頑固一徹学校 2024.6.14 SYE居酒屋ライブ

こういうのが受けるんですよね居酒屋 ライブはい皆さんこんばんはですスターチ エンジン頑固一鉄自動車学校毎週金曜日夜 8時ちょっと遅れましたけども飲めない私 がワインを飲んで今ほろ酔い気分でござい ます今日はあの銀座のとあるバーを借り 切ってまここで飲みながら居酒屋ライブを やりたいと思い 簡単にちょっとゲストをね紹介したいと 思います今日の括はプリンスOB会ことで まずはTさんさんTさんこんにちは こんにちはおになっております はいこんばんはおりますもうもうプリンス のある車を作られていたてことでねで えっと私もんエンジニアで ある 設計まプリンス自動車ってま今日は プリンス会なんですけどまスカイラインで その後西さんのあのGTRなんか出ました けど昔はプリンス名門だったんですけどね そうですねダブルさん元々プリンス自動車 ってどっから来たんでしたっけ今の高郷様 が乗ったからいやいやいや違います1番 最初はうん第2次対戦の頃に立川飛行機 立川飛行機あまだ船中ね船中中島飛行機が あって立川飛行機あったえ中島飛行機とは あの立川飛行機とか三菱飛行機とか色々 ありましたで立川飛行機にいた人たちが 戦争が終わって終わって飛行機をもう作っ ちゃいけないって言われてどうやってご飯 を食べていこうかとうん言った時に立川 飛行機の親会社がIHIだったんですよあ 石川島張りそうですそれの航空部門が立川 飛行機だったうんでそこの系列に太田自動 車っていうのが会社がありましてうんその 太田自動車が立川にあったとでどうしよう かということでその 当時ガソリンはなかったうん電気が待って たうんあでその太田自動車を電気自動車に コンバートしようとそうすればいいじゃ ないかっていうことでうん電気動車を作り 始めたと それが昭和22年くらいですだから戦後は やっぱドイツもが同じだったと思うんだ けどすぐにガソリンがないから電気の方が あったんですねそうですうんそれで電気 自動車でもう色々あの皆さん電気自動車 作ったけども当時のあの経済産業省え当時 の通算そうそれがその性能試験をして優秀 なところにあの材料をくれるとうんいう ことであの の飛行機エンジニアがどうやったら後続 距離を伸ばせるかということでバッテリー を試験をしたりうんそれから極力人間の手 で車を押すとかそれとがジャッキアップし てデフを温めるとか転がり抵抗を減らすと かそういうことをやって抜群の成績を上げ てそれで資材をもらって多電気動車を作り 始めてなるほど当時は資材がないからええ 会社にしかその貴重な資材は与えなかった んですね政府はねそうはいまそれでその多 自動車がはいプリンスえま玉自動車その後 色々名前変わりましたけどプリンス自動車 になりましたなんでプリンスって名前なっ たんですかそれは あの今の情ちょあの韓国で内戦が始まり ましたよねはいあ朝鮮戦争そうそうです それで あのバッテリーの材料でありのが9倍 ぐらいに上がっちゃってもう電気乗車があ ともペイしないということでそれまでに あのま車電気動車売って作ったお金で えっと中島飛行機が分社化されて富士セミ ていう会社に03のエンジンを作った中川 涼一さんがおられたんで川密にいたんだ はいそこに1.5Lのohvエンジンの 開発を依頼しましたうんがエンジンっん ですねそう ですその最初のガソリン自動車がAISと いう1.5Lのセダだったさすが詳しい ですね一応勉強 しあそうか今ね皆さんねプリンスの ミュージアムが塩谷プリンス岡岡プリンス &スカイラミュージアムていうのがござい ますのでぜひご覧いくださえっとスワの そばですねそう岡にえ のミュジアムがあるプリンスア スカイラインプリンスアスカイラインそこ の名誉館長はい一応名誉長せ使っており ますこちらが名誉顧問じゃなくて顧問顧 あの名誉館長のあのなんていうか下遣い うんでTさんはそこの プロモーションまあまあまプリンスジです ねえおでちょうど話をてますとその最初の ガソリン自動車うん作った時に今の女皇様 が当時交代市になられて立体資を迎えられ たはいそれでそのそれを記念してプリンス という名前にして会社の名前もプリンスに したうんいうのが始ですねうんでその後 どうなってしたっけプリンスまプリンス 自動車が あのプリンス乗車とガソリンエンジンの 発注したとがうん共通のオーナーだった 石橋さんがあブリヂストンえの石橋さんが まあのタイヤメーカーとその乗車を 切り離すということでその2つの会社を 合併させて存続会社として藤誠道という 名前になったですなるほど今ね偶然にもね ブリヂスの社長は石橋さんなんだけどあの 当時と石橋さんとは違う偶然なんだけど はいあでも祖先は 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編集長の高平さんに間違いを正しきます けどはい最初はあのエンジンはプリンスが 作ったけど車体はどっかから持ってき たって聞いたいやいやあのR381は最初 は車体は日産乗車で作ってあのv12が 間に合わなかったからV8エンジンを搭載 したんうんですから日本グラ43年の日本 グランプリはだから43年というのは第3 回4第3回かな はい回数分かりませんけど381が優勝し