ビオラの花言葉の如く 震災があった事実を、これからもずっと想い続ける・・記憶と記録

震災から11年被災地を取り続けた アマチュア写真家伊藤洋子さんは今東日本 大震災から11年10年20年の節目など ない忘れられつつあるあの日を今年もまた 振り返る202203なんでこんなとこに 咲いてんだろね生きる満々なんだね大津町 駅のアスファルトを押し上げるように咲い ていた小さな紫のビオラつかさず伊藤さん はしゃがみ込んでシャッターを切りまし たの地面に作花にカメラを向ける伊藤さん 11年前の2011年3月11日に起きた 東日本大震災によって甚大な被害を受けた 沿岸地域の1つ岩手県大津地長自身の故郷 であるこの町を震災の翌日からずっと カメラに収め続けている人がいるそんな噂 を聞き渡し筆者は取材を申し込みました それがアマチュア写真家の伊藤洋子さん 71歳そこで初めて彼女に会いました津波 によって建物のの上に乗り上げた船 2012年5月に伊藤さんが1年間で取り ためた約660点を集め慈悲出版した写真 集がばっぺ氏大土より津波被害によりお兄 様を2人なくされたという伊藤さん身近に 被災した方がいなかった私は初めどのよう に接すべきなのかと緊張していました しかし実際あって話をしてみると伊藤さん は最初から最後までそういった悲しみや 限りといったものを一切感じさせない人 だったのですそれかとてもよく笑う人でし た全てをあるがまま受け入れているかの ような清々しい笑顔それが伊藤さんの第1 印象でした大津長をせに笑顔を見せる伊藤 さん震災当時大好きな故郷に戻りたくても 戻れなかった地元の方々は自分の家が震災 によってどうなってしまったのか一目見 たいと望していましたそんな中井富士さん は震災の翌日から災したお長の様子を撮影 し続けてきたのです当時大きく崩れ民や橋 を撮影していた道人にし伊藤さんが取り 続けたのは何もなくなったさや原ばかり しかしそれらは紛れもなく地元の方々が 当時最も見たかった光景でした以前から そこに何があったのか知っている人で なければ取れない場所を伊藤さんは撮影し ていたから です人に見せるつもりで取っていたわけで はないけれど自分の手元には地元の方々が 今一番見たい光景がたっぷり詰まっている 残酷かもしれないけどだったら見てみたい その思いが伊藤さんを強く突き動かしたの だと言います気持ちわかんだよねと当時の 信教を振り返ります地元の方からの要望で 開始した最初の写真店そこでさらなる反響 を得て遠くに移り住んでしまったお長出身 の方にも届けたいと踏み切った写真集出版

2012年に伊藤さんは写真集ガバっぺ氏 大を上司しますその後全国各地から声が かかりついにはドイツアメリカにまで 出向き震災のリアルを伝え続けましたこの 11年間で国内外含むのべ100か所以上 で写真店を行ってきたと言います呆然と街 を眺める男性の後ろ姿伊藤さんの写真集 がばっ氏大より男の人の後ろ姿しゃがんで いる姿の写真あるでしょ長崎県で写真転し たことあんだけどねその時どこかの お母さんが原爆でも落とされたようだって 言っていたね消えたのではなくめからしな だたかのように扱われた町大津町11年前 の震災による町の被害において最大の特徴 は当時の町長だった加藤騎士を始め幹部 14人のうち8人が亡くなったことで町 全体としての機能を失ったことでした幹部 の大半がなくなったことで理財証明書の 発行がままならず避難所の対策など震災後 の対応が後回しになってしまったのです 当時の状況を伊藤さんはこう語りますこの 町は報道もされないうちに消えてなくなっ てしまった町なの当時やけの原になって しまった大土の町を指差しながら語る伊藤 さん長者がないし蝶がないし町長がいない し電話ないし道路もないし全部ないんだ から蝶もないのと一緒ねで津波が来る前に 逃げた人はもうそっちに定住しているから 帰って来られないそういう報道すらされ ないうちに焼き尽くされて消えてしまった 長男の大土は町が消えてしまったわけよ 強制的にその後に報道が来ても映すべき何 もないの初めからなかったみたいに ねそういう何にもないような状態の時に 撮っていた写真集が私の作ったあの写真集 なの当時は親指の爪ぐらいある巨大なハが その辺にブンブン飛んでいた空気なんか とてもじゃないけど半端でなかったのね 親指の爪ぐらいある巨大なハエがその辺に ブンブン飛んでいるわ魚は腐っているわ 栄養が良かったんだろうね本当に半端で ないよだから端でなかったのんとも言え ない空気臭い臭すぎて人は死んでいる だろうし魚は上がっているしそれ以外の 生き物も多分その辺で上がっていただろう しさらに大津長を苦しめたのは被害の全容 が外部に伝わらなかったことで火災の火が 遅れたことでした1週間ほど大津長の町で は炎が燃え続けたのです信号機が解ける くらいの火力だから骨も何もなくなったん じゃ だから人間ぐらい残酷なものはないと思う んだけど人間の残酷な想像力を持ってして も想像しえないくらいの残酷さがあったん じゃないそう思うよ伊藤さんが撮影した

