夜半の寝覚め/6月新刊・対馬丸の書籍について

あどうもこんばんは友人チャンネルで ございます突然始めました えー10分ぐらい前までちょっと寝てまし たうんあのねここんところちょっとね忙し 忙しいというのかなあの来年ねえ年来年 じゃないやえ 来月来月じゃない再来月だ まだ3あまだ4月30日から再来月ですね 6月の3日にですね新しい本が出ますので その交流さるよにちょっと今追われており ますうんあちょっとお見せした方がいいか な うんそろそろお見せしてもいいかもしん ない見せする材料なかったごめんなさいお する材料なかった明日プリントだった うんと あちょっと これゲラゲラしかないんだよなちょっと者 だから ちょっとカメありますねはい え6月にあの本を出しますのであ今日はね どうしようかな一応招待所出しとくかな うんまあの入りたくなったら来るでしょ もしいらしたら え6月に あの本を出しますの でお笑わせるねてあどうも出しており ますおこまでよく来てらっしゃいますね高 さん高橋さんですねあ一に名てあ出てます けどあの男のこちね男の背中という 素晴らしい写を取った方ですあのねあの 本当にあご紹介して おくこういうね立派な写真集を撮られた方 ですはい え中身ちら見をしますけれどもうんこれも ねあの出たのが何年前だもう結構前ですよ ね え2021年だからあもう3年なるんです ねあの友人書にといて初めて出した本が このあの今ねちょっとチャト欄にらしてる 高橋一さんの写真集でございますはいうん あのこういう ねこれ最これ懐しですね玉さんはいこう いうですねごさんが国会であの取られた うんあのこれ 1993年だ93年だからもう30年前 ですかね30年以上前になるんですよね あのこういうねあの男の背中という連載を やっておりまして中央論というらで当時話 がいたでその時にですねあの の3年間やったのか な3年間やったんですよね確かね93年 からの1月から始まって95年の12 月これ最後がこれ江さんだったのかな江 さんですねはいこれ江さんがあの引退 なさった時にま引退記念事がだったあの 球場でま背中でったんですけども取らして いただいたんですけもまこういう形で3年 まうんあ3年間連載したものを閉じてあの 1冊にしたのがえ1990じゃない 201021年3月に6月にえ友人所員で 最初に観してる本でございますね はいうんこれまでねちょっとここところね あのあんまり こ突然ちょっとやろうかなと思って始め るっていうのがなくてあの割とねテーマを 決めてちょっと事前に打ち合わせ打ち合わ せってこともないんだけどねあれ常時視聴 察今1人かああ高橋さんだけだうんえ高井 さんだけだうんまあ ね んもなんか ああなんだこれあえあいいあちょっと こちらのあれですけどもうん あのそう3年間36回そうそうそうそう うんあれ高橋さんとはねあのあれなんです よあのその前に今ここにはもうないかあ ちょっと持ってけど これも懐かしいですね はい歴史読本古代豪族ソラうん えーこれは1990年だ 34年前ですね94年1990年の3月 歴史読本臨時増感がもう歴史読本出しない ですからね えこの時が確か初めてじゃなかったかな私 がえ歴史コトに入って初めてねあの グラビアページを担当することになって これですよこれ え阻害族の栄光となんだっけ滅亡栄光と 滅亡ってもすごいなうんあのこれ石部隊 ですね奈良のあのそがのうのを破されて いる うんあのこの奈良時代のねあのこの歴史分 で おこれも石部ですねい写真でしょこれ高橋 勝さんのはいあの高橋さんはねあのどちら あの結構ね あのいわゆるえっとぶつりって言うんです けれどもあのいわゆるなんていうのかな あの物取りってのはいわゆる えなんて言うんですかね生きてない写真 っていう生きてない写真っていうとあれな んですけどもあのいわゆる生物じゃない いわゆる人を取る人以外のですねあのもの ですね商品であるとかそういうものあの 高橋さん今ねもう時計うんススの時計 なんかではすごくあの有名でらっしゃい ますけどもそういうものも取りますけれど もあのこういう歴史もみたいなものもね 随分取られてて うんこれもうすごいこれなんかあれだなあ うんこれ古墳のこれもこのあの古墳なん ですかね古墳の中から撮った写真ですよ中 古墳の中に入って外に撮った抜けて撮った 写真なんですけどもこの辺よく撮れたなと 思いますけど ね うんこれアスカライブスですねはい うんなんか ね そうこれね うんこれ放流寺ですよこれ放流寺うん放流 寺夕の うんで ねこれそかこれがねそがのイルカが暗殺さ れてのかこれがその暗殺の舞台となった アカ板のみですねはい うんこれねうんこれガペさ 24ロの3の 51214おう15ページになってやっ てるわすごいなこれずっと15ページねそ そが市の歴史の後ですねた写真なんです けどただ私ねこれやった時にですねうん あの うんこの石部対談の写真は確かね夜明け前 でしたよ夜明け前に あの要するにあの明け方の光あのあくあの 日が登って淡く日が出る時に撮影したん ですよねで皆さんのイメージし てらっしゃる石部隊とはちょっと違うよう な写真に仕上がってますよねこのあの後ろ の背景とかねこれはもうあのどういう イメジでなかったのかと言いますとまそが の馬子というのがねまそが市の中で1番 最初にま歴史の中に登場する人物であり 小徳なんかで一緒にねま日本の海にわった ということ でまその諸学が勃興するということでそれ で訳なんですよねでその相悪の歴史を辿っ ていってうん 最後はこれ人身のランと言ってこの時に あのソがそがのはやというねソの松があの 負けたあの大友の巫女の側に立ってまここ でそが滅びたという解釈なんですでこれ 実際夜明けなんですけどもちょっとえっと 夕やけっぽい感じ気もあるでしょうんそこ でまそういう形であのソのあのボと滅亡 証言したという風に私は編集したつもり だったんですが うんこの写真もこれもすごいんですよね これねこれはなんだ これこれ承徳大使の没後にその馬子モア 小子の娘がその羽を物無理や羽の娘が出血 して混流された正法院の えま仏像ですよねこれ実はねあの朝日の方 にあるよお寺のうんその仏様をあの祭った あの小屋みたいなのになったんですよ小屋 っていうのかそうなやっていうのかな木で 太あの木の小屋があってそこに2確かね あの扉で封印してあったんですよただそれ をねどうしても撮影したくてでお寺に 掛け合ったらあのお寺の方に掛け合ってで お寺のねあのお尚さんというかな住職さん が不在だったので多分奥様と思われる方に あのちょっとね あのお願いしてこれ開けさせてくれとここ 開けさ開けてねあの撮影させてくれって 言ったんですよそしたらいやここんところ ずっと開けてなかったんでていうのをなん とかもう頼み込んででも開ける道具なか ないですよって言うから私いや私たちやり ますて言ってねで確かね近くのねホーム センターかなんかに行ってえ釘抜きとか本 かじとか買ってきてそれであの板で封印し てるわけですよあの板を打ちつけてそれを ね釘抜きで抜いて扉を開けてで撮影して 撮影が終わったらそれまた蓋してあの元あ た板でこうとかでね封印してっていうです ねそういう素晴らしすごい乱暴の撮影し ました今だったら多分許されないと思い ます1990年だから私がね25歳でした ねこの時ね いやあ大変な撮影をしておりましたねあ ちなみにこの石部隊もねこれ石部隊ですね はいその箱のの何度もおてしますこれもね 予に取ったんですよこれまだあの暗いうち にどだで今でもそうだと思うんですけど 一応ね石部ってねあのポツンと野原に置い たわけじゃなくて一応柵で囲ってあって