【特集】伝えるとは何か?岩手・福島・宮城の各放送局(江幡平三郎、山地美紗子、守屋周)

TBSポキャス [音楽] 発信型ニュース プロジェ荻上 チ [音楽] セッション東日本大震災から13年伝える とは 何か岩手宮城福島各放送局と 考えるマグニチュード 9.0最大進度7を記録した東日本大震災 の発生から今日で13年が経過しまし た警察庁によりますと今年3月1日までに 東日本大震災による死者は 1万9人行方不明者は250020人にる ということ ですまた復興庁の発表では震災後の病悪化 などによる災害関連士はこの1年で新たに 10人増え去年12月末時点で3802人 全国の避難者は 2928人となってい ます震災の発生から13年が経ち報道量も 減少することから風化が進んでいるとも 言われる一方で東京電力福島第一原子力 発電所事故の影響が残る福島県の一部では 避難指示が続き今も故郷に戻れない住民が い ます一方半島地震から2ヶ月が過ぎました が東日本大震災のような復興フェーズに なかなか入っていないと現地の支援者らは 語っていまし た今夜は被害の大きかった岩手宮城福島の 各放送局とつぎ伝えるとは何か考えていき ますそれでは早速現地と繋いで伺っていき たいと思いますまずはIBC岩手放送の 田平アナウンサーですこんばんは こんばんはよろしくお願いします願 よろしくお願いいたします願ます江田さん は今どちらにいらっしゃるんでしょうか はいえ今日のニュースの取材中継が終わり まして盛岡市のIBC本社に戻ってまいり ましたはい改めて当時この江田さんは どちらで取材をされていたんですかえ今日 ですかあと当時はどういったあの状況であ 当時ですねはいあ震災発生当時私はあの 営業マをやっておりまして宮子市え沿岸 南部の宮子市という街中ににおりましてえ 高台に避難してま本当にあの先ほどまでえ 歩き回っていた宮の街がすっかりと津波に 覆われてしまったのを見ましたそううん その後の避難の状況であるとかその一晩 どういう風に過ごされたのかあのその点は いかがでしょうかはい私はあのその後すぐ にあの車であの盛岡の本社の方に戻ったの であの宮子で夜を越したというわけでは

ないはいですけれども あの そのすぐに揺れがあってすぐに避難してき たという方々とあとはやっぱりその津波が 来たということを知ってからこう遅れて 避難してきた方というこうまあの2種類 あったなというのはあのその時見て感じ ましたうんそしてなかなかリアルタイムで は被害の全容というのは分からない状況で はありましたが改めてその沿岸部や内陸部 などの被害はどうだったんでしょうかはい 内では 475人の弟命が奪われ今なお1107人 が行方不明の状態そして8歳後に471人 の方が震災関連士で命を落としています うんこの被害の規模というもの非常に 大きかったわけですけれども復興と一言 言っても町をどうするのか森戸するのか 戻る方とそれから暮らす方どうするのか 本当にたくさんの議論が続きましたよね そうですねあのいその被災地の揚げをして そこに新しい街を作るといったような ハードの復興という部分ではまほぼ終わっ たとは言えるんですがただ実際にその ハード事業が終わってみてもえ震災の発生 前に比べると概ね平均しますと2割以上の 人口が減っているんですねですので元の町 にはあの人口の面でも戻ることはできてい ないということでこうした中でま高齢も 震災発生時よりさらに進んでいますので じゃ今後この町をどういう風に発展させて いくのかというのは震災発生事とはまた 違った議論が今後必要になってくると感じ ていますうんそして今日はどういった取材 なさっていたんでしょうかはいあの岩手県 ではこれまであの3月11日の県の追悼式 というのは沿岸の市町村と共催する形で 行われてきましたただ今年初めて津波被災 地からい離れた内陸部の盛岡市で岩手県の 追悼式が行われましたえこの背景には大 規模な合同追悼式を行う場合その費用や 会場人での確保といった部分で沿岸の地帯 に負担が大きかったということそしてま あの昨年まいわゆる仏教でいうところの 13会期を終えたことになるわけなんです が遺族の方々も静かに追討したいという声 も多かったという風に聞かれていますうん なるほど私はその今日初めてその陸で行わ れた県の追式にえ取材に行ってきたんです けれども非常に印象的だったのがえ達岩田 健知あるいは土谷福興大臣が敷地や追悼の 字を述べた後これまでですと遺族代表の 言葉という風に続いていくところでえ未来 へのメッセージと題されて沿岸被災地の 高校生からメッセージの朗読がありました

