講演会【特別展「文字が語る古代のくまもと」連続講演会⑤】講師:赤司善彦氏(大野城心のふるさと館長)

どうも皆さんこんにちはこんにちはえミア 紹介教でございますえ大国のと申します どうぞよろしくお願いいたしますえっと 今日はあのお労の話をするわけで今日あの レジュメを皆さんのとこにお配りをして おりますがえっとまこんなことをアルトで 喋ってみようと思ったわけですてこれに 関してなんか関連するもので熊ののものは ないだろうかてもそういうものを並べた だけでありまして今日話にはほとんど出て まりませんせえでございますでえっと今 あの私紹介をいただきましたようにえま 福岡の打財の後を年掘っておりましてえま その関係でですねあの えまも歴史にずっとさってきたわけでして ま今回この大変素晴らしいってなんかでえ その関連するものがえ並べられていてまた あのみ官が像つている国書土というですね 刻あの亀に大に刻んだ文字を刻んだものが え3点あの え並べていただいておりますんでまその 関係で今日はそんなことも交えてえお話を したいと思っておりますまあのご存知の ようにやり歴史というのは基本あのえ7 時代だと分権記録に残ってるものがあの 歴史でありますたでそれに対して考古学で 遺跡のえ白調査を様だまなま意行がよく わかるんですがなかなかそのえ一般的な ことは分かるんですけど固有名詞的なもの はなかなか分かりづらいところがござい ますそれはやっぱり文献資料じゃないただ ま遺跡から出動するもの中にその湿度文字 って言でしょうか文字を書いたもの あるいは文字を刻んだものなどが湿度し ますとその場所の政策ですとかえいろんな ことが分かるということであります今回は それのにま焦点を当てた段会ですのでえ それに関係あることでお話をさせて いただこうと思っておりますでま最初に ですねまずはま財とはなんやていうの簡単 にお話をさせていただきたいとえ思って おりますま財と言いますとえああいう風に 財布読みと言いますけどもま元々はあの ですと持ちのさ大いなる見持ち見は恩言葉 天皇の見を持つ天皇の言葉を捧げ持ってえ 地方を収める人を打とのま負であるという 財というんですけどもえご存知のように ですねあの打市ですとかあるいは財天番組 は天ありましてこれこれはなかなか論争に もなったぐらいでありまして本来どっちが 正しいのかとどっちが正しいわけでもない わけですてま元々は大と持ちの司さですの で当然大いなる台ではないんですけどもえ いつの間にか点が引き始めたしかし日本の 場合には古い時から大きいも県ありもです ねえ意外と区別なく使われていたのでです ねそんなにこだわってはいないよはなかっ たかとまえ思いますでえっと打大工と言い ますと えま効果の打市を中心としたところにある 役所のことなんですけどもまちょっと 日本史的に言いますとえ奈良時代にはです ねえ中央があって地方は国がそれぞれあり ますねで国と軍と利とま熊本で言いますと 被5国があってその下に真軍ですとか軍 ですとか琢磨軍ですとかがあってでさらに その下にまたえ55だとかえ色々三宅号と かま豪だとかリガあるという風なそういう 行政風になってるんですがま九州の場合 だけはそのえ国と中央の間にダザイという ですねえちょっと特殊な広域の行政体とな ものが入ってくるとえいうのがまあるわけ でありますちょっと余計なものがあるわけ ですね九州だけは え地方の国でもない中央でもないそのは ちょうど間でありますえまかてここには あの鎮西賃貸が置かれたというまそういう その九州を統括した区間がなったわけです からまそういうものが古代も財ということ でくあったわけですけどもじゃどうして そんなものがですねえ置かれたかと言い ますとやっぱりそれはあのえま知性学的に と言いましょうか九州の北部特に北部の方 はえ島に津島行き含めてですね朝鮮半島に 大変近いですねそうなりますとえ海路海の 道というのはそのその島台に通ってまいり ますのでどうしてもそのえ外国の施設が やってくるとにはやっぱり港はそのえ今の 博多の辺りになってしまうということに なりましてまそこが外交の窓口になるとえ そういう方々を接待する必要があるとえ いうことでおそらくはま座の全身が置かれ たんだろうと思うんですけどもま平和の時 には外交でいいんですけどもえいざ友人に なりますそこにはやっぱりえ攻めてくる人 が来るとなるとそれを守るためにええどし ても軍事的な役割もいるとでその外交と 軍事をやるとお金がかかるとそうなります とその財源はどうするんだとなりますと やはり税をえで集めなくていかないでそれ でその本来は国からええ中央にですね2に 送る分をえ九州だけは九州で財部が使って しまうえお金がいるんだとお金と言い ましょうかえ財源がいるんだということで 多分そういう打いうのが内政までですね えま役割としてにったのまそういうま簡単 にとそういうことではないかなとえ思って おりますさてえっとまこれはちょっと今 ダテ マグダフというと見ダフ天満宮とえいう ことなんですけどもあのまこれがダフ 天満宮のさ本殿でございますでここはあの 菅原の道さんをってらっしゃいましてえ この地下にはですねえ菅原さのお墓があり ますですからお墓が神社になってますえま 中をその話もあるんですがそれは言っては いけないとなので あ言えないけどなんか石間のようなも言っ てはいけないと言われてるですがえっと そんなものでございますで今あのこのこれ 国交になってあの修理をしてますのでこれ 最近えっと最近数ヶ月前に撮った写真です けども仮デができてですねえこういう草草 やりのようなちょっと喋れたえ コンテンポラリーますか現代的ななんか 感じでえっと武事さんがえ東大の美学美術 の出なので現代美術の造形が深いのですね そういうこともあってこういうあの仮伝が 今えできているところでまありますえっと まダフの置かれた場所と言いますのがこの え遠くに見えますのが博多湾ありますけど もえその博多湾福岡市がありますでこの 福岡市の南に実はす隣接して大女子がある わけですけどもまそこにあのえサランの 南側にダザイフがあってこの右下の方に フテ番組がさで後ろの方見にくいかもしれ ませんけどもダダフテ番組がちょっとダテ マのさらに右下の方にえっと九州国別博物 館のちょっと屋根が映ってるようなっま そんな一関係でございますけどもえダダイ 成長というのですねありましてえその周り にいろんな様々なまお寺があったりという ことでえ一種のえまなんですかね外でも ありそれからそのえ文化的な施設に なくなった場所ということでもありんます えそれからそのま北側の配布には大野城と いうですねまえ熊本の菊地城にですね 古代山城があるとそれからま水というです ねえ長さ1.3kmですけどもま万にの 頂上ほどではありませんけどもえ高さがえ 10mから12m我が80mなんですけど もそういうえ道をですですねえ道まドルを 作ってこう全部腐れてしまってるでここは あのまあの今でもえ国道3号線ですとかえ 九州循環自動車道それから剣道JR施設え 全ての交通路がこの1.3kmのところを 通過していましたそこをまかつて古代も やっぱりそこが重要な場所であるという ことで塞いだのがその水月でありますその 背後にこの打フのま都市が広がっていたと いうそういう関係になりますで現在では ですねこういう風にあのえ全てが指跡地に なってましてほとんど特別指跡が多いん ですけどえ打市の場合は市域のえっと多分 2割ぐらいが市地え固定資定が入らないと 投げてらしえまあ大変ですまで特別的の 大野女子は大野城後はえその打だけでは なくて海町というとえ大野上司の名前の 由来になっておりましてえ大野上司も1度 あるというようなことでえま今はこうやっ てですね特別席として保護をされていると いうことでございますでこのえ今日のまず 最初の話はそのえま白調査で何が分かった かということなんですけどもえ初めのとこ に書いてますようにま一対どんな風に取っ たのか簡単にですねまお話をしたいと思う んですけどもまちょっと写真が拡大したの でぼけてますけどえ昭和40年代ぐらいの これが座長だと後と今なってる歴史公園に なってるんですけどもかつてはこのえま 田房この頃はもう買い上げが始まってます がえ何もない本当に何もないとこに真ん中 には道があるとかえその横にはあのまあの ちょっと家も実はあったりするんですがま こういう場所ここで発掘調査が始まった わけでありますで えじゃ一体何から掘るのかということなん ですがまこの時にもですね既にちょっと見 にくいんですが えっと実はこの辺りこれは打政長の星電と いうんですね1番大きなえ建物があった 書籍がえ顔をこの時も出してますそれから えっとこの部分にもですね えっと南門南門ま玄関になるような南門の 書籍もあるということでそういうのがいく つか書籍は見えていたわけですからまそれ を手がかりに発掘をするということが 始まるんですけどもまどうやって掘るかと いうことんですけどもえっと実はえ古代の 建物の多くはですねえ基本的にはえ左右 対象でえまありますこれ はデザインとしてていうのはもちろん我々 の体の左右対象ですよねあの目は左右上下 じゃなくて左右ですま全てが大体左右対象 ということにまえなってなんですけどま 基本的にはやっぱり構造的にはま シンメトリーと言いますけども安定すると えそういう建物がまあのえ例えばどこでも 大体ギリシャのパルテノンシテも何もそう ですけど中国の古代の建物も全部基本的に は左右対象にするというのが基本であり ますですから例えば古代のお寺もですねえ 例えばこういうまガラン配置なと言いです けども建物の配置を見ますとえ左右対象 じゃないようですけど実はこういう真ん中 の線を中軸線というんですね真ん中の線を 考えるとこれを元に考えると左右対象に なるということになるわけもちろん等と 近藤という違う建物がありますがそこに 建物を配置するというのは考え方としては 左右対象なわけでありますですからえ古代 のこの寺院ですとかあるいはえ打聖書のえ 立派な建物の場合にはですねこの中軸線を まず求めるということが大事になってくる わけであります中軸線さえはっきり分かれ ばですね え色々想像ができるわけですから先ほど 申しましたえ打成長のですねええ星電の 見えてる書籍を調査してその真ん中の点と それからえ南側の南門南門のえ書籍が見え てるものから大体ここが真ん中だっていう ところでですねえ中軸線をまずえ求める わけですねまそうしますとこれは最終的に 掘ったあの最後の姿でありますけども要は ですね全部掘らなくていいわけですえ部分 