あの一応 あのなんていうかな何時から開けます何時 だったら終わりますあかくさんこんばんは ですっていう何だったら終わりますみたい な形でやってたんです よそしたらね あのこん時はね誰もいなく てうん誰もいなくて えーまだねまだえ言訳で明けやらないうち に勝手に柵を声でしみ込んで撮影しました もう事故だからいいと思うんですけども はいうん え結構ね若気の至りで本当に申し訳なかっ たというところではあるんですけれども ただね若い時にしかできないことってある んですよ ねあの今ねちょっとネットの時代になって から例えばほらこれ結構最近はないです けども あのコンビニとかねそれからファースト フードの店なんかであの若いね店員さん たちがアルバイトの店員さんたちがね えゴロゴロしたでしょなんかあの余った 食べ物の上に寝転んでね写真撮ったりして それをねSNSにあげたりしてすごい叩か れてじゃないですか確か首なたそういう人 もいたんじゃなかったかなそれテレビでね 我なんか撮影されてしたらなんてことする んだみたいなね食べ物の上に寝転んだりし てなんていう風に言われたんですけども私 はねそそういう経歴があるからってのある んですが うんそういうことをやってたてこういう あの撮影でこういうね割とそういうこと 無茶したって無茶まそあのいわゆる法為に 近いのかなまあ一応ね色々とねやってきた こともあったりしたのでなかなかねそう いう人たちを避難する気になれないんです よ実際ほらああいうところでは大量にた もうまだ食べられるものを賞味 期限賞味期限っていうかなあのコンビニ なんかでお弁当なんかやってるでしょあれ ねある時間になるとねまだね十分食べ られるに捨ててるんですよね捨てたりし てるでああいうのってさ持って帰れないの 家に持って帰れあのうちのね私の息子が あのセブンイレブンでやるバイトしてる時 にああいうのって持って帰れないの もったいねえじゃんって言ってさお前あの バイトだったらあれ持って帰ってくがいい じゃんっていう風に言ったらそれダメなん ってまやっぱすごいその辺はすごい厳しい らしくてで もうんましょうがなちゃしょうがないん ですよそれはね多分食中度が出たりとかね するとやっぱやばいんだねそれ分かるんだ けどでも結局のところ捨ててるわけなん ですよねいわゆるフードロスというのが そういう現場で出てるわけである意味ああ いう若い人たちがが乗っかってるという ことはおそらくですけれどもどうせ捨てる んだからみたいな意識があったんじゃない かなって気がしてるんですだすると問題は その若い人たちのねそういう呆れた行状 特にネット批判みたいな文脈でワドショ なんかもうその頃から割とね視聴者が高齢 会社生かそういうね年寄りに若い奴らがね 消したなみたいなね文脈でやられていたで じられていたのでそれはちょっと違う だろうという思いもあって うん うん販売級で管理してます規定で持ち帰り はあそうそうそうあの持ち帰りは禁止なん ですよねでもねうんでねでも裏話があって うん あの もう20年ぐらい前なのかな20年前 ぐらい前になるのかなもうちょっと前に なるのかなあのねコンビニのねそういう ご飯ってあの私あの新宿のね昔新宿の いわゆる新宿駅からえっと高層ベルガに 抜けるいわゆる あのトンネルみたいになってるところが ホームレス街だったんですよでホームレス さんがたちは大量にダウンボールで 寝泊まりなさってたんですよね街を作って それを取材した時 にあのそういう人たがね明け方ぐらいに なって明け方ってほらコンビニ行って 明け方になる前ぐらいかなコミにお客さん が全くいない時なんかによく行ってお弁当 もらってきたりしったんですっ てあの余ったですよねでその通にはもらえ たらしいですまどこのコンビか存言ません がその現場見たけじゃ ないでところがねそこでホームレスさい たらさ最近のなその時間にな行くでしょ 行くだろお弁当が残ってかするんだよで なんで残ってんだって聞いたらさ近所の奥 さん型がなもらってくらしいのよて でうんいや本当にあのまず貧乏でもなんで もない普通のあのおばさんたちだよ多分 あれをなあの弁当箱から出してなお皿に 盛り付けてな停止とかな子供にねあのご飯 だよとか出してるんだよもう今のよあの奥 さんたちはダメだねみたいなことをねあの そのホームレスさんたちが言っててうん いや本当こと知らないですよホームレス さん行ったんですけどねあのこあちょっと ねあのずっと見られてる方は気づいかも しれませんけれどもちょっとあれでしょう あのカメラの回がちょっと変わった でしょうあのディスプレイ書いたんです 最近ちょっとねまたねあのこないだね ちょっとねメガネ屋さんに行ったら視力が また落ちたん でで僕らほらこういうパソコンの画面で本 を作る作業してますから あのそう最近ちょっと読みづらくなったな とちょっと思ったりしたんだねそ時に案じ やっぱりちょっとまた主力落してたので それでね24日のディスプレイを321に 変えたんですこの間であの今日はちょっと そのうんライブ配信では初めてなのかな あのに近いのかな えうん これをその32日型でやってるのででうち の私のライブ端のカメラってのはこういう ねあのこなんかこういうちっちゃいやつで ねあのあのディスプレイの上にねこうやっ てちょこんと引っかける形のやつなのでだ からカメラの位置がねあの高くなったん ですよ24inから比べて32inになっ たので24inと32inてえっと3のん えっと24は 8であったら43かうん33の高さが 上がったのでそれでちょっと上から 見下ろしてる感じになってんですよ [音楽] うんそうそうあの本当そうなんですよね僕 らほらあの細かい勝を読むのが仕事なので そこでねあの目が悪くなったらねアウトな んでねあもうお仕事続けられなくなっ ちゃうんであなんか本が乱てるぞ直そう うんうんそれでね ちょっと自分ができないことを人に求める のは良くないって何なん え自分ができないことを人に求めるま良く ない私も良くないと思いますけどもうん私 もそれ良くなってのあ同意しますけれども うんどの分脈でおっしゃったのかな ちょっとごめんなさいわかんなかったこた さん初めましてですかね はい あのうん とにかくねまいいやあのちょっと話ずれ ましたけどもうんあのそういうことがあっ たりしたので私はねあのそうさっき言った ねあのうん迷惑迷惑系YouTuber ってのはまた別所なんですよ私はいの嫌い ですさっき言てうんあの迷惑をかけ るってのとちょっと違うじゃないですか あのそうさっき言ったねあのえ食べ物の上 にね滑るってのはさ別にそれがもうどうせ 捨てるんだなろっていうんだねっていう 過程においてですよやってんだとしたら それはちょっと迷惑と違うと思うの でうんそうなるとさその若い人にやん ちゃってのはさ私はあまり攻める気になら ないんですよねそれをねあの年が寄って たかってねあの叩くていうのはちょっと私 は嫌なんだよ なうん 時の行き過ぎとかねあのそういうのはね うんうん文字大きくするっての大事ですね いや あの今言ったように43の大きさになった でしょするとねあのここの画面に表示さ れるそのこういうほら活字をね結局今は パソコンの上で編集してるにのに乗って 編集してるんですけどもやっぱり43 大きくなるわですよ単純計算でそれと やっぱりちょっと違いますよねうん全然楽 になったあのももっと早く買っとみても よかったのかなとちょっと思ったりしたん ですけども うんまあね あのそういうのやってます はいで [音楽] え今ちょっとねあのやってるの がうんこれゲラちょっとしてた方がいいか なこれ今最後のチェックに使ってるゲなん ですけどうんこうかこういう本使って ますもう出していいと思うんですけどつみ のままに けり津島丸から生還した教師の魂を盗めが たるて いううんこの本をがをまあのゴールデン ウィクに入行しますもうねあの 著そうですねあのうん3ってやったんです けど今回はうんあのそれも終わってあの もう目がついたのでもう表していいと思う んですけれどもうんあのホームページとか に乗っけるのはねもうちょっと後になり ますあのイシ入行して正式なあの発売が もう確定したら告知いたしますけれども おそらく69月の3日ま多分ずれないと 思いますねまライブ配信で分いいでしょう 皆さん買ってくださいお願いいたします はいあのはですねうん太平洋戦争の末期の 沖縄で起きた津島丸次元っていうね津島丸 津島ってのはあの九州ねあの朝鮮半島との 間にある津島ですね え津島丸事件ってのありましてこれ何かと 言いますとその頃ねあの昭和19年の夏に え米軍がねアメリカ軍がもうフィリピンを 占領して次のターゲットは沖縄だろうと いうことが承されていたのでそれと沖縄 県民がねま戦争の時の足まになるからと いうんで戦場になることが予測された沖縄 の地域から北の方とかそれから九州とか 台湾にあの特に子供たちをねとかねも疎さ せようという初会事業ってのが始まるん ですよこの初会事業の評価についてはま 色々言われてるんですがその会事業をが やろうとしたけどなかなか進まなかったん ですようんそうそうしたとりましたねあ ホームスの戦初金しああそうそうそうそう そうそういうことそういうことそういう ことですうんそういうことですはいあの フードロストの問題も書けたねあと日本 ってまだふ子供食堂という形でできたのか なあれはだけどほらフードバンクってない でしょあのアメリカなんかにあるんですよ ねフードバンクっていうねあの要するに そういう賞味期限が切れたような賞味期限 は切れたけどもまだ食べられる十分 食べれるようなものをえホームレスの方と か要すに貧しい人たちに配るというねそう いうフードバンクっていうのがあってそう いうのをやりゃいいと思うんですよね なかなか日本ではそういうのできないの なぜかなってのは私はあるんですけどそう 津島丸受っていうのそうかさんあのさすが ね沖縄ご出身だけに覚えてらっしゃると 思うんですけどもうん あの津島 まもちょあス丸の概要についてあの ちょっと言いますとこれはそのさっき来た その沖縄にね米軍をやってくる前に子供 たちとかま他のいわゆる足で的になりそう な人をねそせなきゃいないとまその一方で あの戦争の役に立ちそうな人たちはあの いわゆる日本軍になかった人たちもま徴用 したりしてたんですけどもまあそういう 初会事業をしなきゃいけないということで ところなかなかそれがね進まなかったん ですよねいろんな理由があってでもやっと ねあの上の方が説得して何百人かをね津島 丸というあの日本優先の船に乗せて九州 までうん運ぶことになったんですよねそれ がねところが当時の沖縄近海はもう アメリカ軍が正解権を握っていて潜水艦が うしたんですよでそのの頃太平戦争という のは中国大陸と南方戦線あの南の方の島で 両方でやってるわけなんですけども要する にあのアメリカアメリカの潜水艦がもう その辺の正解機を握っちゃったんであの 実際戦地層に送られる時に輸送戦で当時 行くわけなんですけども輸送戦に乗って 潜水艦に沈められてなくなった方が大勢 いらっしゃるんですよ太平戦争のあの選手 者のほとんどはガシかそうやってあの運ば れ途中に沈められたかでなくなったかなん で戦場で甚だしく散った人よりもそういう 方々の方が多いんですよねそういう状況だ 状況の中でその津丸という船が沈められて 大勢のお子さんを含む1400人以上の方 が亡くなったというこれえっとアニメに なったりもしてるので新本にもたくさん出 てますのでご存知の方多いと思うんです けど ねうんでなぜその方を出すことになったか と言いますとうんその前に ねまこういう出したんですよね えっと沖縄の島森を語り継ぐ群像これは その沖縄県の沖縄線の話なんです物語なん ですがその沖縄線をいわゆるあの住民の方 とかねあるいはその沖縄戦った軍人の立場 で書いた本はあるんですけどもいわゆる この時の沖縄県の知事さんと警察長 いわゆる内政内政ですねあの内政の官僚に なって官僚しかもこの官僚の人たというの はあの民選で得られるわけじゃないんで 当時の知事はあの内務省から東京の内務省 から派遣されるわけですよだけど沖縄県の たちのためにま懸命に働いてだというん ですね このこのですねその働いた2人の僚につい てのョを書いたもなんですけどもこれはね もうあの田陽三先生さんていうですねこの 方とはあの中央論私は中央高論っていう 出版社にいた頃から長いお付き合いで4冊 ぐらい本出したのかな中をんでうんあの 文庫も含めてでその時にまずっとね沖縄線 であったり太平戦争をおっかけ てらっしゃる方で元々読新聞の記者の方で でえとねえ新聞記者が語り継ぐ戦争って いうですね大型連載があったんですよ名 市部の社会部いわゆる大阪の黒田軍団と 言われたねあの大阪市部社会部が次々と スクープを連発した時にあのいわゆる当時 のいわゆる生々しい事件だけじゃなくて そういう戦争の歴史とかね近代の歴史を ずっとね地道な出題というのがあのやって た時期があくてでその時のあのエースが この田村先生だったんですよであの読売 シムやめられて方もうずっとね自分がそう やって現役時代に置かれたことの追加取材 をしたりそこで発見したことを継承しあの 発展させていったりしてあのずっと活動を された方で えちょうど90歳で亡くなったんですけど 90歳で亡くなれまでずっと取材をされて た方なんですよねまたまた私その方と 親しくさせていただいていたのでであの 中央校やめて友人所員っていうの初めて からからこのこの本こういう本書いたんだ けどオタ出さないかって言われてま出した んです よ映画のエかなどがってあれか な島森のとのあれですかね うんえと島森の党っていう映画のご覧なっ たんですよ神さんうん うんまいいや え それでねその田村さですよねさですよね 写真あるかな写真ますかね うんこういう方なんですよねえこの方がね この本がちょうど書き上げるてま言語は 出来上がってあの入行した時にこんなこと おっしゃったんですよあのな今ね津丸に ついてきたいんだっておっしゃったんです よねで津 丸というのは私もちょっとね一応概要だけ は知ったんであそうなんですかていう風に 聞いたらあの津丸の時にね子供たちが大勢 なくなったんだけどその子供たちには印刷 の先生が何人かついてたんだとまそうです よねま子供たちだけ親子さんはね別なんで おあのますの方もいたりしたらこともあん のかなただその子供たちを集団えさせる わけだから学校の先生が付き添いにする わけです よでその中で土丸が沈められて潜水艦に 魚雷攻撃を受けてで海を漂ってで生き残っ て帰ってきた人がいる と沖縄の方ですけどね生き残って帰ってき た方なんだけれど もその後ねあのずっと戦後長生きされて えー沖縄じゃない 内地いわゆる内地ですよね内地で結婚もさ れてあの生きていてしかしずっとですね その津島丸の件については口を閉ざしてき た人がいたったとその方が万年になって から実は私は津島で印刷興味をやったと いうことで口を開いてまあの栃木の方に 住んでらした方なんですけどねその地元の そういう公園などでやっと口を開いて っていう方がいたでその方はもう亡くなっ たんだけどその方の娘さんが後ついであの