【熟年離婚 愛子60歳】マイホームをローンで購入したが熟年離婚して

私の名前は愛子どこにでもいる普通の パートでしたまさか自分が60歳になる まで働くとは思っていませんでした子供が 成人してからというもの夫との2人暮らし ですがとにかく暇でした夫に働いてもいい かと尋ねたらボケ防止にもいいんじゃない かと心よく受け入れてくれたのでした しかしそれももう10年以上前の こといつの間にか60歳を迎えるにあたり 天然退職する社員だが目立ちまし た私も60歳になるということで契約更新 を考えようという話が出てきたところ です私が働くスーパーでは高齢者になって も雇用してくれるため自分の意志があれば 働けるの です実はこのスーパーと出会ったのは学生 時代のアルバイトからでしたまだ独身だっ た頃からアルバイトを始め1度は退職して 他で働いていたのですが結婚して子供が 成人するに再度働かせてもらっていたの ですスーパーとしてはかなりの死にでもう 40年近くお世話になったと考え深いもの があります実は私は契約更新をしないこと に決めていますというのも夫と相談して いるうちに老後は2人でのんびり暮らそう という話になっているのですサラリーマン として頑張った夫とゆったりとした老後を 暮らすのも悪くないなと感じていたの ですパートのばさんととしては毎日忙しく も淡々と業務をこなし充実していたと思い ます夫と共に特に贅沢もせず毎日を生きて きたためそれなりに貯金もできていまし た老後を過ごすには十分と思っていたの ですただこれから仕事をしなくてもいいの かと考えると一体何をして過ごせばいいの だろう不安と言いますか漠然と暇な毎日に なるのではないかと考えていたのです そんな時夫が言いましたマイホームでも 買わない か私たち夫婦は贅沢をしない意思があり 自宅もずっと賃貸でし た子供たちには負担をかけたこともあった でしょうですがそれなりに幸せだったの ですだからこそ夫の提案には驚きました 老後を迎える時にマイホームを購入する なんて私の頭では思いつきもしませんでし た仕事が亡くなった後自分の生活を考える と一体何をしていいのか検討もつきません でしたの で夫の提案を受け入れてみることにしたの です本当は私もマイホームが欲しいと願っ ていたのかもしれません貯金もあるし 大丈夫だろうその程度の甘い考えだったと 思いますそうこしているうちに私たちは 60歳を迎え仕事に行かなくても良い日々 がやってきたの です夫と長い時間を共にすることになり 会話する時間も増えましたそしてマイ ホームの購入を現実的に考えることにした の です置いた体を支え合いながらモデル ルームを見て回り素敵な家の数々に老後を ゆったりできる夢を買うそんな気持ちでし たただ心配だったのはローのことです夫の 退職金もありある程度の貯金はあるとは いえこれから収入がなくなる私たちが家を 購入するにはロンを組むしかありません でした年金をもらい始めれば返済にも困ら ないと考えており審査さえ通れば夢のマイ ホームが手に入ると思っていたの ですやっぱり綺麗なキッチンがいい わ夫と一緒にモデルハウスを見ながら夢が どんどん膨らんでいきました夫も言いまし たうんと贅沢してみよう今まで節約に協力 してくれていた夫でしたから贅沢をしよう なんて言葉を聞いた時にはなんと言います か不思議と安心したのです夫も我慢してい たのだと思ったのですマイホームは男の夢 と聞いたことがあります夫も立派な男性 ですから夢の1つも叶えたかったに違い ありませんただ現実的な年齢を考える私は バアフリーも忘れないように提案しました 夫は笑いながらそうだなと言ってくれ私も 安心したの ですその後色々と調べると丁年後の人でも 組める論を見つけことができました リバースモゲージ型住宅ローンというそう で年利は高めですが毎月の支払いが利息 だけなので支払いやすいのが特徴だとか 年金暮らしになる私たちには持ってこいの ローンがあったの です元々高齢者のために作られたローンだ そうで私たちのように60歳でも審査に 通りやすいのだそう ですそれを知った私と夫はゆっくりと詳細 を確認し論審査してもらうことにします 結果は意外にもすんなり通過し私たちは マイホームを手に入れる手段を確保できた のですそれからは夫と話し合いながら ゆっくりと家を決め無事に住宅を購入する ことができまし た頑張ってきてよかっ た数ヶ月後に住宅が完成した時夫が感激し ているのを見て私も言いましたこれからも よろしく2人の時間を大切にしていこう 仕事も子育ても一緒に乗り切ってきた夫と なら最後まで幸せに生きていけると思い ました私も嬉しくて幸せで老後なのに まるでこれから人生が始まるような期待感 を感じていたに違いありませ んしかしそれから数ヶ月後私の元に1本の 電話がありまし た私の母から ですお父さんが認知症で私たちも高齢者に なっていましたが私の両親は顕在でした もちろんいつかは最後を迎える時が来ると は思っていましたただ認知症がひどくなっ たと言われるとどうも心がざわついて しまい介護のために遠方の実家へ足を運ぶ ようにしたのです夫にも話をしたら家族は 大事だと言ってくれやっぱり私を理解して くれるのはこの人だけだと感じたものです しかし実際に実家までの距離は車で1時間 はかかります夫の運転で一緒に向かいする のは夜になります私たちも時間には余裕が あったはずなのにいつの間にか忙しい毎日 になっていたの です老人ホームも探してみましたがどう やら空がないようで待ってくださいの 一点張りでした毎日実家へ送り迎えする夫 もだんだん疲弊していくのが分かり ます私も疲れがたまって自然と夫との会話 も少なくなっていきました時を同じくして マイホームにも異変がありました 夜遅くになると騒音が聞こえてくるように なったのです住み始めた当初は全く気に なることもなく平穏な毎日でしたしかし 私たちが知らなかったのです実はこの地域 にはヤンキーグループが多いらしく温かい 季節には集団になってバイクを乗り回し夜 までたむろしているようなのですあまりに ストレスなので警察や不動産屋にも相談し ましたが現実的な対応は何もないまま安心 して眠ることも許されず 毎日の介護で私たちは疲れきってしまった の です少なくなった夫との会話も気づけば 毎日喧嘩になっていました介護を引き受け なければそんな言い方ない でしょう私も疲れていたのです売り言葉に 買い言葉で毎日のように言い合いが続き ましたそんな生活が1年も続いてしまうと 夫も私も考えることは同じでし たれ ましょうストレスに負けたのです夫も同じ ことを考えており2つ返事で受け入れまし た慰謝料などの面倒な取り決めはほとんど 夫に任せましたが財産分野は綺麗に分け られ私も納得して別れたの です熟年離婚という言葉をニュースなどで 見たことがありますまさか私 があれほど幸せだった人生がいとも簡単に 崩れる日が来るなんて全く考えていません でした 別れてからというもの私は実家へ戻り介護 をする毎日になりました来る日も来る日も 父親の認知症に付き合い ますあんた誰じゃお父さんの娘ですよどれ だけ繰り返しても一向に覚える気配はあり ませんそれ以上に父親から忘れられた娘の 気持ちお分かりになるでしょうか寂しいと か悲しいとかそんなものではありありませ ん虚無感というのでしょうかどうすること もできないやるせなさが毎日を灰色に変え ていくのです近くにいる母の声も気を負う ごとに弱くなるのが分かります食事を作る のは私ですが父と母に食べさせるのも私の 役目 ですもちろん自分の両親ですので当然なの ですしかし誰かに頼りたい改めてそう感じ たの ですそれだけではありませんでした実家が ある場所は田舎ですが昔は綺麗な場所でし たしかし改めて生活するようになり気が ついたことがあります毎朝家の外に出て みると異臭がするのです最初はゴミの回収 業者でも来たのかなと思っていましたでも 毎日毎日きつい匂いが漂います知らなかっ たのです実家の隣の家がどんどんゴミ屋敷 になっていたのです私が生まれた頃は隣の 家も綺麗な家で若い夫婦が楽しそうに生活 していましたしかし今はその若い夫婦では なく別の人間が住んでいるそうで気を 大ごとにゴミが増えていったよう です私が気づいた頃にはテレビで見るよう なゴミ屋敷になり匂いを周囲に振りまいて いたのです夫と暮らしたマホも思い出し ます夜中にそが聞こえてきて眠れなかった あの日々しかし匂いよりマかもしれない ゴミ屋敷の匂いは朝だけでなく夜にも匂う ようになりましたひどい時には家の中にい ても分かるようになってきたのです市役所 などにも電話しましたが誰も取り合って くれません介護に疲れ離婚に疲れ騒音や ゴミ屋敷にも疲れ ますただ我慢しようと心に決めて父と母の 介護をしていましたしかし1年後に父が 帰らぬ人になりましたそしてさらに半年後 父の後を負うように母も亡くなりました 狭かった実家が急に広く感じます隣の ゴミ屋敷からは未だに匂いが漂います元夫 はマイホームのロンが払えなくなったよう で今はどこで何をしているのかも分かり ませんもしかすると私もこの家を手放して ホームレスになっているのかもしれません 未来はまだ分かりませんが老後の人生を 楽しもうだなんて贅沢しようだなんて そんな考が間違っていたのかもしれません 幸いなことに私の子供は幸せそうで来年に は新たな命が生まれるそう です1人暮らしになった私の元に1歩の 電話がかかってきまし た一緒に暮らさないか末っ子家族からでし た私は自分が介護される日を想像し断ろう としたのですが合意に一緒に住むと言って くれましたそして驚いたことに末っ子は 次男の家の隣に住んでおり次男夫婦も私の 様子を見に来てくれるようになりまし たそして2年が過ぎてある正月でした たまには家族みんなで正月 しよう長男から兄弟へ電話があり数十年 ぶりにみんなが集まると話されました私も 一緒に行ってみるとそこに元夫の姿もあり ました長男から言われまし た父さんは俺んとこにいるは言っていまし た母さんは俺んとこにジナは最後に言い ました正月の料理は俺ん家でやっぱり家族 っていいものかもしれませ んこれまでの人生決して危ないことはせず にただひたすら平穏に生きてきまし た不満やストレスも驚くほどにありませ んでもまさか還暦を過ぎた同窓会でこんな 危険を犯すなんて考えても見ませんでし た私は稽古61歳になり ます短大を卒業してすぐに夫と結婚して 子供を2人も授かりまし た子供たちは立派に成長して上の娘は結婚 して出ていき下の娘は社会人になっても しばらく実家にいてくれてお金がたまる までと私たちに気をかけてくれていたの ですが恋人と同棲すると言ってついに会社 の近くへ越して行きまし た夫は平身長の私より少しだけ背が高く 丸顔の乳な表情で優しい性格の人 です出会いから結婚生活に至るまで時めき こそ少なかったものの大きなトラブルすら 全くありませんでしたしこれまで働いて 家庭を支えてきてくれて感謝こそすれ不満 は何1つありません 若い頃よりお腹は出ましたが私だって文句 を言えるようなプロポーションは維持して ませ ん2人の娘を産んでからは夫婦の営みは なくなりましたが元々恥ずかしいという 気持ちが先立つ行為だったのでそういう 意味でも私から夫への不満はありません でし た娘2人も出ていき孫の世話で忙しくなな ということも なくこれからは夫と2人で穏やかに老後の 日々を過ごすのだと思いまし たそんなある日幼稚園から小中とずっと 一緒だった幼馴染みから還暦祝を兼ねた 同窓会があるとメールが来たのでし た幼馴染みはそのまま地元の人間と結婚し て実家と徒歩数分の距離に家を立てずっと そこで暮らしていまし た高校で離れてからもよく遊んでいた彼女 とは私が結婚して家を出てからは随分と 合わなくなったもののそれでもたまに連絡 を取っていまし た参加するかどうかを尋ねられましたが私 は乗り気ではありませんでし た私の地元は現在住んでいるところから 