はいであの追式という場合は通常壇者はに って言葉を述べますであの敷地やあるいは 追悼の字もそうだったんですがこの未来へ のメッセージが始まる時にマイクの向きが だいぶ変わりまして横目に裁断は見える もののその高校生は3列者に向かって自ら のメッセージを述べるま決意表明をすると いったようなスタイルで行われましたえ この登壇したのはえ岩田県立高田高校陸前 高田市の高校です最も被害の大きかった 地域の高校2年生の渡辺翔馬さんだったん ですがメッセージの中で震災児自分はまだ 4歳で記憶は定かではないただ震災後その 復興学習などを通して様々な地域の人々へ の聞き取りあるいは様々なその支援者と つがることによって学んだことを自分たち が将来の子供たちについでいきたいという あのいわゆるその伝承に向けた決意うん といったようなあの内容でしたま震災発生 から13年が経過して確かに記憶の風化 ってのは大変懸念されるところでもあるん ですが一方で震災児の記憶がまあまりない あるいはほとんどない世代が新たに学び それをこう構成に伝えていこうというその 伝え手になろうという強い意思というのも 感じることができましたうんなるほどあの この今日の1日の方の様子であるとかそれ から町の変化というのはどういった点を 感じになりましたかそうですね今日は私 あの盛岡市内での取材だったわけなんです けれども例えばこの追悼式に足を運ぶこと ができたというえ恒例の女性にお話を聞き ましたえ震災発生前に陸前高田市の病院で ま看護師として勤務していたという女性な んですがその後まあの内陸に移動してその 後に震災が発生してでその後ま町病院も災 したんですけども街並みも変わってそして 当時一緒に働いていた同僚がじゃ今どこで どうしているのかあるいは街の姿も すっかり変わりましたのでじゃどこをどう 尋ねれば誰に会えるのかすっかり分から なくなってしまったっていうようなこと 寂しげにおっしゃっていましたただこれ やはりこの3月11日にはそれでも やっぱりあの多くの仲間もあの命を落とし たということで追悼式には毎年足を運んで いるんだというようなお話もされています うんでずっとこの13年間を過ごした人と からま何らかのま理由があって離れざるを 得ずそこで13年を過ごした方とでは やはり時間の流れ方であったりとか あるいは元々いた町に対するうん感じ方と 言うんでしょうかね街の復興に対する感じ 方というのもやはりあのそれぞれ異なるの かなというのは感じましたうんその感覚と

いうのはさんも私も私はあの例えば阪神 山路大震災は埼玉で経験をしてでも実家が 被災をしたで一方で南部さんは岩手出身 ですがはい大阪でえっと313年前を迎え てその後新幹線が通ったっていう タイミングで山たてもたまらずふさ花巻に 戻るっていうことでで2年間うん過ごし ましたけれどもはい揺れを経験していない なっていうところでなんとなく追いとか ややその阻害感というかあるははいはなん か罪の感覚というかなんか妙な感覚という もの得る一方でじゃあ自分はどういった 立場で関わることができるんだろうという 葛藤のようなものは経験しますよねうん こういった声というのは江田さんいかが でしょうかそうですねあのその揺れのその 時にその場にいたかいなかったっていうの ももちろんですけどもそこからそのうん 13年なら13年の復興の道乗りをその場 で見てきたかあるいはその離れたところで それを守っていたかという部分でその13 年の長さのうん早い遅いっていうその時間 の長さの感じ方も違うのかなそういう声は よく聞き耳にしますそうですねまたあの この東日本で被災した経験というのは当然 今後の防災や減災にどう使っていくのかと いうことが問われますがノ半島自身にも 生かされてるケースがあると伺ってますが 岩さんこれどういったことでしょうかはい あのそれは災害時の高齢者施設に関する ことなんですはい岩田県の沿岸南部に大船 都市という町がありましてここで高齢者 施設を運営する天人海という社会福祉法人 があるんですがあのここの施設はあのここ が運営する小規模多能施設通常20人ほど が利用するデイサービスセンターなんです けどここがあの高台にあったため震災発生 時にはあの同じ系列の海沿いにあった他の 施設の利用者さん高齢者ですねあるいは その地域で被災した方々もその高齢者施設 にこうぎゅっと集まって避難生活200人 近くが避難生活を送ったということなん ですねつまり通常の10倍の人数ですええ 当然あの人手は足りないもんですから地域 の人々とも連携しながらその避難所の 例えば食事は地域の人々がやりましょうと で高齢者の介護に関してはじゃあその施設 の職員がやりましょうという風な役割分担 は早期から行われてはいたんですがそれで もあの福祉現場ってのは例えば害に職員 自身が被災してその職場に駆けつけられ なかったりあるいは家族が被災してどうし ても駆けつけられなかったりっていう ケースがあってどうしても人手不足になる んですねであの本当にもうギリギリの状態