そういうお母さんはね経験したことを 掘り起こしたりあの調べたりしてあの語り として活動されてる人がいるんだとでその 人のことをね軸にして津という自分なで津 回りについて書きたいっていう風なまま 大体ざっこんな感じだったと思うんですよ っということをおっしゃっていてあまあ 出されたいってことなんだろうなと思い ながらああそうなんですかとねうん話を 聞いていたんですがそう話された直後にね お亡くなりになって本ができる前ですよ あのもうきなんかね長いされるなことなく なんかお昼ご飯のね用意をしていて大力で パタッと倒れてパタッとなくなったって いう [音楽] うんでなくなった時に私そのことをね気に かかててになってい てセシについて最後ねあの書いて死死に ますわ書いたら死にますわあさよならきな ていうアニメがあるんですね うんと言っやっていてですごい気になって たんですよでまこの本の関連で私何度沖縄 にをねあの色々足を運んだんですけどもで 沖縄長市にねり記念館ってあるんですよね であることはしてたしたんですけど ちょっとどうもねでそういうあの田村先生 がそういうことおっしゃったんで私 はうん気になってはいたんですがうん気に なってはいたんです が うん気になってはいたんです がどうもねちょっと私その島記念間という ここにもね足を運べきしなく て1400人の方消ますからなのに数字今 から出しますのでちょっとあのベラを読み ながらあれしますけどもえ亡くなった方が 1484人そのうち学道が784人ほぼ 800人ですよね一般の初会者が3625 人それから郡道世には要するにイソの学校 の先生方が30人それから船員が24人 あと船泊法兵隊って言うんですけども 要するにあの船を護衛するためにあの大砲 をつ兵隊さんが乗ってたらしいこの方21 人生存者は1788人乗ったうちのわずか 280人でし たで助かったお子さんたちは59人 亡くなった方がお子さんたちが784人で えそのうちのお子さんが51 人でやっぱね私 ねなんだかんだ言ってま戦争もの方も作っ たりしてますけど小さいお子さんがなくな るってのはねやっぱ嫌なんです よあの高成に語り継い使えなきゃいけない 悲劇だということは分かってても そこの記念間っていうのがあっても一し なかったんです よ一しなくて うん気がしなくてだからちょっと避けてた 分があったんですけど もどうもなんかね田村先生が亡くなった時 に津島丸について書いて死にたいわていう おっしゃったのすごい気になってい てで去年の6月6月というのはあの日本 とってはね終戦記念日たの8月15日です けども沖縄にとっては6月23日なんです よ今よる沖縄線が終わった年日が沖縄に とっての終戦でそっからアメリカ軍の占領 が始まるわけですからでいわゆる慰霊祭が 行れますよね沖縄でま毎年日本の総理大臣 が行ったりして毎年同じような原稿を呼ん でるっていうんでね批判の声が上がったり してましたけど もで去年の6月にその慰霊さに私行っ行っ たことないんですけども沖縄の方でねそう いうあの沖縄線が終わった彼にイベントが あってちょっとばれがあったりしたので 行ってでその時に初めてね津丸記念館って の行ったんです よそして津島丸記念館に行ったらその博 あの記念館の中にま津島の次元についての 概要が説明されていてでやっぱり壁にね 多くのねお子さんたちの亡くなったお子 さんたちの写真がずらっと並んでるんです よちょっと見てられなかったんですよねき 本当にそれは見てい てうん見たくないっていうかやっぱ目を 背けるんですよね 可愛く映ってるわけですよちっちゃい子 子供たちがその可愛い子お子さんたちの 写真がずらの壁一面に貼られてい てすごく辛かったです ね昔これかなり昔ですけど広島の平和記念 間に行ってやっぱり広島で被爆された方の 被爆中行の写真っていうのが並んでる一角 があるんですけど それとちょっと違う違うっていうのかな うんそれとまだちょっと違うんですけどね でもやっぱり辛かったです よ見て てところがねそれを見ていてふっとだから お子さんたちの写真を見るの辛かったんで そこは避けてでお子さんだけじゃなくて 亡くなった大人の人たの写真を乗ったん ですよねでそん時にはねこれれ大人だから 平均なるっていうのもねまた嫌な話では あるのは分かった承知の上で言うんです けどもまやっぱり大人の写真だからまあ まだ見てられるかなと思って見 て でその時に ねその亡くなった大人の写真の中に1人 あの船長さんのねその丸の船長さんの写真 ってのがあってああ船長さんもなくなった んだって でよく言われますけど船が沈む時に船長は 最後まで残るっていう話がありますよね あと軍艦なんかだと船長は自分の体を船に 縛りつけて沈んでいくっていう戦艦ヤプ なんかの長そうですよねというかあったり したんであ船長さんもなくなったんだなと いう風に思ってという風に思って見てたら お名前があってで長野県出身って書いて あったんですよえ長野県と思って私今野の 松本市でやってあのやってるじゃないです かえ長野県なんだと思っていでくと パソコンでねあのその引方の名前なんかを 検索してみる と松本市の隣のあみ市のご出身なんですっ てで松本あの市というのは松本の隣でね すごく風港エビなあの63期年間とかねあ 美術館とかねあの色々なあの観光施設が たくさんあるいいところですけれども私 よく次のまでバイク飛ばしてねバイクと いうか原付飛ばしてよくねあのドライブ なんかしたりしますけれどもそこのご身だ て分かってえそうなんだと思って画然興味 が湧い て興味が湧い て でそれからちょっとね調べてみたら津島丸 は沖縄に行って沖縄まず神戸を出行して 沖縄に行ってで沖縄から九州にぼとしてま 劇にたわけなんですけども あのそのね神戸から出行したっていうんで また驚い て私のねあの母方の祖父はね戦前ですけど あの神戸でね勝者に勤めていてで神戸の港 のそばに住んでいた屋敷てでその港のそば に住んでいるところの本当に近くに住んで いたのがの沖縄県父の島田さんだったん です よ で うんだからあの神戸出身でその神戸に住ん でてで沖縄に不妊して終戦マジアにみあの 終戦もう米軍が来るって分かってますから 誰も引き受けてがない中で俺が行くしかな いっていうんで行ってで近の沖縄近のため にまあね簡易で尽くされてで結局行明に なったんですよね結局最後はどうなったか わかんないって方なんですけどねその方も 神戸でしかも私と母方のソフと同じような とこに住んでいてでそっから出行した船が 長野県の私が今住んでる近所の船長さんが あやつってね操縦してま沖縄に行ってそれ から悲劇にあってっていうことですごい縁 があるな と思って うんさ ああ沖縄が日本使て日本にそういう知が あるということが日本の財まそうですだと 思いますよ うんすごいご縁を感じたんですよねでその 去年の8月に8月日 終戦ということ であじゃないや8月そのそれその津りに 行ったのが6月の9日だったんです上旬 だったんですよ えー要するに沖縄の祭の2週間前にそう いうイベントがあるので私か毎年行ってる イベントがあるのであの一て初めて津森 記念館を見てでそれから2週間後の6月の え20日前後の沖縄の慰霊祭に合わせて その栃木の方でイベントがあったんですよ ねさっき言ったあの え沖縄でね初会事業に当たっていた警察 部長今で言うとの研究本部長というのは あの栃の出身の方なのでそこで毎年 イベント行われてで私もちょっとねあの その方のこともあのさっきの本人さっきの こね沖縄のあのえ島森を語群像の副主人公 主人公の2主人公のちの1人なのでそれで まあの行ったり行ってたんですけどその