日本資本主義の父、渋沢栄一の激しすぎる”女遊び”の自業自得。しかも、その性格は長男にも受け継がれ、息子を廃嫡申請した

2020年から2021年にかけて放送さ れたNHKタガドラマ晴天をつけこの放送 の中では描きづらい場面があったという それは渋沢は永一の激しすぎる女遊びの 自業自得しかもその性格は長男にも 受け継がれてしまったというNHK大雅 ドラマ晴天をつけの主人公渋沢A一は後継 だった長男を40歳の時に感動している 歴史研究家の川井氏は長男の特は女性問題 を起こして動されたしかし渋沢はA1も 数えきれないほど隠し後がいた期待の実業 かも息子を叱る立場にはなかったという本 動画は川井渋沢永一と岩崎弥太郎日本の 資本主義を築いた良友の経営哲学原頭写真 書の一部を再編集動画にしたものです渋沢 A1の大きな悩みの種だった後継の長男 でした岩崎太郎は素晴らしい継者を育成し たが意外なことに渋沢一は継者の育成に 失敗している明治大正期の実業家渋沢一 明治24年1891一は渋沢家の家法と 家君を制定した江戸時代の豪商たちもよく こうした規定を作っていたがA1のそれは 近代的なものであったこれに協力したのが 東京帝国大学の教授で法学者の小信だった からだ小は一の長女歌子の夫である多くの 会社の経営に関わるうち一は多額の金銭や 株式を所有する富豪となっていったそこで 家法を設けて渋沢は同族株式会社を作り これらを保管運営することにしたのである 同族会社の創立メンバーは全部で10名 宗家の投手である一その5歳の渋沢金子 長男の渋沢徳さらにしとして小信長女豊子 の夫小豊子一の長女坂谷義男次女ことの夫 坂谷琴A一の女渋沢武之助A一の次男渋沢 の3難渋沢愛子A1の産女であるただこの うちA1の後継に決まっていた長男の特が A1の大きな悩みの種であった実はA1の 妻千代はこれらに罹患して42歳の若さで 明治15年1882に亡くなってしまった この時徳次はまだ9歳だったが翌年一は 金子再婚この時徳次については長女の歌子 徳より9歳年上とその夫で法学者の小信に 任せことにしたのである幼くして母を失い 父と離れて暮らさなくてはいけない特は やがて趣味や遊びの世界に夢中になって いく当時はまだ珍しかった自転車を 乗り回したり上場に開けくれたりしている から何不自由なく金が使えるかなりかほな 少年時代を送ったようだ金持ちで永一の 息子ということで多くの仲間たちも徳の ところに近寄ってきただが徳次にとっては 楽しい暮らしとは言えなかったのでは なかろうか右を向いても左を見ても 息苦しくなるような人間関係しか用意され ていなかったそばから見れば特は確かに

恵まれすぎるほどの結構な身分だったが 金元実直な義兄夫婦の人一倍強い責任感 ゆえの過剰な保護鑑賞と草家の跡取りに 対する周囲からの期待感は成長とともに 即自に重苦しくのしかかっていった佐の 新一師も著書渋沢3大文春信書で即自の 気持ちをそう推測している確かに渋沢は 真面目と言えば聞こえがいいが堅苦しい家 であったは毎月1回同族会を開いたがその 時の様子をA1の4男の秀夫が次のように 語っている正月の同族会は朝日山の家で 開くのを例とした広間の正面に座った父を 取り巻いてほ坂谷明石の義兄たちが 堅苦しい社会問題を話し合う姉たちは姉 たちで若い私たちには興味のない話題に 専念するやがて父が改まった調子で架を 朗読しながら注釈を加える当時としては 最もづくめな常識倫理だけに窮屈でつまら なくてやりきれなかった渋沢秀夫ちち渋沢 一実業の日本社文庫まるでその情景が 思い浮かぶようである事業そっちの家でギ ゆやこに没頭する徳がいやけが指しても 仕方ないだろういずれにせよ徳次が熊本の 第5高等中学校に在学中大問題を起こした のである明治25年1892のことである はっきりとしたことは分からないがどう やら学校に行かずに所に入り浸って女性と 遊びまくっていたらしく結局熊本から強制 的に連れ戻され千島村での謹慎処分となっ たのであるほりが覚めた明治28年 1895徳次はク出身の橋本敦子と結婚 する新郎は22歳神父は16歳だった もちろん親族が決めた結婚だった徳次は 明治30年1897に一が設立した渋沢 総子部原渋沢総子株式会社の部長子配人と なり明治42年1909に渋沢倉庫 株式会社に開所された際取締役会長に就任 したしかし徳次が力を注いだのは事業経営 ではなく趣味の世界であった先の佐野新一 市は特の趣味は義ときわず清本小歌洋写真 記録映画上場日本がハンティング犬の飼育 と極めて滝に渡っていたそのいずれもが クト裸だった渋沢家3大という渋沢秀夫も 継特のことを円満で社交的な一面ギ優が 上手で素人離れしていた所持行き届いて いる上にユーモラスで生きな人だった父 渋沢A1と回送しているそんな特が明治 44年1911年5月にある芸者に続行と なり妻を家から出しその芸者を家に 引き入れると言い出したのであるこの修文 は新聞にも乗ってしまい一は九重の選択を 迫られるそして一は結局特を拝volする ことに決めたのである大将2年1913年 1月10日に渋沢家は東京地裁に体戦略と いう理由で特の拝借申請を提出正式に拝借