を過ごしていたっていう経験をもにあの この施設では震災後あのdcat ディザスターケアアシスタンスチームって いういわゆる災害介護派遣チームっていう のを独自に作ることに作る作ったんですね はい 熊本 北海道でったり派遣しま自分たちがいかに 大変であったかっていうことをもに やっぱりその被災したあの高齢者施設の 支援っていうのに入って今回の野半島自身 にも入ったんですねであのどうしてもその 人手が足りなくなるあるいはあのいつも よりも多くの高齢者を収容せざるを得なく なったその施設のまあの人手の1つとして こうサポーする道震災直後からずっと続け ているんですであのその社会福祉法人の内 で雪見理事長がそのま何度もそのの半島 地震の被災地に行く中であのお話しされて いたのがま今回そのどうしてもその半東部 であの交通の手段あるいはあのインフラ等 があライフラインがその途絶した状態でま そこからその特にあの災害弱者と呼ばれる 高齢者をじゃ1.5うん避難2次避難っと いうことで少し離れた場所にあの移って いただいてそこであある程度そのサービス が提供できる状態をま維持しようという風 なあの選択を取られたわけなんですけど もちろんそれはある種の1つの選択肢とし て十分有益ではあるんだけど一方でま ケースバイケースなんですけど例えばあの 施設にいながらもその地域の方々と あるいはその地域コミュニティと連携した 形であのその介護サービス等を受けていた 方々であるとその地域とのこう関わりをが えてしまった状態で大きなその町の大きな 施設で収容されると特にそのうん認知症 などのケースの場合は環境が変わるとあの 症状が進むというケースもあるんであの 必ずしも1.5次避難2次避難が有効か どうかっていうのはケースバイケースでは ないかだから1人1人の状況をこまめに 聞き取りをしてあるいはその介護している 方々からこの方は移ってもらった方がいい だろうかどうだかいうのあのま手間は かかるんですけど1人1人あの細かくあの サポートしていた方がいいのではないかと いうような話も聞かれましたで実はこの 天人会という施設では震災発生後あの施設 がその地域からこうかあの隔離した状態に なることを避けるために地域の高齢者や 子供たちとの交流会っての月に1回開い てるんですねでおい私も取材に行ったん ですけどうんその施の者であったり あるいは地の齢者が地の子供たに味作りと

かかでご飯を書くっていうのその施設を 解除教える場が開かれてるんですでこれは あの交流を深めることによって何かがあっ た時に一緒に避難生活を送るんだよって いうその関係性を構築するっていうことと 同時に例えばそのうんまこの施設も震災 発生そうだったんですけどリクロが絶して しばらくその孤立状態が続いていたんです ねはい時にも例えばじゃああの作った味噌 であの味噌汁を作れるよねとかあるいは あのガスがあのなくてもかでご飯が炊ける よねとかあるいはあのその辺りに落ちて いるすっぱは焚き付けの時に役立つよねと かそういういわゆるサバイバル知識をの 知恵を子供たち当然今の小学生ですから 震災のことは知らないんですけれどもその 高齢者の方からその地域の子供たちにそれ を伝えることによって生きる力であったり あるいは害のサバイバルの知恵であった りっていうものをこううん身につけて もらいたいあるいはそういった場所として 自分たちの高齢者施設が役に立つことに よって自分たちの施設にいる高齢者の サポートにもま結果的には繋がるうんいう ような取り組みをしていてこれは本当に 有益だなという風に感じましたのは今まだ そういう段階にはないのでまずはとにかく 介護人材が定期的にそのノに足を運んでノ の施設があのはい自立できるまでやっぱり サポートが必要になると思うんですねただ その後もやっぱり地域の中の高齢者施設と してどういう風に今後歩んでいくのかって いうのを考える1つの知恵というのがこの 東日本大震災の被災地にあるかなという風 に感じましたうん友人がこのDキットで 実際に現場に入ってその介護の立場から 様々なお手伝いをしたんですけれども やはりその色々なもう物資もそれから人で も足りてない中でその介護人材がむしろ 現場からこう離れてしまうちょっとここで は働はいないということで離れてしまう あるいはもう本当にヘトヘトになって疲れ て離れてしまうというそうした悪循環を 食い止めるために周辺の父自治体が何を できるのかこうしたことも含めて投げかけ た体験ではあったかと思いますそしてあの 災害の報道というのも今回のでも大きく 問われていますがその東大震災以降江田 さんこの災害時の報道災害後の報道の課題 はどう感じになりましたかはいあの私今日 あの夕方盛岡市内のまた別の場所からを 行ったんですけどそれはえ岩田県の大津長 というここもま非常にあの被害の大きかっ たところなんですけどもあのそこであの 震災直後からま10年以上にわたってま

あの大長いろんなとこ走り回りながら支援 物資を届けたりあるいは何かあの被災地 支援の取り組みの場所には必ず その足を運ぶっていうそのあの支援で送ら れたえサンバーという和ゴがあったんです ねえでこの軽ゴ者はあのこの大津長で ちょっとその復興の象徴としてのその 位置付けもありましていろんな支援者が そのサンバーの車体にあのメッセージを 書き込むんですモスグリーンのあのケ ワゴン者なんですけど本当にあの車体全体 がですねいろんな人がこうマジックで 書き込んだメッセージびっちり埋まってた んですねでただそのサンバーがその被災 支援イベント等に足を運ぶ機会もこの13 年経つ中でほとんどなくなて一方であの 車体の方はもう13年経ちますんでだいぶ あの痛んできてあそろそろもう車検を通す のが厳しい廃車にしだろ得ないかなという 風にあの諦めかけていたところあの県内の そのスバルのディーラーがこれは貴重な その震災のことを構成に伝える資料になる とある意味その走る震災以降になるいう ようなことであの岩手スバルという会社が こう引き取ってそのまいわゆるメカニック の人にこううんレストアしてもらったとで それその車が今日ナンバーがついて走り 始めたということでそのかつて私も沿岸の 取材に行くとあのいろんなとこでそのサバ あのいろんなメッセージが書かれたその 車両を見ていてあの久しぶりに見て 懐かしいなと思ったんですがあの新たに蘇 て今度はそのいろんなメッセージが書かれ た車両ということでかつてそのこういう 震災があってそこに多くの人が駆けつけて そしてこうやってメッセージを書き込まれ た車が今こうしてあの元気に走ってるよ いうこと新たに今までその震災のことを 一時的に知らない世代にもこんなことが あってこんな車両があったんだよってこと を伝えるっていうまある意味第2の役割第 2の人生を得たというような話を伝えたん ですねで今沿岸被災地に行ってもそのえ そのいわゆる被災そのもののことを伝え るっていうのはいわゆるいくつかの震災 以降に限られて街並みも新たに立ち直り ましたしあのいわゆるあの被災そのものを 伝えることてのはだんだんうん難しくなっ てきているんですがただ災から復興への 道のりそのどんな方々がどういう風に 関わってどういう風にこううん復興してき たんだよっていうそのストーリーを伝え るっていうことによって震災のことをあの 知らない人世代に伝えていくっていうのは これからできることだし私たちはそういっ