イベントの司会をなさってる方がね ちょっとあの女性の方だったんですけどで その方とねちょっとねあの終わった後にね ちょっとお話したらいや私あのその方のね おっしゃったんですよ自分の母親 は母親は え沖縄中身で津島丸で子供をね印刷してい てのことて書いてきたんだっていう風に 押してえあ田村先生がおっしゃってた人は この人かという風にですねあピスさん こんばんはうんええと思って全然そんな方 がいるって全然存じ上げなかったし あでそうこんな話聞いたことないですかて 田村先生に言ったらねいや田村先生はもう 何度も愛してて で是非聞きてとおっしゃってましたよって うんち沖縄しに帰ってましたねあ こんばんはてあまさか生放送そうなんです すいません今日はねちょっと予告なしにね あの寝てて目が覚めたるだちょっと うんあの普段はねちょっとテーマを決めて ね割と事実社会問題こと喋ってるんです けどもまたまには1人でこういう取りとも なく喋るのがあってもいいかなと思って やってるんです けどうんそれがあったの でうんそこで盛り上がってねで結局その方 の上野かず子さんていうおっしゃる方なん ですけどもその方の本をその方がずっと そのお母様につい て書きためてらっしゃる原稿があるという のでじゃあうれ出しましょうかという話に なってトント拍子に進ん でで あの今年のね6月の3日に出すというアっ ても終ってやっとうんででることになった んですけど ね自分がそういうね沖縄のいわゆる沖縄線 についてここまであのうん関わることに なるとはっていう風にはちょっと思ったん ですがもうこういうお仕事は本当にご縁な んですよ ねさっきちょっとねあのチャット欄に いらしててもう落ちれたのかな高橋和さん とこいうね古代豪族相談っていう ねすしの後みたいなね部を作ったうんこれ もご縁ですでこの時のご縁でじゃあ男の 背中ってのをやろうかやりたいね男のこう いう写真を撮ったどうだということででき たのこの男の背中です しそういう風にいろんなごでねうんこう いう仕事ってのはできてくん でそのご縁を大事にするということがです ねま大事なんだろうなと思いますしね うんあの本当にね不思議なもの でそういう機会でもなければねなかなか そういう話って世に出ないじゃないですか でやっぱり本にするということ はなんだかんだってそういう方がいたと いうこと ねさっき言ったその印刷教員だった方と いう方ね がまあたまたまと言っていいと思いますよ その回りに乗り合わせ てで4日間何にたっ て自分だけじゃじゃなくて大勢のお子さん たちが一緒に立って て4日間海を漂流するだけでもうん 凄まじい経験だと思いますけれどもまそっ からあとはねできれば読んでいただきたい んですがまあすごい辛い思いされたわけ ですよでその思の戦後ずっと抱えて生きて い てなかなか申し訳ないなていう うんまそのお母さんもそうなんですけれど ももう1つねさっき言いましたがその津の 一見というのはさっきた沖縄のアメリカ国 がやってくる前の初会事業ということで 一環としてその津島丸がね大勢の770人 のお子さんたちを九州に運ぶと いうことを行われたわけですけれど もそれを進めたのが沖縄の察沖縄警察部長 今で言っとこの沖縄県警部長にあたる新井 太蔵さんという人でその人は栃木の出身 だって今申し上げました がその印刷教員だった荒崎光子さんていう 方 ねそのあの今回の本の著者のお母さんです けどもその方が戦後ずっと栃木に住ん でらしたんですよこれは実は偶然っていう 偶然ななんですけどねはっきり言っ てそれもまたごえでね でその上野さんという方は栃木で生まれに なって栃木でずっとお仕事をなさってい てでそういうなんて言うか な太平戦争の中での悲劇の1つっというの を沖縄と栃というね2つの土でお結ぶ存在 と言っていいのかな うんそれまた偶然なんですけどね本当に うん不思議な縁っていうのかなその不思議 さというものを不思議と言いますけどなん ですけど も一方でねその沖縄におけるその初会 事業津島丸の事件を起こした初会事業に 対する評価というもの のまだ強化が一定してないっていうのかな 議論の論争の待だったりするわけなんです よそれは今度の本に詳しく書いてあるん ですけどあるのでねあの本が発売決まり ましたら告知いたしますのでまたできれば お読みいただければありがたいんです がそういうものをまあどう引き受けるかと いう話でもあったりするんです ようん そういうたちの物語をどう引き受ける かって いうことであっ てで今年の8月 はこれ日付をねちょっとやっ間違えちゃ いけないのでうん に言いますけれども津島丸事件っていうの が起こったの がえ昭和19年だから1944年ですよ ねの8月 ですで今年はね8080年目なんですよ 沖縄先週決79年目ですけどもうん8月の 22日です ね8月の22 日月今年8月の22日が津が起こって80 年で でこの本その本時点はそれを狙ってたわけ じゃなくて偶然 あのそのね著者の方とお会いしたのが去年 の8月です からうんあ違ごめんなさい6月ですから その後ねあのうんそう いうご縁まあるご縁というのかなもあっ たりするのでうん 島まで走るん だま 偶然の重なりがそうや偶然の重なりという のかな偶然の重なりがあってそういう冊の 方が出るってい形なんですけど も本当にねあの出版という仕事をやってい て こを出すというのはこれどの仕事でも同じ かもしれませんけれども1冊の本の中には それを作る人の思いがあるわけでその思い というものに触れ るっていうね1つ1つの触れ1つが触れ合 うっていうのか な1冊の本を作ることによって その書いてる方の人間 とそういうに ある自分ではない人 とぶつかるぶつかるんじゃないな向き合う っていうのか なことになるのでうんそれがこの仕事の 面白さですよ ねその本に書かれてることはその人にとっ ての1つの世界なわけです自分とは違う 人間の世界なんですよねその世界そのその 人がの中にある内側にある世界その人経験 してきた世界そのというものと触れてそれ をその人の思いを形にしてくのがこの出版 という仕事なので うんいや別にそれはね仲良くなるとかそう いうことじゃないんですよ実言う と逆にそういう深い付き合いだからこそっ ていううんあと言葉にごしますけどという こともねあのなくはないんでうんまあなか ないてか結構ある話なんだ な当然それによって気付くこともなくは ないですしうんなくはないしかし ながらどういう形にしよそこで あの様々な方々との そうやって触れる触れ合う触れ合う うん関わりを持つことによっ て自分の中にない世界 を大げさにば経験するうんこういう世界が 経験するはちょっとげだなこういう世界が あるんだということを 知るそれは本読んで知るということも今 ありますしかしその人の本をつつけること によってその人の中にある世界じゃなくて そういう世界を持っているその人と の接するってのか なそれは自分とってすごく貴重な経験です しそういう意味で貴重じゃない経験今まで 私あさエホ作ってきたんだろう なあ年に10冊か20冊作ってきえっと 大体中央論時代 にえっと本を作ってたの は大体30年近くホムを作ってきて年間 10から20だ からまあ何百冊作ってきてるはずなんです よね何百冊作ってるんですようんえで友人 員になってからね今の10冊10冊な 1234567ああ10冊あこれあ今飾っ てなかったここにったごめんなさい えっとこれもねこういう ポム広島から久島へというポムでします 12345678今度で10冊あその伸さ かってなかった あそうですね10冊作っててあちなみに 