た時 その前の年の第2回日本グランプリは例の 葉さんがポルシに乗っ てはじゃ前の前の年ぐらいです前の前の年 ぐらいですよ昭和39年第2回日本 スカイラインでさん乗っだけ1周だけ場 さんの前走って観客グランドスタンド争 だっただっうんなるほどはいうん渡さん その頃 はえ 日産の量産の開発エンジニアなのに レーシングカーを設計したんですかはい そのその頃は あの別れてないんだレース部門とかレース 部門は実際の車を転がす部隊であって設計 する部隊はなかったんですうんそれであの R380とか381382はスカイライン を設計するグループが あの来年の日本グランプリに参戦すると 決まった時にうんあの桜井さんがレアを 書いてそれを年明から各担当者がみんな 設計して うんやっぱりだからなんか技術の日産と いうけど根底にはやっぱプリンスの技術が そこにあったんですかね当時の日産はなん だろうそのダッツさんから来てるからはい そんなにすいカーはやってなかったですよ ねあむしろラリーカーですあそうかラリー カーねえっと410510ねはいで プリンスの方は航空機メーカーから来てる からやっぱまだこう戦闘機のイメージが あって早い車を作りたいと思ってたんです よねあの航空機メーカーは要するにことに 軍用器を作ったとこはいかにして敵に勝つ かそう中島飛行機だ今のす全てそうです より高くよりくより長くなんですよよりえ より高くえ1mでも高く1kgでも長く 一速1kmでも早くそうグラマをやけ られるとそういうことですねですから企画 が非常に大事だってことでものすごい企画 をやりますねうん最初のコンセプトですね そうですそれがいかに大事かってことです よ面白いねえうんそれがGTRの開発けた んですよねまいに早くいか早そうそうそう だからそのためにエンジンをやっぱりです よねうんうんそれがいかに大事かってこと です うんだから あの1番最初に言いましたガソリン エンジン当時トヨタと日産は1Lの エンジンになったけどもプリンスは1.5 Lの一部現を作ですうん うんなるほどねまきかさんはそのプリンス との関わり合いで言うと会社入った時は もう日ちろ日産自動車のプリンス授業が あのW3の9年9年後に入ってんですよあ 計算はねそうなんだけど9年経ってもうん まだ合併してたのに全然その名前は プリンスジオ部とかななくて第3車両設計 部っていうう部なんですけどその第1車両 設計部第2車両設計部ってのは鶴見にある 派閥があったんそうもう完全にま派閥と いうよりはねもう完全にあの完全に敵対感 同じ会社そうそうもうそのま敵っていうか ライバルうんもう あの僕の女子はその桜井慎郎さんいう人 だったんですけど絶対に鶴見には負けるな 鶴見が日産そう荻久保がプリンスプリンス ま大名詞です大名つに小久保っていうのは そうだからそのまさに僕が入社した時は 全員先輩はもう部署全員がそのプリンス 自動車に入った人もしくはまその後ま9 年間経ってるんで何人か入ってますけど ほとんど その係り町以上の人っていうのはみんな そのプリンス時代の人なんですねTさん それだけ誇り高きプリンスの自販にいて マーケティングやられてたんですよね やっぱそういうプライドとかありましたね マーケティングでなんか日産にはできない ようななんか面白いことやってたにあの やっぱりね日産はもうプリンス自販として も常こうワードが出てくんですけども日産 自動車より面白いことをやろうというね マーケティング戦略としてうんで今でも こうまネタとして面白い話なんですけどま 古い話ケとメリのスカイラインの時に昭和 46年か7年ぐらいああ48年か懸命に出 て軽井沢やってですねあの今多本当にね あのセンターを行ってると環境のセンター 行ってると思うんだけどゴミを捨てませ んっていうんで当時自販からですね軽井沢 にあるま小屋みたいなとこを借りましてね そこでゴミ袋を観光客にですねあケメの あのケメはゴミを捨てませんって言うんで ですねあの配ったんですよねそれをだから 皆さんあの観光客がもらってでゴミを少し でも吸ないようにっていうですねうんうん あれはすごいもう20年30年先行してる なっていう環境ケメリってねそういえば フラノの辺りになんかポプラの木うんメリ の木があるんです2ぐらい行きましたけど ね今でも元気にありますね私も行きました よみんな行くんですようんそうだから本当 にそういう意味では当時ま先ほどのあのお 話じゃないですけどあのプリンス オリジナルを出していこうっていうのが うんあの キ盛でしたねそういう意味ではねも戦前は めちゃ洗練されあの洗練されてましたね そうプリンスのプリンス屋の宣伝は うんうん本当にお客様オーナーがなんか車 単に車だけ楽しむんじゃなくてその周りの 例えばさっきお話じゃないTシャツを着て うんえスカイに乗るとかゴミ捨てないとか ゴミ捨てないとかそれからなんかケンメリ のバックを持ってうん車に乗るとかそう いうこう周りのねつのシンを作る作りです よね作りそうそうそうまそういうものに かけってたうんあのそそうそれであの 思い出しましたけどあのケンとメリーの ステッカーあのローがありましよねこう いう傘が 固であの証人取る前に車内で見せたらうん ねあの傘が傾いてるじゃないかとうん 片っぽが濡れちゃうじゃないかって車内で そんなことが言われたっていうあそんな話 だったでもそれ良かったんですよねいや 良かっただからあれはもう作った人はもう 大ヒトですけどねあのロゴマークはすご 本当にそうだでもま車内で役員さんは皆 さん頭が硬いと傘が傾いたら濡れちゃう じゃないかとかそうでもあれもま今もあれ ですけどライトパブリタンていうあの航空 大店さんねもう素晴らしい来店があって うんそこのデデザイナーさんがあの考えて くれてもうそういうやっぱり全てに計算 づくしたあのマーク作りねあそうそうそう そうけどあのプリンス犯には本当に侍がい たんですね宣伝課長であってそのライト パブリシティと交渉してもう一切車内では 口出させない出さないと課長が約束しけ ですそうもう自分でもう腹くくってうん 本当に口を出させなかったでそのライト パブリシティと口をあの会議をする時に 自販の人はみんなもう 紙に書くんですってもうプレゼンの自販と か言われるくらい書いてったんですって それで打ち合わせをして見せた時にずっと 見ててたった1一言だけくださいヤンアっ たハートああこれだけくださいあとはいり ませんって言われたそうですうんうん なるほどねそれをベースにずっとあの プリンスのあの宣伝が始まっスカイライン 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ここがちょっと違うんね近代的になってて えそれは結構違うですようねだから ステアリング変えちゃうと昔の乗り味と 違うまでも格好はスカイラインなんでうん でまあのそれぞれTさんWさんKさんま そういうゆかりがあるんですけど実は私も 18であの免許取って車買ったにちょうど 自宅から東距離にカローラ店とプリンス店 があったんですね上のプリンスと渋谷の うんうんでセリカ買うかスカイライン買う かでもうお父ちゃんにお願いしますね僕は ねセリカがリフトバックはかっこいいと思 はいだうちの父は免許持ってないんだけど 当時のレプテーションでは日産の全然上だ からいやお前は日産の方が安全なはずだと へえということでま偶然にGC10を手に 入れてうんとモタスポなですけどうんま それ乗って大学行ったらもう車好きから カージャックされてでラリーに連れてがれ フジスピードウェイに連れてがれバンクを 走るスカイラインうんあとダートとかです ねラリー連れてかれてねでこの世界入っ ちゃったんですねだから何度もメディアに 原稿書きましたけど車との出会いって人生 変えるなと思ったねうんねリフトバッたら どうなったねいやただランパ のそうねいやあのね今の自分は全くない そのまんまじゃないですかいやでもねどう いう意味ですかダブさん行っちゃったえ MGですかねい僕は後ですから銀座じゃま Tさんがよく知ってますけどいやでもね僕 今Tさんとよく2人で銀座遊んでますから あそうそうですかはいそうでしょうねいや 遊んでるっていうのは散在をしてるんです よはいはい勉強してんです日本の経済は活 化ちなんですちなんですでもねあの時ね僕 大学生だったんだけど本当にね サスペンションが全然違ったんですよその セリカのリフトバックとあだからセミ トレーニングねそうそれまいわ違ったの とにかくね路面にね吸いついてカーブを 回ってくっていう感じがもうやっぱりね スカイレマ全然違ってたで僕ねあの大学で あバイトで買った車はあのカペラの ロータリークープええおでそれはね早い 早いだけど早いんだけどそれはねセリカ よりもねまた1段ねレベル低いんだレベル が低いのよだ早いんですよ早いで中古車で 買ってその中古車の価格が当時その中古の そのスカイラインTを買おうと思うと 65万とか70万したねうん30万円であ カラはカペラ当時GC10がね87ぐらい 新車ねうん新車でもねあのだからそう中古 でだ僕が大学の頃それはだからそれあの ちょっと前だと思うでそれから4年ぐらい 経ってるけどでもね65万ぐらいしてたん ですようんまあの新車各もちょっと上がっ てたと思いますけどねうんうんそれでまお 金がないからカペラので早いのはねお直線 はうんスカイラインとほぼほぼ同じああ はいはい同じ120割ぐらで早いぐらい だったと思うんですけどでももうね第3経 品とかぶっ飛ばすとねもこんなんなって 当時のねこれ元は913回来てるけどえ 当時のカーグラフィックええセミ トレーリングアームは粘るけどなんか 滑り出しが唐突だ多分正太郎さんが書いた のかもわかんないけどあはいはいそんな 感じあそれはねある粘る粘るのとそのそう いう意味で言うとね その あのレビンとかうんセリカはもう滑り出し が早いのうんだけどま分かりやすいだって あれ板バネだもんそううんあスカイライン もさ短いなったじゃないあれ4キとあれ これリジッドですようんリジアクセ リジッドリーフですよリジッドリーフだよ ねあったあったあった板バネだよねいや あれね板C1110までC1110まで 板バネそれから後があの4リンクあそう4 リンク4リンクにしたのそう210から ですねそううんそうです ねそうそれはね確かにだけどあの54は トルクロッドつけてましたようんとうん トルクロッド板だったけどトルドつけて ましたあのドデはアクそれでダダダダって いうジャダが起きないようにしたんですね