【むかしの川沿】ニチイあったよ!かつては陸の孤島!むかしの地名は八垂別!

さてさて今回の春チャンネルは川を探検 するよ小林峠行のことと呼ばれていた昔の 川添生活改善のために作られたよ国道と新 国道地下で人口爆発最初のスーパーは強 だったよも回転して大いに発展したね小 学校昔は別学 だったよ懐かしい川を見に行こうねこの 動画はか様M78クラブ様吉信様トランス ポンタ様黄緑緑様サーバ様ガA様樹様ヨ様 むチャンネル様のご支援で作られています ご支援ありがとうございます [音楽] 今日は2024年6月8日さてここはどこ の山の中でしょうかここは南空北の沢この 景色見覚えがありませんかここは堂々82 号の球道小林峠ですまこないから西野へ 抜ける時によく使う道でしたよね平成29 年番北沢トンネルが通してこの峠道は道に なりましたよ北沢から小林峠へ至る道は なかなかの山道でしたがこの道が完成した のは昭和40年と比較的最近のことなん ですよところでどうしてここに道を通そう と思ったのでしょうか小林峠の気分には 小林峠が開かれた理由が書かれています 要約すると場地区は西は険しい山東は 暴れ川の側に挟まれ陸のことでありこれを 改善するために土地を出し合って道を作っ たとあります陸のこって本当小林峠はここ ですまこもない付近ではゴリ通りと呼ば れる堂々82号西のままない清田線が通っ ています南北に走るのは国道230号です ね住所的にはここが北の沢ここが沢はここ が南沢そして麓が川添です武はどう でしょうかインパクト絶大なのは十王無人 に流れる豊平川です現在国道があるところ は川の中で今より平地が狭かったようです 岩山石山石山に囲まれた傾斜は比較的 緩やかなサがありますね昭和16年丸山町 が札幌とするまで北沢は4号の沢中野沢は 5号の沢南沢は8号の沢そして川添は 本通りと呼ばれていたよこれらの地域は 現在モ地区と呼ばれることが多いですが それまでははたり別と呼ばれていました はたり別とはアヌ語で口の川という意味で 緩やかだけど深いこの辺りの豊平川をよく 表していますでも ビのことってのは盛りすぎじゃないかい こちらは大正10年の写真です写真の タイトルは雪解の朝山花村はたり別です 撮影場所は特定されていませんが山の漢字 や左手に大きな川が映っていることから 山花方面から現在の国道230号を南下し て川添に入ったところこの辺りではないか と推測します 右手のモ山に沿った道が金国道ですよこの 付近の様子です大きく競り出した萌山に 豊平川が寄り添っていますこの萌山のオは 割栗みと呼ばれ豊平川の間が狭くここを 通る道のボトルネックになっていたよダム 建設や五眼工事がなされた現在とは違い武 は増水すればすぐに洪水被害が発生します ここを通らずに川添から豊平川対岸に出る 方法は昭和26年の橋境までなかったよと いうことで陸の小藤という表現は決して 大座な表現ではありませんでしたそれでは 現在の川添へ通じる道はいつからあったの でしょうかこちらは明治元年札幌地図です 現在の豊平橋付近には私の吉田と志村哲一 がいた頃ですねこの地図は大左が南になっ ていますが地図の左上つまり南西方向には はったり鉄道と書いてあります当時は獣道 だったと思われますが札幌の町を建設する 前から道はあったようです明治4年に開通 した本願寺道路が現在の国道230号の元 になっているのはよく知られたことですが そのルートが複数あったことは意外と知ら れていません有名なのは現在の伊市から 中山峠を通り開市へ至る道ですが山花から はた別へ通じる道も本願寺道路ですこちら は札幌モ京都市はたり別に掲載されている カコの図ですこのように開かれた道は幅 1mほどだったと言われています現在の 川添を通っていた方の本願寺道路には現在 の石山から石材を運ぶためにレジ43年 札幌石材馬車鉄道が開通しましたが大正7 年には廃止になり開発は進みませんでした こちらは昭和39年頃の川添の様子です この山が岩山ですから中沢から麓の川添を 見た写真だと思われます現ならり建物が 立っていますが当時は一面の地や荒地が 広がっていたようです昭和39年川添に大 革命が起こります国道230号の振動が 開通します豊平川の五眼工事も進み昭和 47年には平教団も完成しました道幅が 広がり水害の不安も少なくなると当時札幌 全体に広がって知ブームが川添にもやって きますこうなると地上を狙って大型店が 進出してきます川添発の大型スーパーは 昭和50年に回転した西京川添店です車 社会に対応して極道の振動沿いに広い駐車 場を備えています よそして昭和54年には日場店がオープン しましたついに川添にも全国展開する スーパーが進出してきたよこの出店には 地元商店街が猛反対していましたもちろん 川沿いにも昔から焦点はありましたが増え たのは宅地増勢が進んだ昭和40年代以降 でしたようやく起動になってきた商店経営 の矢先に降って湧いた大型スーパーの出展 川添の商工業者は大に混乱しまし たこのリチは国道230号とグリーン通り の交差点で川添のみならず北の沢中野沢 からもアクセス良行店名がモバ店である ことからも日が広い範囲の証券を狙って 出展したと分かりますねそして日の中には 宅sudが出展しましたよそれまで川添に は信用組合や信用銀行はありましたが銀行 はありませんでした ちなみに卓銀は平成9年に破綻し黒曜銀行 へ営業場とされ共同信用組合も破綻し平成 11年北欧信用組合に営業上と札幌信用 金庫は平成30年に小樽新金と北海新金を 吸収合併し北海道信用金庫に解消したよ さてさてそれはさておきこちらは平成2年 の石山通りから見た井場店ですこの頃と 現在で大きく違うところ分かりますか日が イになったそれもそうですが国道に注目し てください現在国道230号とグリン通り の交差点は立体交差になっていますこの 交差点はとても交通量が多いので重体が 慢性化していましたそこで国道230号を アンダーパスにして円滑に通行できるよう になりましたよ国道230号が下を通るの は堂々82号総先ほど紹介した小林峠が ある道ですこの道は小林峠ができて間も なく結構を浴びることになります昭和47 年に開催された札幌 オリンピックメイン会場はご存知の通り ままないですがスキーの回転競技や ゴブスレ竜樹は天山が会場でした小林峠を 通る道は昭和42年堂々561号西のまこ ない停車状勢として認定されました昭和 44年北野沢大橋として開通していたこの 橋は昭和45年彫刻などが施されゴリ大橋 に解消されましたそうオリンピックの競技 上官のサブルートになったここの道は堂堂 624号清田まこない停車場線と昭和47 年統合され堂々725を西のままない清田 線になりましたこの道は都心から放射戦場 に伸びる道をつぐ環状線の役割が評価され て平成5年主要地報道に指定され平成6年 堂々82号に路線番号が変わったよ小林峠 が通してから約世紀小岩地区の陸の古会の ために作られた道は札幌でも有数の感染 道路になりました平成29年バケ北沢 トンネル開通により険しい山道の小林峠は 球道になりました札幌市内最長の1612 Mのトンネル掘削の時重値を超える自然 由来の秘などの住金属が検出されますだ その処理のため分岐トンネルが掘られ 埋め立て処理されていますよ公募で決まっ たトンネル名が小林峠トンネルになら なかったのはこうした事情が関係している かもですね小林峠は先人が資材を提供して まで作ったもい地区の誇り球道はしっかり 残っているのでそのスピリットはいつでも 感じられますねそれでは例のコーナーを ご覧くださいはい [音楽] [音楽] [拍手] [音楽] それでは極道230号を石山通りの急国道 を探検してみましょう新組を過ぎて ちょっと前まで農業があったビルを過ぎる と急国道が見えてきますここは少し注意が 必要です左側は急国道右側が現在の国道 です難しいのは住所で新旧国道に挟まれた 部分は川添6条2丁目急国道より西側は 川西8条2丁目です国道230号はここ急 国道はこちらです川添8条はこの辺りで1 丁目はほぼ加線用地で2丁目からこんな 感じです川添7条は2丁目から始まります そして川添6畳はこの部分にプラスして なんとここも川添6畳です真宮の国道に 挟まれた三角地帯は座標軸が歪んだように なっていますこの謎を解くために金国道を 走ってみましょう金国道は登り坂になって いますねやがて左手に見えてくるのは小岩 小学校ですここで国道の両側のに注目して ください左側の小学校は高いところに立っ ているのに対し右側の土地は低くなって いると分かります建物が途切れたこの辺り だと分かりやすいですね小学校は豊平川が 増水しても水につらないように高いところ に立っていますそして急国道は今度は坂に なりましたねこの辺りをよく見てみると ここにが 道もつがっていません図を重ねてみると 大きな低差がありますこの辺りを見た様子 がこちらですこの崖は豊平川の加男球の 男球街です地地形分類図を重ねてみます岩 小学校があるところは短急面竹の下は洗場 地です現在国道が通っているところは人的 にとしているのでは戦時でした川添が現在 のような姿になる前これだけの高定差が あれば土用も異なっていました入り組んだ 上長目は地形に対する先人の土利用が 関わっていたんですねところで岩小学校は 随分昔からここにあるようですね和小学校 は明治34年公立はたり別尋常小学校とし て開したよ最高当時の児童は35人先生は 大塚先生たった1人でしたぱったり別は 当時山花村に属しており山花には小学校は ありましたが険しい道を約7km歩く必要 があり住人祈願の小学校でしたよ昭和8年 昭和50年まで使われていた急行者が完成 しました明治39年山花村は丸山村と合併 し岩村になっていましたが明治43年旧 山花村の大部分は札幌区に進入されました 当時普通に山を越えられる道はなかったの ではったり別は札幌を通らないと役場に 行けないとびのようになっていたよ岩村は 昭和13年丸山町になりましたが昭和16 年丸山町は札幌市と合併しましたこの別の 地名は川添北沢中野沢南沢などに再編され ます小学校の名前は岩国民学校に解消され この頃からこの地域を包括的に指す地名が 祝になったよ急行車皇典にあった磯山桜は とても見事でしたが牢獄となったことで 昭和50年進行者建替えの時に伐採された よそういえば小学校前の旧国道には初動 教室がありましたが今は空きになってい ますねさて場小学校の隣には場中学校が ありますね場中学校は昭和22年柏中学校 の文工として開校しました昭和24年萌中 学校として独立したよこの急所を覚えて いる人はなかなか少ないもしれません現在 の校舎は昭和44年に建てられたものだ からですところで岩中学校の名物って知っ ていますか長い廊下です廊下の長さは 120m北海道の中学校では最も長い廊下 なんですよさてさて今回は川添を中心に岩 の弱を探検しましたよお楽しみいただけ ましたかとても歴史が深い町ですが現在の ように年化してからはまだ反世紀ほどでし たね陸のことと呼ばれていた過去が嘘の ように発展していますねところで新旧国道 の合流店の割くみは過ぎた先住所は南南城 から始まる上長目ですがここも南区って 知ってましたか南区と中央区の教会は 分かりにくいですよね南区と中央区の教会 は山川で区切られていますこの教会を昔の 地図に重ねてみると相子の教会は岩村と 札幌区の教会にほぼ一致しますそして 豊平川を渡った先は豊平町です現在の南区 のほとんどが旧豊平町に由来しますが橋下 と川添を含む地区は旧丸山町に由来します その理由がこのずにあります当時神山花と 呼ばれていた現在の森下とまこないの間に は渡船があります明治9年に設けられた この渡船はとびのようになったこの地域の マコマないとの結びつきを強くする役割を 持ちました昭和7年には初代岩橋がかけ られその結びつきはさらに強いものになり ます岩橋は昭和29年日米安全保商品に より改装されましたが昭和44年 オリンピック関連事業として現在の萌橋が かけられました取り壊される予定だった 古い橋は地元の強い要望によって人狼教と して残りましたしかし旧モ橋は昭和48年 豊川の洪水で破損してしまいましたしかし 地域の結びつきはこの程度では終わりませ ん昭和50年当時建設中だった サイクリングロードの一部として掛け替え られ思わ美濃橋と名前を変えて残りました よ終わると見せかけて解説続いてすいませ ん皆様からのコメントなどにはいつも助け られております編集多忙で返信できてい ませんが必ず読ませていただいております どしどしコメントなどお願いいたします よろしければグッドボタンチャンネル登録 お願いしますご視聴ありがとうございまし [音楽] たワツ