沖縄線に関してはね うんこういうのも作たしてですけどね沖縄 島と島駅といううんこういう中ですね はいあのさっき言ったあの洗い場とこれ ちょっともうなんかね本棚がねいっぱいに なっちゃったんでねいいねえっとうん男の 背中と重のあれだな重くないな重たくない けどごめんなさいあ背中の先ず硬くなっ ちゃう な うんちょっと ちょっとすいませんごめんなさいこれは やっぱちょっと語りくいあれなんですけど ね うんた考えようちょっと飾りでの作ろ1つ うんもう1個ちょっと魚を作って置いとい てって話だなあこんばんはみさんござして おりますはい はい今真中に突然やっておりますうん うんまあそうやってねいろんな方に 触れ合って色々色々ね出会いがあるという のがねこの仕事の白さ で うんあだからそうさっきあちょっと 言いかけましけどそうやって 多分2300冊ぐらい作ってんのか なそうですよ食で毎年10年10冊ぐらい 作ってきました から304冊ぐらい作ってじゃないかな そんなに良くないですよだだ年間月年間 30冊ぐらい作ってる人っていますからね あの編集者なんかでは うん私なんかそんなに多くじゃないです よで友人所員でちょうど11冊だで今度の 11冊目広島から福島でちょうど11冊な んですけど ね あのそうこれ陳列棚本当は 作ろう陳列棚を作ってちょっとうん後ろに 置くようにしよううんそうしよううんあの そういうね うんせっかくカメラのちょ変わったし家の ディス配置も違ったのでちょっと家の後ろ の背景の模様替えも必要ですね うんというこそうですねだからその中 でそうやって作った本の中でやってて無駄 だったじゃないかとか ね多分そういう本は多分1冊もないと思い ますこれは断言し ます書かれた 人まあ亡くなった人の本なんかもあったり するんですけど ねその沖縄線で言うとね さっきの沖縄線で言うとうんこれ中央高論 時代に ね沖縄の高級山房だった八原広道というね あの沖縄戦の事実の作戦立案をした人です よその方の主が戦後になって書かていた主 というのを40年ぶりぐらいに復活した こともあります でそん時にはうんそういう戦争代表戦争中 のそういう軍人とか要するに当事者ですよ ね当事者としかかった人たちの主を復活 するていう仕事をちょっとやっていてで その中で40何年か全般になっていた本を 復活させたわけなんですけど もそん時にはね当然そのて原さんという3 の方ゃないんだけどもうなくなってるん です けどあの亡くなってまだね50年経って ない50年経つと著作権あの著作権って いうのがありましてね当時は50年だった んですよ亡てから50年はあの著作権って いうのが子孫に継承されて子孫の方の許可 なしに勝手に本出しちゃいけないんですよ ねだからその矢原さんていう人の主の方 分かんなくてうんということがあったりし て で結構すごくいろんな手をつかして調べ て最終的には ねそのヤさんの子孫の方のお子さんの名前 だか分かったんでそれを検索していったら なんだっけな 当時うん首都県だけて言ますけど首都県の 方のある町の絵の会に所属されたっていう ことが分かってそのねその絵がねの会の 作品がねホームページで掲載されていて ちょあの書き手の前がなったのでこれ ひょっとしてと思って連絡してみたら主の 方に連絡してみたらまさに動物者でそのご 長男の方がその絵会にいらっしゃっだった んででその方に連絡取れてま本が噛んでき たりしたんですけれども [音楽] うんそうやってみるとね私そんなに戦争と か沖縄線とかにそんなに詳しく関わって たり運動してるわけじゃないんだけどそれ なりの関わりができてるのかなもう作って たりするんですよね面白い面白いもん 面白いというと語弊がありますけども うんということです ねという本を出し ますと別にこんな話をしようと思ってやっ たわけじゃないんです がなんとなくねあのさっきちょっと冒頭の 方で申し上げたんですけどうん えっと11時半ぐらいまでかな12時手前 までぐらいだかなこれ初めての11時半 ぐらいでたっけちょっと寝てまして ねも結構私薄してでしょこれさ1枚あのね 長野県ね今すごいあったかいんですよ昼間 は暑いぐらいなんですけどね夜になると 冷えるんですよね で一応寝る時にね一応布団かぶって未だに ちょっと布団とも掛け布団の上に毛布 掛け布団とモフと両方使ってんですよって のはねけがくになるとねすごい冷え込むん でそこでねこえたりするんでねところが寝 てる間にね布団腫れのけたりしてんですよ で11時ぐらいになるとだんだん冷えてき てで今日はね なんかさっき目が覚めた時には布団もね 全部れって てた状態で冷えたんで目が覚めちゃって それでね今 うんまあの仕事の悩ってのはあるんです けどちょっとまさっき言ったねあの うん うんさしちょっとごせね うんうん うんうんちょっとさ次なか今前書いたん だうんまあでちょっとやろうかなと思って てたまたまねあのさっきのチム丸の話に なってなんとなく沖縄の話をする会になっ ちゃった な うん うんあのこの配信の中でねうんまこういう なんだろう急に目が覚めて真中に1人で ブツブツつくっていうのはねちょっと たまにやりたくなるんですよ な うんまいんです ようんうん すごくなんてのか な別に1人でるからってわけじゃないん でしょうけどね うんうんまあということですすまに関して はということ で一応ゲラに従ってもう一度ねそん なつぼみのまま日 けりす生還した教師の魂を娘 がつぼみのにゆけりっていうのはこの さっき言ったねこの著者のお母さんの荒崎 光子さんという方 が バナ自分の経験したこと語り始める タイミングでっていうわけじゃないです けど若 あの5511の繁下に託して自分の思いを 書き始めたらしたんです よその前から書いてたさんかなうんそら ない俺その上のさんからいだいたんです けどこういうあのあの過しになって ますこういうあの自分の思いを歌にされ て残していてしかもこれも発表されたって わけじゃなく て歌にたくして自分を経験したことを言葉 して残そうとした で裁判になになってうんご家族の方にもね あまり話されてなかったらしいんですよね その父で経験したことはでご数の方も やっぱりそれは辛い体験だってこと分かっ てるのでなかなか聞けなかったとところ やっぱり万年になってま周りでねやっぱ それはねちゃんと残さなきゃダメだよって いう風に周りからも進められたこともあっ たらしいんです けどじゃあやっぱり うん言い残してなければって いうこれはやはり言い残されれまっていう ことらしいんです ねちなみにねあの語りべっていう言葉ある じゃないです か物事を語に残していくっていうね 自分が経験した こと個人的なことは正式なことだっていう ねちょっとフミリスの方面のとこもあり ますけど もうんご人の経験されたことはなんであれ 語り継ぐ価値のある語り継ぐ価値のない 人生っての私はないと思ってい てもちろんその語た中ことに反応する人が いるいらっしゃるかというさはあると思い ますよあると思いますが語りすぎか価値の ない人生ってのはないと思っていて例えば それが ねまいいやちょっとあの細いのやめよう それ で うん津島丸に関しては語り認定となる みたいです ねうん その自分の体験したこと聞きことを語って いく構成に受け継いで いく出版という仕事はそれをねお手伝い する役目だと思ってるんですけどもそれで 私なんかはさやっぱりコナのさ あの日本の乞食ってあるじゃないです かあれはあの小食というねあのいわゆる神 の昔ね日本が誕生してからいによって日本 という国が誕生してからえそれが変換され