た部分であの新たに報道の仕方ってのは こう考える必要もあるのかでもちろんもう 一方であの揺れたらたちに高にうんこれ大 でこういっまこれからもあの本当にあ何度 も何度も伝え続けなければならないとは 思うんですが加えて東日本大震災を伝え るっていう1つの方法論としてはそういう ストーリーのことを伝えていくっていう 方法もあるのかなという風に感じました うんこの関心からいかに備えようそして 関心からいかに支えようなどをつげていく ことが大事だと思います田さんありがとう ございましたありがとうございました ありがとうございましたibc放送の平 ブロアナウンサーにお話を伺いましたでは 続いてラジオ福島のえ山路みさ子 アナウンサーにお話を伺いたいと思います 山さんこんばんはこんばんはよろしくお 願いしますよろしお願いいたしますまず 山路さんは今日はどういった取材をなさっ たんでしょうかはい岩市の薄という地区と 久ノ浜という地区に行ってきましたはい 平日ですがどちらも大勢の方が集まってき ていましたうん実際にはいはいどうぞ どんな様子でどんな模しなどがあったん でしょうかはい午前中岩市の薄にいたん ですが薄というのは厚い薄いの薄いという 地にあの磯の香りの磯で薄い磯なんですね でそこは塩屋崎灯台という白の登れる灯台 がありましてそのすぐ北側のエリアです 東朝の砂浜があり夏は海水浴場として ものすごい賑いがあった場所なんですで海 からすぐのとろに街が広がっていて13年 前の今日8mを超える津波が襲いまして家 はほとんど流されてしまいましたおよそ 700人の住民がいたんですがそのうち 100人以上が犠牲になりました津波で ですから住民の7人に1人実際には金曜日 だったので働いていて家を離れていた方も 多いのでいた方で言うと5人に1人が 亡くなったという大きな被害が出た場所な んですうんでそこに震災伝承未来館という 市が運営しているその語り部の方のいる 施設があるんですでそこで通常ですと土日 祝日は午前と午後に語りべの皆さんが1 時間ぐらい喋ってくださるんですが今日は 月曜日ですが5人の語りべが1時間起きに 語るということを行っていましたうんお話 聞くとこの土日も含めましてかなり大勢の 方がいらしてるでそれはの半島の地震が あって改めて防災減災について学ばねば ですとかあとは語り継いでいかねばという 気持ちが皆さんの中にあるのかもしれない と言っていましたうんなるほど実際にそう したその現地に来られてるような方々で

あるとかその周辺の方々にお話は伺えたん でしょうかはいそうですねまずこのの薄 地区にんて戻ってきたという方に聞きます とまず福島県で津波被害がこれほど人台に あったということが13年経っても知られ てないよねと福島県というと原発事故だよ ねになってしまってその津波の被害から町 を立て直すその大変さですとかえ津波が来 たらすぐ避難ていうことも伝えたいんだ けどなかなかそこを伝えるのに苦労してる という話はしていましたうんこれまた実際 にあのいろんなところにこう伺う中で街の 変化なども感じる点はあるかと思います とりわけその原発事項の影響などによって 地域差というのは相当大きく出てくるかと 思いますがこの点山路さんいかがでしょう かはい あの薄からおよそ20kmの北にあります 久野浜という同じ岩市内なんですがそこ はは東京電力福島第1原発から30km 県内で避難した地域なんですね同じ岩地で も違う状況がありましてうんうんうんこの 久之浜というのは地震と津波とそしてその 後に火災が一晩中燃え続けてでさらに翌日 になって今度は原発事故で避難しなければ となったというところであのノ半島の今の 状況とものすごく重なるという風に地域の 皆さんはおっしゃってましたで今町は かなり整備されましたうんが商店主の方に 話を聞きます と思っていたような人の戻りではないと それはやはり原発事故の影響ももちろん あるんですよねうんであの震災のまださだ という言い方をしていましたうん当時の そのローン仮説店舗になった時のローン さらには改めて同じ場所に立てた時のまた ローンそのいつものローンを抱えていて そこにさらに令和元年に福島県は台風19 号でかなり被災したんですねで曰市でも 被害が出ましたそしてこのエリアも断水し ましたでそういったことがあったりとか さらにコロナでなかなか人が戻ってこない しお客さんも来ない状況になっていると その中でまだまだ全く震災前の水準に 戻れるとはま初めから思ってはいなかった けれども震災前の1/5にもなってないと このままではせやっていけないというよう なことをお話しされてましたうんうん山路 さんはその13年前3月11日というのは どういうように過ごされていたんでしょう か私はあのラジオ福島のスタジオが福島市 にあるんですがそのスタジオの中に行って で直後にすぐに中継に出るようにという ことで県庁の災害対策本部に駆けつけで その後あのなかなか信号が止まっていたり