電車で30分かからない場所にあり ますとはいえ私はもはや幼馴染の彼女1人 としか同級生とは連絡を取っていなかった の ですさらに詳細を聞くごとに消極的な 気持ちになっていきまし た同窓会を主導してくれたグループは中学 生当時から目立つ人たちで当時から目立つ 方ではなくのめり込む趣味もなくただ ひたすら穏やかに平穏に学生生活を過ごし たかったそんな私にとっては彼らは苦手な 存在でし たしかしそれでも言ってみようかと気持ち が変わったのは幼馴染みの彼女からの一言 でし た宮内君が稽古を呼んでくれって言ってる みたいだ よ宮内君はメンバーの中でも一際目を引く 男子学生でし た理由を聞いても幼馴染みは分からないと の こと宮内君は身長も高く中学生当時から どこか大人びており年上の彼女がいるとか 学校外に彼女がいるとか華やかな噂も聞か れた美男子でし たジャニーズ系というか細みで中性的な 顔立ちでクラスでも体操人気だったことを 覚えてい ます学生当時話した覚えもない彼がどうし て私のことを呼ぶの だろうむしろ私のことを知っていたこと すら驚きでし た好気心のうくような出来事に久しく 出会っていなかった私はその曖昧な情報に 引かれて同窓会への参加を決めたの ですまだ仕事を続けている人もたくさん いるため年度始めや梅雨真夏を避けた結果 同窓会は秋の始まりの頃となったようです 私の両親は私が40代50代の頃すでに 順番で亡くなっているため幼馴染みと会う などの理由がなけれ 地元へ行くことはありませんでし た専業主婦として今の町で長く暮らして いるので娘たちの友達の親子さんや習い事 の先生など顔見知りも含めると地元よりも 馴染んでいると言える でしょうそんな地元へ降り立ったのは もはや数年ぶりだったと思い ます同窓会は同級生の子が営むイタリア 料理店で行われまし た久しぶりにワンピースを着て時間通りに 行くと会場はすでに賑わっていまし た幼馴染みの姿を探すと同時に宮内君も つい探してしまい ます中学校の卒業以来会っていないため顔 が分かるわけでもないの に当時友達と読みふけった症状漫画みたい な展開をきっと心の奥底で期待している ところもあったの でしょうそんな自分の気持ちを自覚して 恥ずかしくなったところに長島さんと私の 急性を呼ぶ声がしまし たパッと顔をあげると確かに年齢を重ねて はいるのですがあのとないと言ってもいい くらい美しい顔をした宮内君がいまし たあの頃は話しかけられても緊張して うまく話せなかった でしょうそれくらい俳優さんのような入 たちの宮内君は眩しかったのです久しぶり だね元気だったと当たり障りのない会話を かわしていると気づいた馴染みがすっと こちらに近づき宮内君と並んだ座席へ案内 してくれまし た妙な気遣いに子春期の頃のような ドキドキを感じながらも優しく会話を リードしてくくれる宮内君の横顔に夢中に なってしまっている私がいまし たただその時は芸能人を眺めるような 気持ちでし たわれているのかもと思うくらいにはまだ 余裕もありそれでももう会うことはきっと ないのだからバカだと思われても楽しみ たいそんな気持ちで彼の話をニコニコと 聞いていまし た他の同級生とももちろん話をしたはず ですが今になっても彼との会話しか 思い出せなくて笑ってしまいます 食事も終わり普段は飲まないお酒も少し 飲んでああ楽しかったもう帰る時間かと 思った 時宮内君にこの後の時間は大丈夫かと聞か れまし た私は歌ったり騒いたりが苦手で2次会の カラオケは遠慮するつもりだと残念では あったのですがそう返事をしまし たすると宮内君は 2人でどこかに行かない とびっくりしてきっと変な顔をしていた こと でしょう宮内君はぷっと吹き出しましたが 黙っている私の腰にそっと手を添えもう ちょっとだけ話そうと言って店から ほど近い場へと連れられましたお恥ずかし ながらそんな風に男性からエスコートされ た経験はなく きっと彼はたくさんの恋愛経験をしてきて いるのだろうと思いまし