火災の火力によって解けた信号機写真集 がばっぺし大土より例えば足が挟まれて頭 だけ出ていて空気は据えているけど身体は 水に使っているそういう状態もあると思う のね時期的に寒かったしストーブで灯油 使ったりしているから海に油が混じってい たわけよ会場に火が浮かんでいるわけそう すると火が遠くに見えてもこっちに走って くるでしょ生きた心地がしないよねそんな 感じだったと思うのね色のない大土伊東 さんが撮影した震災発生翌日の大町写真集 がばっ氏大より当時は山の木も焼けて茶色 になって緑だった木も茶色に焦げている わけ見るも無惨にねで街中は焼けて黒いわ よ残ったコンクリートは灰色でしょ黒と 灰色と茶色それしかなかったの世界がだ からたんぽぽでも咲いたらもう目立ってい たよ取材当日のお骨長に咲くたんぽぽ震災 の2日前にたまたま起きた大きな地震の おかげで助かったという伊藤さん伊藤さん の当時の家があった跡地に連れて行って もらうと伊藤さんの家は海沿いの線路の新 なりでし た2日前に都に行く用事があったんだけど その日自信があったから2日後に延期に なったのもしその日に用事が終わって家に いたら確実に私は死んでいたこの辺りに 住んでいた人たちは一発だったからね震災 前に自宅が立っていた地に立つ伊東さん 海沿いにあった自宅は津波で後方もなく 流されてしまいましただから100回逃げ て100回来なくても津波が101回目が あるかもしれないから逃げなさいていうの はそういうことなのね自己責任なのよ最終 的には冷たい言い方だけど一生懸命逃げた けど足救われて亡くなった人もたくさんい たからね当時は目に見えない力の集まりで 成り立ってきた数年間だったと思う被災地 のお話を聞いた時に自分には一体何が できるんだろうと思う人々に対して伊藤 さんが思うことを聞いてみましたすると 伊藤さんはとあるボランティアの方のお話 を聞かせてくれました岩手の大土と漢字は 違うんだけどね九州に住んでいる ボランティアの人で大土さんて人がいたの 大きいという字に地面の土その人がある日 テレビを見ていたら山田邦子っていう 芸能人がテレビに出ていて岩手県山田町が 被災していて自分の苗字も山田だから山田 にボランティアに行ったという話を見たん だってその時大さんは自分は大土だから 大土に行くって単純にそう決めたみたいな のそれでね当時は公共交通機関が止まって いる場所も多かったから九州から岩手まで 自転車できたの自転車に乗って野宿し

ながら大までボランティアの方の話を語る 伊藤さんやろうと思うところまではいいの よそれはあると思うだけど生繁華な気持ち じゃなかったと思うのねだって自分と同じ 名前だから行かなきゃってさ思うところ まではいいでもそこから先が本気って聞き たくなるよねだけどね当時はそういうき特 な方々で成り立ってきた数年間だったと 思うよ目には見えない力の集まりでね美力 ながらて表現よく耳にするけども微力の 塊りが当時は半端じゃなかったと思うんだ よ私みたいなのが言ってもって言いながら も ねそれがたくさん集まったらすごく大きく なるでしょ夕暮れ時の大津長の海を眺める 伊藤さん死にたい死にたいっていう人が いるけれど死にたい死にたいって爪日頃 言う人っているでしょおはようこんばんは みたいな感じでああ死にて死にてってそう いう人でもねもしもあの場に遭遇したら 助けて助けてくれって言うと思うよ必死に なってね11mって言ったらビル3階ビル 3階の塊が迫ってくるんだからねあそこ からそして最大津波は22M25mプール みたいなのが壁になって迫ってくるんだよ 想像できる伊藤さんの故郷大津町の海山と 海豊かな自然に囲まれた美しい町大津町次 に我々を白山公園と呼ばれる高台に連れて 行ってくれた伊藤さんそこにはまるで ミニチュアのような世界が広がっていまし た現在の街並が広がるお長なんだか おもちゃみたいですねここから見るとと 不意に伊藤さんにそう話すと鉄腕アって わかる漫画のあの時代に空飛ぶ車とかさ 高いところを車が走っていたりしてさ下に も通っているのよここから見るとあの世界 を思い出すんだよねここも大土あっちも 大土全部大土びっくりマーク楽しそうに 現在の大土の街を説明してくれる伊東さん 大土の街を説明してくれる伊東さんの顔は まるで子供のように無邪気な笑顔で はしゃいでいるように見えました一度は 消えてなくなってしまった町大津町大切な 人たちもたくさん奪ったこの広い海それで もやはり伊藤さんはこの街が大好きなの でしょう思い立ったらすぐ行動行こうと 思えばどこへでもぱっ動く父さんがずっと この町に住んでいるのやはり大津町という 町が大好きだからなのだろうとその時思い ました大津町駅のアスファルトに咲いてい た小さな花朝大津町駅で見かけたあの 小さなビオラ帰り際はそれはまだ誰にも 踏まれずそこに咲いていました硬い地面の 上に花を咲かせるたましいその姿が震災を 乗り越えて今を初々と生きる伊藤さんの姿

