【本田宗一郎の魂】技術者として挑戦し続けた鬼才

トヨタや日産と並ぶ大手自動車メーカーで あり世界周囲のオト売上高を誇る本田その 本田を1から作り上げた本田総一郎さんは 車を子なく愛した技術者でありながら会社 を倒産させかけた過去や高居で行われる 受賞式につなぎで出向こうとした逸話など が語られその破天候なキャラクターが 数多くの自動車ファンから愛されています しかし彼の破天候な人生のそばには常に 藤沢という副社長の存在がありました本田 総一郎というカリスマの人生と藤沢武夫 さんと共に歩んだ本田創業者としての 輝かしい歴史今回はその栄光と車好きの魂 がこったストーリーの数々を皆さんと共に たどっていきたいと思い ます本田を作った本田総一郎さんは一体 どんな幼少期を過ごしたのでしょうか彼は 1906年の鍛冶屋の息子として生まれ ました自由本法な幼少期かと思いきや人に 迷惑をかけないことを信念としており約束 の時間は必ず守るそんな義理がい性格の 少年でした一方でいたずら好きな一面も あったという創一郎さんは俺が小さい頃 石屋の爺いさんがお地蔵様を掘っていたん だな俺はそのお地蔵様の花のあそこを直せ ば俺のイメージにぴったりだと思ってのみ を取ってちんちんとやったら鼻がポロリと 落ちてしまったんだよと自らの幼少期を 語っておりやんちゃな少年像が伺います また鍛冶屋という職人気質な家庭で育った こともあり幼い頃から機械いじりに夢中で そのあまりの集中力に彼の母親は一切辞め させることができなかったと言います総 一郎少年の機械への情熱が分かるこんな エピソードがあります自宅から遠く離れた 基地にやってくる飛行機を見たかった総 一郎さん基地の入場には10線かかること を知るのですが10線は現代の価値で言う と2000円ほどで当時の庶民にとっては 大金で子供だった総一郎さんが用意できる 額ではありませんしかしどうしても飛行機 を見たかった彼は松の木に内緒で登り飛ん でいく飛行機を見ようとしたと言います そんな総一郎さんが自動車に出会ったのは 彼が住む村に黒いセダがやってきた時でし た黒く輝く車体やエンジンのの匂い音その 全てが総一郎少年の心を打ったのでした こんな車を自分も作りたいとその時から総 一郎さんは思うようになったの です車作りに憧れた総一郎さんですがその 後すぐに車に関わることになります15歳 という年齢で自動車修理業者アート車に デジ方向に行くことになったのです当時の 日本ではまだ幼い少年少女が熱地として 商店などに下働きに行く風習がありました アート紹介は東京でも有数の自動車修理 会社だったのですが総一郎さんは学校の 成績がとことん悪かったにも関わらず台の 車好きだったことがこ総しこの会社に選ば れたのですデジ方向としてアート紹介に 入った当初は雑用ばかりやっていましたが その間にも師匠の仕事をずっと観察して 学んでいたと言います自分も自動車に触り たいと願い続けていた総一郎さんにある日 1つのチャンスがアート紹介のボスだった 坂原ぞさんが仕事が立て込んでいる時お前 も手伝えと総一郎さんに声をかけたのです 宗一郎さんは喜んで作業儀に腕を通し 初めてスパナを握りましためきめきと実力 を上げていくその才能を坂原さんは徐々に 認めるようになります仕事で車を触るよう になった総一郎さんですが初めて車を運転 したのはなんと震災の時でした1923年 に発生した歴史に残る大地震関東大震災 です火の手がアート紹介にも襲いかかり 自動車を移動させることになった総一郎 さん彼は震災が起きているにも関わらず 自動車を初めて運転したことに感動を覚え 自信なんて気にならなかったと後に発言し ていますそんな車を愛して止まない総一郎 さんを坂原さんは一流のエンジニアに 育て上げていきました技術だけでなく エンジニアとしての心や コミュニケーションまで数々の教えをし 坂原さんに学んだ総一郎さんは最も尊敬 する人物を聞かれると必ず坂原行ぞと 答えるほど彼を心から尊敬していたのでし た総一郎さんは坂原さんとアート紹介で 過ごした日々について6年私は修理工場で の方向を務め上げた一通りの構造修繕 飲み込んだしその間に自動車の運転も習得 した自由に自動車を駆使し大都会の石畳を 走り回る私の希望は達成されたのであると 語っています死の教えを受けながら1人前 の技術者として1人立ちできるようになっ た総一郎さん昭和3年アート紹介が浜松に 視点を立てる際坂原さんはこの1番弟子の 総一郎さんに店を託すことにしたのでした 