が決まったA1にとってはじじたる思い だったろうなおA1の後継は即自の着な 形像となっただが父の一には息子とくじの 所業を真光から責める資格はなかった一 自身も女性にはだらしなかったからだただ もちろんそれは現代から見ての話である 伊藤広文にしてもかつての上司井上カにし てもさらにライバルの岩崎矢太郎にしても 芸者と遊び有郭に出入りし見かけを持って いた金や権力を有するものにとってそれは ごく当たり前であったし男としての解消と 言われた時代であっただから一も度々芸者 と遊び私も複数か変えていたただ問題なの はそんな彼が世間に向けては道徳を小に 唱えていたことである長面な永一は毎日 必ず日記をつけておりめかけたくに行く時 は一友人を問うとしていた屋敷の女中にも 手を出していた渋沢永一当時東京の人々は めかけのことをフランス語をもじった闇と 呼んでいたこうした父のめかけあの存在を 知った4男の秀夫は社会的な活動は測点 居士に近かったろうが貧の点では青少年の 尊敬を裏切るものがあったと述べ中学の 23年頃は私も父の一友人に踏台したが 一生を通じて父の網をにしたのは母である その友人には芸者もいたし家に使っている 女手もいた現に一友人のこの1人は一光の 時私と同級になり現在もなお半分他人の ような半分兄弟のような交際を続けている 父渋沢は一と告白している一は屋敷の女中 にも手を出しており関係を結んだ女性の数 は分からないくらい多かったと言われる いわゆる隠し後も相当数いたようだが まさにその名の通り隠し後なので総数は 分からないただau色を好むという言葉が あるように絶大なエネルギーである性欲が そのまま他の活動に転化されるのは歴史が 証明しているともあれ即自の色好みは遺伝 のなせる技とも言えなくないわけだそんな 永一は富豪の四則について次のような文章 を残している富豪のこと生まれたものの 多くは親の残した財産を当てにして自分は 働かずとも栄養映画をしておれば良いと 心得るのは大いなる誤解であるその親が いかに大資産を所有しておるにもせよ事故 はどこまでも事故であるという考えを持ち 自分だけの恵を磨き社会に立ち得られる よう心がけねばならぬしかし子供がそう いう心がけを出したからとてそのおたる ものも家からは1問も出さぬからいかにで もして移植してでよと言ってはおけない第 一に親の義務として学問をさせてやり社会 に立って恥ずかしかららぬ行動の取れる だけにしてやらねばならぬまた相当な地位 を支えて良い加減に困難のない生活をして