とも母公式の場合6世紀のえ最後は水子店 の消毒大使の時代ですけどそこまで記録さ れてるわけなんですけどもその序文という のがあってねこの自分が本当かどうか わかんないけど も日田の荒れと いうま語り部が記憶していたことをえ天部 天皇ね7世紀の天皇ですけど 7世紀の天皇とびっくりするような人生を 送ってると思う本当にそれあと思うその天 天皇がその冷えのあれという人物が語り のしたことを記録させたっていうのが ねうん語らないだけそういうこと はまその うん文字にし て乞食の時代っていうのは日本語を 書き表す文字がなくて漢字だったんですよ ね漢字中央から伝った漢字しかなかったん でそれを漢字に記録残したのが乞食と言わ れますほぼ同時にね日本初期ってのはでき てるのでその乞食というのは実は義者じゃ ないかとかね冷えなれて本当に実在してか どか分からないって言うんですけども いずれにしてもあの文字ができる以前は 言葉で語り伝えていくしかなく てそれはおそらく例えば伝承であったり 昔話であったりビ奉仕の語りであったりね そういう肉として語り伝えたものと文字と して語り伝えたものがあっ て [音楽] うんすかしながら声にしない声にしない と文字にしないと 個々の人間が体験したことというのは残っ ていかないわけです よ多分3.11この上さんの本で ね福島第1原発メト50年え福島第1原発 時10年の現実それから広島から福島 へそこであの宇さんがジャーナルスで拾わ れた声というそのとあの3.1の事故で ありさらにはその3.1の事故の元となっ た元となっ たロスアラモスのね今回ねペンハイマの 映画で描かたそういうものその当時者たち の声というものを聞いて残して いくそこで誰か語らない で語ったことを残さないとそのそこがそこ で誰かが語り続いていかないとあれは文字 して残さないとそういう個人の体験という ものは声か声か文字かどちらかで残せて いかないと消えてしまうんですよね うんそこがねやっぱ語り伝えることの大事 さか なと思います ねうん [音楽] うんあのね 語り多分私ね私の自論なんですけどどんな 人間で も大体1冊の本をになるくらいの経験はし てるんです よ多分このに生まれ てそれののそれの時間を生きてきた方 は1冊の本になるくらいの人生を送っ てらっしゃる方はずなんですよ ねただその自分がってきた人生 を文字にしろ声に [音楽] しろどういう形 にすれば それが残っていくのかって いうそれが人の胸を打ったり人に勘弁を 与えたりっていうできるのかって いうその手段というものをその手段という のはねあるし具体性なんですよね具体性な んです よあいやありがとうございます疲れさん うんあの うんあるしね語りすぎっていうのはねあの 冷あれ以来さどう語り継いでいけばどこ まで人に広がっていくか人の心を売って それがあの構成まで語り継がれていく かっていうことに関してはあるしのスキ ルっていうのかなうんメソッドていうのか なそういうものが必要だそういうものが 磨かれてた歴史があってで今の出版文化 それからネットのあれも含めてなうん そういうものがねあの防台に蓄積された わけですけど もさんそうでしょうね上をただ沖縄の場合 にはさほら沖縄の地上線を経験した人の声 というの はうんある程度はなずっと沖縄の方々沖縄 の方沖縄の方々を中心とし たそういう経験団というものがねまある 程度記録されてると思いますこれ広島長崎 も同じです けどでも案外そうじゃない歴史って多いん ですよ本当は重大な歴史なんだけどそれを 経験した人の声が さあんまり残されてないっていう例えばな 終戦 の年に結構日本各でお自身が起ってんです よ ね西日本を中心しておじが怒ってて鉄構な 方亡くなってます がその事実自体があまり語られてない でしょ知らない方多い でしょあの同じ年に同じ年に広島に長崎 現場ことされ東京大州があり東京大州が ありま東京じゃなくて空があ りっていうのは 自体は残されていても うんでそういう ほら語り継ぎというもの が うん言いづらい な語りすぎというもの が残し やすいことと 残りついてこたあるの ねでね あの私がほら沖縄 た戦争いわゆる沖縄線というものについて 作った本はこれ私が愛したこと何でもなく て偶然なんですけど沖縄の投資者じゃなく てよそ者としてよそ者と言い方が手します ね者として沖縄との戦争にかかった人なん です よさっき言った沖縄線の時に第32軍と いう沖縄中中にあの駐屯している舞台の 作戦参謀だ原道さんこの方は えっと山陰手法の出身です ねで軍人として沖したそれから私が後ろに ある沖縄の島の形群像それの前に沖縄の島 という中高文庫で今でも出てる方があり ますけどこの主人公は当時の沖縄県だった 兵出身の島田 それから都木出身の新井太蔵当時沖縄検察 部長で今回はやっぱ栃と沖縄という ねうん沖縄といういわゆる日本における これ言い方難しいんだけどエニシティって のか な うん大日本帝国が明治新という時代になっ てで初めて放せした他者っていう行き方で いいのか なねある種 の近代国家の中に おける うんそう沖縄は経験なさてます でもやっぱあるんです よそういう沖縄いわゆる内中と大和中の 思い切った言葉を使えば 分断 うんっていうのはあるあります本当にあり ますこれ1回ごめんなさいねちょっと今日 のねあの寝ててね起きてね偶然始めたと いう配信で喋るには準備不足なんですけど も沖縄線の語り方ってねすごい難しいん ですよこて言うとさっき言っ た 沖縄というアルシのSシティって言ってる のかな沖縄にもて沖縄だった方の沖縄戦と それを戦争当時よそからに人間が経験した 沖さそれを どう語っていくかということは すごい微妙な問題を含んでい てそれはねもうはとはっきり言っちゃうと 日本と いう日本はとはどこかどこまで日本という のかていう問題ない です うん例えば北海道は日本なのかどう か明治人の前の江戸時代は沖縄のねあ 北海道の南の蜂のいわゆる松前班ってのが あって 函館あに抑えたんですよねそれ以外は いわゆるアイヌと呼ばれる今で言うアイヌ と呼ばれがいて当時日本では映とか映像と かねエミとか言われた人が住むいわゆる 日本外の地域でし た今でいう沖縄ねっていうのは当時は琉球 ですよね琉球王朝っていうのがあってで それは 日本量なのか中国の半島なのか曖昧な 地域でしたねあと台湾の問題というもあり ます台湾っていうのは中国な本なの か台湾っていうのは中国の範囲ないかどう かということは歴史影響すごい複雑歴史を 持ってますねでそのそういう複雑歴史を持 北海道沖縄台湾さらにははっきりとこれは ね外国でやった朝鮮半島というの大日本 帝国は自分の半島にした です民地であったかどうかとかっていう ことはねもあのあんまり関係ない です朝鮮半島は戦前の長戦半島は植民地 じゃないとあれは日韓併合という日韓形の 対当の合併だったんだから植民者じゃない ということはありますけどもあんまり関係 ないです要するに自分のハトのに収めた わけ ですそういう戦前の日本大日本低空が80 年間やってき た うんやってきた歴史というものの複雑さと いうもの をそのそういうものがと一旦なくなっ たなくなったっていうけど さ太陽戦争における敗北で朝鮮半島と台湾 は日本じゃなくなりました沖縄は 政権という形でねあちなみに今の沖縄って のは日本の主権がぐ範囲かどうかってのは 議論の地があるんです よ米軍 が日本に変換したのは沖縄の市政権であっ て主権じゃないという会しもあり 得るうん日本の試験の外外だっていう言い 方もできなかないでなできなかないって いうかさまその辺はさ言葉の嫌なんだね はっきり言って