的に例えばこちらはここを掘るとこの中線 上でえ折り返すとこちらも多分こうなっ てるだということが分かりますのでえそれ を計算しながらですね勘案しながら発調査 を進めていくということで基本的にはま ですか部分的にしか掘っていないという ことで今の姿がまこんな感じで今整備をさ れてえいますけどもえ調査に基づいてです ねえ先ほど原野で何もなかったところに今 はこういうえ建物の後を平面的に念したま 歴史行為がえできてるということであり ます えでま白調査をしますとですね実はこれ 簡単に模式的に書いてんですけども大きく 3つの層があに分かれてるということがえ 分かったわけでありましてその3つの層に それぞれにですねどんも建物が立ってた 時期があるというので大きく成長の1期2 期3期とま大きくはそういう呼び方をして おりましてさらにはそのサルはするんです けどもま一応基本的には大きく123え しかもここで大事なのがこのえ発生720 年頃これちょっと頭に入れといていただき たいんですけどもまこの打成長の2期と いうですねえ立派なその建物がになったの がこのプロです7時代の初めでありますで 実はそれ以前にもですねえ7世紀の後半 段階でもえ何か建物が色々あるということ は分かってるわけですけどもなかなかあの さっき申しましたように部分的にしか取っ てないもですからもう想像の息けないわけ でであれやこれやといろんないろんな人が ま私も含めていろんな想像をたましくする とえで多分こういう施設があったんじゃ ないだろうかという夢をま今見てるところ でありますで先ほどの第第2期成長第2期 っていうのがまこういうあのえま皆さんに とってはえ神社ですとか仏学と一緒だねと 思われるかもしれないませんけどもま要は 古代の建物様式が今日に残ってるのがま 神社不学には残ってるということなので 同じような感じになると思いますけどもえ 打聖地の第2期というのがですねえ難問が あってそれから注文があって中がえ石敷の 広場になってましてえ左右に脇でという ですねま長い縦が立っててそしてこの北側 にですね生年というですねこういう字書き ますけどもあの元々こういう文献があって こういう風に呼ばれてたということでは なくてこれは我々がつけた名前であります けどもえこういう配置になってその周りを 水兵で囲まれてるというまこう いうえま左右大正のですね中字線を真ん中 にした左右大将の建物があるわけですけど もこれが実はまあのえ平常教のなんか日 ちょっとあれですけどもすいません第1次 が感じがになってませんけどま平常教平常 9ですね宮のえ奈良の宮の平常級のえ第1 次の大極殿と大変よく似ておりましてま 長道引用式なと言いますけどこれをまあの 無法したといいますモデルにしてでえ長道 院のところをこのえ脇田があるとそれから え大国電があるところをこの星電とその 光電があるところをですねこうやってこの これをモデルにま小さくしたんでい おそらくあのえ平常級を設計した人と打 船長を設計した人はおそらく同じじゃない かというもありますのでま多分そこでのえ 設計上の共通点多くあるということとま もう1つがやっぱりこの財府の造影という 時にですねまあの文献記録でもですね平常 教は710年に戦闘したわけですけどもえ その以前にですねこういったこのえ音ま これはあの平常教を建設するためのま様々 な法令の中1つにえま一般的に安穏条例 言われてますけどもえ労働力を出してそれ でえみんなで作るとで同じ頃に実はこの 地士の駅と言いましょうかえダザイ館内で も同じようなやっぱりえことが行われて ましてえ年間1919日のえ労力をですね え貸してるということこれはおそらく打を 検討するということでま平常教と同じ時に 出されてますんでえらくこれがま718年 まで続いてますで えおそらくいろんな人を大動員して財の 関連施設含めてですねえ建設ま増援をした んだろうかとえいうことがま言われており ますでえまもう1つですねこれ実はダフの お役所だけではなくてですねもう1つ平常 教あるいは平常級を真似したのがですね この都都市のあり方でありますこれは平常 教のま情報性でありますまあのなは なかなか難しい京都に行からとよくお 分かりになると思うんですが5番の目に なってますよねでえ南北は城と呼びますし 左右は某と読んでま区別をするこういうえ 都市計画があるわけでありますええでこの 平常教もやっぱりまあ一番北側に平常急 宮殿があるで真ん中にこうえ王子が大きな 民があってえでラジオ門があってとでえ 左右に作今があるたで5番の目ができてる わけですねでえっとこれはま鳴らし役所に ある模ですけどまこんな感じでそのえ おそらくさらにその細かく別れていって ですね宅地がえ置かれえいろんな人が住ん でいたとまえ平常今日自体にどのくらいの 方が住んでるのかと分私は知りませんけど 10万人ですた10万人大体10万人 ぐらいの人がここにいたと言われてるわけ ですけどもまそれとえ同じようにですね実 はえ打ダフでもこういう情報というものが 敷かれていたということがまえ記録にも出 てはくるんですけどもまこれ市の教育議員 会の皆白調査をした結果ですねえいろんな ところでその二っていうのは道路の速攻に なるわけですですから速攻のようなものが あったり交差点だねていうのも出て出てき たもですからそれをま測量計算をするとど もやっぱりここにも5番の目があって えま今のいろんな説が出たんですけども今 はその1つのメモメモリ方眼が1辺が 90mというですね えまこれは平常鏡の場合の1番小さな タイミングもと同じなんですけども大体 90m方眼で南北東台大体2kmぐらいの ですねこういう5番の目のようなえ都市 計画が施行されていたとえでその1番北側 に打成長がっえっとまどどんなことかと要 はですねずっと入れ子になってるわけです ね党のえま今シア長安城党の都ですね党の 長安の都の長安城というですねえ域を えっと都市のをモテルに平常教ができたと 言われてるんですけどもまその時には大体 面積は1/4になったとましかもこう ちょっとえ少し角度も変わるんですけども まこれがモデルになさらにこの平常系を モデルにしたのがダフでありましてえ面積 は1/4になってで考え方としては やっぱりこうえ一緒ですね1番北側にその え一番重要な建物を置いてえそこを真ん中 からドンとスザ王子というガドをまガとも ほとんど広がていた方がいいと思うんです けどもえ大きな幅の大きなま道をを作って それでえ左右対象の全てね新メトリにして え教育を京都教というまえ科学の場合は 宮子じゃありませんで京都を呼びません けども一応こういう上房性ななるものを 引いていたということは一緒であるとえま 中国との違いはこの外側にもラジオという ですね非常に大きな城壁を巡らしますけど もまあの日本の場合にはなかなかそれは見 ない財までまのところそのえこの都市域を 巡らす四角以上あのラジオがまだつって いるというのが特色でございますそれから もう1つの特色がこのダザイ5の周辺には その地条のような古代三条いったものが え東西え東西南北とそれからま東側にあり ましてさっき言いました水月というものが ですねこういうものによって守られてるま いわばま軍事都市と言いましょうか常態 都市というよなえ構にもなっているという ことでありますまどうしてここがこうやっ てその選ばれたのかっていうのはこれ なかなか分からないわけでありましてま我 私たちはこの今こういう風に配置されてる のが分かってるのでおそらくこうだったん だろうということは言えるんですけども なぜここにこういうものができたのか本当 に同時にできたのかそれすらよく実はよく 分かってないま私は同時にできたんでは ないかなとは思っておりますけどもえ なかなか文献記力ですこのところ非にこ よく分かりづらいところがありまして一応 その奈良時代にはこういう配置になってい たとその始まりのところがよく分からない ですけどまえでありますでこのこういう風 な常態都市であるということはですねこれ はあの教科書を出しましたけども小学校6 年生の社会の教科書全ての教科書に大体 これと似たようなが え掲載されてますですからえもうすぐする と日本人のほとんどがこのえ大野城水希 それからダザイそれからま博多との博多と の関係をですねえ知るわけでして必ずえ そこで出てくるのが東や白木の攻撃に備え 前式3のマ屋水希を作ったんだとで水って いうのはこういうものですよっていうのを ですねまえ大体どの教科書も見たような 論調でえ掲載をされているということで あります えというとこで えっと2番目にきたい とこあのすいませんえっとレジ色々用意し てまして多分いや必ずですけどあの3時に 終わらないと思い ますを入れるなりしてあのおりになる方は けばと思いますあの断言絶対らえっとで次 がですねまこの打船長の話をいたしました こういう派な建物があ立ってるということ でありますけどもじゃその周りにはどうな のかということこの周りですねま現在 先ほどあの田んぼだらけの写真を見て いただきましたけどもう今はもう区画整理 が終わってですねえこの剣道が現在の剣道 があるんですけどこれからこちら側が特別 責でこちらは外れてますこんなに違うんね え住宅はこちらはもう新規の場合には基本 的にはなかなか難しいようにですねえ どんどんどんどんその代わり買い上げをえ していくということでまあの公園に どんどんなっていくんですけども南側はえ えまあの住宅地になってしまったでこの 住宅を作る時にですね区画整理をする時に ま私もかなりこの辺り白調査をしましてえ まいわゆる画材成長を中枢としたその周り にこういったそのえ役所分がですねえ並ん でるとま今の役所はえあの熊本市役所にし 県庁にしろ高さがあります昔が高さあり ませんのでそのそれぞれの部門がま周りに バラバラにですですねえそれぞれ独立して えま位置していたということであります じゃあどんな役所があったのかということ がまえ当然我々も関心が高いわけであり ますでえっとまそれがこの図なんですけど もあその前にえっとこれがあのその先ほど のところこのダダ成長とそれからその史跡 史がこちら側でこっち側がその区画整理が 行われたと言ましたけどもま区画整理を 行った時にえ発掘調査をしましてえ私は 大体この辺りとこの辺りを発掘したんです けどもえ大体のことが分かってましたえで まこういった溝でですね不覚をされた中に 建物があるとえこういう東西がなかなか 分かりないんですけどもまやっぱり南北は あのこちらが山ですのであの雨の水の処理 などでやっぱり南北の溝はきちんとするも ですからそういう溝だけは調されのでえ溝 