湘南の風物詩「ボウフウ狩り」講演会 第1章

[音楽] はいえ皆様こんにちはこんにちははいあの 私あの辻道公民館の館長してるおります 横田と申します本日はですねあの多くの方 にご参加いただきまして誠にありがとう ございますあの開会にあたりまして一言 だけご挨拶を申し上げたいと思いますえ そちらにもですねあの展示されております 通りこの湘南海浜植物育成会のですねあの えあの設立25周年を記念しましてこ記念 士があの制作されましたあの実はあのこの あの記念士をあの作るにあたりましてあの 会員の方からですね今日も下沢様 いらっしゃってますけれども法則当時の ことを記事にしたいということでご相談を 受けましたというのもですね私当時あの こちらあこちらの庁舎ではないんですけど 前の東海岸の方にあった長者で務めてた 関係もございましてご相談を受けましてえ 立派な記念士ができたというわけですあの 4月からですねこちらゆかりなる公民会に ですね移動してまいりましてあのえ本日の 講演会の開催にすごく運命地たものを感じ ておるところでございますでこの会のです ね全身である辻道道草クラブと言うんです けれどもあの公民館の事業であの成人男子 層取り込む事業をスタートしたというもの ですけれども長期にわってですねこのよう な形でえ活動が続いてるっていうことあの 驚きを感じているとと共に地域の繋が りっていうのをすごくあのえ感じてる ところでもございますえさてあの今日地域 の皆様でですねご記憶があるかどうか ちょっとご不明なんですけれども昔あの 公民館でですね公民官報っていうのを作っ ておりましてえもうちょっとあの今は ちょっとお休みしてるというかあのあの 配管になっているんですけれどもえ公民館 代理があるというのを知ってらっしゃる方 どれくらいいらっしゃるか分からないん ですけれども総感合っていうのがあって そこの師にですね浜防府のさし絵と言葉が あったのをあの記憶にある方いらっしゃる んですこういったあのちょっと遠くて見え にくいかと思うんですけれども総看護水道 公民館大理総看護ですね浜防府のさし絵と この言葉がありましてあのちょっとその 言葉をちょっと読んでみたいなと思って おり ます昔あの浜防府という花がどこの浜にも たくさんあって葉っぱは食べられるそう じゃところがいつの間にか見えようになっ てしまってなそれじゃ寂しいちゅうことに なってなここ辻道公民館に集う人たちがな 自分らの力で花を読み出そうと頑張ってる 者この総看護は1998年平成10年7月 25日の発行でございますえ本日はですね あのま皆様方と一緒にあのこれまでの歩み えを振り返って今後何ができるかていう ようなことを考えてみたいと思っており ますえ最後までお楽しみにお付き合い くださいよろしくお願いいたしますはいで ここからはですねあはいあの続きまして あのえ湘南海浜植物育成会の代表の えまからご挨拶の方させていただきます山 はい山内会社のからご挨拶させていただき ます皆様こんにちは今日はえお忙しい中人 どもの講演会にお集まりいただきまして 大変ありがとうございますえ横田館長さん にはですね私どものえ大先輩で回るという ことがこの25年生を読めばえ私も分かっ たんですが ええ巡り巡ってですねえまたここの辻東 公民館にえ帰ってこられてこのような共産 事業ができること大変嬉しく思っており ますえこの会はえ都道の一草クラブが25 年始都道の歴史とともにですね今後の砂浜 辻道海岸のえ大変な危機だと私どもはえ 砂浜と海浜植物の大変な危機だと私どもは 思っておりましてその辺についてえ私ども 私と一緒に副会長の両名で務しております 村山の方からえ 早速え講演をさせていただきます1時間 ほど講演をしてから皆様から質疑を時間を 取らしていただきますのでえ1時間半 どうぞよろしくお願いいたします