【原付探検】変な場所で見つけた神社を調べてみたら…

鯱です。たまたま見つけた神社を調査してみました。図書館に行って資料探しなんて何年ぶりだろうか。でも意外と楽しかったです笑

2023/5-2023/11 バイクで日本一周
2023/11- 探検

Instagramを同名でやっています。

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(1) 沓掛の神明神社
所在地 瀬戸市定光寺町1313番地
沓掛の神明神社は旧沓掛村(現 定光寺町)の氏神で、旧社格は村社です。
神社名鑑に創建時期は明らかではないと記されているが、沓掛村社人圓太夫が天保8年(1837)に「寛文2年(1662) 11月に山上より現地に遷座」 と記した書き留めが残されていると伝わっています。 寛文2年に水野村から沓掛村が分村しているので、 新しい村の創立を祈念して氏神が遷宮されたと思います。 その後、正徳6年(1716)6月に再建した棟札が残っています。
伊勢神宮系の神明社の場合は天照大神を祭ることが一般的ですが、 神社名鑑および東春日井郡誌には当神社の祭神が伊弉諾尊、 伊弉冉尊、 菊理姫尊の3柱と記され、天照大神が祭られていないにもかかわらず神明神社の社号となっています。
寛文村々覚書や尾張徇行記には熊野権現、 白山、 如来堂の3社が相殿として記されているが、張州雑志には熊野権現祠と白山権現祠に加えて神明祠が記されています。
春田直広著「沓掛史話」には「終戦近くまで社殿賽銭箱の上に三社宮と彫琢(ちょうたく)した扁額が掲げられていて、 明治生まれの古老たちは当社を三社宮と呼んでいた。 しかしながら、三社宮の社号は古書には見えず、白山・熊野神社を祀るとなっているから、三社宮の呼び方は通称に過ぎなかったものと思われる。 そこで明治維新の際に神明神社の社号に改められたようで、我々の世代は神明神社の社号しか知らない。沓掛村の鎮守社は、もともと白山社 熊野社・如来堂であった。 すなわち、 白山社の祭神は伊弉冉命と伊弉諾命と菊理姫命、熊野社の祭神は伊弉冉命と伊弉諾命、然るに如来堂の祭神は不在で神仏名不祥である。 正徳6年(1716)に社殿が再建され、三社が合祀されて一社に統一されても祭神はそのままで、 統合後の社号はなく従前の三社宮の通称で呼ばれていた。 明治以降は神明神社として祭祀されたが、祭神は不在のままで祭神と社号が一致していない」と記述され、現在でも幣殿入口の扁額には「三社宮」の文字が彫刻されています。
東春日井郡誌には「村中にあった山神社3祠、 津島社2祠を合祀した」とあたかも神舎合祀令を遵守したかの如く記されているが、 当神社境内には津島社のみが祭られ山神社の祠はなく、今でも元の三か所に山神叢祠が建っており、 合祀は名目上の表現で実情は合祀されなかったものと推察されます。
定光寺公用分類便覧に 「明和7年寅 (1770) 6月沓掛村氏神の神明・熊野・白山3社を1つの社殿に祭り、是までは表向きの社人と申す者が居なかったので、今般、 円太夫を表向き社人にするよう願い出た」と記され、神明神社へ向かう手前300mほどの場所に円太夫神霊祠が建てられています。 この小祠には神職を勤めた村祢宜役の神主位牌6枚が納められています。 定光寺公用分類便覧に記された円太夫は3代目神職の加藤円太夫と推定され、寛政元年(1789) に没しています。 3代目円太夫より前の神職は公認社人ではなく、単なる村祢宜役にすぎなかったことがわかります。
加藤家は世襲で神職を勤めたので、 円太夫神霊祠は加藤家の屋敷神として、その末裔の方々によって祭られています。 6代目神職を勤めた加藤伊織が天保10年(1839) に没し、 それ以降は村中に神職を継ぐ者はなく、他所の神官に神事が委ねられました。

〈引用・参考文献〉
郷土史研25周年誌ー瀬戸・尾張旭の寺社・街道・地名ー(2020/11) 瀬戸・尾張旭郷土史研究同好会 

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