総一郎さんはどんな自動車でも修理できる 修理校として評判を集めその懐には どんどんお金が貯まるようになります しかし総一郎さんはお金にはほとんど興味 がなくどんな時でも物作りを優先し エンジンを効率よく動かすための部品 ピストンリングの開発に夢中でした数々の 出資者の反対を物ともせずピストンリング の開発のための会社東海正規中工業を設立 した総一郎さんは3年かけてピストン リングを実用化しますこの噂を聞きつけた トヨタは早速ピストンリングを大量に 買い取りますがサンプルで送られた50本 のピストンリングのうち47本が不良品と 見なされてしまいましたその後総一郎さん は2年の歳月をかけて製品を安定させ28 件もの特許を取得こうしてピストンリング は自動車市場の主流として売り出される ことになったのでした私は自社の製品に ついて自ら欠点に気づきまた他から指摘さ れた場合には即刻改正させます寸毫の猶予 もいたしませんと語総一郎さんの技術者と しての探求心がヒット製品を生み出したの ですしかし総一郎さんはその後すぐに壁に ぶち当たることに1941年太平洋戦争の 勃発です壊滅した町で自動車を買う人は おらずピストンリングの需要は地に落ちて しまいます日本が不の中経営を立て直す ことができなかった総一郎さんはピストン リングのために作った東海正規重工業を なんとライバルであるトヨタに全て 売り渡してしまうのですここから彼の暗黒 機が始まります闇市で買った酒を飲み毎日 仕事もせずに時間を過ごす総一郎さんです がこの何もしなかった時間が次に向かう ための大事な準備期間となるのでした困っ た時苦しい時の知恵が尊い発明する条件で 1番いいのが苦しむこと経験して苦しむと いうことだそ後に語る総一郎さんはこうし た暗黒時代を悪いものとはせず次に一歩 進むための時間だと考えていたのでした時 が経ち1946年当時39歳だった総一郎 さんは本田技術研究所を設立太平洋戦争の 時の経営難から新規一点新たに事業を 起こしたのです総一郎さんはそこからすぐ に新製品の開発を始めることになります ある日旧陸軍の6号無線器発動用エンジン を見た総一郎さんはこれを自転車につけ たら良いのではないかと考えました早速 開発に取りかかった総一郎さんはわずか 60日で補助エンジン付きの自転車を開発 後にバタバタと呼ばれる大ヒット商品の 誕生です失敗が人間を成長させると私は 考えている失敗のない人なんて本当に 気の毒に思うそう語った総一郎さんは自ら の失敗を糧にして次々と新しい開発に 取り組んだのですそしていよいよ 1948年現在の本田となる本田技研工業 を設立するのでし [音楽] たここでさらに総一郎さんに大きな天気が 訪れますそれが後に副社長となる藤沢武夫 さんとの出会いですこの出会いが本田技研 工業を後に世界の本田に導くことになり ます2人が出会ったのは1949年当時総 一郎さんは初めてのホンダ製バイク ドリームD型を販売していましたが戦後の 不景気も合って思ったように利益を埋めず 困りはてていましたそして総一郎さんは 共通の知人だった通算省の完了竹島浩さん に紹介され当時目屋の社長だった藤沢さん に会いに行くことになります一郎と藤沢 さんはすに息統合をしこの人は自分の持っ ていないものを持っていると2人ともが 感じたと言います藤沢さんの1番の特徴は 経営や営業の才能が優れていたことです俺 はどんな数字でも最後にミリがついたり パーセントがついていれば覚えられるが 最後に円がついていると全然ダメと語る ほどそう一郎さんは経営が苦手でした そんな彼をサポートするのに藤沢さん以上 の適任はいません総一郎さんは俺は将来 世界一の自動車を作りたいんだと自らの夢 を藤沢さんに語り藤沢さんは彼のために 経営を立て直すことを約束しました技術の 本だと経営の藤沢という名コビの誕生です 藤沢さんは自分が理想とする社長像につい て社長にはむしろ欠点が必要なのです欠点 があるから魅力がある付き合っていて自分 の方が勝ちだと思った時相手に金感を持つ リメのものではダメなんですと語ってい ますこの藤沢さんの理想像とはまさに ホンダ総一郎そのものだったの です経営を藤沢さんに一任した総一郎さん は浜松から東京に拠点を移しバイク開発を 続けます総一郎さんの胸の中にはずっと1 つの夢がありましたそれは本田を世界一の 企業にすること総一郎さんは日本一になる などと思うな世界一になるんだと語って おり日本で1番になるにはまず世界一に ならなければならないという信念を持って