ありがとうござい ますただいまご紹介いただきましたあの 湘南会植物育成会のえ村山と申します ちょっとこれはこりますのでせていただき ますえっと私自身が入ったのはまだ67年 ぐらい前ですけれどもあの大変 この植物浜防府にえその前から興味を持っ てましてえいざ入ってみると結構ま大変 育てるのも大変だなと思いながらもえ一 時期すごく緑ぱになった水道海岸を楽しん でいましたでまその後も 引き続きあの活動参加してですねえ今あま ちょっと東京の方には行っているんですが あの引き続きこれに参加してえやっていっ てるというところですえ最後にあの ちょっとまこれからについてもお話しし ますがえちょっとえここれからあの約1 時間あの投資でえ説明をさせていただき ますのでえまあの途中え休憩ございません のでトイレは途中に行っていただいて構い ませんのでよろしくお願いいたしますでは あのちょっと座ってえパソコンを操作し ながら説明をさせていただきますよろしく お願いいたし ますまずあのこちらの写真を覚え てらっしゃる方いらっしゃいますでしょう かあの場所が分かる方いらっしゃいます かこの看板が あるちょうど海浜え公園の展望台から降り てきたところですねえ今とは想像がつか ないぐらいあのこんな緑いっぱいな状況が ありますこれいつかと言いますと私があ 1番最後覚えてる最初に覚えてる風景 で2008年5月それほど遠い昔ではない かまただ今の子供たちは知らないまその ぐらいの過去の辻道海岸です実はこんなに 緑がいっぱいでえサイクリングロードが砂 で埋まるようなことはなかったんです まこんな状況のえ時からえまこのちょっと 後ぐらいからええ私は参加しているんです がえ通常え海浜公園のお出口から江ノ島の 方にいたところこちらもあの全然砂が 溜まるような気配がしまこのぐらいえ緑で いっぱいで砂もほとんどなかったとま こんな状況でしたでまず最初にえ辻島海岸 の歴史と文化こちらをを説明させて いただきますえ湘南海岸全体としてはです ねあのかつてえ有数の左を形成していまし たえその中にはえま戦前より浜防府えや あの海浜植物が規制しておりましてえ1番 上の方が1921年えかなりこの黄色い 部分がえ先になりますえ辻自動会議館だけ ではなくてえ柳島の方平塚の方までずっと えま砂の先が広がっていたとで1954年 あたりえ7年が進みましてえただあの辻道 作だけはあの軍事演習の場所としてえ使わ れてましたので開発がそこだけえ進められ てなかったでいよいよ2006年になり ますともう完全に道団地でも開発がされて 全て年がされまこういった中でえ浜防風と え他の海浜諸もなくなっていってしまった という状況ですでちなみになんですがえ辻 島作の大きさどのぐらいだったかというの を鳥取先と比較してみるとえ左の方がえ 鳥取作え右が水道作ですえ鳥取現在の鳥取 作宮にま匹敵するほどの広大な作地帯で あるとでかつてを知る方にお話聞くとえ 10mぐらいの高い砂の山とかですねえ そういったものがえやはりあってままさに え鳥取先のようなえ先事態あとま日本有数 の先地帯という風に言われていたよう ですでっと歴史について少し説明いたし ますえ平安時代え倉ますより開拓された 大葉グえでええ伊勢神宮へ寄進されたええ エリアですねそちらの中の南端になります え都号あるいは八と称していましたえ鎌倉 時代えこの辺りえ松のった佐と色々あの 単価等で歌われてますがまほとんど何も ないえ寂しい場所ですねえ草えとが生えて 松が少し生えてるとそういった場所であっ たとまこの頃からあのま戦術に使われたい とそういったところになっているようです え戦国時代天領となってますえエゴえ江戸 時代からえ江戸幕府がですね法術演習上 鉄砲場として水道会談に設置をしています この頃はえ沼の方も鉄砲場になっています えそしてえ明治から第2次対戦後にかけて 