ここれだ うんでもねそう乗って違っなと思っました ねなんかちょっと話添ちゃちなみにあの KGCまケンメリのGTが出きた時のはい 車内の評価っていうのはどんな意見が出て たんですか素晴らしいっていうのななんて 言うのか なこの車だったらこうお客さんに受けると か 特になんかなかったですか えっとケンメリが出たのって4072年 40うん7047年年でしょそん時僕は もうESVに行てたから分からないあそか そっかそって安全じゃないですかうんそう 安全安全エクスペリメンタルセーフティ ビークルそうそうそれそれに生かされて うんうん行かされてってのアメリカから なんかえいやいや日本鶴と3年間行って ましたけどもそっかでも私は最初に買った スカイラインはGC110ですあそうです か1えGTRってことGCGTメリねG4 せがね歴代の中で1番の失敗策って変な 都市工学をやったセブンスセブンスr31 ま僕はジャーナリストとしてはえっと セブンスぐらいからなんですけど まあ色々あったですねちょっとあの期待値 に反したですねエンジン努力のがねそれが ちょっと味そをつけたんじゃないですかま 努力性もそうですけどあれはね自販がいけ なかったんだと思いますねもうねあの要は マーク2クレスタあの3兄弟チェあれが 売れてました般3番台売そうだから中途 半端に手にこうねあの汗かくようななんか 男マリのね車作りよりこうちょっとねしれ た ラグジュリアスライン出せねえのかみたい なことをね あの本社で企画をやってましたけどもその 時にははい あのスカイラインのうんお客さんのうん 行きとがないんでより上のスカラインを 作ってくれっていうことでフォドラハート フォドラセを先行させてていうドはあのの 車好きさんからスパチャが来ました スパチャありがとうござい ます今飲みの一部あああそういうことです かありありがとうございますはい ありがとうございますももっとお願いし ます結構これいいワイんですねあこれいい ワそうですねうんうん美味しいですよ 美味しいです よ飲めない私が今日ワイン飲んでるんで ちょっとそうですよね飲んでますよね飲ん でます飲んでますよね本当は飲めるん でしょ飲めいや全然飲めないです ねなんですかその横目横目使いわダブル さんえ酔って振りして酒に飲まれて振り てっていう得意のパターンかなと思った だけそんな肌おくないです よもストレートにでもあの時代32GTの が出た時ってなんかもう自分の車人生の中 でなんか1番いい時期だったねまあん時は ポルシのテストもやってたからまニル 5000ラップ以上結果的に走ったけどで も1回もGTRで事故なかったねうんない ですよなさんがクトでスピンシの覚えてん だけどカルーセルでええあの私は あのアウトバーンで3車線あのレチェン ジっていうのやらされえややった隣に乗っ てて死ぬかと思いましたえそれクトですか そん時は えダブルレインチェンジありましたよね ポルシの試験なんだよこれがポルシ当時は あウットリに行く48号戦 で試験車両はできたんですよね今はダメ ですけどね本当死ぬかと思いましたあの スピードでダブルレンチェンジやられてね えそん時の車は何なんですか3人上がるあ 3人であそこれはなきゃポルチの試験に 浮かんでいような鼻歌で鼻ほじくりながら 僕ねでもね渡辺さんそうその時死ぬ思い だったって言うけどね甘いと思う甘いね 甘いもっと死ぬ思いあったよね僕ねあの あれかなあれあれかあれはねもう本当にね あの乗ってたの一緒に横にいたんです私 あのあのみさんドライブであの陸別の テストコース別別のテストコースをうん あのもうほぼ解式に近いうんまジャンプし てそうジャンプしてそれででまだまだでき たばかりじゃなかったあできたばかりで それでまうちのな広い人かねうんあのま 走ってましたよだけどまだそのうちの人間 もこなれてないうん状態だったんだけど 当時そのR32のあのVスペックを発する ていう時のそのま先行実験者うんうんに あのそれでそのまやっぱりシミさんにあの その新しい陸別のカントリーロードで こっち前ですよねそうこっち回りで乗って もらおうっていうことでうん載せてま1周 目はね普通にまそれではいそれで1周目 それで1周目もう分かったっそんみたい ドライですよまドライなんですけどこれで 2周目2周目でガーっと行ってそれでその ジャンピング意図的にもうああ飛ぶよう左 コーナーのジャンピングねそうそううん左 うんそねそれでとんそれでそのそこはその 広しとかねあそこ危ないから注意してねと か言ってたはずなんだけど言ってたはずな んだけどえその元々の侵入速度がうん早 すぎてで途中で曲がってるんでえ降りたら もうコースから外れてるわけそれで僕そう それでもうねコースウトしたいやそれが うん左輪があのあだからミコーナーだった んだと思うそれであの着地したところは もう完全に右は残ってんだけど左輪は完全 に脱輪していてでそこはその当時はね ちょっとガードはなかったかもしんないん だけど砂利でそれでねあもう終わったと 思ったんだけどそん時にねすげえなと思っ たのはうんそれでもその妙なハンドル操作 はしないでうん落ちたらそしたまあまあ まっすぐ行ってあ変なこんなことやんない でやんないであそれが素晴らしいですそれ はねすげえなこの人はと思ったでもね全然 記憶にありませんうんであのちょっとだ からどれぐらいかね10mかそこら進んで からじわじわじわっと切って元に戻れた 素晴らしい分かったそれであのコースに こう矢印ねこの方向で飛べっていうかれ わけそれがその教訓なんですよあああの あのあのテグラウンドにここっち打てって 書いてあるのと同じ矢印がこう路面に書い てありますあれをねそうこうその道に入っ てはいけないってこっちにこういう風に僕 はね何を評価したたとねニルでも同じよう に13km地点で左コーナーで160km ぐらいで飛んで着地してシュってくとんね ねABSゴジの先ねでその時に着地した時 にポルシェは風論が変わんないんですよ ほう窓が開かないっていうスカイラインは 着した時に車体が開くんであシンて化量が 入るんでそのテストをしたかっ確認し たかったんで飛ばなきゃいけなかったです う はいいねてでしょ本当ほといやあのでもね 本当あれはね あのなん だろう僕のその人生の中で実験部のねあの あの先輩でYさんっていう人がいて矢崎 さんあちょピー ピーで矢崎さんそれね仕事とは別であの 友達の あのあれルノー クリオなんだっけなミトシップにのクリオ でルノサンクターボだルノーサンクターボ の光景でルノあのもうクリオになってた時 なんですけどうんそれでねあの日光 サーキットでね点灯したことあるんですよ あのコースアウトしてうんででもあれはね まだねそれでもねあれはまだねニコ サーキットたからうんあの3回転してもね 車速が全然低かったうんあん時のシミさん の時のやつはね分かんないけど 100などれぐらいですかねまあ 450kmでしょ150kmでもね血に足 がついてないけですからねで車体の空力を 計測した全然そんなことは全くフとか なんかそんなそれVスペックそうV スペックうんえそれ1990年ぐらいです か92年Vスペでボディゴース上げたって いうからじゃあ飛んで着した時の風切りも 見てみようと思った えでもねお2人がそう言いますけど僕が 1番やばいなって実は自分で思ったのは アウトバンのテスト でファンベルトが切れた時にああそんな こともありますハキ が逆走のまんまで止まったじゃないですか そうことあそれないのいやいやいやあの あの頃あの石想は切れたままで終わ るっていうのが安全思でも逆走で切れた ままだったらやばいじゃないですかだけど 木の安全状昨日安全状はそのままなに置く のが当時の設計想でした今は違いますよ今 はちゃんと戻すんですよね元に戻すのかな のあので元に戻せないかもしれないって いうことまで考えと下手に動かさないって いう方がいいていう考え方でしねだったん でしょうね うんあれあれはあれとあと飯島さんがあ 言っちゃった名前またあのなんか変な エンジンに採掘してスロットルが戻らなく なったんですよニルでへえあそれはなんか 聞いたことがありますえそれはその場には いないダブさん覚えてないです か行ってくれって言うからもうスタートし てガーって言って1番260kgフク プラッツの辺りアクス全開でダーンて言っ て220kmぐらいのところでアクセ戻し たら戻らなかったんですよなんかで靴か なんかで無理やり戻しちゃそれ都市伝説藤 スイッチつけててくれてたからすぐに カットがったんですけどあうんあれも びっくりしましたね うんいっぱいありますねR3にも随分に 持ってって相当最初にあのあそこで開発し た車ですよあそうですかうん うんそういや徹夜徹夜の連続いやでも名車 ですねださっきの話の続きですけどその ドライバーを育成するそれからその いろんな市場か市場の道を調べてまできる 限りテストコースでそれを再現する方法を うん確かめるだけどやっぱり高速のダRで あのアンジュレーョとかうねりがあるよう なポースはニュルにしかないっていうこと でニュルはニュルでやるしかないっていう まそういう結論だま最近なんかみんなニル ニるって言ってけど当時やっぱりまずは スカイラインが早くてその次にホンダが NSXで行ってうんトヨタは全然来なかっ たんですね90年代後半ぐらいにちょろっ と来たぐらいでうんうんうんうんうんで その後インプレッサかなうんだから スカイライン NSX インプレッサはずっとニルだそうですね あのターゲットとした944ターボを どなたかがどなたかのタイヤメーカーの 開発でニュルで走ってるビデオがあって それが8分40秒だったとそれをそれを 切ればま卒業しナンバーワンだと言っても うんいいだろうって勝手に決めたんですよ ねうんうんうん でもそのそのまドライバーさんがねやたら キャンバー足んないって言ってなかった ですからビッテキャンバーとかなんとかっ ていう言葉がありましたねなんかビッてっ てドイツ語のあのビッてたです クリでやっぱ走と必ずRE71っていう タイヤのショルダーブロックが減ってる からキャンバ当たんないなとうんせっかく マルチリンクなの にキャンバー合成が足んなかったんですか ねいや今思うとうんやっぱり車体もあの 含めてうんあでもでもあの頃頃ので言うと やっぱりサスペンションの合成も低かった のかもしれないですねそうですよねあの あのタイヤの性能に対してうんエンジン パワーに対して車体合成サスペンションの ま当時はブリヂストンタイヤはもうポルシ に入ってたからタ的にはまもう出来上がっ てるんでそれはやっぱ使いきれ切れるサス ができてなかった 結としてはそうなんのかもしれない32 GTRを思ってしてもそうですねまあの 71の赤4赤4ですよね赤よく覚えてます ねえあれ何周しましたか ね赤白黄色青色々やってあ思い出したカバ さんだタヤBSねね うんいやまあ3人は1つのやっぱり伝説 ですねうんどっから見てもそうですねだ それだけなんかほまれ高きプリンスの ブランドをなんで日産の中でもいいんだ けどなんで日産乗車もっときちっと使わ なかったんですかねその価値っていうか アセットうんバリューを うんなんか変な日産対プリンスっていう うんいやそうかなうんそうまでもそれだけ あのそ少なくともR330うんま31は ちょっと あのあのちょっとこう路線が変わっちゃっ たけどま32うんだも3132の頃はもう ほとんどほとんどそういうあれはなくて オールニスタでしたねいやでもねその90 年代後半で34がね終わってねその後 プリンスっていうブランドをだ例えばプジ えっとプジなんかはしああはいはいはい はいのDSをディフェンススピリッツって いうことではいはいあのプジグループの中 でちゃんと残してますよねうんだ日産の中 でそのプリンスっていうまそうそういう そういう意味で言うとま今の インフィニティブランドにその当時の プリンスの魂みたいなのがいけないかそれ インフィニティですかってなっちゃあそれ はそうだと思いますよあのあの頃のだから さっきも申し上げたようにトヨタ西産1L やった頃に1.5Lをやるというそういう 企画力みたいなもののより上級思考すると いうようなところがそれはやっぱりあの プリンスの日産者考方だと思いますでき ないこだわりみたいなものを引き継げない かっていうまだから全部その等にできてる かどうかあるんですけど今やってる人たち はあの逆に今のそのプリンスのあの プリンスさっきのプリンスアスカイラ ミュージアム見に来てくれたりうんして くれてる人たちがいてだ本当にあのギと いいそのブランドバリューというねこの スカイラインはねま買えがいものがあるん だけどでも当時トヨタはマーク23兄弟で 年間30万台ぐらい売ってましたよねだ からビジネスはもうトヨタのが圧倒的に 良かったんですねそうそうですねそうです ねいやその前は申し訳ないですけども スカイラインローレルで7割ですよ マーケットええそうそうそうそうこうGc 1とかローレルローレルそうですあのL クラスって言ってますけどうんあの上を その上のセドリッククラウンの後をLとか 言ってその2Lクラス のでそこのアッパーミドルのシェア持って たんだけどマーク23兄弟にやられちゃっ たんですかねそれは豊田さんが一生懸命 いかにそれを取るかってことで3兄弟をも 投入してきたわけあ販売力まあとそのお客 さんのうんうんの心をつむっていうかま 要するにそんなに走屋よりはまあちょっと スカイラは熱すぎたんですねだからそう マーク2クレスタチェスですかその3兄弟 というか3方向を目指してより幅広く取る いうやっぱ幅だからまちょっと高級ぐらい のところは良かったんですね高級とか ちょっとせのそうそうそれでちょっとま あのスカイラインがミスったってこともで それでまマーケットを捉えたんでそれを いかにそうですねあのまた取り戻すかって ことで3人が企画されたわけです よまでもあのケンメリの本当にあの頃本当 にもうそう単月でですね今でも覚えた 2万4500台やったんですよ単月であり えないですよね1位ブランドの単月2万 4500台ってのそうも本当その頃は豊田 さんはこうだったと思いますようんああ うん僕がちょうど入社した年ぐらいですね そうそうそうそうそうそうそう うんいや本当に大袋が出るぐらいのねそう いう感じですまどこでね人生分れ道がある かわかんないけどまあでもそのなんだろう 理想的にはゴルフGTIや944ターボ みたいにま車好きも納得しながらもま特に ゴルフかなうんあの普通のお客さんにも 受け入れられる という車作りとかブランド作りが大事なん ですかねですね技術と技術屋さんが満足 できてユーザーも満足できる うん23はちょっと頭良すぎんじゃない ですかね頭いいのかうん中途半端になって 方がいいのかも しれトた突き抜けた後いとまビジネスにま もうちょっと愚直にやってるとがえいん じゃないですかあか真面目だと思いんです よねそう23不真面目なんていうかいや もうちょっと中途半端になたがいいんです よ中途半端になんていうかその意味なんか 深そうなんだけど渡さんがあダブさんが言 中途半端に頭いいってのはどういうこと 飛び抜けて頭いいわけじゃないああでも 愚直の人よりは頭いいかもしれないうんあ だから色々 考えるまとまらない最近ねあのあのまP さんなくなっちゃったけどま自分で エンジンの図面まで書いちゃうぐらいのま 経者なんだけどねそれ言い変わりか別にし てねやっぱそういう人がいたんですけど 最近やっぱステランテのタバレス 彼はすごいよねうん元々ポルトガル人で 日産にいてうんまプジシトライン買収して えっとステランティスになってうんうんま フィアットも一緒になって彼はレースも やってたから運転もうまいじゃないあ めちゃくちゃ運転元上司ですよねそうです