とか交通が遮断されていたので行ける範囲 を回ったという形ですうんそしてあの翌日 からはですねさらにこのえメルトダウン それから原発に関する様々な情報が 飛び交う中であの人々が聞きなれないよう な単位であるとか人々が聞きなれないよう な用語例えばモニタリングポストがどうと か計測がどうとかそうしのことを伝えなく といけない日々になっていけますこの点 いかがでしょうかうんもう全くわけの わからない中にいたという感じです私もん 翌日沿岸部に行くようにということで一旦 はスタジオを沿岸部に向けて出たんですが その途中で原発がという話が入ってきて はいそれでどうしたらいいのかわからない というようなでどんどん沿岸部からあの 山沿いに避難してきてる方々が大勢いて うんその中で自分がどう行動するべきかと いうのは分からなかったですし中継者を 止めると多くの人が集まってきて原発は どうなってんのとうんましたそのに答える 言葉を持ってなかったんです私自身も原発 のことを全く分かっていなかったですうん そういった中であの小さんとっても感謝し てまして冷静にあのインターネットなどで も発信してくださいましたよねはいええ 当時あのま少し時間経ってからですが 私たちの放送を文字越しかしてくださっ たりですとかうんうんありがとうござい ましたあこちらこそあの現地に伺ってお話 を聞かせていただいたりとかま加えてその 原発だけではないですけれどもも被災地の 状況あとはあの本当に流言とか色な情報が 飛びかっていたような状況ですのでそれを セールするのも手一ぱいしかこの例えば 放射線の被爆などについてどう評価をする のかこれを巡っても本当にこう日本が意見 マップ立つに分かれるようなそんなさ中で 報道はどういう風に情報伝えられるのか そんな葛藤が続きましたよね苦しみました あの両論兵器すべきですとか一方でいや それおかしいでしょっていう声もいっぱい ありました悩み続けたというのが正直な ところですしそれをきちんと検証しなけれ ばいけないですよねうんまだできてないな と思っていますうんまたあの今でも例えば 言葉の使い方も非常に悩ましいところも ありましてま例えばその機関や帰宅困難者 という風に言っていいのかもうすでにその 方々にもいろんなまな方がいてもうすでに 別の生活を営んでいていや帰宅困難だと 主観的には感じてないけれども統計はうん そうだよねっていうな方もいらっしゃる こうした生活のぬくもりや温度感はいかが でしょうかそうですね本当地気さがあり

ますこれが分断を産んでしまっているよう な気がしましてその溝を埋めていくのが 私たちの仕事なのかなとも思っています うんなるほどリスナの方からもメールを いだいてますがご紹介しましょうはいはい えご紹介していきますねラジオネーム郊外 の猫さんから頂いたメールどうも ありがとうございます福島という地に縁が あることもあって8歳以来コロナピークの 2年間を除いて毎年のように停点観測に 行っています昨年はセッションでの咲山 記者の自分の目で見て自分の足で歩いて 自分の頭で考えてという問いかけに刺激を 受け福島の原発被害が大きいところ岩手の 津波被害が大きいところを中心にそれぞれ 3月と7月に行ってきました何人かの地元 の方や震災以降の語りべの方とお話しする ことができたんですが前を向いて進んで 行こうという姿も下を向いて諦めざるを得 ないという姿もそれぞれが被災者被災地の 姿であって外から被災者はこう振る舞う べきという勝手な被災者被災地の ストーリーを持ち込んで期待することは 間違っているというのが毎年のように被災 地を訪れ少しだけボランティアに参加し城 隣なりに見てきた感想です伝承官の語りべ の方がたくさんお話をしてくださった後で 最後に私は年だから都会に移住して暮らす ことができない忘れて欲しくないんですよ それだけなんですとそこで働いている 語りべの方から1人の人間に戻って話して くださったことがとても印象に残ってい ます時としてキラキラとと復興に向かう姿 や逆に荒れ果ててしまった被災地の姿が クローズアップされることがありますが どちらも正解で常に背中合わせに地元の 生活が営まれているんだということを現地 で見て感じていますといただきましたはい あの特にとりわけその特徴的な催しの一方 で変わらぬ日常あるいは変われない復興 状況などいろんな状況の中でどこに焦点を 当てるのかメディアで報道しながら葛藤と はあるかと思います今のメールも含めて山 さんいかがでしょうかはい私も話を聞い てるとやっと話せたですとかまだ家族の中 では津波の話津波で例えば家族の手を離し てしまったそれによっておじいさんおばあ さんが亡くなってしまったでその手を離し てしまった子供とその親ですね親は家にい なかったんですがあのその日のことはまだ 話してないし聞いたら攻めてるように 聞こえてしまではないかとそういう話を第 3者と言いますか他人である私たちにはし てくださるんですよねそしてやっと話せた よとそういうことがありますので是非今の