出られるほどの財産も与えてやらねばなる 前これは親の情というものであろうと思う これだけにしてもらえばその子たるものも もはや親の財産謎に目をくれておる必要は ないどれだけでも事故の腕次第に活動が できるもしそういう子が富豪の家に生まれ たとすればこれ実にヨが主義に合致したる 理想的人物である声援100はいい実は この本が出版されたのは明治45年 1912のことであるちょうど徳次が スキャンダルを起こした後だそれを踏まえ て読んでみるとなんだか特自に対する メッセージ息子への最後の期待のようにも 思えてくるから不思議であるではその後 徳次はどうなったのだろうか渋沢秀夫に よれば父の事業や家督の相続から解放され た徳次は長男経蔵が常理備わった人なので 高古の失礼はなかった彼は高年草家から 立派な家屋敷と月々の仕送りをもらって 思う女と安穏に暮らしていた私も度々遊び に行ったが長景は好きなセッターの有料種 を数匹勝ったり木のあった地球を夕食に 招いたり生活を楽しむことだけが商売 みたいな世にも気楽な一生を送った父渋沢 一と語っている川井渋沢一と岩崎弥太郎 日本の資本主義を築いた良友の経営哲学 伝統写真書川井康渋沢A一と岩崎弥太郎 日本の資本主義を築いた領有の経営哲学 原頭写真書残念ながら一が期待したように 家から出ても特が噴気することはなかった むしろ与えられた財産を使いながら気まま に人生を送ったのであるいずれにせよAH は後継者のの育成に失敗したわけだが拝借 は徳次にとって幸いだったことが分かると いうのは永1の後継になった経蔵は 素晴らしい実業家となりさらに学者民族学 としても多くの業績を残したからだそう いった意味ではAHにとっても災いが転じ て服となったわけであるさらに付け加える なら教育事業にかける情熱は岩崎弥太郎に 負けていないむしろ両がしていると言って 良い主なものをあげれば実業教育として方 講習所言1つばや大倉商業学校東京経済 大学女子教育として東京女学館や日本女子 大学校原日本女子大学などの創立に深く 関わったこの他高智高等商業学校現高千穂 大学や早稲田大学名古屋商業学校など多く の学校を支援したのである偉大な父親の 背中を見て育ちそのプレッシャーから 逃げ出してしまった渋沢特しかし母を早く になくし家の中でも外でも窮屈な思いをし ていた境遇には登場できる部分も多々あり ます最終的には息子の経蔵がA1の後を 立派に継ぎ特地も胸を撫で下ろしたのでは ないでしょうか包頭息子か悲劇の後継者か

意見は別れるところです診察新兵が約20 年ぶりに発行されます発行時期は2024 年7月3日を予定しており現在福沢幸地の 肖像が記載されている1万円札は新たに 渋沢A1の肖像へと図柄が変更されます テレビでは放送されなかった渋沢はA1 しかし間違いなく日本近代社会の創造者の 1人であったことは間違いありません今回 もご視聴いただき誠にありがとうござい ました

2020年から2021年にかけて放送された「NHK大河ドラマ、「青天を衝け」この放送の中では描きづらい場面があったという。それは、渋沢栄一の激しすぎる”女遊び”の自業自得。しかも、その性格は長男にも受け継がれてしまったという。
NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一は、跡継ぎだった長男を40歳のときに勘当している。歴史研究家の河合敦氏は「長男の篤二は女性問題を起こして勘当された。しかし渋沢栄一も数え切れないほど隠し子がいた。希代の実業家も、息子を叱る立場にはなかった」という――。
本動画は、河合敦『渋沢栄一と岩崎弥太郎 日本の資本主義を築いた両雄の経営哲学』(幻冬舎新書)の一部を再編集動画にしたものです。

渋沢栄一の大きな悩みの種だった「跡継ぎの長男」でした。
岩崎弥太郎は素晴らしい後継者を育成したが、意外なことに渋沢栄一は後継者の育成に失敗している。

明治・大正期の実業家、渋沢栄一明治・大正期の実業家、渋沢栄一
明治24年(1891)、栄一は渋沢家の家法と家訓を制定した。江戸時代の豪商たちも、よくこうした規定をつくっていたが、栄一のそれは近代的なものであった。これに協力したのが、東京帝国大学の教授で法学者の穂積陳重だったからだ。

穂積は栄一の長女・歌子の夫である。多くの会社の経営に関わるうち、栄一は多額の金銭や株式を所有する富豪となっていった。そこで家法を設けて渋沢同族株式会社をつくり、これらを保管・運営することにしたのである。

同族会社の創立メンバーは全部で10名。宗家の当主である栄一、その後妻の渋沢兼子(かねこ)、長男の渋沢篤二。さらに支家として、穂積陳重(長女・歌子の夫)、穂積歌子(栄一の長女)、阪谷芳郎(次女・琴子の夫)、阪谷琴子(栄一の次女)、渋沢武之助(栄一の次男)、渋沢正雄(栄一の三男)、渋沢愛子(栄一の三女)である。

ただ、このうち栄一の跡継ぎに決まっていた長男の篤二が、栄一の大きな悩みの種であった。

じつは栄一の妻・千代はコレラに罹患して42歳の若さで明治15年(1882)に亡くなってしまった。このとき篤二はまだ9歳だったが、翌年、栄一は兼子と再婚。このとき篤二については、長女の歌子(篤二より9歳年上)とその夫で法学者の穂積陳重に任せることにしたのである。
幼くして母を失い、父と離れて暮らさなくてはいけない篤二は、やがて趣味や遊びの世界に夢中になっていく。

当時はまだ珍しかった自転車を乗り回したり、乗馬に明け暮れたりしているから、何不自由なく金が使える、かなり過保護な少年時代をおくったようだ。金持ちで栄一の息子ということで、多くの仲間たちも篤二のところに近寄ってきた。だが、篤二にとっては、楽しい暮らしとはいえなかったのではなかろうか。

「右を向いても左をみても息ぐるしくなるような人間関係しか用意されていなかった。傍からみれば篤二はたしかに恵まれすぎるほどの結構な身分だったが、謹厳実直な義兄夫婦の人一倍強い責任感ゆえの過剰な保護干渉と、宗家の跡とりに対する周囲からの期待感は、成長とともに篤二に重苦しくのしかかっていった」

暗い部屋でストレスを感じ、頭に手をやる男性写真=iStock.com/kieferpix※写真はイメージです
佐野眞一氏も、著書『渋沢家三代』(文春新書)で、篤二の気持ちをそう推測している。確かに渋沢家は、まじめといえば聞こえがいいが、堅苦しい家であった。栄一は毎月1回、同族会を開いたが、そのときの様子を栄一の四男の秀雄が次のように語っている。

「正月の同族会は飛鳥山の家で開くのを例とした。広間の正面にすわった父を取りまいて、穂積、阪谷、明石の義兄たちが堅苦しい社会問題を話し合う。姉たちは姉たちで、若い私たちには興味のない話題に専念する。やがて父が改まった調子で『家訓』を朗読しながら註釈を加える。当時としてはもっともずくめな常識倫理だけに、窮屈でつまらなくてやりきれなかった」(渋沢秀雄著『父 渋沢栄一』実業之日本社文庫)
まるでその情景が思い浮かぶようである。

事業そっちのけで義太夫や小唄に没頭する
篤二が嫌気がさしても仕方ないだろう。いずれにせよ、篤二が熊本の第五高等中学校に在学中、大問題を起こしたのである。明治25年(1892)のことである。はっきりとしたことはわからないが、どうやら学校に行かずに遊所に入り浸って女性と遊びまくっていたらしく、結局、熊本から強制的に連れ戻され、血洗島村での謹慎処分となったのである。

ほとぼりがさめた明治28年(1895)、篤二は公家出身の橋本敦子と結婚する。新郎は22歳、新婦は16歳だった。もちろん親族が決めた結婚だった。篤二は明治30年(1897)に栄一が設立した澁沢倉庫部(現・澁澤倉庫株式会社)の部長(支配人)となり、明治42年(1909)に澁澤倉庫株式会社に改組されたさい、取締役会長に就任した。

しかし篤二が力を注いだのは、事業経営ではなく、趣味の世界であった。先の佐野眞一氏は「篤二の趣味は、義太夫、常磐津、清元、小唄、謡曲、写真、記録映画、乗馬、日本画、ハンティング、犬の飼育と、きわめて多岐にわたっていた。そのいずれもが玄人はだしだった」(『渋沢家三代』)という。

渋沢秀雄も長兄・篤二のことを「常識円満で社交的な一面、義太夫が上手で素人離れしていた。諸事ゆきとどいている上に、ユーモラスでイキな人だった」(『父 渋沢栄一』)と回想している。
そんな篤二が、明治44年(1911)5月にある芸者にぞっこんとなり、妻を家から出し、その芸者を家に引き入れると言い出したのである。

この醜聞は新聞にも載ってしまい、栄一は苦汁の選択を迫られる。そして栄一は結局、篤二を廃嫡することに決めたのである。大正2年(1913)1月10日に渋沢家は東京地裁に「身体繊弱」という理由で篤二の廃嫡申請を提出、正式に廃嫡が決まった。栄一にとっては忸怩じくじたる思いだったろう。なお、栄一の跡継ぎは、篤二の嫡男・敬三となった。

だが、父の栄一には息子・篤二の所業を真っ向から責める資格はなかった。栄一自身も女性にはだらしなかったからだ。ただ、もちろんそれは、現代から見ての話である。伊藤博文にしても、かつての上司・井上馨にしても、さらにライバルの岩崎弥太郎にしても、芸者と遊び、遊郭に出入りし、妾を持っていた。

金や権力を有する者にとって、それはごく当たり前であったし、男としての甲斐性といわれた時代であった。だから栄一もたびたび芸者と遊び、妾も複数かかえていた。ただ、問題なのは、そんな彼が世間に向けては、道徳を声高に唱えていたことである。几帳面な栄一は毎日必ず日記をつけており、妾宅に行くときは「一友人」を問うと記していた。