いましたそんな彼の思いを右腕である藤沢 さんも受け継ぎますそこで総一郎さんと 藤沢さんが目をつけたのがバイクレース でした藤沢さんと出会った1949年の ある日総一郎さんが大好きなバイクレース を見に行くとなんと新入社員だった大村 さんがホンダのエンジンを使用し出場して いました無断で会社のバイクとエンジンを 使用した大村さんを叱るとした総一郎さん ですがなんと大村さんがレースで優勝それ に感銘を受けた総一郎さんは彼をテスト ドライバーに採用し会社としてレースに 本格的に取り組み始めることになるのです 総一郎さんは技術があればレースに勝てる と気づき世界一のレースに勝てばホンダが 世界一の企業だと証明できるのではないか と考えますそこで彼が目指したのが イギリスのマトTTレースでしたマトTT レースとは1907年からイギリス王室 直轄の満島で行われているオートバイ競技 であり現在でも開催されている世界中から レーサーが集まるバイクレースの1つです 総一郎さんと藤沢さんはこのレースで優勝 することができれば日本の技術力を世界に 持することができイタリアやドイツなどの 海外メーカーから市場を奪えると考えまし たそして本田は1955年のマトTT レース出場を決意会社一眼となってバイク 開発に取り組むことになりますしかし世界 の壁は想像以上に高く次々と課題に ぶつかる毎日藤沢さんと共に満島TTレス 視察に向かった総一郎さんは海外メーカー との技術の違いに安然としますたった 125ccのイタリア製モンディアルが 205ccのホダのバイクよりも早いこの 事実に衝撃を受けた総一郎さんは海外 メーカーに勝つためより性能のいい エンジンを開発しなければいけないと考え 高回転で高火力のエンジンを作ることを 決意しますしかしレース開催までに残され ていたのはわずか1年今までにない高性能 なエンジン開発には時間が足りず開発費用 も重んでいきました藤沢さんはレースの 費用はどうにか面するがとにかく開発を 急いでくれと告げますそうして徐々に本田 は追い込まれていってしまうのです本田は 満島TTレースと同年に開催された国内の 浅火山レースでも制覇を目指しましたが 優勝は叶わずまた本田が多額の外貨を 持ち出してレースに参加することに対し 日本政府がなかなか許可を出さないという トラブルも発生この状態では満足にレース に参加することはできないと総一郎さんは 1955年の満TTレースへの出場をなく なく中断することに決めます総一郎さんと 藤沢さんが目指した世界一への1歩目は ここで1度立たれてしまうのでし たレースへの夢を諦めた本田はここから どのように逆転していったのでしょうか この時の総一郎さんと本田を救ったのは やはり得意のバイク開発でした本田はこの バイク開発で誰も達成したことのない異業 を歴史にすことになりますこの始まりの 伝説は藤沢さんの提案でした藤沢さんは総 一郎さんに女性でも乗りやすいバイクを 作ろうと持ちかけます当時小型バイクの 主流はヨーロッパのメーカーで日本で小型 バイクの開発を積極的に行うメーカーは 珍しくひとまず総一郎さんはヨーロッパへ 殺に向かいましたそこで悩み抜いた彼が 作ったのが現代でも愛されているヒット 商品スーパーカブ運転が簡単でエンジン トラブルもない優秀な小型バイクである スーパーカブはデザインもおしゃれで 幅広い層に指示され今まで年間4万台だっ たホンダの販売実績を大きく上回る 41万円となり発売から15年目で 1500万台現在では販売台数1億を突破 していますこのスーパー株の大ヒットに よりホダは事業を拡大かつて総一郎さんの 会社を買収したトヨタがある愛知県の近く 三重県の鈴鹿に本田の工場を建設します そして右肩上がりを続けた本田は1961 年に資本金80億超えの世界一のバイク メーカーになったのでした人生でも企業で も一度貧乏とか不教とかを立派にくり抜い てきたものならそいつはどこまでも信用 できる総一郎さんの失敗を続けてもそれが 次に生きていくという信念はまさに世界一 という結果で証明されたのでしたしかし金 と権力を嫌う総一郎さんはこの結果を誇示 することはなく着々と次の目標に向かって 走り始めていき ますスーパーカブのヒットで世界一となっ た本田はレース資金を順当に集め1959 年念願のマトTTレースへの出場を実現し ますアジア初のマトTTレースへの出場を 果たした本田はレーシングマシRC141 とベンリーSSを満島に持ち込みましたが 初めてのコースに苦戦し優勝を逃します