があって区画をされているということはり でそこに建物がたくさんその配されてると いうが分かったですでこうやってその それぞれに区画された何か場所はあるん ですけどじゃそれ一体どんな役所があった んだろうとえいうことになるわけでしてま ダダにどんな役が買ったのかとなかなか 分かるようで分からないことになりまして まおそらく二重近いこれは平安時代の場合 にはこんなこういういろんなま学校員と 書いてありますけどもえからま色々匠の深 さいろんな役所がまあ多分あったのでこう いうものもが打布がまあの奈良時代の打布 にもですねおそらくこういうものがあった んじゃないだろうかえだけどもよくわから ないというのがまそのこのこれそれがこの 区画が色々え例えばこに月山区があります けどもこれは1回何なんだろう何の役なん だろうっていうことが分からないとえこう やって塊りはあるんですけどもそれが 分からないま最近この暗つさというところ をりますたえやっぱり暗が出てきたわけ ですねやっぱりえアメ通りくつさにくつさ ま税を司るようなえそれに関連する建物が あったということは分かるんますけども えとそれからま御河位味方単位展示があり ますけどもまこういうものもえ実はこの 辺りから出動してるで多分この辺りに え軍団がですね軍団が常駐していた可能性 もあるんですけどまそれはまだ移行とし あの遺跡としてはよく分かっていないで このの成長の全面域にはこういった区画が あるってことだけ分かってるとでそれが どれが何当てるのかっていうことでですね まあの昨日お話をされたえ松川さんも いろんな説をあのこうだったんじゃないか という案を出されているわけですなかなか その正解がないみんなそれぞれいいことが 色々違私もちょっと色々言ってるんです けどもなかなかどれが正解かなんて分かり しないですまでもそうやっていろんな ローンを出すことがです大事だろうと思っ てるわけですがそこでえっとま湿度国書時 なるものがあるわけでしてえ匠の使さて いうのが先ほどありましたしま平安時代の この記録では満所って何ですおそらく満所 というそういう役所もあったんだろうと 分かりはするんですがじゃあこれが湿度し たところがその匠の近さでいいのかとえ 言うとまいろんな工房を抱えてるところが 匠の使さだろうと思うんですけどもあ ちなみにこれ私が掘をしたものんですけど も えでもそこはやっぱりちょっと違う場所な んですね匠のの近さと思われてるところは ちょっと違うところにありましてそれは そこから生産まえ金属機生産ですね道具が 出動するだとかいろんなことから多分そこ が匠の司さだろうという場所はあるんです けどもそことは違うところからこの匠の使 さの牧で受けてま満所もそうですけど満所 もいろんな説がありまして松川さんもここ だもという説をだますけどもえそこからは 出場していないというのがちょっと 悩ましいところなりますやっぱりこの え致すればいいんですけどもそこで使われ てるものがそこで埋まるとは限らない やっぱり運んでいかれるということがあり ますので物は動きますなのでそう簡単には 言えないというところがあるで私が ちょっと今日お話をしたいの はえその中でそのまお役所のといえばお 役所なんです けどダフのその長官のお役所ですね役所 あのえがいた場所はどこなんどこにあった んだろうということありますえで先ほど 覚えておいてほしいと言ってましたのが おそらく720年頃に在学請求をできたと いう話をしましたで白調査でもその同じ ような結果が出てますのでえ出時期から見 てですねま大体720年頃にジザ成長が 上映をされたんだろうとどの程度増された か分かりませんおそらく形としては整った のがその頃であろうと言われてるわけです けどもそこでそのただの長官で有名なの この大友の旅と言ってあります皆さん大変 ご存知だろうと思います大友の旅のその 屋敷まま確長官のまこの場合には皇帝に なりますよねえ知事皇帝と一緒でなんです けども特にえ旅とがあのま参りましたのが ま大体え72828年レジュメにも書いて ますが大人タからすると728年ですので ちょうど打政長が完成したちょっと後に 奈から任用してきてるわけですねという ことは要するに打成長とその周辺を整備を え建設をした時の計画に当然どっかに入っ てるはずですね最初からの計画にえ知事の 校舎は当然ここだというの一緒でえ打府の 長官のえ皇帝はここだということは当然 最初から決めていたはずありますえなので それは一体どこなのだろうかということな んですけど皆さんご存知のようにこのの園 の序文のですねえあの歌万陽州から取られ ました花の円の序文がこのえ令和になった ということですねもうもう皆さんもお忘れ になったでしょうかねもう6年経ちますの でえ令和の発表になった時は大ヒバであり ましてこの右側のえ坂本八幡宮というです ねこの横に私どもの白長の事務所があって ここにお前にク見たことがなかったですよ せで我々はそのなんか花見をする時に使っ て誰も来たことがないの下見てください これですよこんなことが起こったわあの 神主さんなんかいませんあの村の人がやっ もう大変なことになりえまそういうことが 起こったわけでその時にですねまちょっと 面白かったのが必ずテレビがですね大友の 旅との館とされる坂立なたこのされると いうのがいいですね誰の責任で もこれはあのよく言です都市伝説ですよく 都市伝説ってありますよねあの都市伝説の 特徴は誰も困らない文句人がいないだから 都市伝説で勝手なこと言ったってあそうな ので広がっていくね文句がある人が言っ たらそれは違うって言えるんですけどない もんですからだから旅との館っていうのも なんとなくそんな感じでとれるというまえ いつ頃こういう伝説ができたのかもよくま だだんだん分かってきたわけですけどもま テレビではえ大友の旅の館とされる坂本軍 の前からお送りしますと誰も違うと言え ないわけですてでこういう大ビバになって 今でもあの打成長よりはその横にあるこの 坂本八幡宮をにまどこですかと言ってくる 人が多いとまそんな状況があるわけま位置 関係から言うとこうなりますえ打成長が あってこの後ろに坂本八幡ここにあるん ですねここに我々の昔からの発掘事務所が まこういう関係にあるわけですけどもだだ 成長に行くになってこっちに来たえでどう してこんなことが起こったのかということ なんですけどもまそこにえ2番目の レジュメに書いておりますけどもえ実はま この写真を見ていただきますとえ分かるん ですけども実あのまあの大友の旅との館後 で手がかり一切ないわけですけど唯一が このえバカの円というですねえ宴会があっ たわけこの宴会がまたすごくてすごいて ですがえま当時もちろん歌を読むという 風習はあるわけですしえお役人ですからお 酒も飲んでやっぱりあるわけですねえま 当時のお酒はどんなものかだとで言って なそうと思うんですけどもえそれを一緒に しちゃったというですねえ前代日本の投資 としてはえ飲むことと歌を読むこと一緒に たそれはえこの序文にも書いてあるんです が前あのバイカの絵の序文に書いてあるん ですけどもえ中国のえ先ほどあのえ神社の 初期の画面であのえ極性の辺のあの認識を 持ってきましたけどもえま中国ではそう いう曲水の縁でで歌を読んで え逆かなんか流れてくらいで歌を読むんだ ということがあってるとそれを是非我々も やろうではないかとえいうことでやった ダフでやったわけですねでこれが多分宮子 だったらそんなことは許されない何を馬鹿 なことをやっですでダフだからこそそう いうことができるところがありまして財布 は遠く宮から離れた大変辺境の場所なん ですけども同時に大陸の様々な文化が入っ てくるえ精神器まそういうえま私はよく あのえ精神的なのと辺境性の重なったのが このドライブだという話をするんですけど もまさにそういうものを体現したのがこの バイカの年でえでなんでバトのがこの残っ たかというとえ万葉州の演者は大友のやも という方でありましてこの旅の子供ですね えちょうどこの打不妊した時に彼は8歳 ぐらいでありましてえ多分そういう姿を お父さんのバイトの目撃したんだろうと 思うんですねでなかなかこの頃は難しい 時代でありまして例のあの藤原4兄弟です ねええボを振ってる頃でありまして長尾が 暗殺されたりとか自殺に恵まれたりだとか いう直後にそのえまクーデターがあった わけですけどもその時に旅ともやっぱり このダフにある意味遠ざけられてるまそう いう側面もあるわけですそういうこ非常に 微妙なこの時代の流れの変わった中でこう いうえバカの変が行わてえいうことであり ますま大変やとしてもやっぱり忘れれられ ないような光景だったんじゃないかなまだ からこそ万葉州の選者としてですねこの バイクのをたくさんこのえ取り入れたん じゃないかなと思うわけま父の思い出と よりは藤原に対する復讐じゃないかという ところもまあるわけですがあのえまそれは さてよえでその手がかりというのがえそこ 書いてますけど えっと歌にですねえ読んだ歌の中に 手掛かりてて我が丘にとか我が丘のとか いう丘という言葉が出てくるんですねで これに注目されたのがまえ竹岡谷さん長沼 県会さん橋武夫さんてま大変早々たるえ 戦後の学者さんがま座店番組に一時期見せ ていたこともあってですねまその打天満宮 が初めてその打なるものの歴史をちゃんと した本にしようという え計画があってそこでこの3人の方が書か れてるわけですでこの竹岡勝也さんがま 担当されてこの古代の打府について書く中 でえ打府の措置の館はどこかということで え出されたのがこのま丘のそばであると いうことでま丘のそばでどこが丘のそばか というので3つほど黒塚さの丘えですねえ この打田成長の西側にありますけど黒塚さ の丘とそれからえ月山給料月山の月山月山 といったま丘があるわけですねでもう1つ がこの後ろにこの1つ代理の丘と呼ばれて いたまこの辺りは代理というあのあめが あるわけですけどもこの代理の丘という ちょっとこう写真じゃ見づらいんですけど も丘がありまして田んぼにちょっとなって ますけどもまそこに坂本八があるわけです がこの代理の丘のところに書籍が1つええ ありますこれ がこれはあこの丘の写真航空写真がこれ ですけどもま鏡たさんというですねえ先生 もお書きになってるんですけどもそこに こういう書籍があってこう穴が開いてる 書籍があるとでこれは大変こうきっと打 長官のまやよなものであろうということを まえ高古学の鏡山先生もま話をされて ぐらいなんですけどその以前にこの竹岡 カチさんという方がこの戸籍に注目をして えこれがあるからえこここそが長官の館後 