【ゆっくり解説】ハーメルンの笛吹き男伝説の真相について考察【歴史解説】
こんにちはゆっくり霊夢ですゆっくり魔 理沙だぜこの前なんとなく調べてみたんだ けど日本の年間失踪者数って8万人くらい いるみたいねその内訳は分からないが想像 以上に多くてびっくりだな治安のいい日本 でこれなんだからより治安の悪い海外だと もっと多そうよねそうだ歴史における失踪 事件で有名なものって何があるちょっと 聞いてみたいなべな話なんだが近代以前の 集団失踪事件で有名なのはハーメルンの 笛吹き男があるなハーメルンの笛吹き男 って昔話みたいなやつでしょ作り話じゃ ないのもちろんその内容の多くは構成に 作られたものであるとは思うんだが中世の 資料でもこの事件について触れられている ものがいくつかあり何らかの歴史的事実が その話の中に含まれていると考えられて いるんだじゃあ今回はハーメルンの笛吹き 男について色々な説を交えながらその真相 はどのようなものだったのかを考察して いこうさて今回はハーメルンの笛吹き男 伝説は本当にあったのかあったとしたら 実際にはどのような出来事であったのかを 考察していくわけだが最初に現在よく知ら れているその伝説について話してその話は 元のもから時代を経てどのように変遷して いったのかを話そうと思う了解1284年 現在のドイツのニーダー作戦にある ハーメルンという町はネズミの被害に 悩まされていたそんな状況のハーメルンに 1人の奇妙な男が現れるその男は様々な色 の布で作られた衣装をまとった同化士で 自らをネズミ鳥男だと称していた市民たち はその男に多額の報酬を支払うことを条件 にこの町のネズミを退治してもらうことに する男は笛を取り出して吹き鳴らし始め すると隠れていたネズミたちは続々と姿を 表し男の周りに群がり始めた男はその ネズミたちを率いて町を出て近くのベゼル 側に入りそこでネズミたちはことごとく 溺れ死ぬことになるそのようにしてネズミ の問題は解決したハーメルンの市民たち だったが今度はその報酬金の支払いの問題 が浮上してきた笛を吹いて移動しただけの ものにあそこまでの金額を払うのはいかが なものかと考えた市民たちは本来その ネズミ鳥男に払うはずだった報酬の支払い を色々な口実を使って拒否してしまい彼を ハーメルンの街から追い出してしまった 怒った男は6月26日に再びハーメルンに 現れその際は恐ろしい顔をした狩土のいで たちで赤い奇妙な帽子をかぶっていたと いう町の工事で笛を吹き出すと今度は ネズミではなく町中の少年少女たちが男の 周りに集まり出した男に引き入れれた子供 たちは町を出ていき市街の山の洞窟へと 消えていったというその人数はなんと約 130人だと伝えられていてそれを知った 市民たちは血の果てまで死者を送って行方 を捜索したもののついに何の成果も得られ なかったらしい以上が現在まで伝えられて いるハーメルンの笛吹き男伝説の概要だが この話が世界的に有名になったのはグリム 兄弟やイングランドの詩人ブラウニングラ によって広められた19世紀あたりで我々 も彼らの影響でその話を知ってることに なるのかなでもどこからどこまでが事実な のかなみと男が笛を吹いたらどこみたいな のは間違いなく作り話だろうけどそこら辺 を考察するためにも遡れる範囲で1番古い 記録について今から見ていこう現在確認さ れている範囲で1番古い記録はハーメルン のマルクと教会のガラス絵だと言われて いるこの絵は1300年頃に描かれたと 考えられており説明文も綴られていた 1660年頃に他の絵と取り替えられた ものの説明文の記録は残っており年月を経 ているため判別不可のところもあるが訳す とヨハネとパウロの日にハーメルンしない で130人のものがカワリオさんの方向へ 向かい印刷者の元で多くの危険を犯して 骨片まで連れてゆかれそこで消え失せたと なるらしいちなみにコペは古いドイツ語で 丘という意味だなネズミ鳥男のことについ ては何にも言及がないわねこの印刷者が 後々着色される家庭でネズミ鳥男という ことになっていったんだろうな次に古い 資料は1384年のハーメルンのミ蔵書で あるパッシオナーレのタイトルページに 書かれた客音師でこれも古いため意味を 取れない箇所があるものの訳すと先ほどの ものとほとんど同じなのだが子供たちが 連れ去られた原因を転移に求めていたり 今後そのようなことが起きないよう神に 祈るような内容になっている2番目に古い 資料はユネブルクの手書本でその中の修道 士であるハインリッキフォンヘルフォルト が必死した金の鎖の最後のページに追求さ れたものでありその内容としては先ほどの 印出者についてさっきまでのものより 詳しく書かれているものとなっている30 歳くらいと見られる男がを渡りベゼル