しかし1961年に再度挑戦を行った ホンダは圧倒的な差をつけて優勝総一郎 さんの長年の夢だったマトTTレースでの 世界位が実現するのです勢いの止まらない 本田は工場を建設した三重県鈴鹿に鈴鹿 サーキットを建設遊園地や宿泊施設を備え た夢のようなサーキットは藤沢さんが ディズニーランドから着を得て提案し作ら れたのでし [音楽] た国際レースでの優勝鈴鹿サーキットの 建設と次々と夢を叶えた本田は国内の バイクメーカーが飽和してきたこともあり いよいよ 1963年から4輪自動車の開発に 取り組みますしかしこの頃日本政府は国際 市場での競争力を高めるため特進法という 日産やトヨタといった既存の大手メーカー に資本を集中させる有利な法案を作り新規 メーカーの参入を制限しようとします総 一郎さんはこれに対し既存のメーカーに 有利な法案を作っても日本のメーカーが 海外メーカーに勝つことはできない自由な 競争をさせることが重要だと猛反対します 結果この特進法は反対が多く1963年に 廃止となりますが国や権力に真光から 向き合っていく総一郎さんは若者からの 指示を集め次々に優秀なエンジニアが本田 に就職したいと集まっていきました藤沢 さんは若いエンジニアがのびのびと開発に 取り組める環境を作りたいと考え技術部門 を独立させ株式会社本田技術研究所を設立 します総一郎さんは新しい研究所で スポーツカーの開発を決意ホダに集まった 優秀なエンジニアたちと共にスポーツカー S360とKトラックT360を開発し ますKトラックT360は藤沢さんの提案 で制作されたものでスポーツカーの エンジンが搭載されましたこの2つの モデルをホダは1962年にスカ サーキットで発表ホダはこの2機の ブラッシュアップを続け市場に売り出し ユニークなデザインで大衆を一気に魅了し ました特にS500では消防車や救急車 などの緊急車両にしか許可されなかった 赤色のボディを運輸省に頼み込み採用し ますホンダのシンボルカラーである赤色の 車がここで初めて登場するのです自動車の 開発で成功を納めた総一郎さんは自動車で も世界一になりたいと考えますこうして バイクレースだけでなくモータースポーツ の大会出場を目指すようになるのでし た世界最高峰のモーターレースであるF1 f1への出場は一郎さんの新しい夢への道 でしたしかし総一郎さんはその夢を胸に 秘めるのみでなかなか実行に移すことが できませんそんな彼のF1出場への夢を 後押しした人物がいましたその名は中村 義男本田に新しく入社した中村さんは戦時 中に戦闘機のエンジン開発に関わっていた 優秀なエンジニアであり同時に大のレース 好きだったのです一郎さんは彼の入を きっかけににF1開発プロジェクトを 立ち上げますそこで開発されたエンジンが 当時のF1に使用されているエンジンの中 で最大パワーを持つ1500ccエンジン レーシングオートモビル270iでした しかしF1出場には多大な資金が必要で ボディ開発までは不可能だった本田はこの エンジンを別のチームに売り込もうとし ます一時イギリスのチームロータスへの エンジンの供給が決まりましたが結局 チームはジャガー車参加の会社のエンジン を使用することになりエンジンを他の チームに売り出すという話は振り出しに 戻ってしまいましたそんな中総一郎さんが 下した決断は自分たちで1からフルカーを 作ることどうにかホンダレーシング オートモビル271を完成させますこのF 1カーで1964年のフォーミュラ1 ドイツ戦に参戦しますが思った通りの結果 は出ず失敗に終わりましたしかしこの失敗 が次のF1参戦の糧になったのです本田は 1964年の失敗からレーシングカーの 改良を続け1955年10月の最終戦 メキシコグランプリでホンダレーシング オートモビル272が初勝利を遂げます この初優勝の時総一郎さんはこう語ってい ますやる以上1番困難な道をあえて選び グランプリレースに出場したわけです勝っ て奢ることなく勝った原因を追求し その技術を新車にもどしどし入れていき たいその後もF1チャンピオンを目指して 勢力的に開発を進める本だそのまま順調に 進むのかと思いきやある悲劇が起きること になるのです次のF1への準備を続けてい た中プロジェクトメンバーの中村さんと総 一郎さんの間でエンジン開発についての 意見が分れてしまいます中村さんは水を 循環させることで冷却を行う水冷式 エンジンの開発を進めようとしましたが総 一郎さんは空気で冷却を行う空冷式 エンジンでF1に挑むと断言しかし高回転 