であろうということをおかきになったわけ ですでその話がですね少しずつ変わって いって何し何もないところですからえどこ だと言ってわからないそれでえ観光 ガイドブックだとかいろんなその万葉神の 本に坂本八幡宮の写真が乗るようになって きたわけですだんだん皆さんもお分かりに なるますでこの近くにがそのうちに だんだん取れていってえここはこの坂本 八幡宮が最後はついに旅の館で後だった らしいみたいなね少しず変わっていくわけ ですよでえま最近だとそれがあのえ大友の 民との館と言われている坂本橋に名前が 変わって誰も傷つかないそのまま流れて いくでえ私はそれがちょっと違うんじゃは ないのなぜかと言いますと白調査をしまし たえこれ私が担当しましてえ打成長の頃 西北の第一にですねえこの辺りにこ書籍が あったんですけども書籍をま調査しまし たら全部あの強度の上に乗ってたんという ことは後から誰かが持ち込んできたものな んで元々そこにあったもではないという ことでこれは違うんですねということと もう1つは白調査の結果いろんなこの建物 の跡溝の跡が色々出てきたんですけども とてもその えま住まのようなものではなくてですね やっぱりえお役所的な配置をしてますので ここはやっぱり違うだろうとえいうことで ありますさあそこで私が考えたのがこのえ 月山という感というところがそうじゃない かというしか根拠を示さなきゃいけません のでま基本的にはこの3つが根拠になって ます1つがま平常教もそうですけどもえ都 でも貴族の人たちにると途中を与えるわけ ですよね え与えるもんですからそそれが参考になる だろうえとそれからもう1つは地方に行っ た時の国府の長官もやっぱり感謝がある わけですがそれも参考にしたらどうだろう かとえいうことことと実際にその月山東の 遺跡の場合がどうかということでま参考に しようとこれがそのえダダ政長の横のこ 月山東神と不思議なえま不思議なまあの核 を構成して核をですねえ水米ので囲まれて いるえ不思議な場所があるわけこれがそう じゃないかということなんですがままず 最初にその宅地の大きさであります先ほど 平常鏡の模型を見ていただきましたけども えその宅地がですねええ大き大族にま3人 以上なりますとえほ4兆4兆ま1辺がえ 一丁が110mぐらいいいでしょうかだ からものすごく広いですねえ大体この1辺 が400m以上あるわけですでえその次の クになりますと え4位ぐらになと2丁に半分になるさらに 5位になりますと1兆ということでくに 応じてその与えられる土地の広さが完全 決まってるわけですねでこれ半分ずつ どんどんどんどん少なくなっていくわけで ありますでそれからするとまえ3位その打 の長官っていうのはま200では4兆のえ がま与えられてもおかしくないただしえ 平常教の場合にはそこが本VANになり ますのでそこがもう本実際の家ですね えどこか違うところに行った時にあの用意 されてるのはやっぱりちょっと違うわけ ですまそれが例えばえ平常教の副とと言わ れているようなところえ何の宮ですかそう いう場所で見ますとえ広さが大体え2丁 3兆ぐら少し当然狭くなるわけですねま それがやっぱり1つ参考になるだろうとえ いうことが1つえ大体そのぐらいの広さが がを多分大学の長官は与えられていたで あろうということでありますでもう1つが その場所でありますえっとちょっと分かり にくいかもしれませんけどもま平常教の ですね中でえ暗い高い人これ赤い紫が1番 高いわけですけどもえ昨日だいぶ紫の話が あった松川さん紫のネタでてと今日はして ないねはいえっとま赤いのが4位5位ま いわゆる貴族という人たちが赤から紫 ぐらいで1番高い人は紫なんですけども その分布を調べた人がいらっしゃいまして まその分布図ですけどもま平常教のですね え近くにやっぱり大貴族にないるわけです ねクが下がってくるとこのちょっとよく 分からないような人たが大体1番遠い ところにる当然出あの出社しなきゃいけ ませんのでやっぱり近いところが1番いい わけですよねえで常に近いところにでえ 例えば藤原の不仁というですねえ方はこ この平常級のすぐ隣にいるわけですよねえ こういう場所にいるとそれから あの長屋もこのこのすぐこのつばにで大体 これを見ますと平常級のえから南を向いて 左側の方に えま 作古代は左が偉いわけですて謝大臣の大臣 が偉いわけですけども左側作側にの近い ところに大体そういうのえ本たを構える 傾向があるということがえ分かるわけです ねえということからするとま私の根拠の1 つはそのえ座政教のえすに東南の方南に 向かうとちょっと左側の方にあっていいん ではない計画の段階でそうそういうことを やっぱり考えるんじゃないだろうか平常教 を見てるわけですからえね知ってる人が 言った時にえ俺がこんなところに土台の こんなところにでも家があろうそれは違う んだないのとやっぱ偉い人がこの辺り だろういうことになるんじゃないのかなと いうことを思ってるわけでありますそれ からまあの広さについてもですねあの国府 の長官も大体2兆ぐらいの規模の国士の館 は大体そのくらいのえ一辺がえ100数 10mから200mぐらいですねえの広さ の敷地を持っていることが多いので打の 長官もそのくらいのことは考えというわけ でありますでえっとまそこで考えたのが ですねえ私はこの月山さっき東という名前 月山東あるいは月山千カガと呼んでおり ますけどもこのダダ成長のすぐ東側にある 一角がありますでえっとですねちょっと 拡大をしますこういうこういう場所になる わけですでま発掘調査をも私があの担当し ましたけどもえまだ発掘全部はやってない んですけども不思議なことにですねこの丘 があるわけですね月山給料という丘がえ これ座学政と区切られ区切ってるんです けどもここにですね取りつくようなこの 不思議なこの兵のぐらせ方をしてるどうし てこの左側に寄せてですねこうきちんと 四角に作らないのわざわざこの給料に 取りつくようにですね給料をまるで庭に するかのようなえ建物の排出になってで しかもそのまあの大族の場合にはここう いうこれはあの王子大きな道に面して門を 開くということがあるわけですてここも実 はここにども門らしくものがあるとえいう ことそれからえっとま薬球の場合には最後 対象を色配置することが多いんですけど これ大変こうバラバラになってる大変小 規模であるそれからえ出動した時が8世紀 前半まちょうど旅との頃でもおかしくない というえようなことでま私はここを1つの え旅とのや跡だという風にえまえ決めてる わけですこれまちょっとえ発掘をした時の 写真ですけどまこういう建物がありまして ここにこう柵が見えてますこれがこう ずっとえ面白いですねこれよく見て くださいこれ発掘した時のですねこの柱穴 がるんですけどもこれはかつて昔発掘した 後に公園整備をしてこうこが柵であると こう棒を立ててらっしゃるですねこちら私 が発掘した合ってないんですよ ねこれく現代であの工事をしても誤差が 出るというま1つの日本であまり見せる もんじゃないんですけどあのちょっとずれ てるということでありますけどまこれが 連続してこうやってこの回っているとそう いう場所があるということそれからもう1 つがですねこの横にですね実はあの石敷と 石組のえ溝がま発見されたんそばにすぐ横 なんですねでえまこれは私があの不妊する 前にも発掘が終わってたんですけどえこれ は何ですか言とこれはもう排水溝だよて いうそりそうだろうけどなと思いながらで もよくよく色々調べていくと石敷でですね しかも石組の溝なるものはえま平常の場合 でも庭園には用られるいう手法であります がなかなかその石敷で石組ってのなかなか そうあるもんでまダテーションに近いって のはあるんですけどえでまこれは現在でも 見ることができますちょっと面白いですね ここのこの部分がですねえこの次の今あの オヤとってあの展示間があってそこでこの ここをですねあの実際に見ることができる んですけどえなんか違いにききになります 書籍があるんです発掘した時にはないです ねからあのこれは別に後からこに置いた だけ白しからここに書籍があったわけでは ないんですけどまアクセントして今籍を 置いてるたそれますえまこれはあの今でも 見学することが可能でますということでま え私はここが旅との館1番近いところです ね成長に1番近いところえどういう風に 行くかというと多分こちらからこう裏側 から通って入っていくんじゃないかなと 思うんですけどもで先ほどの石敷の溝が 出動したのがこの辺りでまおそらくバカの 縁はこの辺りでやったんじゃはない でしょうかというえお分かりにいたてまし たでしょうかまなんとなく諸説はあります がまあのえ私が考えてたそういうますので 考えくださいえさて次が今日の本題のよう なものでありましてえ展示をされている宿 駅のですねまヘがきの末益につぎてであり ますでま末益という言葉はあの皆さんもご 存知の方多いと思いますけどと書いてます けどま古墳時代からですね振られ始めまし たそのま朝鮮半島からいく技術が来て作ら れたと思うんですけどもま糖質時有が かかってないえま設という風に変にと書い て設という分類でま中国でされてるんで 日本ではなかなかこの言葉定着しないので 糖質時ですとかいます私もあのえ無登記と いう論文を書いて え書いてえこれは自分でいい論文だなと 思ったこともあるんですけどもあの奈良の 国立文化大入と言ってそのですから怒られ ました無との言はない石器と言んだと取ら れましたがまでも石器というこ悲にしては なかなか使わないのでですね無登記という 言葉をま使ったわけでありますえでまそこ にま繋がるようなこう糖質時えUが施され てないカチカチの硬いですね焼き物のこと を末とえ呼んでおりますま灰色はえ白から 黒色までいろんな色がありますけどもその しかもこれは釜で上りがでえ焼いて 仕上げるというのが大きな特色ですえ 野焼きじゃなくてですね釜でやま今のあの 峠の皆さんがやってつ一ですけどもえま こんなこんな感じでええ上り釜があ下から え穴釜ですのでここで炊いて上から煙が 出るまこれがあのえ 私がおります進めております大野上司で たくさん見つかったわけカがですねえ多分 もう森林の木はほとんどなくなってしまっ たんじゃないかなと思うぐらいまですから そういうえ薪がないといけませんのでえ 新林がたくさんあるところにこういうカは 作られるとえいうことになるわけであり ますでえっとこれがまあ日本で大体総数が ですね200機以上要するにその1箇所に 集中してあのあの工場のようにですね当期 を生産した遺跡というのがですねま9番が