海軍省がえ幼虫を続きを買収してえ海軍を 拡大とそういった場所でずっとあの開発 からえまあの離れた位置でえずっと維持さ れるという状況 [音楽] ですえっとこちらが少しちょっと画面え 小さくて短申し訳ないんですがえここに辻 とが書かれていますでえこの橋が書かれ てるとが藤沢橋ですねえちょうど藤沢橋の 方が東海道で辻道を通ってる道がえ鎌倉道 ですねえ鎌倉の方に続いていた道この南側 海側というのはえやはりこの地図から行っ ても何もないというような場所でありまし たえこちらが明治15年の迅速図に下出さ れたものですえ明治時代えやはりこの海岸 線沿いというこの白い部分ですがえ ほとんど左ですえ沼え片瀬の方までえ左で え茅ヶ崎の方まで作ですねえこれこの一体 が鉄砲場としてえ江戸時代からほぼ使われ ていた とでまただしあの沼の方はもうあのえ早い 時期にえ別荘値開発が進みましたのでえ 最終的に辻道だけがえ演習として残ったと いう状況ですでえ辻道海岸の状況として ですがえボサリえ実はあのかなり早い段階 昭和の初期に防サリの造船着手しています がえ大事再戦でえま伐採されたりえといっ たことでえ一旦なくなってしまっています えまこの辺のことも昔の若にえ単価俳に歌 れ ので分かるというとこもありますえ昭和 20年え連合部に接収されますえそしてえ 回復処分上2と皆さんご存知の水道駅の 貨車の爆発事故というのはえま都度に運ん でたえ列車の回復が爆発してしまったと この頃になりますえそしてえま年からベル の射撃 園そして年えようやく日本の試験が開え 一部が摂取解除と28年から自衛隊が利用 開始していますえ34年になってようやく 米軍から変換されましたえそしてえ辻土 団地南部水道処理場高小学校が建設され 始めてえ今の形にどんどんなっていったと で45年ぐらいにえサイクリングロードの 完成えそして66に辻道え海浜公園が開演 という流れでえま一連のえ動きをこちらで 説明しており ますと残っている画像の範囲でえの説明に なりますがえこちらが46年の写真ですえ 米分の射撃演習上の状態ですね少しあの旗 の部分がありますけタのとこもありますが 大部分が米軍の演出上だったということ ですでこちらの写真はよくあの藤沢市の あの歴史の書籍に出てきますがえちょうど 浜山えの交番があるところのえ角地だった そうです えこの辺りに立入禁止の看板があったと いうことですでえ少し10年ぐらい経ち ましてえ1956年えまこの時も米軍え 射撃周長ですが一部自衛隊が利用し始めた 頃ですまほとんど状況は変わっていません で一部この辺にですね松林がえあるかと 思いますがえこの辺りというのが今え皆 さんがいらっしゃる追道公民官えそしてえ 高小学校まあとこの左あたりがえ辻道男子 ですねえまその前あたりになりますえ ちょうどですねえ文助館にこの辺りの写真 がありましたのでえ次に移したいと思い ますがまこんな状況だったと一部畑え 農作物としてえ地元の方が使われていてで この写真はもうここに構あるんですがあの 学校建設予定地となってますのでえ高山小 学校の建設直前の状態でえ奥にありますた は貝殻山とあのネットで検索すると出てき ますけれどもえこちらがえ残ってえまこう いったえ広い原っぱえ先打ちたにえ松の木 が点々と生えてきたという状況がよく わかりますでえちなみにですけれども現在 の同じ場所ですえ皆さんがいらっしゃる この建物の南側に松林がありますえ 山外区の松林少しえこもり上がっています えこれがまさにえ戦前からある松林を 生かしてえ景観として残しているという ことを最近地元の方からえお聞きしました まいなあの計いが当時あったんだなという 風に思いますえまさしくこの場所ですね 少し話がずれます がえっとまもう1つこちらえ中学校の方の 奥にえもう1本木がありますこれもこちら