高力のF1カーを空冷式エンジンで動かす のは難しくホンダのエンジニアたちの力を 持ってしても冷却の問題を解決することは できませんでした結果フランス戦で ドライバーを務めたジョーシュレッサー さんがクラッシュ事故で亡くなってしまい ますこの死亡事故を受けホンダはF1への 参戦に1度幕を閉じることを決定しまし た常に夢を追い続けていた総一郎さん彼は レーサーの死亡事故という悲劇の後ホダの 夢を若者に託していくことになります 1970年アメリカではマスキー砲が採択 され世界中のメーカーが困惑しました マスキー法は自動車の排出する有毒ガスを 十分の1にしなければならないという法律 で技術部門のトップで後に2代目社長と ある川島清さんはこの法案に頭を悩ませて いましたマスキー法は当時の技術では突破 するのが非常に難しく会社一体となって 取り組まなければ新車の販売ができません そんな中未だに総一郎さんは空冷エンジン の開発にこだわっていたのです川島さんが 悩んでいる最中に死亡事故が起きたF1 カーの開発に携わっていたくたさんが次表 を出しそれを川島さんが引き止めに行く など社内は混乱川島さんの説得で会社に 戻ってきたくさんは藤沢さんに相談を 持ちかけますそれは総一郎さんに水冷式 エンジンを認めさせて欲しいという内容 でした総一郎さんにとって空冷式エンジン は本田が初めて世界一になった思い入れの あるエンジンそんな総一郎さんのこだわり に対し説得できるのは藤沢さんしかいませ ん藤沢さんの冷静な説得でいよいよ総一郎 さんは水冷式エンジンの開発にこすこと ことに決めこのマスキ法を突破する水冷式 エンジンの開発が総一郎さんの引退前の 最後の課題となったのですF1エンジンの 開発総責任者だった桜井義俊さんは総一郎 さんに低光害エンジンを作るのは本田だけ でなく世界のためですと語りますその時総 一郎さんは自分たちのためだけでなく社会 のために開発を行うという本田の哲学を 社員がしっかり受け継いていたことを知り ました若い社員の成長について総一郎さん はこんな言葉を残しています私が抵抗外 エンジンの開発こそが先発4輪メーカーと 同じスタートラインに並ぶ絶好のチャンス だと言った時研究所の若い人は廃気ガス 対策は企業本位の問題ではなく自動車産業 の社会的責任の上からなすべき義務である と主張して私の目を開かせ心から感激させ てくれたそして本田は1972年スキ法の 基準を満たしたCVCCエンジンを発表 このエンジンの発表後総一郎さんは部下で ある西田道さんにある日技術責任者を若手 に譲ってくれませんかと告げられます西田 さんは藤沢さんから総一郎さんにそう 告げるよう任されていたのでした西田さん の言葉を聞いた総一郎さんは素直に頷き ああすぐにでもやめていいぞと返したと 言います藤沢さんはその後自分もそろそろ 年だからやめようと思うと総一郎さんに 告げ総一郎さんは2人一緒だよ俺もだよと あっさりと引退を決めましたそして 1973年の10月社長本田宗一郎と副 社長藤沢武夫は同時に辞任します総一郎 さんは川島さんに2代目社長として本田を 預けることにしました本田と共に生きてき た25年は私にとって最も充実しを肌で 感じた毎日だったみんなよくやってくれた ありがとう本当にありがとう総一郎さんは 引退の挨拶で社員に総感謝を伝えました 引退後総一郎さんはお世話になった販売店 や工場に感謝を伝えるため全国数千箇所を 回るたびに出ますその全国案の中握手を しようとした従業員が自分の手が油まみれ なことに気づき思わず手を引っ込めて しまった時いやいいんだよその手がいいん だと総一郎さんは告げ彼としっかり握手を かわしたと言い ます金や権力に縛られず良いものを作り たいという思いそれ1つで走り続けた総 一郎さん藤沢さんという最高のパートナー と共に本田を育てその藤沢さんと共に 美しい引退を遂げ若い社員に夢を託しまし た明日の素晴らしい本田を作るのは君たち だ若い社員たちに告げたその言葉は総一郎 さんなき今も受け継がれ本田は今でも愛さ れるメーカーとして私たちに夢を与え続け ています挑戦者であり続けた総一郎さんの 社会そして世界のために物づくりを続ける という哲学は本田がこれから描く未来の 中心として輝き続けていくことでしょう 今回は以上です最後までご視聴いただき ありがとうございましたこの動画を楽しん でいただけた方は是非他の動画もチェック していただけると幸いですそれではまた次 の動画でお会いしましょうたでした