そ沖縄のほとんどをさアメリカ軍が中流し てるっていうさ根拠は何かっていうさ言葉 の問題なんですよ実際には沖縄県ははり 日本ですはっきり言って日本だ けど沖縄のの文化というものと日本の いわゆるそれ以外の日本の文化の違い みたいなものっていうのはもっと複雑で 組み合ってていってて単純にあれは沖縄だ から沖縄沖縄日本じゃないからとかさもう そういうさ分かりやすいさ乱暴な議論で 分けちゃいけない地域であるわけでそう いう地域を日本は内行してるわけでそこで その複雑さというものはゆ複雑だから豊か さ豊かなんだっていう風に さ思うのは一番いいんです よす複雑さてやだって人たちが さ議論を訳してるだ からどうでしょうとか山ないしとその外と かさ色々あります でしょ うんやっぱり今年の夏も色々な沖縄が テーマになんのかな自分にとって は うんいう感がありますね はいということで え今夜ははい 久しぶりに うん え弱のですねわちなみにこのねタイトルに ある岩のっていうのは平安時代の物語に あるんですよ覚めの物語とか言ったするん ですけどねえ今のめ自体はまあ平安の恋愛 もって言っていいのかなというなんだけど 物語なんです けど覚めってのがね 寝てまた起きちゃうっていう夜中に結構ね あの平安時代のわのテーマの1つとして 大きいんですよなんか目が覚めちゃっ たってのはさで今ほら目が夜中に目が覚め てもねゲームやったりテレビ見たりこう やって配信したりありますけどあの平安 時代ってのは年上前においては目が覚めて もやることなかったですから ねうんだって暗いか中で燃料でに火をつけ てね証明するにもね手前かかった時です からそれ今日タイトルにしましたうん要し にまあ大してテーマがあって語いてわけ じゃなくて夜中にたた夜中に目が覚め ちゃったからちょっと喋ろうかなっていう うんその程度のもんです ねあどこですか行きたいとこ決まったって のは うんよろしければ はいちなみにねあの津記念館っていうね とこっ て那覇市のく字ということなんですけど ここ実は面白くてねく字ってのは琉朝あの 全近の琉朝時代は村と言ってなぜ村でいい のかって私分からないんだけどいわゆる 中国大陸からやってきた家郷の商人たちの 集まる村だったらしいんですようんその うんそう いう建物とかね公園とかありあるすごい 面白い地域ですね沖縄自体がすごく様々な ね文化を内風してるところでとえばま今 修理場なんてさ修理場どのね 1回かで何年か前に焼けてね今どの程度 修復されての分かりませんけれど も修理場というのは実はね中国とやと朝鮮 半島の文化が入ってるとある日本の文化と のハイブリッドなところがあったりするの でいわゆる東アジアの多様性っていうのは 経験できる場所でもあったりするんですよ ね でその多様性というのは戦争と いう状態いうことになると例えば そのウクライナ戦争 がロシアとクライナの2つの国の対立だっ ていう風に悪けれ ないかっ たりガの痛ましい今現在進行系の事態 をイスラエルパレスティナの文脈だけでさ れないように沖縄線 も うん ああきねたんはうん 行っていたたです ねちなみにあの6月のうんもう行っていい のかな6月の小中の日に え準道覇店であの準道中の準道でまあ多分 まあのそろそろ精神にやると思いますけど ちょっと今回の県についてイベントやり ますえのやっぱ1回は行かなきゃいけない んだろなと思います ね行くのか な6月の夜日から11日までね3泊4日で 沖縄行くんでうん1回辺のも行ってった方 がいいのかな 沖縄というね沖縄はやっぱりねこれすごい 上から目線に聞こえたられなんですけどか もしれませんけど も沖縄という 存在語弊があったらあれですけど 昨年隊員の歴史の中で は 日本のうちなるのか外なのかっていう外な のかっていう議論の吉のある地域をが存在 するということの大切さ がの大切さ複雑さというものは ねうんやっぱり大勢の人がにどって うんねうんやっぱ意識しなせないん でしょう ねはいということではいもう一時でござい ますので今日はねちょっと1人 で久しぶりに1人であの話になりました けれどもはいこれで終わりたいと思います どうも皆様よろしくお願いしますと ね広島が島 えー8月は うん6月はきなんですけども8月6日 とりあえずね3月の3.11とあと オッペンハイマーねアカデミーなな撮った が重なりましたけれどもおお佐木香さん こんばんはお久しぶり超お久しぶりです やんばるコなんて米軍のやんばるやんばる ねはいはい うん東にけるさアメリカ君のプレゼンスっ ていう問題っていうのはねまた ちょちょっと変だけどうん例えばさ私答え なくてしてんですけど韓国と日本にの国内 にはさ米軍あるでしょでも台湾には米軍 ないんです よそれ別に台湾 が日本や韓国と違ってアメリカから自立し てるっていう問題でもないですうん単純に ちゃと台湾ってほらアメリカも韓国も日本 も中国とは別のだということになってない から ああなるほど ね多分それあのいろんな地域にとっては おそらく私さんなが今おっしゃったような こと同じようにその地域地域がね自分に とって無えな地域もあれば自分の中で自分 の中の中で1つの物語りを作って るっていうのもあるだろうし ねうんまそれをどうるかっていうことなん ですけど ねどう物語として伝えてくかっていうで それを文字や声に越すかっていう話なん ですよ ある意味語りすぎってちょっと競争とまで 言わないけどそういうももあっ てば原平合戦ってのはさやっぱりさ美和 奉仕というね優れた語り手を手て物語書に 残ってるわけじゃないですかそれの違いっ てのはやっぱありますよね はいということでもう1日きましたんで今 ゆかさん来ていただいたから なもうちょっと私体力あればねもう ちょっとね あの続けられるかもしれませんけど もうん今日はちょっとこの辺で皆さお 付き合いありがとうございましたうんあの 久しぶりの方ともね うんゆさんがおっしゃる通り ほらレセル分を繋げた繋げるかどうかと いうことがいわゆる語りべと言われてたち の役なんです よあの言葉の難しさというのは個の人間 言葉発する言葉というの は自分の思いとか自分の経験を言葉にして もそれは言葉というものがね発せらった 瞬間にこれユネスコっていうルーマの出身 でフランスで活躍した教が書いてんだけど 意味のない破片となって中頼ってるという 言い方してますねそれをどう1つに繋げて いって1つの物語に するそこで初めて歴史っていうのはそこう やって生まれるん ですあトイレに置きたらさの動動い たそういうね偶然性みたいなものの面白さ をねちょっとね演習してたって言うとね ちょっとはいいですけどもはいということ ではい うん結構今日はね深い話をしたような気も するし深くない話もしたような気もするし あのちょっとよくわかりませんがいずれに してもあのはいど皆様お付き合い ありがとうございました今日はこれでね 終わりたいと思いますちょちょっといい 感じで眠くなってきましたので明日次のね ちゃんとしたちゃんとしてといくないのか な今日だって別にちゃんとしてないとは 言いませんけど ねうん次の配信の予定はま次の配信で ちゃんとしたのはえ5月4日え今週土曜日 ですね え9時半からマドンナえスネさんとのえ カシスタフでマドンナというねこれまた 問題なかなかね問題なれがなんですけど それやりたいと思います はいということでえ今夜は うんうん今夜はこれで終いたいと思います どうもどうも皆様よいゴールデンウィーク をお座くださいおなさい

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