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22 Comments

  1. ニチイさんの時代がなつかしいね。この界隈、昔、仕事の事務所があって、よく行き来してたんで、なじみ深いのです。赤い看板の仏壇屋さんは変らず頑張ってるようでいいねぇ。

  2. 有難うございます涙が出そうになりました。藻岩小、南の沢小、藻岩北小、藻岩中に通い、とんでん、生協、そうご電器、テキサス、ニチイへよく通いました。今はもう何十年も札幌から離れて住んでいるので懐かしく拝見させていただきました。ありがとうございます。

  3. みなみのさわと、みなみさわ…人によって呼び名が変わる地名の一つですよね😂
    藤野の『しらかわ』と『しらいかわ』と同じ感じがして面白いです。

  4. 生協は元ボーリング場だと聞いたことがあります。

    川沿旧道と230号の合流地点(札幌側)は軍艦岬との認識でしたが違う呼び名もあったんですね。

  5. 大学生の頃、旧国道沿いにあった「テキサス」という焼肉食べ放題のお店によく行っていました。旧国道の映像を見て思い出しました。
    それと「大衆中華 宝来」の山盛りチャーハンに挑戦したこともありますが、一度も間食することができませんでした。
    「大衆中華 宝来」は今も営業されているようですが、「テキサス」は無くなってしまったのでしょうか・・・

