【朗読】江戸川乱歩『灰神楽』- 完全犯罪の論理! オーディオブック【字幕】

灰神楽
江戸川乱歩

アッと思う間に相手はまるで泥
で拵えた人形がくずれでもする
様にグナリと前の机の上に平たくなった
顔は鼻柱がくだけはしないかと
思われる程ペッタリと真正面に
机におしつけられていた
そしてその顔の黄色い皮膚と机
掛の青い織物との間から椿の様
に真赤な液体がドクドクと吹き
出していた
今の騒ぎで鉄瓶がくつがえり大きな
桐の角火鉢からは噴火山の様に
灰神楽が立昇ってそれが拳銃の
煙と一緒にまるで濃霧の様に部屋
の中をとじ込めていた
覗きからくりの絵板がカタリと
落ちた様に一刹那に世界が変って
了った
庄太郎はいっそ不思議な気がした
こりゃまあどうしたことだ
彼は胸の中でさも暢気相にそんな
ことを云っていた
併し数秒間の後には彼は右の手
先が重いのを意識した
見るとそこには相手の奥村一郎
所有の小型拳銃が光っていた
俺が殺したんだ
ギョクンと喉がつかえた様な気が
した
胸の所がガラン洞になって心臓
がいやに上の方へ浮上って来た
そして顎の筋肉がツーンとしび
れてやがて歯の根がガクガクと
動き始めた
意識の恢復した彼が第一に考え
たことはいうまでもなく銃声
についてであった
彼自身にはただ変な手答えの外
何の物音も聞えなかったけれど
拳銃が発射された以上銃声
が響かぬ筈はなくそれを聞きつけて
誰かがここへやって来はしない
かという心配であった
彼はいきなり立上ってグルグル
と部屋の中を歩き廻った
時々立止っては耳をすました
隣の部屋には階段の降り口があった
だが庄太郎にはそこへ近づく勇気
がなかった
今にもヌッと人の頭がそこへ現
れ相な気がした
彼は階段の方へ行きかけては引
返した
併し暫くそうしていても誰も来る
気勢がなかった
一方では時間が立つにつれて庄
太郎の記憶力が蘇って来た何を
怖がっているのだ
階下には誰もいなかった筈じゃないか
奥村の細君は里へ帰っているの
だし婆やは彼の来る以前に可也
遠方へ使に出されたというではない

だが待てよ若しや近所の人が
漸く冷静を取返した庄太郎は死
人のすぐ前に開け放された障子
からそっと半面を出して覗いて
見た
広い庭を隔てて左右に隣家の二階
が見えた
一方は不在らしく雨戸が閉っている
しもう一方はガランと開け放した
座敷に人影もなかった
正面は茂った木立を通して塀の
向うに広っぱがありそこに数名
の青年が鞠投げをやっているの
がチラチラと見えていた
彼等は何も知らないらしく夢中
になって遊んでいた
秋の空に鞠を打つバットの音が
冴えて響いた
彼はこれ程の大事件を知らぬ顔
に静まり返っている世間が不思議
で耐らなかった
ひょっとしたら俺は夢を見ている
のではないか
そんなことを考えて見たりした
併し振り返るとそこには血に染
った死人が無気味な人形の様に
黙していた
その様子が明らかに夢ではなかった
やがて彼はふとある事に気づいた
丁度稲の取入れ時で附近の田畑
には鳥おどしの空鉄砲があちこち
で鳴り響いていた
さっき奥村との対談中あんなに
激している際にも彼は時々その
音を聞いた
今彼が奥村を打殺した銃声も遠方
の人々にはその鳥おどしの銃声と
区別がつかなかったに相違ない
家には誰もいない銃声は疑われ
なかった
とするとうまく行けば彼は助かる
かも知れないのである
早く早く早く
耳の奥で半鐘の様なものがガンガン
と鳴り出した
彼はその時もまだ手にしていた
拳銃を死人の側へ投げ出すとソロ
ソロと階段の方へ行こうとした
そして一歩足を踏み出した時である
庭の方でバサッというひどい音が
して樹の枝がザワザワと鳴った