メッセージにありましたように皆さん いらして直接話をしていただけたらそれが 気にかけてくれてる人がいる見てくれてる 人がいるっていうことがものすごく多くの 方の支えになってるというのを感じてます から是非いらしてくださいうんうん福島県 の岩木市の沿岸部今53kmにも及ぶ サイクリングロードができたんです海沿い なんですで海を眺めたり防災力地私の背丈 よりももう防災力地も育ってるところも あるんですがその防災力地の中などを自転 車で走れますデンタルの自転車電動 アシスト付きのものもありますから是非皆 さん来て語り目の方と一緒に回ることも できますし地域の方と話して地域の魅力 感じながらうん防災減災についても感じて いただけたらと思いますうんそうですね 実際にこう街を歩いたりそして例えば常磐 ものはめとしていろんなものをこう食べて なるほど胃袋で感じたりとそして人の ぬくもりとか人の話を聞きながらなるほど 自分はこうこう感じたよっていうこと周り の人に話すこうしたのことをつなげていく ということも必要ですよねはいはい山さん ありがとうございましたありがとうござい ましたありがとうございましたラジオ福島 の山路みさ子アナウンサーにお話を伺い ましたこの後も引き続き震災について伺っ ていきたいと思います荻上 ッTBSラジオキSTATIONに生放送 でお送りしています発信型ニュース プロジェクト小地セッション今夜は 東日本大震災から13年伝えるとは何か 岩手宮城福島各放送局と考えるえ地元の 放送局とついて現地の今を伝えていただい ておりますはいさてリスナーの方から メール色々いいております紹介しましょう はいえラジオネームシャキシャキキャベツ さんどうもありがとうございます ありがとうございます東日本大震災後の 復興についてのニュースに触れるたに疑問 に感じるのは地元住民の方々の意見がどれ くらい反映されているのだろうかという ことです特に海岸線の長距離にわる防波丁 建設の過程で地元住民の方々と事前に議論 の積み重ねをして合意形成をしたのか とても気になります東日本大震災後のえも あも東日本各地で様々な自然災害が起きて いますが復興のプロセスに地元住民の意見 が着実に反映されることが1番重要だと 思いますといただいていますはいそれから ラジオネームはみちゃんさんありがとう ございますありがとうございますえ私は 現在大学3年生ですが当時は小学2年生 でしたうんたまたま私のクラスが学級閉鎖

となり早帰りになったため自宅に1人でい たのをよく覚えています揺り始めてから すぐに机の下に潜りその場で怖くて母が 帰宅するまでずっと泣きじゃくっていまし たうん緊急地震速報が何回も出て大きな 揺れもあって夜もいつ大きい揺れが来るか 分からなくて不安でした今でもに 思い出せるのにもう13年ったのかと思う と時間が過ぎるのは早いなと思いますこの 経験を忘れないで自分にできる防災をして いきたいですという風にいだきましたでは 続いてもう1方お話を伺います東北放送の 森谷アナウンサーです森谷さんこんばんは はいこんばんはよろしくお願いしますお 願いしますお願いします森谷さんは今日は どちらに取材に行かれたんですかはいえ私 は今日は仙台の南にあります市の岸部の 地区というところに取材に行ってきまして でこちらでは3月11日追悼の集いみんな のこと忘れないよという催しが行われまし てま多くの方が集まりましてメッセージを 書き入れた鳩の形をした白い風船をですね 空に飛ばすというそういった催しが行われ ましたうんその催しではその風船を飛ばす 以外にはどんなことが行われていたんです かそうですねあのこの売り上げ地区って ところが非常にまず被害が大きかった地域 ではいでまこの場所ではまそういったしを やっていてまだちょっと離れたとこでは 喧嘩が行われていたりですねまた別の ところでは竹道路がえ置かれていたりとか ですねまそういったあのちょっと離れた ところいろんなところでこう被災された 方々のまゆかりの方々ですとかご家族で あったりですとかそういった方々が集まっ てま祈りを捧げているというそういうま 今日の売り上げの状況ですねうんこの参加 されていた方々の声はいかがでしょうか はいあの私がいた場所にはですね結構県外 宮城県以外から来ていた方々が多くてです ねはいでま例えばま先ほどあの小学2年 当時小学2年生だったっていう方のメール 紹介されてましたけれどもま同じように 当時小学生でで今うん大学生という群馬 から来たという親子がいらっしゃいまして うんで娘さんとお母さんだったんですが その娘さんが当時は小学生小学校低学年で 震災のことはほとんど覚えていないとはい なのでえ是非震災のことを知りたいと思っ て今日はわざわざ群馬から来ましたという 方ですとかうんあとはグループで京都から やってきたという学生の方々がいまして はいでこれはあのゼミで震災をこう伝えて いく災害の記憶を伝えていくということを 研究しているんだそうでええそれでえ