の塊のどれか1本がなんとか生きならえ てるようだということでえかなりの太い日 ですのでえそれなりの年月をここで出に来 てきたんだなという風に思いますえ大部分 はえ中学校が検出される時に他は伐採され ていますでえ通道公民館の時もここに23 本残っていたんですがそちらも残念ながら 採されて今ここと中学校に1本という状況 ですでこれがえ空から移した状況ですね 昭和30年代えこちらに相模高家大学がえ 建設張れ始めてるところですでこちらが 1964年もう団地がほとんどできてます え先ほどのこの松林市やはり残ってます ここにででずっと山外区の北側でえこの 松林市が生きてきたという状況ですで一方 海の方ですけれどももうしっかりとしたえ 道路が形成されてえサボリがあ完成しつつ ありますでえ1983年サリンの海側に ですけれどもえ竹柵の日差防止作ですねえ そちらがえここで機能し始めているという のが分かりますでもう少しうっすらとこう まちょっと季節が分かりま秋頃なのでえ 枯れ始めてますが薄と緑もここに草が生え てるような状況が分かりますですのでえま 演習上だった頃全体が砂でえ点々と草が 生えていたところのえこの海ペリだけが今 残ってますがそこでもなんとかえ草がもう 1回生え始めてなというのが分かり ますえただあの直近のこれ2015年です けれども今ご存知の通りえもうほとんど砂 だらけでえ草は生れてないという状況も ここで分かりますこれはあの水道海岸の 航空写真からえ見えたえ歴史え続いてえ 文化的なところを説明いたしますえ務の末 頃1830年頃伊谷マタグレモンにてえ小 初防風ええ三え3の 里え座のことはことのほ商売これは藤沢塾 交流館に展示されてるものですえま江戸 時代にすでに 暴風という名前が出てきていますで5年 850年ここでえ佐藤付が本格的に はっきりと出てきますえ東海道遊歴ス宇 広作にえ藤沢の名物としてですねえここに 藤沢えここに名物でえ里と書いてあります でこれを あのと藤沢宿交流官の方ではえま先ほどの 三ではかというふに言われていますま色々 裏付けとなる記述もありましてえ明治17 年え神天相模英国布子え辻道村の紹介部に え南方海海浜に法術上の広い原ですねこの 地えぎえ行領の立法式またえ小路初をさす とちょっとここではえ防風は出てきません がえ大正4年の湘南外観という著書があり ますこちらに名物3三付え名所選べは豊道 え現在の豊島本店ですえまこちらに三漬と いう名前が出てますえ大正11年の藤沢 調整洋蘭にえ特産物にはえ三防風小路初だ の里とはっきり出てきますまこういった ことからあのおそらくもう江戸時代からえ 防府え小路初というものがえこの藤沢自体 の名物であったのかなとままさにこれは 藤沢の調整用欄のえ特産物として書かれて ますのでえ辻道というよりは藤沢全体の 産物であったと思われますまそれがあのす の方にも出てたのかな ということがえ想ござれ ますで続いて え最近のまま昭和の方に入ったところです ねえ現在の藤沢というのは加藤徳本さんと いう方が抱えていますえ沼会館から通常大 が防風と称する海浜植物の使命えが いっぱい出てたと誰でも用意取ることが できたえ防風狩りえとか小路狩りとかの 家族ずれ団体がえ遊びに来てえ祭りのよう だったということを書かれていますでえ 昭和23年え方達さんの歌手え辻道海岸と いうタイトルでえ防風の各神香りして流れ のごとく優る光だとおまさしく辻道海岸の 防府浜防府を歌ってるということでです ねま昭和の初期辻道海岸では浜防風とか 防風がありが地域の風物としてされていた ということが分かります [音楽]

2023年11月11日、辻堂公民館にて開催した講演会の記録、
第1章 辻堂海岸の歴史と文化 です。

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