ねだから本当にねうんあんな人はいないね うんあのもう本当にエンジニアであのあ あれだけエンジニアリングが分かる経営者 っていうのは今時点ではいないんじゃない ですかねあのAmazonWEBサービス の人に聞くとね今自動車メーカーでやっぱ ステランテですが1番データの領域は住ん でてあそうなんですまで使ってるらしい ですようんうんだからテスラについでIT 系ではITっていうかそのデータ連携とえ ブロックチェインなんかではやっぱり タバレスがすごいと残っていて欲しかった 人ですね23223うんアンディパマいら なかったのうんあの人あそプーP ですまでもね今の日産だったら昔の5のが 良かったんじゃない か ななんか意思決定してないよねうんまあ 難しいですねまあのそれはねやっぱりね 育ってきて いる育ちあのそういう風に育ってないん ですよ うんあのも決断するだって育っててないん じゃないうんそうだからうんまあなんて つうんですか ね育ててないっていうのもあるしうん育ち 方が違ってるっていうかうんまあ今回 トヨタ松田スバルが新しいマーチパス ウェイのパートレン発表してま本田本田で 三辺さんらしくベブに行くよってことで いろんな戦略シナリオを言ってんだけど ドーム日産の中継の発表がよくわからなく てですねうん本当に大丈夫なのかなって いう気がちょっとしますけどね Pだねって書いて あるまあプリンスってなんかもう過去の ブランドにしちゃいけないと思うんだけど なうんですね今でもオフシャルで日産は プリンスって使ってんですかねいや使って ないですねうんもないですねもう ネットワークもプリンスの名前消えちゃっ てますからねうんディーラーサイドもね 写メだけ残ってますねああメだけですかね うんうん 残ってるとかあるんですか産プリンスの まるまる販売まだあるんですかでもいや 今度一緒になってきちゃったんじゃないか な確かなちょっとすダ減ってますよねね そうです ねあの神奈川神奈川もう全部神奈川西さん それからプリンス神奈川全部一食なっ ちゃいましたからね東京はないですよね ジバ資本の会社だけですかねプリンス プリンスいうはっプリンスリーダー残って のはジバジ もうん香川と か奈良とか奈良とかうんなんか復活させる 動きってないんですかねこのブランドを 捨てるってのはもったいないええプリンス ですからねええほとプリンスさんですから 交代使ですか本当にね確かになんかすしか プリンスロイヤルがあったそうだから まあまあそれはそう いうあの名前を持つことの会社が持つこと のいいみたいなものを理解できなかった 経営者がいました からうんだ からいわゆるあのあれですよねだよはよ ならレクサスよりも上のブランドに なれるですよなりた可能性はありますだっ てプリンスロイヤルがあるんだから今 センチュリーロイヤルはコーポレートの センチュリーとレクサスは別れてますから うんだ1番トヨタがやってほしくなかった ながプリンスブランド でBMベンツみたいなまメルセデスっての あれだけどBMの後ろを追っかけるよう なブランドに車作りにさが来るのを取れ たら1番やがってたでしょうね うんそうですねいいパワーじゃないんじゃ ないか みたいあの頃でもプリンススカイレンジ GTRまスカイのレーシングカなんかも 随分その当時の有名なレーシング ドライバーの皆さんがね北野さんとか いっぱいこう乗ってたですよね最近あの nisoはまたグループAのレースをね うんYouTubeで出してんですけどま 僕も何回か映るけどえまああのシさん 追っかけてでも意外とハミさんが チャンピオン取ってたとかですねあそう うんあもうぶつかってタイヤがもげたりと かですねうんうんやっぱあの頃のグループ エト面白かったですよねすごかったですね うん面白かったですねうん もう今でも覚えてるけど日台サーキットで オイルポンプのオイルが沸騰しちゃって それでギコギコしてるからピッと入ったん ですねそしたら当時のメカのてっちゃんが うんこんなでかいハ持ってきてプーリー ベルトバーンて切って背景みたいにだ パワステ岩津パワステのステアリングで岩 がなくなったら余計重いんですよいそう ですよねギが早いからねだハンドル切る時 もケツが浮いてもう心拍数200ぐらい まかってもう無線でこれも無理だよて しかも2000台ですからね ああ結構タトなもう死ぬ死ぬかと思っ たまいい思いもあったけど鈴鹿の雨で勝つ たのは嬉しかった な10秒ぐらい後ろにハミさんがいて すごいプレッシャーで はあでもそれはでも雨で勝て るっていうのはやっぱりドライバー料理に つきますよねそうねあのうん車の要素の 要するにその早い遅いっていう車の ポテンシャルよりも同じタヤだったねあ同 あ同じタヤだったんだ違う違うだってハ さんダップで僕トランピオなああそうま そこは割り引いてもやっぱドライバーとし て雨はやっぱりミスしやすいんですよね ですよねだからで後ろに大物がいるともう 心臓バクバクなんだけどでもあの思いって 今回ラリーで勝った時にえ2週間ぐらい前 あ1ヶ月ぐらい前全日本うん41年お めでとうございますおめでとうございます おめでとうございます40 あおめでとうございますおめでとうござい ますすごいことですよ何が言いたかていう とあの鈴鹿で