みんなでこちらにやってきて被災地を殺し ながらまこの追悼の集いにやってきたと いう話ををしていましてまあの初めてこう 被災地にやってきたので色々こう感じる ところもあったしこれをやっぱり持ち帰っ ていろんな人仲間に伝えることでま今後 起こる災害に対するま備をしっかりしたり とかですねそういったことをこう伝え なければいけないなという話をされてまし たねうんなるほどまあのモリアさんは13 年前この日どういう風に過ごされていたん でしょうかはいはい私はあのその日は夕方 会社でニュースの担当だったものではい 会社で自分の机で作業をしていました でその時にちょうど大きな揺れに見舞われ て揺れが収まると同時に えうちのTBCの情報センターというです ねまニュースをお送りする場所に向かって でそこからえま当時の発生直後の県内各地 の様子をお伝えしたりですねうんであと 夕方夜になってからは仙台駅の方に行って ま仙台駅の様子を伝えたりという動きをし ていましたうんこれ時間が経つに徐々に その沿岸部の被害というものの 葛もあったかと思いますがこちらいかが でしょうかはいあの正直に申し上げると実 はその日はほとんど情報が分からなかった んですねはいえあの発生直後にすぐにあの ニュースのブースに入ってテレビで情報を お伝えしてま今津波で各地こういう状況 ですという風に断的にお伝えしているん ですががたということは分かったんです けどもそれでその町全体がどういう状況に なっているのかどれぐらいのえ犠牲者が出 た可能性があるのかというのはその時点で はほとんど分かりませんでで仙台駅に行っ てからもですねま仙台駅にそのまいわゆる 帰れなくなってしまった帰宅困難者の方が 大勢集まっているという状況は分かったん ですけれどもうんそれ以外の状況というの がほとんど分からなかったんですねそれで まこれあの審議のほどは当時は全く分から なかったんですけれども仙台市沿岸部の 地区で200人から300人の遺体が発見 されたというこれあの今もってどういう どこが出所の情報かってのは全く分から ないんですけどもまそういうニュースが 流れたりうん正直なところどこでどういう 状況どういう被害があったっていうのが 分かったのはもうその次の日になってから あるいは原発の情報が分かったのももう次 の日になってからという状況でしたので うんまあの放送局にいた我々からしても 当時全貌を掴むはできなかったというのが 正直なところですねうんそれこそあの沿岸

にいた方でもそれから例えば電力会社にい た方でもメディアにいた方でも政治関係者 ですら全容というのは把握できなかったの それが3月11日の当日の正直な状況だっ たと思いますがそうしたことも踏まえて その後各放送局あるいは各ま行政機関も 含めてどういう情報を早期に取得をして どんな情報を発信しようとするかそのこと を色々考え続けてきた13年間でもあると 思いますこの点いかでしょうかい そうですねまやはりあのその当時ま私を 含めですけれども震災発生直後にま津波 大津波警報が出ていますすぐに逃げて くださいという呼びかけを当然しましたし はいただあのその伝え方ですね今も色々 こうどういう伝え方がいいのかというのは いろんなあの報道に接している方々が思考 錯誤をして模索しているところだとは思う んですけれどもうん果たしてあの時自分の この呼びかけで良かったんだろうかもう ちょっと違う呼びかけをした方が人のん命 を救えたんじゃないだろうかというのは もう本当に担当したいろんなアナウンサー がま今もって感じていることですしうんま それはこれからもま正解はないと思います のでええええ色々とこうみんなで話し合い ながら模索していかなければいけないん だろうなというのはやっぱり感じますよね うんまたこの自信の伝え方という点につい てはいかがでしょうかそうですねそれも やっぱりその地震の伝え方まその時起こっ ていることそれから今どういう風に行動し なければいけないことというのをしっかり 伝えなければいけませんしあるいはもう これ今もその風化っていうことが言われ ますけれどもはい今の状況がどうで被災者 の方はどういうことを必要としているのか あるいは我々はどういうことに気をつけ ながら過ごしていかないといけないのか 公生にどう伝えていかないといけないの かっていうのはやっぱり絶えずやっていか なければいけませんよねうんそうですね リナの方からこういったメールもいだいて おりますはいえラジオネームぬまゆさん から頂いたメールですどうもありがとう ございます13年前の3月11日地震発生 時私は都心の会社内にいました古い社屋の 壁には日々が入り社員は近くの大学へ避難 しかし長いはできず家の近い者同士自主的 にグループになり帰宅私は妊婦の同僚を 1人にはできず一緒に帰ったことをよく 覚えています彼女の息子ももう です昨年秋初めて福島の沿岸地域を旅行し ました氏もアルプス処理水の海洋放出が 開始された後ですいくつかの施設や震災