と重なりましたあの時地面に作花にカメラ を向けた伊藤さんは何を思ったの だろう彼女が今回の取材で私たちに本当に 伝えたかったことは何だったのだろう帰り の道中で私はそのことをずっと考えてい ました私のことを思ってその時不に 思い出したビオラの花言葉あそうかと心の 中でつく私単純なようだけれどそれが一番 大切なのかもしれないと震災があった事実 をこれからもずっと思い続ける大を後に私 は分にうのでした月があれば我々取材犯に カメラを向ける伊藤さんでした東日本大 震災から11年が経ち震災の報道が毎年 著しく減っていることに各地で懸念の声が 上がっています10年20年の節目など ない防災意識を高めるには1人1人があの 時起きた事実を毎年この時期に思い出し 続けるということそれが今を大切に行き いざという時に自分の身を守ることに つがるのではないでしょうか日本大震災 から11年

ビオラの花言葉の如く 震災があった事実を、これからもずっと想い続ける
ビオラの花言葉の如く 
震災があった事実を、これからもずっと想い続ける

震災から11年…
被災地を撮り続けたアマチュア写真家、
伊藤陽子さんは今

東日本大震災から11年…10年20年の節目などない 
忘れられつつある“あの日”を今年もまた、振り返る 

2022/03/

「なんで、こんなとこに咲いてんだろね? 生きる気満々なんだねぇ」

大槌町駅のアスファルトを押し上げるように咲いていた、小さな紫のビオラ 
すかさず、伊藤さんはしゃがみこんでシャッターを切りました 

大槌町駅の地面に咲く花にカメラを向ける伊藤さん

11年前の2011年3月11日に起きた東日本大震災によって、甚大な被害を受けた沿岸地域のひとつ岩手県大槌町 

“自身の故郷であるこの街を、震災の翌日からずっとカメラに収め続けている人がいる…”、

そんな噂を聞き私(筆者)は取材を申し込みました 

それがアマチュア写真家の、伊藤陽子さん(71歳) そこで初めて彼女に会いました 

津波によって建物の上に乗り上げた船 

2012年5月に、伊藤さんが1年間で撮りためた約660点を集め自費出版した写真集 『がんばっぺし大槌』より 

津波被害により、お兄様を2人亡くされたという伊藤さん 
身近に被災した方がいなかった私は、初めどのように接すべきなのかと緊張していました 

しかし実際会って話をしてみると、伊藤さんは最初から最後まで、そういった“悲しみ”や“かげり”といったものを、一切感じさせない人だったのです 

それどころか、とてもよく笑う人でした 

すべてをあるがまま受け入れているかのような、清々しい笑顔 

それが伊藤さんの第一印象でした 

大槌町を背に、笑顔を見せる伊藤さん 

震災当時、大好きな故郷に戻りたくても戻れなかった地元の方々は、 “自分の家が震災によってどうなってしまったのか一目見たい”と切望していました 

そんな中伊藤さんは、震災の翌日から被災した大槌町の様子を撮影し続けてきたのです 

当時、大きく崩れた民家や橋を撮影していた報道陣に対し、伊藤さんが撮り続けたのは、なにも無くなった更地や焼け野原ばかり 

しかし、それらは紛れもなく、地元の方々が当時最も見たかった光景でした 
以前からそこに何があったのか知っている人でなければ撮れない場所を、伊藤さんは撮影していたからです 

人に見せるつもりで撮っていたわけではないけれど、自分の手元には、地元の方々が“今一番見たい光景”がたっぷり詰まっているー 
残酷かもしれないけど、自分だったら見てみたい」 その想いが伊藤さんを強く突き動かしたのだと言います 

「気持ち、わかんだよね」と、

当時の心境を振り返ります 

地元の方からの要望で開始した最初の写真展 

そこでさらなる反響を得て、遠くに移り住んでしまった大槌町出身の方にも届けたいと踏み切った写真集出版 
2012年に伊藤さんは、写真集『がんばっぺし大槌』を上梓します 
その後、全国各地から声がかかり、ついにはドイツ、アメリカにまで出向き、震災のリアルを伝え続けました 
この11年間で、国内外含む、のべ100カ所以上で写真展を行ってきたと言います 

呆然と街を眺める男性の後ろ姿 
伊藤さんの写真集『がんばっぺし大槌』より 

「男の人の後ろ姿 

しゃがんでいる姿の写真あるでしょ?

長崎県で写真展したことあんだけどね、その時どこかのお母さんが『原爆でも落とされたようだ』って言っていたね…」

“消えた”のではなく、

初めから存在しなかったかのように
扱われた街、大槌町

11年前の震災による大槌町の被害において最大の特徴は、当時の町長だった加藤宏暉氏をはじめ、幹部14人のうち8人が亡くなったことで、町全体としての機能を失ったことでした 

幹部の大半が亡くなったことで、罹災証明書の発行がままならず、避難所の対策など震災後の対応が後回しになってしまったのです 

当時の状況を、伊藤さんはこう語ります 

“この街はね、報道もされないうちに
消えてなくなってしまった街なの”

当時、焼け野原になってしまった大槌の街を指差しながら語る伊藤さん 

「庁舎がないし、町がないし、町長がいないし、電話ないし、道路もないし、全部ないんだから 

町もないのと一緒 

ね? で、津波がくる前に逃げた人は、もうそっちに定住しているから、帰って来られない 

そういう報道すらされないうちに、焼き尽くされて消えてしまった町なの、大槌は 街が消えてしまったわけよ、強制的に 

その後に報道がきても、写すべき何もないの 

初めからなかったみたいにね 

そういうなんにもないような状態の時に撮っていた写真集が、私の作ったあの写真集なの」

“当時は親指の爪ぐらいある
巨大なハエが、
その辺にブンブン飛んでいた”

「空気なんかとてもじゃないけど半端でなかったのね 親指の爪ぐらいある巨大なハエが、そのへんにブンブン飛んでいるわ、魚は腐っているわ… 

栄養がよかったんだろうね 本当に半端でないよ 

だから空気も半端でなかったの 

なんっとも言えない空気 臭い 臭すぎて 

人は死んでいるだろうし、魚は干上がっているし 

それ以外の生き物も、多分その辺で干上がっていただろうし」
 
さらに大槌町を苦しめたのは、被害の全容が外部に伝わらなかったことで、火災の鎮火が遅れたことでした 

一週間ほど、大槌町の街では炎が燃え続けたのです 

「信号機が溶けるくらいの火力だから、骨も何も… 
なくなったんじゃない?
だから…人間ぐらい残酷なものはないと思うんだけど、人間の残酷な想像力をもってしても、想像し得ないくらいの残酷さがあったんじゃない 
そう思うよ」
 
伊藤さんが撮影した、火災の火力によって溶けた信号機 
写真集『がんばっぺし大槌』より 

「例えば足が挟まれて、頭だけ出ていて空気は吸えているけど、身体は水に浸かっている 
そういう状態もあると思うのね 
時期的に寒かったし、ストーブで灯油使ったりしているから、海に油が混じっていたわけよ 
海上に火が浮かんでいるわけ 
そうすると、火が遠くに見えてもこっちに走ってくるでしょ? 
生きた心地がしないよね… 
そんな感じだったと思うのね」
 

色のない大槌

伊藤さんが撮影した、震災発生翌日の大槌町 
写真集『がんばっぺし大槌』より 

「当時は山の木も焼けて、茶色になって、緑だった木も茶色に焦げているわけ 
見るも無残にね で、街中は焼けて黒いわけよ 
残ったコンクリートは灰色でしょ? 黒と、灰色と、茶色 
それしかなかったの、世界が 
だからタンポポでも咲いたら、もう目立っていたよ」

取材当日の大槌町に咲くタンポポ 

震災の2日前にたまたま
起きた大きな地震のおかげで
助かったという伊藤さん

伊藤さんの当時の家があった跡地に連れて行ってもらうと、伊藤さんの家は海沿いの線路の真隣でした 

「2日前に宮古に行く用事があったんだけど、その日おっきな地震があったから、2日後に延期になったの 
もしその日に用事が終わって家にいたら、確実に私は死んでいた 
この辺りに住んでいた人たちは一発だったからね」