フォルテから町に入ってきたこの男は 極めて上等の服置き美しかったので皆簡単 したものである男は奇妙な形の銀の笛を 持っていて街中に吹き鳴らしたこの後は よく知られているような内容だなその印刷 者が笛吹き男として描かれるのはこの資料 が初めてってことになるのかなあと気に なるのはその男がネズミ鳥男っていう話が まだ1回も出てきてないところかなそう 考えるとその話はかなり後付けな気がする わねそこら辺の話はおいおいしていくこと にして異常3点が中性における一次資料 らしいこれより後のものは2次資料になっ てくので基本的に実を解明するためには これらの資料に書かれていることを元に 考えていかなければいけないわけだ 1284年6月26日にハーメルンの町で 失踪事件が起こったことはこれらの資料が ほとんど一致しているため間違いないで あろうだが彼らがなぜ失踪したのかそして どこに向かったのかというのは未だに解明 されておらず今回の論点はそこら辺になる だろうなそこら辺を考察す前にこの話が いかにしてネズミ鳥男伝説となったのかに ついても見ていこう笛吹き男がネズミ鳥男 として描かれた最初の例は1565年頃に 書かれたと思われるチンメルン白年代機だ その中で書かれている内容はネズミが ベゼル側ではなく山に連れて行かれた点を 除いて我々が知る内容とほとんど同じなの だがこれ以降この話の主人公はただの 笛吹き男ではなくネ鳥男という不対した 役割付けがされるようになっていったなん でいきなりただの笛吹き男がネズミと男に なったのそれは中性や金星の時代には ネズミ中外に対する解決策がほとんど存在 しなかったことまたハーメルンという街が 古くから水車の町として有名であったこと が関係していると考えられるこの時代の ネズミ鳥男伝説は多く存在するのだがそれ らを読んでみるといずれも民衆はネズミ からの被害になす術がなくある日ネズミ 鳥男が現れてそれを一挙に解決するみたい な内容になっていることがほとんどだその ようなことから当時の人々には穀物を狙う 動物やに対する対策がなくある日それを 一挙に解決するネズミ鳥男が現れることを 望んでいたことが分かるらしいそして ハーメルンという年が古くは水車の町 つまり保管されている穀物が多く存在して いた町であるという点からそのような話が 増え吹き男伝説と結合したというのも理解 できるのではないだろうかまたいくつかの ネズミ鳥男伝説には笛を吹いてネズミを 集めるというハーメルンの笛吹き男と同じ 手法を取るものが存在しいくつかの類時点 から笛吹き男伝説はネズミ鳥男伝説と結合 しやすかったのだろう先ほども言ったよう にこの話は元々ハーメルンの子供たちが 印刷者の元で失踪したという話であり一次 資料である笛吹き男については脚色なのか わからないが公成に脚色されたと判明して いるネズミ鳥男については今回考察する 必要はないだろうなじゃあ今回の本題で あるハーメルンの笛吹き男の真相について いくつかの説を紹介しながら考察して いこう最も有力だと言えるのはドイツの 東方植民説かもしれない東方植民って東方 植民っていうのは神聖ローマ帝国処方の ドイツ人たちがスラブ人居住地の東 ヨーロッパに植民活動を行ったことで主な 年代としては12世紀初頭から14世紀 までと言われているこれによって東部処方 の領域は拡大しさらにドイツ騎士団によっ てプロイ線が征服されたことでも有名だな そしてこの東方植民活動がハーメルンでも 起こりその失踪したと記録されている者 たちは実は植民者だったのではないかと いうのがこの説だそもそも子供たちがどこ に行ったのかまた亡くなったのかも分から ないという状況であれば遠い東ドイツの 土地に向かったと考えるが最も合理的かも しれないでもそれならなんで失踪したって いう話になったの目的地があってそこに 向かったってことならそんな風な話には ならないと思うけどなあと失踪したのが 子供たちなら植民者というのはありえない んじゃない全頭な疑問だなそこら辺につい ても色々話していこうまず失踪したのが 子供たちならば植民者にはなり得ないん じゃないかという疑問だがこのチャンネル でも何回か話しているように私たちが想像 する子供と中性における子供には概念的な 帰りが存在するかもしれないという話が あるその失踪したとされる彼らが私たちが 想定しているような少年の子供ではなく 社会的には未だ未熟な若者だとしたらその 説もある程度の信憑性を得るんじゃないか と思うまた本当は生かせたくないものの 活発な若者たちが自分たちの進展地を求め て町を出ていってしまったという母親たち の悲しみゆえにその話が苦で継承されてい くうちに今のような暗く何者かの手によっ てどこかに連れて行かれたという話になっ たといえば確かにありなくもないように 思えるまた親たちが行き先を知っていたと しても当時の人々の地理的知識が乏しかっ たということを考慮すればそこがどこかは 分からず目的地の名前をすぐに忘れて しまってもなんら不思議じゃないまたこの 説がポピュラーである理由はもう1つあっ てそれは笛吹き男という印刷者の存在だ 多くの資料によればその笛吹き男は極めて 上等な服を着ていて美しく見なか担したと いうが基本的にこの時代の芸人というのは 中世社会から阻害された被差別民であり そのような上等な服装をしてさらに民衆 から美しいと思われるというのはありえ ない話なんだ時代を経ていくうちにその ような価値観は薄れ芸人の地位は向上し 資料にあるような服装をしていても おかしくないと思われるようになったかも しれないただ当時の社会状況を考えるに そのようなことは起り得ないと考えるのが 普通だろうならばその笛吹き男というのが 芸人ではなくその他の役職の人物だと考え たらどうだろうこの説ではその笛吹き男を ロカとるつまり中性における植民受けおい 人だと考える土地を覚める諸行や騎士団が ロカトールを雇いハーメルンの市民権すら 持たない仕事もない若者たちに職を与える 約束をして扇動したのではないかという わけだその説がある程度の説得力がある ものだっていうのは分かったわでももし 失踪した者たちが本当に植民者だったら どこに植民したかとかの足跡もつめるん じゃないのま実際にはそれが見つかって ないからあくまでで説の息を出ないのかも しれないけどもちろん候補はいくつかある もののそのどれもがどうしても信憑性に かけてしまうというのが現状だな例えば かつて存在した明連のハムリン号という村 がその候補の1つでチェコのブルノの北東 に進んで約20kmのところにあったその 土地を支配する家とハーメルンを支配する 家との婚姻関係や残存する方言などがその 根拠とされるが結局決定的な証拠が出てい ない以上どうしても信憑性にかけるものに なっているまたその植民者たちは東へ 向かう途中に不慮の事故で多くがなくなっ てしまいだからこそ彼らの足取りがつめ ないのだとする話もあるただ本当に市民が 植民受けおい人によって連れて行かれた ことがそのような話になるならその他の年 でも同じような話が出来上がっても おかしくはない確かにハーメルんだけそう いう伝説が残るのはよくわからないわよね また通常植民受け人は50人から60人を 植民者として連れていくのだがこの説では 130人という通常の2倍以上の数の人々 が連れて行かれることになってしまう当時 のハーメルンの人口が2000人程度で あったことを考えると130人の留出は 非常に大きな損害となったことだろうま そんな感じでこの説は合理的で説得力が ある内容にはなっているもののやはり あくまで一説の息を出ないように私は思っ てしまうな次に紹介するのは1260年に あった ゼディス イン家は後に神聖ローマ皇帝となる シュタウフェンケのフリードリヒ性とベル フェンケのハ必死コトの対立でシウフェン ケ側につきハインリヒの失脚後に ハーメルンを建設軌道に乗り経済力も高め ていったしかし13世紀後半に入ると湿地 回復を目指すベルフェンケとエフェル シュタイン家は対立するようになっていき 最終的にはベルフェンケのブラウンシバ港 がこの土地を収めるようになるがそれは 後々話そうそもそもハーメルンは名目上 フルダ修道員が持つ土地であったものの フルダは地理的に遠くハーメルンの立院が 独自に委長を選出しそれをハーメルンの 守護職であったフェルシュタイン家が歴任 するようになったことで実質的に支配権を 確立していった年だ1259年2月古田 修道院は持つ意味のなくなっていた ハーメルン氏の所有権を民人史教に 売り渡す契約を交わしたこれによって エフェルシュタイン家とハーメルン氏に 民田子教を新たな奉仕として認めるように という勧告が届くわけだが両者はそれを すぐに受け入れるわけにもいかず拒否する しかなかった1260年7月に民田市教軍 がハーメルンの市民軍と激突する ゼディスブラウンシュバイクの年代機に よるとエフェルシュタイン家はベルフェン 家に救援を求めその結果としてブラウン シュバイク高がハーメルンを支配するよう になったらしいがおそらくそれは嘘だろう そりゃ対立していたベルフェンケに助けを 求めるわけはないものね自分たちの正当性 を補強するためにそういう話にしたん だろうけどその戦いでハーメルン氏が被っ た被害は数知れず多くの人々が血を流す 結果となったそしてその戦いの被害が あまりにも多かったため後に伝説として その話が残っていく過程で今のような子供 たちが失踪したという話になったというの