彼は吐き気の様なものを感じて
その方を振り向いた
だがそこには彼の予期した様な人
影はなかった
今の物音は一体何事であったろう
彼は判断を下し兼ねて寧ろ判断
をしようともせず一瞬間そこに
立往生をしていた
庭の中だよ
すると外の広っぱの方からそんな
声が聞えて来た
中かい
じゃ俺が取って来よう
それは聞き覚えのある奥村の弟
の中学生の声であった
彼はさっき広っぱの方を覗いた
時にその奥村二郎がバットを振り
廻しているのを頭の隅で認めた
ことを思出した
やがて快活な跫音とバタンと裏
木戸の開く音とが聞えそれから
ガサガサと植込みの間を歩き廻る
様子が二郎の烈しい呼吸づかい
までも手に取る様に感じられる
のであった
庄太郎には殊更そう思われたのか
知れぬけれどボールを探すのは
可也手間取った
二郎はさも暢気相に口笛など吹き
ながらいつまでもゴソゴソという
音をやめなかった
あったよう
やっとしてから二郎の突拍子もない
大声が庄太郎を飛上らせた
そして彼はそのまま二階の方など
見向きもしないで外の広っぱへ
と駈け出して行く様子であった
あいつはきっと知っているのだ
この部屋で何かがあったことを
知っているのだ
それを態とそ知らぬ振りでボール
を探す様な顔をしてその実は二階
の様子を伺いに来たのだ
庄太郎はふとそんな事を考えた
だがあいつは仮令銃声を疑った
としても俺がこの家へ来ている
ことは知る筈がない
あいつは俺が来る以前からあす
こで遊んでいたのだ
この部屋の様子は広っぱの方から
は杉の木立が邪魔になってよく
は見えないしたとえ見えたところで
遠方のことだから俺の顔まで見
別けられる筈はない
彼は一方ではそんな風にも考えた
そしてその疑いを確める為に障子
から半面を出して広っぱの方を
覗いて見た
そこには木立の隙間からバット
を振り振り走って行く二郎の後姿
が眺められた
彼は元の位置に帰るとすぐ何事も
なかった様に打球の遊戯を始める
のであった
大丈夫大丈夫あいつは何にも知らない
のだ
庄太郎はさっきの愚な邪推を笑う
どころではなく強いて自分自身
を安心させる様に大丈夫大丈夫
と繰返した
併しもうぐずぐずしてはいられない
第二の難関が待っているのだ
彼が無事に門の外へ出るまでに
使いに出された婆やが帰って来る
かそれとも他の来客とぶっつかる
かそんなことがないとどうして
断言出来よう
彼は今更そこへ気がついた様に
慌てふためいて階段をかけおり

途中で足が云う事を聞かなくなって
ひどい音を立てて辷り落ちたけ
れど彼はそんなことを殆ど意識
しなかった
そしてまるで態との様に玄関の
格子をガタピシ云わせてやっと
のことで門の所までたどることが
出来た
が門を出ようとして彼はハッと
立止った
ある重大な手抜りに気づいたのだ
あの様な際によくもそこまで考え
廻すことが出来たと彼はあとになって
屡々不思議に思った
彼は日頃新聞の三面記事などで
指紋というものの重大さを学ん
でいた
寧ろ実際以上に誇張して考えて
いた程である
今まで握っていたあの拳銃には
彼の指紋が残っているに相違ない
他の万事が好都合に運んでもあの
指紋たった一つによって犯罪が
露顕するのだ
そう思うと彼はどうしてもそのまま
立去ることは出来なかった
もう一度二階へ戻るというのは
その際の彼に取って殆ど不可能
に近い事柄ではあったけれど彼は
死にもの狂いの気力を奮って更
に家の中へ取って返した
両足が義足の様にしびれて歩く
度毎に膝頭がガクリガクリと折れた
どうして二階へ上ったかどうして
拳銃を拭き清めたかそれからどうして
門前へ出て来たか後で考えると
少しも記憶に残っていなかった
門の外には幸い人通りがなかった
その辺は郊外のことで住宅とい
っては庭の広い一軒家がまばら
に建っているばかりで昼間でも
往来は途絶え勝ちなのだ
殆ど思考力を失った庄太郎はその
田舎道をフラフラと歩いて行った
早く早く早くという声が時計の
セコンドの様に絶え間なく耳許
に聞えていた
それにも拘らず彼の歩調は一向
早くなかった
外見は暢気な郊外散歩者とも見え
たであろう
その実彼はまるで夢遊病者の様
に今歩いているということすら
殆ど意識していないのであった

どうして拳銃を打つ様なことになった
のか時のはずみとは云え余りに
意外な出来事であった
庄太郎は彼自身が恐しい人殺し
だなどとはまるで嘘の様な話で
殆ど信じ兼ねる程であった
庄太郎と奥村一郎とが一人の女性
を中心に烈しい反感を抱き合って
いたことは事実である
その感情が互に反撥して加速度
に高まりつつあったことも事実
である
そして折につけつまらない外の
議論が二人を異常に興奮せしめ

彼等は双方共決して問題の中心
に触れ様とはしなかった
その代りに問題外の極く些細な
事柄がいつも議論の対象となり
殆ど狂的にまでいがみ合うのであった
その上一層いけないのは庄太郎
に取っては一郎がある意味のパトロン
であったことだ
貧乏画かきの庄太郎は一郎の補助
なしには生きて行くことが出来
なかった
彼は云い難き不快を圧えて屡々
恋敵の門をくぐることを余儀なく
された
今度の事件も事の起りはやはり
夫であった
その時一郎はいつになくキッパリ
と庄太郎の借金の申込みを拒絶
した
このあからさまな敵意に逢って
庄太郎はカッとのぼせ上った
恋敵の前に頭を下げて物乞いを
している自分自身が此上もなく
みじめに見えた
それと同時にその心持を十分知って
いながら自己の有利な立場を利用
してあらぬ所に敵意を見せる相手
がジリジリする程癪に触った
一郎の方では何も借金の申込に
応ずる義理はないと云い張った
庄太郎の方ではこれまでパトロン
の様に振舞って置きながらそして
暗黙の内に物質的援助を予期させて
置きながら今更金が貸せないと
云われては困ると主張した
争いは段々烈しくなって行った
問題が焦点をそれていることが
その代りに野卑な金銭上の事柄
にまでこうしていがみ合わなければ
ならぬと云う意識が一層二人を
耐らなくした
併し若しその時一郎の机の上に
あの拳銃が出ていなかったらまさか
こんなことにもならなかったで
あろうが悪いことには一郎は日
頃から銃器類に興味を持っていて
丁度当時その附近に屡々強盗沙汰
があったものだから護身の意味
で弾丸まで込めて机の上に置いて
いたのである
それを庄太郎が手に取ってつい
相手を撃ち殺して了ったのだ
それにしてもどうしてあの拳銃
を取ったかそして引金に指をかけ
たか庄太郎にはそのきっかけが
少しも思い出せないのだった
ふだんの庄太郎であったら如何
に口論をすればとて相手を撃ち
殺そうなどとは考えさえもしなかった
であろう
時のはずみと云うか魔がさした
というか殆ど常識では判断も出来ない
様な事件である
だが庄太郎が人殺しだということは
最早どうすることも出来ない事実
であった
この上はいさぎよく自首して出る
かそれともあくまでそ知らぬ振り
をしているか二つの方法しかない
そして庄太郎はその何れの道を
採ったか彼は読者も已に推察された
様に云うまでもなく後者を選んだ
のである
これが若し彼が犯人だと知れる
様な証拠が少しでも残っている
のだったらまさか彼とてもそんな
野望を抱きはしなかったであろう
だがそこには何の証拠もないのだ
指紋すらも残ってはいないのだ
彼は下宿に帰ってから一晩中その
ことばかりを繰返し繰返し考え
続けた
そして結局あくまでもそ知らぬ
体を装うことに決心した
うまく行けば一郎は自殺したもの
と判断されるかも知れない
仮りに一歩を譲って他殺の疑い
がかかったとしても何を証拠に
庄太郎を犯人だと極めることが
出来るのだ
現場には何の証跡も残ってはいない
そればかりかその時分庄太郎が
一郎の部屋にいたということを
すら誰も知らないではないか
ナアニ心配することがあるもの

俺はいつでも運がいいのだ
これまでとても犯罪に近い悪事
を屡々やっているではないかそして
それが少しも発覚しなかったではない

やがて彼はそんな気安めを考え
得る程になっていた
そうして一安心するとそこへ人殺し
とはまるで違ったはなやかな人生
が浮き上って来た
考えて見れば彼はあの殺人によって
計らずも二人で争っていた恋人
を独占した訳であった
社会的地位と物質との為にいくら
か一郎の方へ傾いていた彼女も
最早その対象を失ったのである
オオ俺は何という幸運児であろう
夜寝床の中では昼間とは打って
変って楽天的になる庄太郎であった
彼は煎餅蒲団にくるまって天井
の節穴を眺めながら恋しい人の
上を思った
何とも形容の出来ないはなやかな
色彩と快い薫と柔かな音響が彼
の心を占めた

だが彼のこの安心も畢竟寝床の中
だけのものであった
翌朝殆ど一睡もしなかった彼の
前に第一に来たものは恐しい記事
をのせた新聞であった
そしてその記事の内容がたちまち
彼の心臓を軽くした
そこには二段抜きの大見出しで
奥村一郎の惨死が報道されていた
検死の模様も簡単に記されてあった

前額の中央に弾痕のある点ピストル
の落ちていた位置等を以て見る
も自殺とは考えられぬ其筋では
他殺の見込みを以て已に犯人捜索
に着手した
そういう意味の二三行がギラギラ
と庄太郎の眼に焼きついた
彼はそれを読むと何か急用でも
思いついたかの様にいきなりガバ
と蒲団から起き上った
だが起き上ってどうしようという
のだ
彼は思い直して又蒲団の中へもぐり
込んだ
そしてすぐ側に怖いものでもいる
様に頭から蒲団をかぶると身を
縮めてじっとしていた
一時間ばかりの後その間彼がどんな
地獄を味ったかは読者の想像に
任せる彼はそそくさと起き上る
と着物を着換えて外へ出た
茶の間を通る時宿の主婦が声を
かけたけれど彼は聞えぬのか返事
もしなかった
彼は何かに引きつけられる様に
恋人の所へ急いだ
今逢って置かなければもう永久
に顔を見る機会がない様な気が
するのだ
ところが一里の道を電車に揺られて
彼女を訪ねた結果はどうであったか
そこにも亦恐しい疑いの目が彼
を待っていたのだ
彼女は無論事件を知っていた
そして日頃の事情から推して当然
庄太郎に一種の疑いを抱いていた
実はそうではなかったのかも知
れないけれど脛に傷持つ庄太郎
にはそうとしか考えられなかった
第一に追いつめられた獣物の様
な庄太郎の様子が相手を驚かせ

それを見ると彼女の方でも青ざ
めた
折角逢いは逢いながら二人はろくろ
く話を交すことも出来なかった
庄太郎は相手の目に疑惑の色を読む
と其上じっとしてはいられなかった
座敷に通ったかと思うともう暇
を告げていた
そして今度はどこという当もなく
フラフラと街から街を彷徨った
どこまで逃げてもたった五尺の
身体を隠す場所がなかった
日の暮れがたになってヘトヘト
に疲れ切った庄太郎はやっぱり
自分の宿へ帰る外はなかった
宿の主婦は僅一日の間に大病人の
様に痩せ衰えた彼を不思議相に
眺めた
そして狂者の様な彼の目つきにお
ずおずしながら一枚の名刺を差出
した
その名刺の主が彼の不在中に訪
ねて来たというのだ
そこにはxx警察署刑事xxxx
と印刷されてあった
アア刑事ですね僕の所へ刑事が
訪ねて来るなんてこいつは大笑い
ですねハハ
思わずそんな無意味な言葉が彼
の口をついて出た
彼はそうしてゲラゲラと笑い出した
だが口丈は馬鹿笑いをしていても
彼の顔つきは少しもおかし相には
見えなかった
その異様な態度が更に主婦を驚
かせた
その晩おそくまで彼は殆ど放心
状態でいた
考えようにも考える事がない様
な或は余りにありすぎてどれを
考えていいのか分らない様な一種
異様の気持であった
がやがていつもの夜の楽観
が彼を訪れた
そしていくらか思考力を取り返す
ことが出来た
俺は一体何を恐れていたのだろう
考えて見れば昼間の焦燥は無意味
であった
仮令奥村一郎の死が他殺と断定
されようと恋人が彼に疑惑の目
を向けようと或は又刑事探偵が
訪ねて来ようと何も彼が有罪と
極った訳ではないのだ
彼等には一つも証拠というもの
がないではないか
それは単に疑惑に過ぎぬ
いやひょっとしたら彼自身の疑心暗鬼
かも知れないのだ
だが決して安心することは出来