震災前に自宅が建っていた地に立つ伊藤さん 

海沿いにあった自宅は、津波で跡形もなく流されてしまいました 

「だから100回逃げて100回こなくても(津波が)、101回目があるかもしれないから、逃げなさい…っていうのは、そういうことなのね 

自己責任なのよ 最終的には 

冷たい言い方だけど 

一生懸命逃げたけど、足すくわれて亡くなった人も沢山いたからね」
 

“当時は目に見えない力の
集まりで成り立ってきた
数年間だったと思う”

被災地のお話を聞いたときに、“自分には一体何ができるんだろう?” と思う人々に対して、伊藤さんが思うことを聞いてみました 

すると伊藤さんは、とあるボランティアの方のお話を聞かせてくれました 

「岩手の大槌と漢字は違うんだけどね、九州に住んでいるボランティアの人で、『おおつちさん』て人がいたの 

大きいという字に、地面の土 

その人がある日、テレビを観ていたら、山田邦子っていう芸能人がテレビに出ていて、岩手県山田町が被災していて、自分の名字も“山田”だから、山田にボランティアに行ったという話を見たんだって 

そのとき大土さんは、自分は“おおつち”だから、大槌に行くって、単純にそう決めたみたいなの 

それでね、当時は公共交通機関が止まっている場所も多かったから、九州から岩手まで自転車できたの 
自転車にのって野宿しながら、大槌まで」

ボランティアの方の話を語る伊藤さん 

「『やろう!』と思うところまでは、いいのよ 

それはあると思う 

だけど、生半可な気持ちじゃなかったと思うのね 

だって、自分と同じ名前だから行かなきゃってさ、思うところまではいい 

でもそこから先が…本気?って聞きたくなるよね」 

「だけどね、当時はそういう奇特な方々で成り立ってきた数年間だったと思うよ 

目には見えない力の集まりでね 

“微力ながら”って表現よく耳にするけども、微力の塊が、当時は半端じゃなかったと思うんだよ 

“私みたいなのが行っても…” って言いながらも、ね 
それが沢山集まったら凄く大きくなるでしょ」
 
夕暮れどきの大槌町の海を眺める伊藤さん 

“「死にたい死にたい」って
言う人がいるけれど…”
 
「『死にたい死にたい』って、常日頃言う人っているでしょ?
おはよう、こんばんはみたいな感じで 

『ああ、死にてー死にてー』って 

そういう人でもね、もしもあの場に遭遇したら、『助けてー助けてくれー!』って言うと思うよ 

必死になってね…」

「11メートルって言ったらビル3階 
ビル3階の塊が迫ってくるんだからね、あそこから 

そして最大津波は22m 

25メートルプールみたいなのが壁になって迫ってくるんだよ 想像できる?」

伊藤さんの故郷、大槌町の海 

山と海 豊かな自然に
囲まれた美しい街、大槌町
 
次に、われわれを『城山公園』と呼ばれる高台に連れて行ってくれた伊藤さん 

そこには、まるでミニチュアのような世界が広がっていました 

現在の街並みが広がる大槌町

「なんだかおもちゃみたいですね、ここから見ると…」と、 ふいに伊藤さんにそう話すと、
「『鉄腕アトム』ってわかる? 漫画の… 
あの時代に空飛ぶクルマとかさ、高いところをクルマが走っていたりし
あのとき、地面に咲く花にカメラを向けた伊藤さんは何を思ったのだろう 
彼女が今回の取材で私たちに本当に伝えたかったことは何だったのだろう?  
帰りの道中で私は、そのことをずっと考えていました 

“私のことを想って…”
 
そのとき、ふいに思い出したビオラの花言葉 
「ああ、そうか」と心の中でつぶやく私 
「単純なようだけれど、それが一番大切なのかもしれない…」と 

“震災があった事実を、これからもずっと想い続ける”--大槌町駅をあとに、私はそう自分に誓うのでした 

隙があれば、われわれ取材班にカメラを向ける伊藤さんでした… 

東日本大震災から11年が経ち、震災の報道が毎年著しく減っていることに各地で懸念の声が上がっています 
10年、20年の節目などない… 
防災意識を高めるには、ひとり一人があのとき起きた事実を、毎年この時期に想い出し続けるということ 
それが今を大切に生き、いざというときに自分の身を守ることにつながるのではないでしょうか 

東日本大震災から11年
 

By Marie Abe
2022/03/14

記憶と記録

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