跡を映像にして後世に伝えていきます。

記念すべき第一回目の配信は、多賀 弘明、大久保 力、津々見 友彦の三人が、第1回日本グランプリでの参加の経緯や、レースの模様、大会を取り巻く環境や状況などの日本モータースポーツ黎明期の話から、日本モータースポーツが自動車業界に果たしてきた役割や、これからの提言など多くを語っています。映像には、貴重な当時のレース写真や資料写真をふんだんに盛り込みました。

●第1回配信
タイトル:第1回日本グランプリを語る
対談:多賀 弘明、大久保 力、津々見 友彦

2 Comments

  1. 貴重なお話しありがとうございます。
    自分が生まれていない時代のレースのお話しはとても興味深いものでした✨
    テレビでレジェンドの人は見た事は有りました!年月が経つのは早いですね💦
    60周年の節目に動画で見れたのは嬉しかったです♪

  2. 御三方それぞれのご苦労大変興味深く観させて頂きました、いつか船橋サーキットのレースの裏話をお聞きしたいです!

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