なる程額の真中を撃って自殺する
奴もなかろうから警察が他殺と
判断したのは無理でない
とするとそこには下手人が必要

現場に何の証拠もなければ警察
は被害者の死を願う様な立場にある
人物を探すに相違ない
奥村一郎は日頃敵を持たぬ男だった
庄太郎を外にしてそんな立場の
人物が存在するであろうか
それに悪いことは弟の奥村二郎
が彼等の間の恋の葛藤をよく知って
いたことである
二郎の口からそれが警察に洩れない
とどうして云えよう
現に今日の刑事とても二郎の話を
聞いた上で十分疑いを持ってやって
来たのかも知れないではないか
考えるに従ってやっぱり逃れる
途はない様な気がする
だが果して絶体絶命であろうか
何かしらこの難関を切抜ける方法
がないものであろうか
それから一晩の間庄太郎は全身
の智慧をしぼり尽して考えた
異常の興奮が彼の頭脳を此上もなく
鋭敏にした
ありとあらゆる場合が彼の目の
前に浮んでは消えた
ある刹那彼は殺人現場の幻を描
いていた
そこには額の穴から血膿を流して
倒れている奥村一郎の姿があった
キラキラ光る拳銃があった
煙があった
桐の火鉢の五徳の上に半ば湯を
こぼした鉄瓶があった
濛々と立籠めた灰神楽があった
灰神楽灰神楽
彼は心の中でこんな言葉を繰返
した
そこに何かの暗示を含んでいる
様な気がするのだ
灰神楽
桐の大火鉢
火鉢の中の灰
そして彼はハタとある事に思い
及んだ
暗澹たる闇の中に一縷の光明が
燃え始めた
それは犯罪者の屡々陥る馬鹿馬鹿
しい妄想であったかも知れない
第三者から見れば一顧の価値もない
愚挙であったかも知れない
併しこの際の庄太郎にとっては
その考えが天来の福音の如く有
難いものに思われるのだった
そして考えに考えた挙句結局彼は
その計画を実行して見ることに
腹を極めた
そう事が極ると二昼夜に亙る不眠
が彼を恐しい熟睡に誘った
翌日の昼頃まで彼は何も知らない
で泥の様に睡った

さてその翌日愈々実行となると
彼は又しても二の足を踏まなければ
ならなかった
表の往来から聴えて来る威勢のいい
玄米パンの呼声自動車の警笛自転車
の鈴そして障子を照す眩しい白
日の光どれもこれも彼の暗澹たる
計画に比べては何と健康に冴え
渡っていることであろう
この快活なあけっぱなしな世界で
果してあの異様な考えが実現出来る
ものであろうか
だがへこたれてはいけない
昨夜あんなにも考えた挙句堅く
堅く決心した計画ではないか
その外にどんな方法があるという
のだ
躊躇している時ではない
これを実行しなかったらお前には
絞首台があるばかりだ
仮令失敗したところで元々ではない

実行だ実行だ
彼は奮然として起き上った
ゆっくりと手水を使って食事を
済ませると態と暢気らしく一渡り
新聞に目を通しふだん散歩に出る
のと同じ調子で口笛さえ吹きながら
ブラブラと宿を出た
それから一時間ばかりの間彼が
何処へ行って何をしたかそれは
後になって自然読者に分ること
だからここには説明を省いて彼が
奥村二郎を訪問した所から話を
進めるのが便宜である
さて奥村二郎の家の殺人の行われた
その同じ部屋で庄太郎と死者の
弟の二郎とが相対していた
で警察では加害者の見当がついて
いるのかい
一渡り悔みの挨拶が取交されて
から庄太郎はこんな風に切り出す
のであった
さあどうだか
中学上級生の二郎はあらわなる
敵意を以って相手の顔をじろじ
ろ眺めながら答えた多分駄目だろう
と思う
だって証拠が一つもないんだから

仮令疑わしい人間があるとして
もどうすることも出来ないさ
他殺は疑う余地がないらしいね
警察ではそう云っている
証拠が残っていないという話だが
この部屋は十分調べたのかしら
そりゃ無論だよ
誰かの本で読んだことがあるが
証拠というものはどんな場合にでも
残らない筈はない相だ
ただそれが人間の目で発見出来る
か出来ないかが問題なのだ
例えば一人の男がこの部屋へ入って
何一つ品物を動かさないで出て
行ったとする
そんな場合にも少くとも畳の上の
埃には何等かの変化が起こっている
筈だ
だからとその本の著者が云うの
だよ綿密なる科学的検査によれば
どの様な巧妙な犯罪をも発見する
ことが出来るって