たバーに並んで座りバーテンダーのおすめ を注文すると急でびっくりしたでしょうと 彼が話をし出しまし たまだびっくりしているとドギマギしつつ も答えると旦那さんには申し訳ないと思っ ているよと彼にそう言われて初めて夫の ことを思い出しまし たそれくらいいつの間にか彼に夢中になっ ていたの ですそんな自分自身に戸惑っていると 追い打ちをかけるかのよう に僕の初恋はあなた です私の手を握り彼は言いまし た中学生の頃は臆病で遠くから見つめる ことしかできず町に待った機会だったと 言いまし たそして今のあなたも変わらず素敵 だそう言われてときめかない女がこの 世の中にいるでしょう かあなたにも家族がいるでしょうと精一杯 の抵抗で私が言え ばこれまで浮気なんか考えたこともなかっ たそれでもあなたに会えると思うととつい 浮かれてしまった とアイドルを見るようにして憧れていた かつての同級生が真剣なまなざしで私を 必死に口説くの です嫌なら振りほどいて欲しいと言われ たってすることができませ ん私が黙っていると今日は返したくない この1杯を飲むまでに決めてほしいと言わ れ心臓が恐ろしく早く打つのを感じながら 飲みましたが味なんて何にも分かりません でし た飲み終えると彼はスマートにお会計をし てそのまま私の手をつなぎ駅とは反対の ホテル街へとゆっくりと歩き出しまし たまさか異性に求められる喜びを60を 過ぎてから知るなんて思いませんでし たその夜から始まった私たちの遅い声は今 も隠れながら続いてい ます始めるべきでなかったと思う気持ちは あるのですがあの夜を拒めばこれからの 人生の大きな後悔となったことでしょう [音楽] 私は道男と申します64歳です多くの人は 結婚されますが私は独身を貫いた女性です 最近では若い世代でも結婚生活に疲れ離婚 率が高まっていると聞いていますですが私 にとってそれはわがままだと思うのです私 が生まれたのは昭和です戦後の生活が減り 食べ物すらろになかったいえ世の中は潤湯 していく最中でしたが私の家にはさほどお 金がなかったようです父は働いていました が母は専業主婦でした学生時代には少ない お小遣いをもらいながら女は最だと言われ ていました私たちが高校卒業する時は女性 の権利を主張する人も増え法律を変える 動きがありました結果として男女雇用機会 均等法が義務化されたのが昭和61年 すでに3を迎える年になっていました もちろん私も結婚を意識したお相手がい なかったわけではありませんしかし縁が なかったというしかないでしょう30歳の 頃にお付き合いしていたのは竜という方 でした金融機関に勤めている男性で魅力も 包容力もある素敵な男性でしたしかし結構 には至らなかった理由は彼の浮気による もの平成になる時期のことまだ平成大府教 が訪れる前竜二さんはいわゆるお金持ち でしたお金に物を言わせ女性たちにも金銭 をばらまき主翼を満たそうとしているよう でした見かねた私は彼に文句を言うと女は 黙ってろ一言強く言われ私も黙ってしまっ たの覚えていますそれからというもの私は ずっと1人で暮らしています恋愛をしたい と感じても特にお相手ができるわけでも ありませんすでに64歳もう結婚の望みも 期待もありませんただ皆さんに知っていて 欲しいのですコロナ禍により1人になった 方々は寂しい思いをされているでしょう しかし私のように以前からずっと寂しさを 隠しながら生きているもいるのですコロナ 禍の出来事をお話ししましょう2020年 私が62歳の時のことですニュースで新型 コロナが噂され多くの人が騒ぎ始めたあの 頃です私は病にふしていましたコロナでは ありません年齢を重ねるたびに体は言う ことを聞かないもので私は肺炎をこじらせ てしまったのです医師が言うには廊下と共 に終編の筋肉が衰えてしまったととのこと です筋肉が衰えただけでなく免疫機能が 弱くなり本来吐き出せるはずの誇りや散り などを吸い込んで肺炎を引き起こしたと いうのです以前から少し咳が出ると思って