意行を巡りました特に富岡アーカイブ ミュージアムは強く印象に残っています町 の歴史震災児の対策室の再現止まった町の 時計住民に避難を呼びかけ自身は帰らの人 になってしまった警察官が乗っていた潰れ たパトカーあの日何があったのかを多面的 に知ることができますたくさんの人に知っ てほしいです夜は真っさらな土地に新しい 飲食施設ができ居酒屋さんで美味しい海の さをいただきました明るい店主から聞く 当時の話胸が痛みましたがでもお客さんが また会いに来てくれるんだと笑顔が見れて 救われました私もまた天主に会いに行こう と思っていますうんあのま福島えそれから 宮城岩手など各地でま災害についてどう 伝えるのかそれあのどういう風に色々な 資料を残したり意行を残したりどのような 街づくりをするのか残すためだけではなく て街づくりをする際には取り壊しであると か片付けであるとかいろんな判断というの を迫られる点はあるかと思います森さん この13年間の街の変化あるいは残し方に ついていかがでしょうかそうですねま今 震災以降というお話がありましたけれども あの私個人的な話をしますとはい南三陸町 というところに防災対策庁舎という震災 意向があるんですねこれあのテレビなんか でご覧になったことある方も多いと思うん ですがもうあの建物が骨組にだけになって しまったえ非常にあの宮城県において津波 の被害を象徴するような建物なんです けれどもこれもあのずっとえ保存すべきか 解体すべきかはいいう議論がありまして うんやはり解体すべきっていう人はあの それを見てしまうことで当時のことを 思い出してしまったり家族をなくして しまった記憶が蘇ってきたりといことが あるので見ると悲しくなってしまうとうん で一方で残すべきというのはやっぱり公生 に伝えていくためにはこの象徴的な建物は 残すべきだというそういう議論がずっと ありましてはいでまあの結果的にはこの ずっと宮城県がえ管理してきたものが今度 の7月からえそれがある南三陸町が今度は 管理することになってま残していくという 方針になったんですねうんはいで私あの 個人としては個人的な感情としてはま10 年前ぐらいであればこれやっぱり解体した 方がいいんじゃないかと私は思ってたん ですねうんやっぱりこれを見て辛くなる人 がいるというのであれば果たして残す必要 あるんだろうかという思いがあったんです けれどもはいただやっぱり10年経つと どうしてもあのいろんなことを忘れるわけ ですうんはいで実際私自身も忘れていない

つもりではあるんですがええええ1月のの 半島自身のいろんな被害であったりあの 被害者の方のえ被災者の方の様子をテレビ なんかで見るとあ当時そういえばこういう ことで困ってたなとかうんこういうことも あったなっていろんなことをやっぱり 思い出すんですよねはいそれがやっぱり あの記憶が薄れてきてる部分だと思うん ですようんそう考えるとやっぱりこの震災 意向として残すっていうことは1つ意味の あることなのかなっていう風にも思います はいあとあの今日私があの伺ったナDCの 売り上げここもあの700人以上の方が 犠牲になった場所なんですがうんここにえ 名取市震災 え電送官と震災 え復興伝承官という施設がありましてはい でここに行くと当時の街並があのジオラ まで残ってるんですねうんでそこのジオラ でいろんなこうあの住宅地のえ家がこう 再現されてるんですけどもはいそこのの1 つ1つにその家の持ち主の名前が書いて あるんですようんなんとかさんの家なんと かさんの家ここはなんとかというお店だっ たっていうのがこう全部こう書いてあり ましてはいそれを見るとやっぱりあここは こういう人たちが住んで生活が営まれてい たんだなってのがすごくこうリアルに感じ られるわけですようんでそこの職員の方に 今日ちょっとお話を伺ったところはい やっぱ10年経ってそこに改めてこう足を 運んであそういえば当時こういう街並み だったねここにこの人住んでたよねとか そういうやり取りがこうあるそうなんです よはいで今もう売り上げの街というのは 全部一旦さになってあの何もなくなった ところにこうポツポツと施設が立てられて いるという状況なのでうんまそういった 方々がもう今のこの売り上げの様子を見て 当時のことを全くやっぱり思い出せないと はいこういうジオラマを見るとあ改めて なんか当時のことが分かるねっていう風に 懐かしそうに話していたっていうのを聞い てうんうんやっぱりそういうこを残すって ことは大事なのかなというのを今日は 改めてちょっと感じた取材でしたねうん うんまた形として残すだけじゃなくて声や 情報として何を残すのか放送でも考えて いきたいと思いますモさんありがとう ございましたはいありがとうございました ありがとうございました東北放送の森谷州 アナウンサーにお話を伺いましたこの防災 庁舎のあの移行というものはねその周辺は あのだいぶ整備をされて近くにも商店街が あったりしてでま立派の橋も立っていたり

してそうした地域などに行くとま味もそう ですし風景もそうですしそしていろんな火 などを見て思いをはせるということもあっ たりするそれからあの色々なまあの災害に ついて学べるという伝承感などもできてい たりするんですがその伝承感もやはりその 立体的に見ることが必要ですねその伝承感 というものが伝えてるものその中身で 色んなことを学ぶことも必要ですしでも 伝承感が立てられていたここはどんな場所 で伝承感そのものが何を伝えているのかい ないのかそれらも含めて考えていく1つの 状況などで災害そのものを全て知る分かる ということはできないわけですけれもそれ を把握をしようとするためにま色々なこと で私たちが動いていくということはできる そんなことを考えさせられました今夜は 東日本大震災から13年伝えるとは何か 岩手宮城福島各放送局と考えるお送りし まし た荻上 地

【出演】岩手放送の江幡平三郎アナウンサー、ラジオ福島の山地美紗子アナウンサー、東北放送の守屋周アナウンサー

【特集】東日本大震災から13年、岩手・福島・宮城からの取材報告

2024年3月11日(月)放送分

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