それから又こういうこともある
人間というものは何かを探す場合
なるべく目につかない様な所部屋の
隅々とか物の蔭とかに注意を奪
われてすぐ鼻の先に抛り出して
ある大きな品物なぞを見逃すこと
がある
これは面白い心理だよ
だから最も上手な隠し場所はある
場合には最も人目につき易い所
へ露出して置くことなんだよ
だからどうだって云うのだい
僕等にして見ればそんな暢気らしい
理窟を云っている場合ではないん
だが
だからさ例えばだね
庄太郎は考え深そうに続けたこの
火鉢だってそうだ
こいつは部屋の中で最も目につき
易い中央にある
この火鉢を誰かが調べたかね
殊に中の灰に注意した人がある
かね
そんな物を調べた人はない様だね
そうだろう
火鉢の灰なんてことは誰しも閑
却し易いものだ
ところで君はさっき兄さんが殺
された時にはこの火鉢のところ
に一面に灰がこぼれていたと云
ったね無論それはここにかけて
あった鉄瓶が傾いて灰神楽が立った
からだろう
問題は何がその鉄瓶を傾けたか
という点だよ
実はね僕はさっき君がここへ来る
までに変なものを発見したのだ
ソラこれを見給え
庄太郎はそういうと火箸を持って
グルグル灰の中をかき探していた
がやがて一つの汚れたボールを
つまみ出した
これだよ
この鞠がどうして灰の中に隠れて
いたか
君は変だとは思わないかね
それを見ると二郎は驚きの目を見
張った
そして彼の額には少しばかり不安
らしい色が浮んだ
変だね
どうしてそんな所へボールが入った
のだろう
変だろう
僕はさっきから一つの推理を組み立て
て見たのだがね
兄さんの死んだ時ここの障子はす
っかり閉っていたかしら
いや丁度この机の前の所が一枚
開いてたよ
ではねこういうことは云えない
かしら兄さんを殺した犯人そんな
ものがあったと仮定すればだよ
その犯人の手が触れて鉄瓶の湯
がこぼれたと見ることも出来る
けれど又もう一つはそこの障子
の外から何かが飛んで来てこの
鉄瓶にぶっつかったと考えることも
出来相だね
そして後の場合の方が何となく
自然に見えやしないかい
じゃこのボールが外から飛んで
来たというのか
そうだよ
灰の中にボールが落ちていた以上
そう考える方が至当ではないだろう

ところで君はよくこの裏の広っぱ
で鞠投げをやるね
その日はどうだったい
兄さんの死んだ日には
やっていたよ
二郎は益々不安を感じながら答え
ただがここまでボールを飛ばした
筈はない
尤も一度そこの塀を越したことは
あるけれど杉の木に当って下へ
落ちたよ
僕はちゃんとそれを拾ったのだから
間違いはないたまは一つもなく
なってやしないんだよ
そうかい
塀を越したことがあるのかい
無論バットで打ったのだろうね
だがその時下へ落ちたと思った
のは間違いで実は杉の木をかす
ってここまで飛んで来たのではない
だろうか
君は何か思い違いをしてやしない
かい
そんなことはないよ
ちゃんとそこの一番大きい杉の木
の根元の所でたまを拾ったんだもの
その外には一度だって塀を越したこと
なぞありゃしない
じゃそのボールに何か目印でも
つけてあったのかい
いやそんなものはないけれどたま
が塀を越して探して見ると庭の中に
落ちていたんだから間違いっこ
ないよ
併しこういう事も考え得るね
君が拾ったボールは実はその時
打った奴ではなくて以前からそこに
落ちていたボールであったという
こともね
そりゃそうだけれどだっておかしい

でもそうでも考える外に方法がない
じゃないか
この火鉢の中にボールがある以上

そして丁度その時鉄瓶の覆った
という一致がある以上は
君は時々この庭の中へボールを
打ち込みはしないかい
そしてひょっとしてその時探しても
植込みが茂っていたりして分らない
ままになって了った様なことはない
だろうか
それは分らないけれど
でこれが最も肝要な点なのだが
そのボールが塀を越したという
時間だねそれが若しや兄さんの
死んだ時と一致してやしないかい
その瞬間二郎はハッとした様に
顔の色を変えた
そして暫く云い渋ったあとでやっと
こう答えた
考えて見るとそれが偶然一致して
いるんだ
変だな変だな
そうして彼は俄にそわそわと落ち
つかぬ様子を示した
偶然ではないよ
そんなに偶然が幾つも重るという
ことはないよ
庄太郎は勝ちほこって云った先
ず灰神楽だ
灰の中のボールだ
それから君達の打ったたまが塀
を越した時間だ
それが悉く兄さんの死んだ時に
前後しているじゃないか
偶然にしては余り揃いすぎている