セミさんに追っかけられて雨逃げ切って 勝った時のそのプレッシャーで潰されそう なんだけど集中力でそのプレッシャーを 押し返すその押し倉まじが今回もラリーで えっと京都単子だったんだけど山かじが あったんですよそれでフルマラソンが ハーフマラソンになったぐらい距離が短く なっちゃったんですねうんでこれ俺にとっ て有利なのか なっていうことでま予定調和じゃなかった よしじゃあ勝負しようと思ってえ勝負出た んですねたら日曜日たまたま雨降っちゃっ たんですそタヤセタがね2周3パターン ぐらいあるんですねでどれにしようか迷う じゃないですか でトップと違うタイヤを選んで勝ったら タイヤので勝てたなるですねうん負けたら タイヤのせにできるじゃないですか言い訳 したくないからうんトップと同じタイヤを つけてトップが何つけてもいいから同じ タイヤつけてって言ってうんうんでま自分 を追い込んででそのプレッシャーを集中力 で押し返すていうのを41えっと30年前 のあの鈴鹿のグループペのレスを思い出し てうんうんなんかそれっていいなと思って すすごい へえなるほどだからなんか人生 プレッシャーがないとつまんないよ ねいやでもすごい本当に70歳で優勝 すごいよねうんすごいですねうんいや本当 にすごいすごいでも近代ラリーはペス ノート使うから佐納も使うんでうん右脳で 見たところのフィジカルの条件反射で ハンドリングするんです けど佐納で1個先のコース読まれてるから あれで本当にあのあのYouTubeで見 たけど本当にあのナビのね女性があの 読み上げて言ってるのは僕見てると1個先 を読んでるでしょ右とか言って今左側回っ てるじゃんそれどうしてそれが運転できる のかなと思いますすそれになれるまで やっぱ23年かかりましたけどへえあああ 最初はもう昔のラリーは有子会気合根性 ですからああで近代ラリーはデーター ベースをんです ね人間会場に時間がかかったってことです か時間がかかったとかもう近代ラリ始まっ てもう20年近くペスのトラリなんでそう ですよね でもいや昔の化石時代のおっさんが現代に タイムマシーン乗ってラディやったみたい なでもあの波方の女性も優秀ですよねすい 優秀ですね彼女頭いいしねなんかそう僕 YouTubeずっと見てんですけどあの 1年目とか結構あの攻められてましたよね あの彼女にそうそうそうそうそうそうもう ちょっと落ちれてとかねそうそうもっと 踏んでとかさあのそこそこをもうちょっと やって欲しかったなみたいななんかそう いうえしみちゃん33歳ぐらいの女の子に 怒られなからそう怒られてるじゃんみたい な思ってご指動画そういやだからすご 素晴らしいね彼女ねうん物おじしないから うんすごいすごいなと思ってまでも今回ね モントレでまあ2位だったんだけどあの 薄いバイパスの下り9kgのSSがあって うんうんそこトップタイム取ったんですね あ素晴らしいすごいま同じとこ2回やるん ですけど2回目はトップですごいで ちょっとそこだけセッティング変えてだ からサスをどどう変えるとどうなるかって のも動きだいぶ分かってきてあと摩擦 ブレーキでvmx上げて摩擦ブレーキで ボーンっていうのはダメでSOC見ながら バッテリーの容量見てるから減ったら改正 ブレーキ使わなきゃいけないからVMAX からタって改正で落としてくるってのは 結構難しくてうん失敗するとオーバー スピードになっちゃうしすごい難しいです ねうん難しいだから本当にブレーキの書い 方が2パターンあるんで摩擦と海晴 うんでもフォーミュラEのドライバーも みんな同じようなこと言たようんもう頭も 使わなきゃいけないしあと我慢もしなきゃ いけない我慢もそうです ねだもう能能って言ってんだ けどだから近代ラリ面白 疲れるでしょあの頭がね目と頭がうんうん 体はもうパステとかあるから全然楽なん です けどま夜もないからいいですね今回真っ暗 んとこあったんすあそうなんですか トンネルの中じゃないですかじゃなくて夜 7時スタートってのあってあへえこれは もう罰ゲーム70歳のおっさんにはなんか あのそれは辛いあのクラスだけライトの 補助灯がなくて全勝灯追加が認められ なかったんで まあまあ色々あったんですけどはいじゃあ もうちょっと居酒屋グダグダライブもあの 今日はプリンスというテーマで皆さんに 歴史をあの歴史の証人がいらっしゃいます からこれってあんまり書物にネットにも出 てないんでチャットGPTにも出てこない んでしっかり日本の 戦後の盟期混乱機から盟期の話はちゃんと 歴史としてこのYouTubeアーカイブ に残しておきたいと思いますということで 皆さんこのすいません今日美味しいワイン 飲んだりお寿司食ったりしながらグダグダ え居酒屋プリンスライブをやりましたけど もえそれではご視聴の方ありがとうござい ましたどもありがとうあうございまし ございまし たお疲れ様でした 俺だったら見てないねこんなまだやってえ

4 Comments

  1. 清水先生、ライブに以前のように副題を付けられませんか。
    折角の貴重なお話、後から見返しづらいですし、内容が分かるほうが再生数も伸びると思います。

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