いましたしかしまさか肺炎になっている なんて思いもしなかったのです体調が悪 すぎるということもなく少し風でもこじら せたかなという程度でしたしかし意から 入院を進められ入院することになたのです ですが新型コロナが広がり始めたのも ちょうどその頃でした当初の予定では私の 入院は2週間ほどのはずでした1週間ほど 入院した頃のこと夜中に運ばれてくる患者 さんが多くなり救急車から下ろされるその 姿を何度も目にしました咳き込む体で辛い とはいえ夜中に何度もトイレに起きて しまう私の体はそういう状態でした薬治療 の入院でしたが良くなるまで医のそばにい られるものだと思っていましたある朝 起きると言われたのです美子さん悪いんだ けど看護師さんは気の毒そうに病室を開け てほしいと頼んできました私も自分の体調 が大切ですなんとか入院できないかと言い ましたしかし病院の決定は変わらなかった 私のような軽度の肺炎では新型コロナ感染 者に病室を明け渡す他なかったのです荷物 の整理をしてて自宅に戻りました意から 伝えられたのは薬がなくなったら病院に 来るようにということだけ診察も兼ねて週 に1度は病院に行く約束をしまし た自宅に帰るとまた1人の暮らしが待って いましたもちろん食事も自分で作らなけれ ばいけませんし買い物にも行かなければ 食材なんて置いてありません昔から1人で 生きてきたとはいえ自分が病気の時に誰も いないのはもうこの世にいるのかあの世に いるのかの区別さえなくなってしまった ようでし た私の両親は50代の時に帰らぬ人となり ましたもちろん子供もいなければ旦那も おりませ ん友人たちの中には古くから遊んでいた人 もいましたが年齢と共に1人また1人と あの世へ旅立っていきました人生100年 時代と言われる現代でも60代は周囲の人 は消えていきます少しずつ1人ずつでは ありますが私の前から消えていくのです誰 もいない我が家には消えていく寂しさが あるだけでしたこのまま私もいつかそう 思う日々が続きました席はひどくなる一方 でやはり入院が必要だったと感じます2 週間ほど経った頃あまりに咳が治らないの で病院の先生に再入院をお願いしました今 は病室を開けられなくて医師は完結に そして無慈悲に言い放ちました いえ分かっています新型コロナに感染した 方には重傷者が出ています命の危険性は私 のような軽度の肺炎より圧倒的に確率が 高いの でしょう私が我慢すればいいのです結婚を 意識した竜二さんの浮気を我慢したあの日 のようにただ体の不調を忘れたように我慢 した日々を暮らせばいいのですその先に あるのはきっと暗い暗いあの世の世界 でしょ 例え繁栄を直しても私のように高齢者に なるものはいつ消えてもおかしくありませ んただ我慢すればいいのです昔からずっと 我慢してきたのです から咳だけが胸の奥を締めつけます歩く早 さは遅くなりだんだん病院が遠くに感じ ます何もない世界だけが私を生きていると 理解させます食べ物の味などもう何年も 美味しいと感じたことはありません1人で 食し1人で片付けをする老人ホームにでも 入れば友人ができると言われたこともあり ましたですがお金がありません私は60歳 まで働きましたが年金がもらえるのは来年 のこと今は貯蓄を切り崩して生きてきまし た働けばいいと思う方もいるでしょうが 初老の体は言うことを聞きません働きたく ても体が動かないのですそんな私を雇って くれる会社などあるわけもないでしょう 私の少年が暗いのでしょう かもっと未来を考えれば良いのでしょうか 私には未来を考えればあのようにいる人と 会える日々を想像することしかできません 父が亡くなった時実は肺炎でした当時は 日本の3大出兵に肺炎が入るほど最後に 語るにふさわしい病気でしたその病気に今 私も蝕まれているのです夏が来て外に出る のも嫌になりました 咳は少し楽になっていましたが今度は猛暑 が命を削りますスーパーで買ってきた卵を 冷蔵庫に入れ忘れてしまいました次の日に は傷んでしまっていたようで目玉焼きを 