がこの説だ正直この説は年代が実際とは 20年ほど開いてしまっていることや証拠 がほとんど存在しないことから信憑性と いう点においては他の説に比べてひい出て いるというわけではないと思われるこの ような説は18世紀半ばに唱えられその後 約200年間最も有力であった説だが指示 された要因として当時の人々は自由を求め て戦ったハーメルン市民軍を自分たちの 立場と重ね説得力があるように思わたと いうのがあるだろう次に紹介するのは ハーメルンの笛吹き男は子供十字軍などの 自発的熱狂的な宗教的行為であったとする 説だ子供十字軍は前にこのチャンネルでも 暑かったわよねあまりその話を知らない 場合は是非その動画も見て欲しいんだぜ よく考えたら子供十字軍とハーメルンの 笛吹き男って多くの類似点があるわよね そうだなまず子供が登場するという点で この2つの伝説は昔から関連付けられる ことが多いただそもそもの話子供十字が 始まったのが1212年なのに対し ハーメルンの笛吹き男伝説は1284年に 起こった出来事だと伝えられている点で この2つの伝説を関連付けるには大きな 時間的矛盾が存在してしまっているじゃあ この2つが同じ出来事とか直接関係してい るっていうことはなさそうねただ子供十字 軍のような民衆が彼らの宗教的熱狂故に 自発的に行動を起こしそれが大規模になっ たという例はいくつも存在しているそして 一種の民衆十字軍がハーメルンの町でも 熱狂的な彼らがエルサレムを目指してどこ かへ消えてしまったというのがこの説だ また中世の祭りのような日々の抑圧から 解放され自分たちのエネルギーを爆発さ せる行事の末にこの事件が起こったとする 話もある例えば当時の祭りの形態として 練り歩きというものがある呼んで自の ごとく参加者は街中を練り歩き様々な薬剤 を払いのけるために祈ったわけだそして その興奮が町の子供たちにも移りその結果 市街にまで練り歩いた子供たちは大人が 気づかないうちにどこ消えてしまったので はないだろうか実際ヨハネ祭の日にホッペ ブルクの崖の上に火を灯すという習慣が 存在しており子供たちはそこへ火をつけに 向かいその途中の湿地体の沼にはまって 抜け出せなくなり全員が死亡したのだと いう説はある程度の指示を集めているな そしてその集団から抜け出した子供がその 参上を大人に説明した早いもの言葉が拙く うまく説明することはできなかったその 結果多くの想像を含んだ話が構成まで 語り継がれ現在のようなものになっている のだとこの説では推測されているありそう な話ではあるけど130人が全員沼に はまって抜け出せなくなるなんてことある のかなそこら辺は現実的じゃない気もする わねあと笛吹き男が出てきてないのも気に なるポイントだけど笛吹き男がこの説では 登場していない点についてだが先ほども 言ったようにこの当時の遍歴芸人は被差別 民であり何かその町で不幸な出来事がある とその責任を添加させられる立場だったん だなのでハーメルンの住人の不注意によっ て生じたこの事件はは笛吹き男という 人さらいに原因をなすりつけた結果今の ような形になったらしいぜこの説には一定 の説得力があるもののやはりそれをこの 伝説の真相だと言い切るには難しい感じが してしまうな以上が今回詳しく話す予定 だった説だが他にも疫病や自然災害による 大量しそもそも全て作り話だったなど色々 な説が存在している詳しく知りたいと思っ た人は是非調べてみてくれ以上が ハーメルンの笛吹き男についての話だった ぜ本当は色々な文献を参考にこの動画を 作る予定だったんだがちょっと閲覧できる 範囲で言ようなものがなかったため内容の 薄いものになってしまったぜやっぱりどれ も決定的な根拠がなく伝説の行をや張り出 ないっていう内容だったわね日本語の文献 で新しいものが少なくもしかしたら海外で はさらに研究が進んでいて新しい有力な説 が出てきたってこともあるかもしれないの で今後も注目していきたいなさて今回は ここら辺で終わらせとこう面白いと思っ たら高評価チャンネル登録をねします感想 やリクエストがあったらコメント欄に 書き込んで欲しいんだぜそれではご視聴 ありがとうございました
動画の最後でも言ってはいるんですが、今回の動画は閲覧できる範囲で有用な文献が少なかったため内容薄めです
リクエストしてくださった方に申し訳ないです🙇
参考文献
阿部謹也(1988)『ハーメルンの笛吹き男』平凡社
その他Wikipedia等
2 Comments
うぽつです
リクエストに応えて頂きありがとうございました。
参考文献の内容を分かりやすくまとめて頂けただけでも有難いです、また読み直したくなりました。
これからも面白い動画を拝見するのを楽しみにしております。