屋敷の女中にも手を出していた渋沢栄一
当時、東京の人びとは妾のことをフランス語をもじってアミイと呼んでいた。こうした父の妾(アミイ)の存在を知った四男の秀雄は、「社会的な活動は則天去私に近かったろうが、品行の点では青少年の尊敬を裏切るものがあった」と述べ、「中学の2、3年ごろは私も父の一友人に憤慨したが、」「一生を通じて父のアミイを苦にしたのは母である。

その友人には芸者もいたし、家に使っている女中もいた。現に『一友人』の子の一人は一高のとき私と同級になり、現在もなお半分他人のような、半分兄弟のような交際をつづけている」(『父 渋沢栄一』)と告白している。

栄一は屋敷の女中にも手を出しており、関係を結んだ女性の数はわからないくらい多かったといわれる。いわゆる隠し子も相当数いたようだが、まさにその名のとおり隠し子なので、総数はわからない。

ただ、「英雄色を好む」という言葉があるように、絶大なエネルギーである性欲がそのまま他の活動に転化されるのは、歴史が証明している。ともあれ、篤二の色好みは、遺伝の為せるわざともいえなくないわけだ。そんな栄一は、富豪の子息について、次のような文章を残している。

「富豪の子と生まれたものの多くは、親の遺した財産を当てにして、自分は働かずとも栄耀栄華をしておればよいと心得るのは、大いなる誤解である。その親が如何に大資産を所有しておるにもせよ、自己はどこまでも自己であるという考えを持ち、自分だけの智恵を磨き、社会に立ち得らるるよう心掛けねばならぬ。しかし子供がそういう心掛けを出したからとて、その親たるものも家からは一文も出さぬから、如何にでもして衣食して出よといってはおけない。第一に親の義務として学問をさせてやり、社会に立って恥ずかしからぬ行動の取れるだけにしてやらねばならぬ。また相当な地位を支えて、よい加減に困難のない生活をして出られるほどの財産も与えてやらねばなるまい。これは親の情というものであろうと思う。これだけにしてもらえば、その子たるものも、もはや親の財産なぞに目をくれておる必要はない。どれだけでも自己の腕次第に活動ができる。もしそういう子が富豪の家に生まれたとすれば、これ実に余が主義に合致したる理想的人物である」(『青淵百話・乾』)。
じつはこの本が出版されたのは、明治45年(1912)のことである。ちょうど篤二がスキャンダルを起こした後だ。それを踏まえて読んでみると、何だか篤二に対するメッセージ、息子への最後の期待のようにも思えてくるから不思議である。では、その後、篤二はどうなったのだろうか。

渋沢秀雄によれば、「父の事業や家督の相続から解放された篤二は、長男敬三が情理備わった人なので後顧の憂いはなかった。彼は後年宗家から立派な家屋敷と月々の仕送りをもらって、思う女と安穏に暮らしていた。

私もたびたび遊びにいったが、長兄は好きなセッターの優良種を数匹飼ったり、気の合った知友を夕食に招いたり、生活を楽しむことだけが商売みたいな、世にも気楽な一生を送った」(『父 渋沢栄一』)と語っている。

河合敦『渋沢栄一と岩崎弥太郎 日本の資本主義を築いた両雄の経営哲学』(幻冬舎新書)河合敦『渋沢栄一と岩崎弥太郎 日本の資本主義を築いた両雄の経営哲学』(幻冬舎新書)
残念ながら栄一が期待したように、家から出ても篤二が奮起することはなかった。むしろ、与えられた財産を使いながら、気ままに人生を送ったのである。いずれにせよ、栄一は後継者の育成に失敗したわけだが、廃嫡は篤二にとって幸いだったことがわかる。

というのは、栄一の跡継ぎになった敬三は、素晴らしい実業家となり、さらに学者(民俗学)としても多くの業績を残したからだ。そういった意味では、栄一にとっても災いが転じて福となったわけである。

さらに付け加えるなら、教育事業にかける情熱は岩崎弥太郎に負けていない。むしろ凌駕しているといってよい。主なものをあげれば、実業教育として商法講習所(現・一橋大学)や大倉商業学校(現・東京経済大学)、女子教育として東京女学館や日本女子大学校(現・日本女子大学)などの創立に深く関わった。このほか、高千穂高等商業学校(現・高千穂大学)や早稲田大学、名古屋商業学校など多くの学校を支援したのである。

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