#本田宗一郎 #HONDA #ホンダ

破天荒なキャラクターで数多くの自動車ファンから愛された本田宗一郎さん。

しかし、彼の破天荒な人生の側には、常に「藤沢武夫」という副社長の存在がありました。

今回は、本田宗一郎というカリスマの人生と、藤沢武夫さんと共に歩んだホンダ創業者としての輝かしい歴史を辿っていきたいと思います。

【目次】
00:00 オープニング
00:49 本田宗一郎と自動車の出会い
02:42 自動車修理工場への就職
05:28 どん底からの脱却
08:45 藤沢武夫との出会い
10:40 世界一の夢に立ちはだかった壁
14:11 ホンダの逆襲
16:10 レースへの再挑戦
17:05 満を持して、自動車開発へ
19:22 F1への挑戦
22:30 本田宗一郎の引退
26:34 本田宗一郎が託した未来

【参考・引用】
◇本田技研工業株式会社 (Honda)
・Honda Collection Hall 収蔵車両走行ビデオ Super Cub C100(1959年)

・This is HONDA(1962年)

・Honda Collection Hall 収蔵車両走行ビデオ T360(1965年)

・Honda Collection Hall 収蔵車両走行ビデオ S500(1964年)

【サムネイル画像】
・HONDA | HondaWoodsとは?本田宗一郎の想い
https://global.honda/jp/philanthropy/hondawoods/about/
・HONDA | 本田技研工業75年史 第1章 第2節
https://global.honda/jp/guide/history-digest/75years-history/chapter1/section2/

【素材】
Pixabay様
DOVA-SYNDROME様
効果音ラボ様

1 Comment

  1. 当時取引銀行であった三菱から藤沢という男がいる
    と紹介されたことを本田さん自身が言っていた。
    銀行が見かねて紹介したんでしょうか。

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