二郎はじっと一つ所を見つめて
何かに考え耽っていた
顔は青ざめ鼻の頭には粟粒の様
な汗の玉が浮かんでいた
庄太郎は私に計画の奏効を喜ん

彼はその問題のボールの打者が
外ならぬ二郎自身であったことを
知っていたのだ
君はもう僕が何を云おうとして
いるかを推察しただろう
その時ボールが杉の木を通り越
してここの障子の間から兄さんの
前へ飛んで来たのだよ
そして丁度その時兄さんは君も
知っている通りピストルをいじる
事の好きな兄さんはたまを込め
たそれを顔の前でもてあそんで
いたのだよ
偶然指が引金にかかっていたの
だね
ボールが兄さんの手を打った拍子
にピストルが発射したのだ
そして兄さんは自分の手で自分の
額を打ったのだよ
僕はそれに似た事件を外国の雑誌
で読んだことがある
それからそこで一度はずんだボール
はその余勢で鉄瓶を覆して灰の中に
落ち込んだのだ
勢がついているからボールは無
論灰の中へもぐって了う
これは凡て仮定に過ぎない
だが非常にプロバビリティのある
仮定ではないだろうか
先にも云った通り偶然としては
余りに揃いすぎた様々の一致が
この解釈を裏書きしてはいない
だろうか
警察のいう様にこれから先犯人
が出れば兎も角いつまでもそれが
分らない様なら僕のこの推定を
事実と見る外はないのだ
ネ君はそうは思わないかい
二郎は返事をしようともしなかった
さっきからの姿勢を少しもくず
さないでじっと一つ所を見つめて
いた
彼の顔には恐しい苦悶の色が現
れていた
ところで二郎君
庄太郎はここぞと取って置きの質問
を発したその時塀を越したボール
を打ったのは一体誰なんだい
君の友達かい
その男は考えて見れば罪の深い
ことをしたものだね
二郎はそれでも答えなかった
見ると彼の大きく見張った目尻
からギラギラと涙が湧き上って
いた
だが君何もそう心配することはない

庄太郎はもうこれで十分だと思
った若し僕の考えが当っていた
としてもそれは過失に過ぎない
のだ
ひょっとしてあのボールを打った
のが君自身であったところがそれは
どうも仕方のないことだ
決してその人が兄さんを殺した
訳ではない
アア僕はつまらないことを云い
出したね
君気を悪くしてはいけないよ
じゃね僕はこれから下へ行って
姉さんにお悔やみを云って来る
からもう君は何も考えないこと
にしたまえ
そして彼は嘗つては無様に辷り
落ちたあの梯子段を意気揚々と
下って行くのであった

庄太郎の突拍子もない計画はまんま
と成功したのである
あの調子なら二郎は今に耐らなく
なって彼が事実だと信じている
事柄を警察に申出るに相違ない
よしその以前に庄太郎が嫌疑者
として捉われる様なことがあっても
二郎の申出さえあれば訳なく疑い
を晴すことが出来る
彼の捏造した推理には単なる事情
推定による嫌疑者を釈放するには
十分過ぎる程の真実味があるのだ
のみならずそれが自分の過失から
兄を殺したと信じている二郎の
口によって述べられる時は一層
の迫真性が加わる訳でもあった
庄太郎は最早や十分安心することが
出来た
そして昨日の刑事がいずれ又やって
来るであろうが彼が来た時には
ああしてこうしてと手落なく謀
を廻すのであった
その次の日の昼過ぎに案の定xx
警察署刑事xx氏が庄太郎の下宿
を訪れた
宿の主婦が囁き声で
又この間の人が来ましたよ
といってその名刺を彼の机の上に
置いた時にも彼は決して騒がなかった
そうですかナニいいんですよここ
へ通して下さい
するとやがて階段に刑事の上って
来る跫音が聞えた
だが妙なことにはそれが一人の
跫音ではなく二人三人のそれらしく
感じられるのだ
おかしいな
と思いながら待っている目の前に
先ず刑事らしい男の顔が現れその
うしろから意外にも奥村二郎の
顔がひょいと覗いた
さては先生もうあの事を警察に
知らせたのだな
庄太郎はふとほほえみ相になった
のをやっと堪えた
だがあれは一体何者であろう
二郎の次に現れた商人体の男は
庄太郎はその男をどっかで見た
様な気がした
併しいくら考えて見てもどうした
知合いであるか少しも思い出せない
のだ
君が河合庄太郎か
刑事が横柄な調子で云ったオイ
番頭さんこの人だろうね
すると番頭さんと呼ばれた商人体
の男は即座にうなずいて見せて
エエ間違いございません
というのだ
それを聞くと庄太郎はハッとして
思わず立ち上った
彼には一瞬間に一切の事情が分
った
最早や運のつきなのだ
それにしてもどうしてこうも手
早く彼の計画が破れたのであろう
二郎がそれを見破ろうとはどうしても
考えられない
彼はボールを打った本人である
時間も一致すればお誂え向きに
障子が開いていたばかりか鉄瓶
さえ覆っていたのだ
この真に迫ったトリックをどうして
彼が気附くものか
それはきっと何か庄太郎自身に
錯誤があったものに相違ない
だがそれは一体どの様な錯誤であった
ろう
君は実際ひどい男だね
僕はうっかりだまされて了う所
だった
二郎が腹立たしげに怒鳴っただが
気の毒だけれど君はあんな小刀
細工をやったばかりにもう動きの
とれない証拠を作って了ったの
だよ
あの時には僕も気がつかなかった
けれどあすこにあった火鉢はあれ
は兄が殺された時に同じ場所に
置いてあったのとは別の火鉢なの
だよ
君は灰神楽のことをやかましく
云っていたがどうしてそこへ気
附かなかったのだろうね
これが天罰というものだよ
灰神楽の為に灰がすっかり固って
了って使えなくなったものだから
婆やが別の新しい火鉢と取り替
えて置いたのだよ
それは灰を入れてから一度も使
わぬ分だからボールなんぞ落ち込む
道理がないのだ
君は僕の家に同じ桐の火鉢が一つ
しかないとでも思っているのかい
昨夜始めてそのことが分った
僕は君の悪企みにほとほと感心
して了ったよ
よくもあんな空事を考え出した
もんだね
僕はその当時あの部屋になかった
火鉢にボールが落ちているとは
おかしいと思ってよく考えて見る
とどうも君の話し方に腑に落ちない
所がある
で兎も角今日早朝刑事さんに話
して見たのだ
運動具を売っている家はこの町
にも沢山はないからすぐ分った