これは牛水というその大子なんですけども まあとで有名なところで8番の末カという ことですね大阪の泉本になりますけどもま そういうのが大体こう全国に体分島して いると えいうことが分かってまおりますえその うちの1つがま九州でもあの他にも水を 焼いてる場所はこれだけたくさんあります 元でもですねま荒もあります浮きもあり ますえでまこの中で一番大きいのがま やっぱりこの牛でありますで当然ですけど なぜかとの分かりのように打布のそばに あるですてえ本来は打財布に供給するため なんですがその前から実は5分時代から この創業が始まってえ打布がえ姿を表すと 今度は打布用のために作るうなになるので だいぶ小型か小さなもの食器レがたくさん 焼くようになりますてまそれ以前が結構 こういう大をですね焼いていたんですけど もじゃあこのえそ表に書いてますけどその 大は一体何に使ってたのかと何のために こんなものを焼いたのかというのがま今日 のお話になるわけでありますで えっとなりますがまこれはあの7世紀の 前半から中頃にもそうなんですけども大宮 で二間というですね名前が横方向に刻んで であるわけであの亀のですね首のところに 外側でるこれはちょっと今回聞ておりませ んけどそれ以外にですねこうまえ奈良時代 の初めですね納とこのえ天日に並べてあり ますえ築前の国中軍ねちょうどこのえ地市 の国が筑前と筑後に別れてちょっと経った 頃ま690年頃に分かりますのでえ火の国 が肥前と肥後に別れるようですねですから その1番最初の頃は築前の国と言ってねあ 後には筑前の国と言いますけどもえ築前の 国と言ってた時期があるということであは 中軍という言葉がありますま中軍というの は今でも中川市あるいは中川という地名が 残ってま今でも残ってる中というものです ねこの博のことを出す言葉として中という 言葉があるえそこの手とりというところの 大神と書いて大宮と呼ます大宮でええです ねで3人の人が蝶として蝶というのはあの 税としてですねえ所用長という言葉を気に なったことがありんですけどもえま素とし ては稲をいたしますけども要はその陽と いうのは老ですし腸はその地方の産物ま3 木管がその平常教に持っていかれた腸とし て持っていかれた木管がこの並んでいます けどもまそれと同じようにこれを腸として 大金を出すということなりますでそれ以外 にもですねいろんな数点そ文字を刻んだ ものが大体同じような言葉が並んでまして さっきは島前の国でしたから次には前の国 と書いたののもあるとえいうことでそれは 時さなのかあるいはこの人によってやっぱ 俺は前の国がいいねて人いや私は1番 新しい然の国と言っ方がいいという人がま 色々皆さんの中にいらっしゃるようにです ねこだわる人はいっぱいいるわけそかも しれないよくわからないんですけどもえ ただし大宮の君だったり大宮べだ大宮と いう人がどうも関わっていることがえ 分かるのとですねえこれはちょっとなんか 色がつけたのでチカチカしてますけどもま あの えと定立にも書いてありますけどま要は その法令によってですねこの腸というのを 都に送る時あるいは台に送る時にはこう いう風に書きなさいという決まりがある わけですねえこの1番まその中にま イギリスの中あるのは腸として収めるのは 八前の国であるというとそれからま機外 機内より外のところでは末の方は3人で1 つえ機内だと6人で1つだったと思います まそれにこちょっと違うね3人で1つだっ たえいう風に決まっているえでえさらに そのえどこの場所のものかというので国と 軍とりというのですね書くそれから納税者 誰が収めたのかていうことを書くとそれ から物がなのかていうのを書くそれから 数量を書くそれからその年月日を書くと いう風にこと細かく決まってるわけですが 見てくださいもうその通りにこの機であっ たわけですね え国軍祝島前の国え文明それから理の名前 それから納めた人はこの人である3人で 納めた3人で人ですからえそしてそれは長 として大大きなためのこと三科三科とこと になりますけども大御を 一石面白いですね亀の数え方が席なんです ねまあのなんか船みたいですけどもま そそう入れ物のことを席とどもも読んでた ようなのでえ一席あの昔はいろんな数え方 があって面白いですねうさぎだって1話2 話ですからまあの耳が跳ねというあの思っ たんでしょまそういう一石でえ年号を書い てこれがだからすごいことですねさらに 年号が書いてあるんでこの時まこがけは この時がいつ頃作られたのかっていうの きちんと書いてあるわけですえ713年に 作った時であるってこと分かるとえま高校 学では物差し時代の物差しとして時を使う で出動するとそれで大体いつ頃かっていう の大体ですけどもですがこういうのが出て くるとそのヒントになるとえいうことでも 大変まえ今日興味深いところでありますで えそういうものがま出てきたで問題はです ねこのこのま大宮というものもそうです けどまなんで亀なのかとえそれからあま いろんな疑問があります破片が十20点が ありまして結局これはえ都に送られなかっ たわけですねダ送られなかっただからその か釜場に残されてるんですけどもなぜ そんな重数点も1点2点なるわかるんです けど数が多すぎはしませんかというのが 疑問としてえありますえななんまずしかも 打外部でも平常教も出てない出動してない えこのこういうことを書いたものがですね 今のところすしていなとえいうことがあり ますえでま何なのかということでま ちょっと答えとしてはちょっと え古代の税の現物であるし手タンクとま ちょっと答えを書いてしまいましたけども 実はこのあのこれですね大宮というのは 一体何なのかま大宮さんというですね人に 関係があるということは分かるまという 言葉を聞になったと思うんですけどもえ 中央の豪族ですとか天皇家に階にある人 たちにま奉仕をするど言ったらいいんです か ね地方の場合なんて言ったらいいでしょう か こ株式会社でもし薬座の組とも違うし なんかそういうえ家族的な関係を取りんで そこに奉仕をするようなえま最終的には 調定に奉仕するということになるわけです けどもまそれをまとめてたのが大王族の人 たですからえま要は日本をそのなんて言う んですかね中央主権的にこう収めようとし た時にもうすでにだから収められてたわけ ですねえいろんなベができてるわけです 例えばえま大宮部以外でも宝部だとかえ 大友部だとかえ物部だとかいろんな部が ですねあのもうだからえまあのまよく言わ れますのはあの古墳時代ですね福の君の ランドとにも全部え中央の大王族によって 全部ま配下と言いましょうかそういう風に えなってしまったとえいうようなことで ありますでその大宮という人の大宮市のえ ま米というのはまクラブ活動のグプでも ありますけどもそういう集団ですねえ遠く に行てもそういう集団にあの属してるわけ ですけどもえその米えの大宮さんについて たということが分かるわけであります いろんなあの人名が8名書いてあるんです がそのうちの5名が大宮ということなので 大宮市の弁であるでこの大宮市とはなんだ やということにじゃあどんなやつやねんと いうことですけどもま大阪弁で言ったじゃ ないですけどま奈良奈良のご存知のですね え所にいらっしゃる方ますで大宮で自体は あのえっといろんなところにいたようでし てあのえ川の籍の弾丸があの並べてるあ ありますけどあれの別のところにはその 大宮という名前があるということが分かっ てますのでえ糸島の方にもいたとえただし え1番いたのがこのやっぱりこの筑前それ から無前の方にもちょっと大宮いたという ことでありますえでこのま大宮さんという 方はえま宮山というのはご存じだろうと 思うんですけども大の怒りですねあの え青7の2じゃなかったあのみあの え大和ウのあの大和の誇りがこの宮山の ところだとことでえいろんなその山大国と 言われてるような遺跡もその近くにあり ますし初期の古風もたくさんあるという そういう宮山のところでえ国家のお祭りを まつどった人が大宮市ありましたえそこに までも大宮神社があるえでま宮年というあ んですけど大すいません でま牛ではその大宮という人がどうも法人 としてもえその大金を作っていたような いうことまでは分かるわけでやっぱり新体 はこの大金何の高作ったのでこれちょっと えっと時にあの展示今うちでこの展示をし ているちょ壁壁に壁の展示室だというので ケースに収めてて階段のところにあるんで ちょっとうちのスタッフの人にえ比較です なかなか比較にはできないですけどま かなり大きなそれでも大きなカこれはあの 湿度した大の中ではそんなに大きな方じゃ なま中くらいもっと大きなものもあるです ねえっとここで話をするからというので あのえ担当の職員に全部調べてというで あのえ何Lた入りますものと細かに計算え いだいたんですけどま えっと確か116Lから えっとあああ違うこれみさんか一生民間3 0本から66本えまあ200Lから300 Lぐらいのえだ大きさの水が入るという ことなんでま一生日とか言ってますけども 答えも出てるんですけどもえ実はこの大宮 のという人がえこの当然祭祀をやるんです がこの庭山にですねえまえ遺跡も遺跡も あるんですけどもこれ見てくださいこの鳥 の大きいこと もすごいでしょもう臨海高いオトリがあり ますこれはえ10年ほど前に私が え撮った写真であります本当は朝早く起き て朝日が出る瞬間を送ろうと思ったんです けどこの時もやっぱり深 で午前11時ぐらいしかもあ朝は晴れて たて言われたんですけど曇ってまこんな もんですよねあのすいませんあのま曇った 時の宮山の写真でありますがその元にえ 大宮神社大神神社とた大宮神社がまある わけでありますでえここはあのま日本式の 中でもですねこの大宮神社についてはです ね え神天皇の頃に え色々あってまえ太田種子に え竹を作らせて放しなさいとえということ でその高橋駅のみという人に行ってえ 酒作りをしてでそれを納めたらまあ今で いうあの疫病ですねこういうコロナなもの が収まったんだという現象があるという 神社でありますえつまり酒作りであります でこの大宮神社の中にこの 育神社というま小ちゃなはフラですてえが ありますでここはもう全国のですねえ作り 酒屋さんのがあの必ずお周りに来るところ をてありましてこっち側はよく分かりませ んけど近畿の方だとあれの杉玉ってのが ありますよねあの作田さん必ず杉玉を下げ てあの新身の時にはやるんですけどあれは 全部この大宮神社から届けられるそうで あの今度杉玉がある時に行ってください下 に大宮神社て札が下がってますえという ことございますで