食べた後からお腹の調子が悪くなりました トイレに入って1時間ほど経つことすら できませんでした私の家は昔の家です バイヤフリーが施されているわけでも老人 に適した環境でもありませんトイレは様式 ですが1度と立てないのですもしもこの まま立てなくなったら誰が私を見つけて くれるの でしょう何をしていても不安が心をつみ ます生きるのが苦しくなってもう一層自ら 命を立つ方が良いのではないかとすら考え ましたいえ実際にそんなことはいたしませ ん命あるものはいつか自然に帰るものです からただ感情的に本当に辛かったのです冬 が来る頃には新型コロナの被害は大きく なりマスクをつつけるのが一般的になり ましたどうしても食事を作るのが辛くて 近くのうどん屋さんに行った時マスクお 持ちですか私が持ってきていないと伝える とマスクがないと入店できませんその頃に は薬が効いていたのか肺炎はかなりマシに なっていましたが店からも締め出されて しまったと感じましたもちろんマスクを 忘れたのは自分が悪いと思いますいえ本当 は食事をするのにマスクが必要だとは思っ ていなかったのです私が生きてきた反省紀 にはマスクをつけなければ歩けない場所 などありませんでしたまして飲食店で マスクを求められるなど想像できるはずも なかったのです帰宅する時に電車に乗り ました久しぶりに電車に乗ったのです少し 遠くの景色を見ようと一撃だけ電車に揺ら れたつもりでしたがどうも周囲の目が 痛かったもちろんマスクをしていなかった のは私だけでしたあまりの視線の痛さに コンビニでマスクを購入しました財布には 数千のお金だけマスクは数100円でした 高くもないはずのものが高いと感じこれ からの生活が苦しくなると再確認できた日 でした遠くに行こうと思っていたのに席が 強くなってきて苦しくなったのを覚えてい ますだんだん意識が遠くなり気がついた時 には救急車の中でした私は倒れていたそう ですマスクをつけたことにより肺炎が復活 したのかもしれませんもしかするとコロナ に感染したのかもしれないそう思いました 幸いなことにただの貧血でした食事を取ら ずに移動したことで体が悲鳴を上げたよう です普段から運動なんてできませんので 病院と家を往復するだけ私の体は自分が 思うより弱っていたのかもしれません病院 で診察を受けることもなく隊員が帰宅許可 をくれましたまた歩いて帰るように言われ ました体調不良の人間がその場に取り残さ れることがどれだけ寂しいかお分かりに なるでしょう か救急車を見送りながら私もまたカロに 着いたのです午前中から家を出たはずなの に帰宅できた頃にはもう日は暮れていまし た真っ暗の家の中が見えます闇に吸い込ま れるように玄関のドアを開けようとしまし たするとの隙間に手紙が1枚はがきのよう な形でした私に手紙を送る人などありませ ん何かの請求所かもしれませんし動かない 体を動かしゆっくりと地面に落ちたはがき を拾い上げました差し出し人の名前には父 の名前が書いてありました10年も前に多 した父の名があり不審に感じたのですです が確かに父の字でした他した時父は78歳 最後は手が震えて文字がかけないと言って いました私も介護をしましたのでよく覚え ているのですはがきに書かれた文字は紛れ もなく揺れた父の文字ですそして10年後 の魅へと書かれていました寂しくないか 1人で辛いかもしれないだが生きろ最後 まで生きろそれが父の願いだ短い文字で そう書かれていました後から知りましたが 10年後に届くように手送ることができる ようです父は晩年私が1人になることを 心配していただから年金生活になる私に 改めて手紙を書いたのだと思い ます何もない世界です生きることは辛いか もしれませんただ私は生きています今も まだ動いているのです寂しい人がいるかも しれません私もその1人ですしかしまだ あちらに行くには早いようです

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