君はこの番頭さんを覚えていない
かね
昨日の昼頃君はこの人からボール
を一箇買取ったではないか
そしてそれを泥で汚してさも古い
品の様に見せかけて奥村さんの
所の火鉢へ入れたのじゃないか
刑事が吐き出す様に云った
自分で入れて置いて自分で探し
出すのだから訳ないや
二郎が大きな声で笑い出した
庄太郎こそは正に御念の入った
犯罪者の愚挙
を演じたものに相違なかった

完全犯罪の論理! 殺人事件の偽装とその破綻に至る物語をBGM無しで読ませて頂きました。
おやすみや作業のお供にどうぞ……
……字幕(日本語)を付けております。必要に応じご活用ください。

◆作品:灰神楽(青空文庫)

◆概要:
 庄太郎は、自らの発砲により目の前に血を吹いて倒れている奥村一郎を凝視したまま呟いた。
 「俺が殺したんだ」
 手には一郎の拳銃が握られたままだ。
 「何とかしなければ」
 周囲には今の騒ぎで覆った鉄瓶と、灰神楽を立ち昇らせている桐の角火鉢。
 庭の向こうの広っぱには一郎の弟たちが野球をして遊んでいる。
 庄太郎は何とかして罪を逃れえる手段は無いものかと考えた。
 そしてその熟考の果てに……。

◆チャプター:
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◆著者:江戸川乱歩 1894年〈明治27年〉10月21日 – 1965年〈昭和40年〉7月28日)
 日本の小説家。ペンネームは小説家のエドガー・アラン・ポーを日本語風に変えたもの。
 引っ越しマニアで生涯46回も繰り返した。
 早稲田大学を卒業後、多くの仕事を経て1923年(大正12年)『二銭銅貨』で作家デビューする。
 1936年に発表した『怪人二十面相』がヒット、少年層向けにシリーズ化される。
 晩年には私財を投じて江戸川乱歩賞を制定し、パーキンソン病を患いながらも口述筆記で活動を継続する。
 1965年、70歳で死去。

◆一部現代において不適切と思われる表現がありますが、原文を尊重しそのまま読ましていただいております。

◇その他のおすすめ朗読
 ▼【江戸川乱歩】幽霊
 https://youtu.be/Qns8CXx6c74
 ▼【江戸川乱歩】白昼夢
 https://youtu.be/HUuZiKm7-o0
 ▼【岡本綺堂】鯉
 https://youtu.be/ddqMK2sYBdE
 ▼【夢野久作】人間腸詰
 https://youtu.be/jvST0Q6bp7w
 ▼【ラヴクラフト】魔女の家で見た夢・前編
 https://youtu.be/yD1IMmyYXQU
 ▼【ラヴクラフト】ピックマンのモデル
 https://youtu.be/3sW50Fz7TRw
 ▼【エドガー・アラン・ポー】黒猫
 https://youtu.be/RnHfIf1Lh40

A mysterious reading that makes you sleepy.
Novel : Hai-Kagura. (cloud of ashes)
Author: Rampo Edogawa (21 Oct 1894 – 28 Jul 1965)

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