えっと実はこの大宮神社のあちょっと上の 方が切れてますけど山上遺跡というんです ねえええがありましてまあこれも先ほど あの佐藤館長が紹介された海の神々という 最初の展覧会の時にこれもえ並べたわけで ありますけどもそれでここはうまくいき ます簡単にあのあの許可が得られまして もっとびっくりしたのそこの甘さんが私の ことを知っててあなたの論文を読んでます とそれの方にびっくりしてんですけども あのそういうことがありましたで山の神 遺跡というですねえ金地がありますそれ 以上は入っていけないというまあのえ神社 の裏手になりますがそこを昔発掘したもの が東京国博物館に入っているわけですけど もえ見ていただくとこのミニチュアのもの がありましてえ右側にウとか記念それから まあミノだとかそれからあの飛石ですとか えちっちゃな壺ですねえこういうものが あるわけでして要するに酒作りに使う道具 のまお祭り神様に捧げるためのミニチュア ですねこういうものがえ出動してるという ことであの古墳時代からですねやっぱり ここでこの神社の近くでやっぱりこのえ神 様に捧げるためのお道を作るところがあっ てそれを祭っているというのがこのま 大宮人とのすごいとこでありますでえっと まそういう遺跡がですね実はどこまあの どこにでもあのまあるもんではないんです けども えあ あこれは平常橋のえ幹のつさあの酒のつさ という子がま見つかってるわけでしてえ その中心にあるのこの井戸でありますえ 杉板をくり抜いた井戸が真ん中にあるわけ ですけども石組のまえ排水でもあるとえ いうことでちょっとこれ見にくいんですが このえイラストで作られたものですけども まあの えっとここれが井戸ですねこちらも戸が あのこういう閉じられた色と開放的なでも 両方とも屋根が井にがかかってましてで そこで多分お水を組んでえそしてこの いろんなところでこのえ亀をですねえ置い てまあのお酒を作るだからその亀ガすに今 でいう手タンクだったということになる わけですその四タンクをたくさん作ってい たえいうことでありますでえっとここでも また木管があのこの出てまして2条62 ですからえ条上ってのは南北の場合1条2 条って同じようにそういう呼び方をする わけです要するに何列かにずっときちんと 並べられていたその大がですねでまあの 上々をしていたということが分かるです えっと白さで実はその亀を据えていたあの 後が見つかりましてえカ末付き亀末付き 建物なんかでしたっけなんかそういう寄り 方をえするんでま穴がちょっとくぼんでて ですねそれが1.5mの間で並んでること まで分かってますてえ確か平常級のこのま あの暗が感覚して中のための酒作りをする ところですけどえかなりの数450個の金 のたえただしあの全てがお酒ではなくて巣 お酒が巣になりますよねまも当然調味料と して使えますでそういうものをまえ作って いたということでまありますでそこにお酒 の作り方と書いてますけどえ面白いもんだ なと思ってですね一体どういう風にお酒 ってできるんだろうかなという話をこんな ことするからなみなってくんですけどもえ まあのよくうとあのま本当は果実あの 木のみだとかはほっとけばアルコールに なっていくね豆腐えで大体そういうのが 武道士だとこにもなっていくわけですけど 日本の場合にはどうも火術というのは あんまり甘くないの頭分が少なくて酸味が 強いものが多くてなかなか画術を置いてて も加工しない腐敗の方が多いということで えとても食べられたものじゃないという ことでま果実がお酒になる例はま捨てない わけですけどま野時代から多分おそらくお 酒なるものが作られる思いますが結局は塔 がないとアルコールにはならないねでお米 は電文ですから電文はアルコールにはなら ない電磁が遠にならなきゃアルコールと いう理屈なわけですでそこでそのじゃあお 米はどうやって塔に変るかというえ皆さん も白いご飯を口の中でよく噛むと甘くな るってですねでそれは奥のこの唾の中に アミラーゼというのがあってそのそれがま 酵素の働きでえ少し甘くするというえ東部 に変える働きがあんまり大したことじゃ ないんですけども量量は大したことない らしいんですけどもえなので昔はおそらく 口で噛んでそれ を溜めてという壺に貯めてでそれをその まま置いとくと自然に発行していくと 大した量ではないらしいえですまこれは あのえっとアニメのですね深海誠さんの君 の縄という中でご覧なった方もあると思う んですけども神社の空の中で口神酒を巫女 さんがま演じるというような場面もあり ましたえただやった人の話を聞くとうん なんかおかのようなものでまそれそうです よねえであまり酒というはちょっと甘い ぐらい甘酒に近いヨーグルトのような こんなものだということでありますね なかなかだからそう簡単にはいかないで 多分こういうものがや時代頃にはそういう お酒があってまですからアルコールという はどちらかというと当分を補給するために そういうことをやった可能性もまあるん ですけどもまお米からも少しお酒のような ものができるというで次に思いついたのが 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なっている焼いた米は全く変わらなかった ということでムスムスというのは霊のおコ のことでありますけどもお作りおコを使う とそのまましてるとえカがあのいいカがて 発酵発酵と塔に変わっていくとでそれが アルコールにも変わっていくということな んでえそういうことを発見した人がいると いうかま必の歴史的には変な人がですね あのやってはいけないことをやりたいって 人が絶対にま皆さんも多分そうじゃない けど連休中に公園に来る人たちですから あのです あの行くなというと行くような人が いらっしゃいますよね食べちゃいけないっ ていうのに食べてしまう美味しいじゃない ですか100人に1人はそういう人がいる わけででその100人の1人の中のまた その100人の1人がじゃあ色々試してみ たらもっといいのができるんじゃないのと いう思考錯誤を始めるそんなもったいない ことしたらいかんと言われてもやっぱやる 人は必ず多分皆さん心当たりあるんじゃ ないかと思うんですけどもまそういう人 たちがいたおかげで少しずつお酒という ものがえお米からですねお米から アルコールにはならないんですけども面を 一旦その えま目目を出させた段階から今度はその どうもカが生るとうまくいく蒸した米は うまくいくということが分かってえそれを 蒸したお米についた菌のことを工事菌と 言いますけども工事工事前工事菌ですねえ それが塔に変えるそれを他の米と一緒に 混ぜると他のものも全部等に変わっていく とでそれに工部が工部ってまどこにでも美 生物ですからもうどこにでもいるこの辺で も多分工房金をいるわけですてえよくあの 自分とこのの作り係にいる工房を使って るって人もいますけどもそういう工房でお 酒になるとまいうことで今度はその候補を また発見えしてえいうことがえ初期の画面 出きまれたその例のですよね航路であり ましてこれは熊本工部というですねあの 福岡県静熊本県導研究所がえ候補を大切に しようというもう1つは作酒を作るという ことであのコロができたえ単美味しいお酒 でありますけどもえまそこに結びつくと いうえしょうもないおちざいましたま そんなことでありまして えかなり思考錯誤があったおかげだとで私 ちょっとここに出しましたのは あの本当はあの私が経験した写真を持って きたかったんですけどもまあの今日はコ 先生もいらっしゃいますてま多分ご存知 だろうと思うんですけどもあの東南アジア でいろんなあの私もあのベトナムの小数 民族のところに行った時にえ家家で自家性 のこういう希望だけど中で発行さその時は ええお 米だけじゃなくてえっともっと違う いろんなあのいのようなものも入っていた でそれがこうずらっとお祭りで並べられて ですね30から50あんまり覚えてないて いうのはえ酔っ払ってしまったからなん ですがこうやって竹のストローで飲む私は 全部その家々から持って来られたのを あなた全部飲めと言わてえ全て第1関節分 絶対飲めとおばあちゃんたちが言うんです それを多分3050はあったと思うんです けどもただその中にですねほとんど 酸っぱいのがもうあるんですが1人だけ なんじゃこれやっていう大銀のなのがあっ たんですこれにはびっくりしましたえ キャスサバあキャスサバも入ってると言わ れたんですけど多分お米もお米の量が 多かったんじゃないかなと思だから やっぱり100個作れ1個ぐらい大人長が できることが分かってたでこれそれは僕は その時は飲み終わったら今度周回場という こ高いとこに行くとに男たちが行ってです ね大で今度は種が出てきてさっきは上場種 だもうその段階で大体フラフラですけどえ を飲ませられるもその後記憶が全くないで ただもう子玉怪我をしてましたね多分集会 場から降る時に足滑らせてむちゃくちゃ 全然痛くてないですねらえという思い出 しかありませんがですからまこうやってお 酒が色々えまカで作るということになって ま今日の工事が生まれてえ今の精神に至っ てるという話でえございました え3になりましたずっと話 て半分は終わったんじゃないかなですけど えっと休みは取らなくてあっ た取りましょうか休みいいですかお休み 取った方が いいいいですかこの まましですえっとじゃえ次の話題に行き たいと思いますえっと大野城の座夫縄文後 から出動した木中え今日は私が発掘強さを したものばっかりを集めていきたわけです けどもえま大野城というですね古代3条が ありましたあありました今でもあります ありましてそのえ上文門ですね門を発掘 調査をした時にまあ1つだけあのま柱の穴 が柱穴があってそこに木が見えてたので1 つだけ掘り出すということでえ1本 掘り出したわけでありますでそれはその 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色々災害に備えるのが国のやっぱり 役割でありますけどそれは今でも変わって ないと思うんですこういう自然災害の時に 力を発揮するのがやっぱり本当は国の力 だろうと思うんですけどもえそういうこと でえこれは清助に蓄えてた当国ま要するに 当国ですのであのえイナホをとってあの もみの状態ですねいわゆる種の状態と言っ た方がいますその状態で蓄えていたものを え放出したとえいうことで山白に走行があ どうもコグがあったということがこれで よく分かるわけですしまたこの打府がこの えキ条というのは実は肥前の国まあの今で 佐賀県ですね肥前なんですけども打は祝前 