  6. こんにちわ、懐かしですね~~藻岩小、藻岩中に通ってました、親が~自衛隊だったので、藻南公園横の、自衛隊官舎、当時は、ブロックの、家で薪ストーブでした~~笑笑、😅今は、栃木県に住んでます~この配信見て、感動してます😊ありがとうございます~歩いて、川沿から、藻岩小、歩いてましたね、涙がでてきました😢又、配信楽しみしてます

  7. 楽しい動画をありがとうございます。
    北丿沢生まれで懐かしさを感じながら拝見しました。よく見知った光景ばかりで、特に小林峠は同級生のひいおじいさんの名前をつけられた峠で色々な思い出が蘇りました。

  8. 今は全然違うところに住んでますが、昭和52年から南沢に住んでました
    国道のバイパスには生協と、ベルコのところに引っ越し屋のビルと駐車場、寿タクシー、藻岩高校くらいしかなかった時代から知ってます
    なーんにもない元河川敷の、今の北海市場のところがたしか初代ニトリ家具、そのうちブルーハウスになって…
    ん?ヤマダ電機の所? 違ってたらごめんなさい
    生協は今もベスト電器部分が動画に出てきた当時の建屋がそのまま残っていますが、その前はボウリング場だったそうです
    ベスト電器に入ると、ちゃんとボウリング場感が残ってますから、ぜひ一度体感なさってほしいところです
    ナイス動画でした!

  9. 川沿の石山旧道と南沢(南の沢)の交差点、230号がまっすぐ定山渓に抜けたころ拡張した道路作っていたのガキの頃よくみてたなぁ、
    にしむらて言うストアにニコーストア、医療法人晴生会 晴生会さっぽろ病院の向かいあたりにでっかい木があったてじゃり道だったな、砕石のダンプがすごくて。

  10. 旦那が子供の頃から3年前まで川沿に住んでました

    (今は石山在住ですが)

    そのせいか、未だにイオンをニチイとしつこく呼んでます。サティやポスフールも得て今の名前に変わったのにw

  11. うわ、めっちゃ懐かしいw コープさっぽろソシアのオープニングから3年ほど勤めてました。石狩からずっと通ってましたねw

  12. ニチイの後のサティの世代です
    外にあったミスタードーナツ、今はブックオフの建物はBOMでしたね
    サティ1階の水槽に魚が泳ぐ飲食スペースがあってそこでソフトクリームなんかを食べていた記憶があります😊

  13. 北の沢小、藻岩中学卒です。
    何年も帰ってないので、すごく懐かしかったです。
    動画にしていただき、ありがとうございました。
    いい加減、今年は帰ろう😂

  14. 実家川沿なので懐かしいです、藻岩小に途中まで通ってましたが、途中で藻岩南小が出来てそっちで卒業しましたw
    なお当時の実家が学区の切れ目ぎりぎりだったけど、間違いなく藻岩小の方が近かったですw
    そのまま南が丘中に行ったので、藻岩中には縁がありませんでした😅

    長年の疑問なのですが、本編で出てきた札幌石材馬車鉄道ですが、藻岩小辺りの割と急こう配を馬で登れたのでしょうか?
    それとも当時はもっと緩かったのでしょうか?…以上今更誰に聞けばいいのかわからない質問でしたw

    なお定山渓鉄道は当初豊平川左岸を通る予定だった(豊平川の氾濫による護岸工事で当初予定してた敷地が使えなくなった)ので、もし当初の予定通りに左岸沿いに開通してたら札幌市南部の歴史はだいぶ変わったでしょうね

    そう言えば、藻岩地区の呼び方がありますがさらに藻南って呼び名もあったような…ほぼ藻南公園周辺?

    あとかなり昔(まだ市営バスだったころ)何故か一時期だけバスの自動放送で硬石山を「かたいしやま」って呼んでた記憶がある

    以上長々と失礼しました

  15. 地方から札幌市南区に
    移住して27年
    20世紀末に来た時はニチイではなくポスフールだったし、生協は
    既にソシアと言う愛称になっていた
    生活圏なんで
    よく利用します
    昨日もソシアで買い物

    今まで藻岩と藻南、川沿って複雑な地名の謎がわかってほっとした。
    さらに昔の地名が八垂別
    というのも初めて知った

    盤渓から西区に行く道路も昔はクネクネ道を
    走っていたけど
    トンネルが開通した今
    本当に自分楽になりましたわ。

    本当に生活圏なので
    びっくり(@_@;)

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