あるわけですけども元々は国府が管理する ものなんですがえその国を超えてですね やっぱり財府が活してたえ近場の管理管理 は打して行ったってことがこれからもよく 分かるわけでありますえでま米倉ががあっ たということが分かったとさあそこからで ありましてこの山城について色々こう暗が 倉庫の建物がたくさん出てくるわけです 小野条企条金田城八島城条高安城とあるん ですけどもえ実はその中で大野城と企城と 菊城だけはえ8世紀から9世紀にかけても ずっと存続してるということが考学的に 分かってるわけでありますえ確かなぜかと いうことなんですけどもえよくわからない んですがどうもそこには関連性がありそう だ大野城と企条と地上は関連性があるとえ いうことにまなるわけでありますで えっとメモにもあの書いてますけども陽 本立ま法律のの警報の中にですね地士城と いうものに不法に侵入した場合にはえ罰則 ま鞭打ちだとかあるでこの地士場とは一体 何ぞやえ地士に置かれてるお城地士という のがですねま前地方に分かれるんですけど も実は九州のことも地士と呼んでた時これ はですね次この間まで東京の人たちは九州 のことを博多と言ってたみんな博と言っ ますかあの佐賀の人もどこの人と博多 ってそういうま死者があったりするんで 東京からすれば博にしか関心がないわけ ですよねえそれと一緒で古代にもやっぱり 築にしか関心がないのでえ九州のことは 築島といとえいう名前で呼んでたわけで あります えひごじゃなくてすいませんもうまそう いうだけですけどもえまその築の城という のはどうも九州の城のことを指すと言って もいいんじゃないかとでこの場合のその 地士の城という逐条というのは大野条と企 条に加えてこのえ熊本にある菊地城がこの 3つがそののことを言ってるんではない だろうかという風にまえ思ってるわけ じゃあそこになんか共通性があるだろう だったということでま色々私もえ知れて いるわけですが今日ま是非えここが分から ないと後が分からなくなるんですけどもま 建物には素建物とほたて柱の建物があ るっていうのは皆さんご存知だろうと思い ますまあのだんだんま抜かれていって最後 埋まるんですけどもあのえ平面的に見ると よく我々こういう図を作りますけどももう 1つ川柱の建物というのと相柱の建物え 真ん中にない外側だけの側川柱の建物と 真ん中にもですね柱があるやっぱり真ん中 に柱があるってことはえ重たいものを 支えるためなのできっとこれは高床の建物 であろうと我々が見てるわけですねこちら はドマ工の建物だろうという風な区分もし ますで多分高床の建物ってのはこういうま イメージですけども倉庫の建物であるで こういう建物ですね真ん中にもこのえ たくさんこのえ真中にも柱が通ってるよう な建物がえ実は大野城の中にはたくさんこ 並んでるわけでありますえこの数え方は この柱と柱の間を1件2件3件っていうん ですけど3件5件というですね規則的な 建物がずらずらずらっとえもういたる ところにこの3件5件がま書籍がない部分 もありますけどえ 123453件5件というのがたくさん 並んでいるということがえ分かりますたえ 次のこういう場所でもそうなんですでま 大野城の中を全部調べていくとこういう風 な建物の分布が分かってほとんどま多くが ですね3件5件の建物だということが 分かりましたで条という佐賀県にある山白 も調べるとまこれ発調査が行れてないので 地標調査だけですけどま3件5件とですね これ規則的な建物がちょっと目が痛くなり ますけども要はですね何が言いたいかと いうと大野城の場合には倉庫の建物は32 等3件5件っていうですねあるんですが これがなんとですね全て同一企画で誤差が ないんですよ籍と素の感覚に35件32等 なのおそらく35ぐじゃないかなと思でえ 実はえっとまもう1つ3元4元ちょっと 小さなだともですねえこれは平安時代に なってどんも現れるんですこれは企画は 一緒なんですけどやっぱ寸法に誤差がある ま7時代と平安時代の差がこういうとこに 出てくるわけですけど7時代はさないま これ建物で言ますとこういうことたります て3元4件3件5件一緒のようなものなん ですけども実はちょっと規模が違うで えっと1番驚いたのはですね大野城が32 等で355等あると言いましたけどね機上 を数えたらやっぱりこれが34等で多分 35等ったそ奈良さに大野城と企城に3元 後県という企画的な建物がですね同じ方 あの作られていたっていうことがあこれ びっくりしますねなその奈良時代って どんな時代やないとかと言いたくなるよう なとてもすごい時代なんですがそれでえま そこからちょっともうあの え菊地上も含めての変遷を見ていきますと 実はえ7世紀の初め頃ですね成長が生まれ ま2期なんですがえそれまでにはの 終わり頃にですね実は非常に大きな書籍式 の相で層といってるのは非常に長い建物を 1等だけ必ず作られるとこれが最初の出現 なんですよで7時代になると大野城とは さっき言った35件が出るえっともう1つ 条と菊城この企条はですね発掘してないで 分かんないんですが発掘した城と企条では 後でお見せします書籍とほった出柱が転用 する非常に高規格な走行がなぜか必です これは山城だけの特なえそれから3期に なって急世紀以降になると大野城は3件4 件が出るんですけども実は菊城も3件4件 の出席の建物が出始めると単よく歴史的な 変遷がですよ似てるんですねえ誰かが やっぱり明治てこういうの作れというで 先ほどそ言った大きな式籍式の相場の層 長村というものは一体何かとこんなものな んですよ大野城も3元8件以上ま3元9件 菊地条が3元9件ここが1件2件3元4件 59件あるねえ以上はもう1つ10件 ぐらいでま基本的には3元9件ぐらいの ものこれほど長いクどっかで見たことない ですかえ でしかもですねこの3元や3元8元の 大きな建物は1番いい場所に作られて 見晴しのいい場所にこれは特色であり ます7の商員がえま3元休憩えつまりです ね菊地場にはこういう建物が作られていた 倉庫と言って馬鹿にしちゃいけません とんでもないことえで人になるべく見える ようなところに機上もそうですけどもまえ こういうものがあった最初に作られるのが これまこういう作り方をするのはあのえ いわゆる上層と言ってる平地のですね軍の 役所や国の役所国に付随するいわ層員と 呼んでいる層の建物も必ず大きなクがを 作るという実でやっぱり山白というのも 同じようなやっぱりさすが力量社会ですの できっと決まって山城でやろうと思う全部 一緒のものを作ろうという発想がそこに あるとえいうことでありますまちょっと これはもういいやでえさっき言ったもう1 つがそのえ書籍があるのにその外側にこう いうですねほった柱の柱を直接れる穴が 見つかったんですねでこれは何だろう かっていろんな説がありました私はあの それまではここにこう柵があったんだ柵が あって建物を封鎖してたんじゃないかて案 を出していたんですがすごいですねあの再 発掘をしたあの若いあの九州歴の職員がえ もう1回見た時にここに 雨落ちの溝がちっちゃくですあ屋根から雨 が落ちるとそこにくぼで溝のようなのが できるんその雨落ち溝を発見したんですと いうことはこのほった柱の建物は屋根と 関係があるどういうことよということなま こんなものでありますえなぜか山にだけ あるんですよ大野城と菊城はこういう素敵 の外側にこう立橋だからでもう1つ高安城 というところですね大阪と奈良野健山館に あるんここにある平葉の建物はあまり柱筋 がこう通らない大野城と菊城はこうやって 柱筋がきちんとこう通ってるんですねから えっと機内の方のは通ってないとことで やっぱりこの大野城と菊地城っていうのは 設計者が同じ人がっ関与してたということ がよく分かるありますじゃどんな建物だと いうとこういう想像ですけどもまあの書籍 の建物が当然にして河 吹きなんですけどもその外側にもう1臨時 的にですねえ何らかのまえ木の屋根なのか 何なのか知りませんけど張り出しがある 構造だろうというのが今のところの考え方 でありますえこういう倉庫群がたくさん 作られてで倉庫群と言ってもみんなが簡単 に出し入れできるもじゃありませんでえ こうやってですねもみの状態にしてえ国の 状態本来はですねあの犬というのは借り とったらえ北のとこだけで結んでったら これは貨の他になるわけですよえで本当は それでいいわけでそれを付きは現場になる わけわざわざこう東国に全部ですねこう 取る必要ないんですけどわざわざ取ってえ 倉庫の中に蓄えていたえでこれ満席にな なるとどんどんどんどんこうやってこう 入れながらこう板でこう席を作ってて最後 はもう扉も全部閉じてしまってします誰も 開けられないですこれは鍵は中央か もしくは座言ことで何人も開けられないと いうですね不動動かしてはいけないという くになるなっていたのが山白になぜかえ 九州の場合は大野城と金城菊城はそういう 打のども管理のことでえプラが運営をされ ていたということが分かるいうことでです でまあの私が言いたいことはあのえっとま これをもう1回度斜め直すとえっと今日は 菊地上のさっき言われました変えられまし たけどえ打成長と水希と小城と菊城の建物 というのをよくよくよくよく分析をもう 1度してみるとちょっと私はあの熊本県の たちとはちょっと考え方が違うんですけど もえどうもちょっと字がずれててすいませ んえ例えば発覚系の建物というのがあって 厚ま僕あはま本当はク倉庫じゃないかと いう疑いもあるわけですてそういうものが この4期になって9世器になって出てく あり方え一連のですねあり方はま大野城と 一緒ででそれは全部こういったこの打成長 ですとか水ですとかのこのえなんていうの 建物の立替えだとかそういう動きと非常に こう連動していると見た方が違うかもしれ ませんま見た方がいいというか見ることが 可能だとだから菊地条も単にあのま皆さん 菊地条というと中世の城のように常子が いるようなイメージでしょうけどそうじゃ なくて大工の管理の元に置かれたお役所の ような場所でもあったとえいうことがえ ますもちろん全てが米倉というわけでなく て中にはあのですね当然にして弓矢ですと かブグだとかも蓄えていた可能性はあるん ですが今のところ古代三条から全くそう いうのが度しません基本的には何かあった 時に友次の際に多分運び入れることはあっ ても日頃からそこに置くことはないという ことともう1つは古代条っていうのは実は 兵士は上してません えなんとなくこうの山城金の山城で兵士が いそうですけども警備をする人はいても中 にはほとんど人はいなかった本当に何も出 てこないですねえそういうことが分かっ てるわけでま打フは現状に管理をしていた え武器もですね打フの成長の近くで多分 感じきてたいうことが分かってるわけで ありますあと10分ですいません最後の 最後の話題でえっとこれはあの打府質の似 というかま木管なんですがま要はその打府 の場合もまあの000人企画の人間がえ なかな形で色々関わってたと思うんです けどもえ古代にはその人たちは全部給食が 出るこれ 朝日あ2回1日2食出るそうででだから 給食なんですねえだからその用意をし なきゃいけないじゃあそれはどうやって 調達するの材料まお米は当然その税として 取り立てるわけですからいいですけどえ 生前食品ってのはどうやどうやって誰立る のっていうかそれ無理ですよねどっかが 取らなきゃいけないとえいうことでその庭 の木mustになるものがま庭と言います けどまアビだとかサバだとか つスと若とこういったですね海藻だとかス というのはつあのあの2の貝ですけどもま そういうサバとか生アビていうえタですね 1番ねまこういうものが書かれたものがま 出動しておる打成長のすぐ後ろから出たえ これは7世紀代の木管なんですけどそう いうものが出てるとでえ実はま最初言い ましたこのダフの気候の中にえシチューC というまえ基本的には外国のお客さんが来 た施設団に対してえその接待をする料理を 作ったりえ頂点に対して見物をするための ものを作ったりあるいはそのさっき言い ました財部の肝心の給食を作るというま そういう生鮮食品はじゃあどこが集めるの かということになりますとえその中のま 市中心というところがあってえその中でま また青線食品はえいろんないろんなところ があるわけですがまその中の1つにま クリアというですね集団があってえどうも 漁労民の人たちが組織されていたというの がこのえこれが金員が出た鹿の式がうんで ここにずっとと他市があってこうま海の 中身ですてこ国立公園になってるわけです けどもえほぼこちらの意は立ち禁止ま国立 公園のあの敷地ですけけどもそこをそのえ 白調査をですねかつて学術調査でこれアシ 軍が行ったわけで私もちょっといいとてん ですけどもこの海沿いにですねの海岸のを 発掘をするというま昔からこっから川が 出るという江戸時代の記録に回ったですね 何か遺跡があるのは分かってえおそらく 何かが えいろんな解散物をとった遺跡があるんで はないかということで白がまえ調査団を 作ってですね えま団長はあのえ球団の先生がやってで いろんな方々が加わったわけでありますま 我々あの海のそでリゾートハックスのと 言ってんですけどあのえ意外とこう深い ところでですねあの調査をがありましてま あのえ えで中でですねまこれは見学会のあのえで 行われてる時ですけどもまそこにちょっと 書きましたようにですねとにかく魚だとか 声援時石鍋云々関がいっぱい湿度しまして えどうもここで加工をしていたと例えば 若めを取ったりとですねえ貝を取ったり 串貝を作ったりとなことをどうもこの場所 で作っていたということがえ分かったわけ ですまこういうえツグも出てきますしま あの玉毛のための重りも出てくるとえいう ことなんですが一方ではですねこのえ大変 こう豪華なようなものもあるのでやっぱり お役所的な当時の性格もあったんじゃない かということりますお金も出てますそから え大変よまびっくりしたのがこのま声援 時期と言われてるものじゃまして大変こう 雑な作りじゃそのえあまりこうどっかに 置いといて飾ることもないようなものなの でもう荒い作りでありましてまこういう ものが出動したわけまこれこれが声だっの 分かっていたわけですけどもえまそれを あのとにかく白の白調査をされた方ま今 天草におられますけど山崎さんいう方が ですね本当にえ高古学を楽しく語る面白い あの天才的な方ですけどもえああの路館で 草の木をトイレですねえ来られた 方レを持って草のが天草の出身の方です これびっくりしたとですそれからあの トイレはしょっぱかったという本かどうか おってましたえっとまあのいろんなあの こうやって水で洗って え色々調べた中にですねえっとま小さな 貝殻っぱりたくさん出てくるわけですけど もどうもその中でえその階層につくような ちっちゃな海岸いっぱい出るとこれしかも 焼けてるということでその山崎さんがえ どうもこれやっぱり模を焼きだろうとえ模 焼きというのはこのま万葉種にたくさん出 てくるんですねこれはえと打の肝心が都 から不妊する時にやっぱりそこを通るもん ですから海っていうのは危険なのでやっぱ 海の神様に捧げるためにいろんな歌を作る 中にこのえ鹿の雨というですねのことを 読むとがたくさんあるわけですけどその中 にえメカ塩焼きくなくクの串鳥にま要はえ 海藻で取ったり塩を焼いたりするんで 忙しいんだというえようなことがあってえ 塩や煙っていうのは風を痛み立ちのらずと いうことであんまりその上に登っていか ない不思議な話ですけどもえなことがあっ たとまだから鹿の鹿の雨は塩作りをして いるしかもそれは焼き塩であると薬とは何 でだって分からなかったんですけどその 山崎さん方がえその海につく ですねえやっぱり本田なんとを焼いてそれ をそのまま水海水と一緒に煮出すとあの 階層にもあのたくさん仕がついてそれも 取れるということで えやったわけでありまこれが若い頃に山崎 さんあります えっとまこんな感じであのえやったわけん ですけどもやっぱりあの海造を焼くと煙が 出るんだけどやっぱりこうございますで 重たいんですね煙がだということがえ 分かるですこういうあの本田ワな階層を 集めるでえそれを何度もま回数つけながら 少しずつ保育してそれを焼いた焼いたもの をまた回数と一緒に択してどんどん見つめ ていくとえいうようなことでこれはま信用 の決勝ができたところでありますだんだん なんだだんだん煮詰めてるこのあの階層を 入れてるところとめあのだんだんめて凝縮 あの濃縮を捨てるところこれはちょっと 違うところの写真ですけどまこうやってえ こういう仕様ができます私も舐めました けどしょっぱというはなんか苦がやっぱえ あのマグネシウムだとかそういういろんな ものが入っているんですねえという思い出 がありますけどもまそんなものがですね えま多分海辺でえこういう座ザフのための ためのえ解散解散物をえ調査あの取った ものが加工したところがですね見つかった という大変な遺跡だなとえ思ってます なかなかあまり人に知られてないので ちょっとあ今日も紹介をしたわけでありま こういうことでえ海の中道遺跡というです ね え最後にまとめが出てきましたまこういう ようなあの遺跡もあったということであり まそんなことでえ最後にこれは今並べられ てるもてまえっと本当に あのよく筆順ですね書き順がなんか複雑 ですよね私は昔よくこう人に説明するのに 昔の人の書順は今と違いますよねわははと か言ったの本当にあのNHKのチコちゃん にしかあるで書き順はどうやってできたの かで戦後になってできたということを知り ましてえ先生が小学校の先生が子供に教え やすいように全国統一の書き順を作ったん だ へなんか古代から書き順っていうのは 決まってるものだと思っていたらそうじゃ なくて戦後にできたそうでえだからいい わけですどんな準だろうとま大体のことは あるんでょうけどもま人によっては色々 違ってたえいうことなんかなんか違うまし たねなんか水もこう真ん中から始めにたり 左側からこうたりまえ水の木もそうですま そういうことでありますでま大きというま そのも解釈がやっぱり難しいなという話を 最後したいと思うの私もこの大きま水は 間違いなくてこれ水の色から続したです けど大きというここれはあの成長跡の前の 出面から出動した木所時なんですねこれは 大野町から出てたらま大きでいいと思う です私は大野城の大野大元々大きという 一般名詞大きな白という意味の大きがの木 になったと思ってるんですねで機以上と いうのは大き木な木と普通の木大の木と木 があって木は7ないに2文字にした時に木 あの木の国が木になったですね和歌山県が 木になったのに木場に木と木が木になった で大野が脳がつけられてま大のきという風 に大きと言われてたんだろうなと思ってた んですけどそれもなかなかですねこのどこ から出動するかがやっぱり会社か色々ま いいんですけど他のところで出動したもの なんかがですねクメの中でもやっぱり大き というのが出てきてそれの解釈はその近く に大きという地名がありまして多分そこと 関係があるだろうっていうことを言われて ましてまそう言われるそうだよねと全てが その山白というわけじゃないんだろうなと いうこなかなか難しくて色々昨日も飲み ながらちょっと話してきたんですけどま木 というのはもしかしたら施設のことをなん となくそういう呼び方もしてたんでえま木 というのは要するに土変になるんですから ドドのようなものがあれは木ということな んで財のことが大きとか言でたりしてねえ なんていう話をちょっとしたところです けどもまそ分かりませんけどもま全てが なかなか解釈はやっぱり難しいでも いろんな解釈があるっていうことは天然な 姿ではないかなとえ思うところですいませ ん長くなりましたこれで終わりにしたいと 思いますありがとうございまし [拍手] たOG

くまもと文学・歴史館 特別展「文字が語る古代のくまもと」連続講演会⑤
日時:令和6年(2024年)4月28日(日)午後1時30分~午後3時
講師:赤司善彦氏(大野城心のふるさと館長)
演題:出土文字で分かった古代大宰府の姿
会場:熊本県立図書館 大研修室
動画公開期間:2024年5月31日(金)9時30分~2024年8月31日(土)17時
講演の概要:
はじめに 古代の大宰府  
1 発掘調査で明らかになった大宰府跡 
2 旅人の館(大宰府長官の官邸)はどこにあったのか
3 牛頸須恵器窯跡出土ヘラ書き須恵器
4 大野城大宰府口城門跡出土木柱
5 大宰府跡出土基肄城銘木簡と古代山城の倉庫群
6 大宰府跡出土贄木簡と海の中道遺跡

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0:31 はじめに 古代の大宰府
13:44 1 発掘調査で明らかになった大宰府跡 
29:54 2 旅人の館(大宰府長官の官邸)はどこにあったのか
48:42 3 牛頸須恵器窯跡出土ヘラ書き須恵器
1;17:52 4 大野城大宰府口城門跡出土木柱
1;25:50 5 大宰府跡出土基肄城銘木簡と古代山城の倉庫群
1:40:44 6 大宰府跡出土贄木簡と海の中道遺跡

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