【未解決事件】大分市みどり荘事件

1981年かこ昭和56年6月27日から 28日にかけての深夜大分県大分市の アパートみ層で女子短大生かこ当時18歳 が殺害されました血液型B型の血液を含む 血液型A型の唾液が検出され被害者の血液 型はA型であることからこの血液は犯人の ものと推定されまし た全国の皆さんごげようパンダ紳士です 本日は大分県大分市で起きた未解決のまま の冤罪事件ですこの事件は日本で初めて 裁判所の職権でDNA鑑定が採用された 事件で登板弁護士制度創設のきっかけに なった事件でもありますまた被疑者や家族 に対する報道被害事件としても知られてい ます一体どのような事件だったのかその 詳細をお話ししたいと思いますそれでは 早速ゴーゴーゴー1981年かこ昭和56 年6月27日から28日にかけての深夜 大分県大分市六房町か現6房南町にあった 2階建てのアパート緑総203号室でこの 部屋に住む大分県立芸術短期大学かこ現 大分県立芸術文化短期大学1年の女子学生 の遺体が発見されました同短大2年の姉と ともにこの部屋で暮らしていましたこの日 姉妹は所属する短大の音楽サークルと大分 工業大学かこ現日本分離大学の学生との ジョイントコンサートに参加し終了後の 打ち上げにも揃って参加していました22 時30分頃に一時会が終わり姉は二次会へ と向かいましたが被害女性はお風呂に入り たいと理由で断り他の女学生も含めた3人 と一緒に男子学生に送ってもらいみソ近く の交差点ですぐそこだからと23時15分 頃に彼らと別れています男子学生は残りの 女学生を送った後23時30分頃に2次会 に合流しました打ち上げの2次会は男子 学生らが戻ってほどなくお開きとなりまし た姉は実質に止めるつもりだった友人女性 と一緒に男子学生らに緑まで送ってもらい 日付が変わった6月28日0時30分過ぎ に男子学セラと別れました階段を上がり ドアの鍵を開けようとすると鍵はかかって おらずドアを開けると台所と6畳マの電気 はついたままで高校とした明りの下で台所 に横たわる代わり果てた妹の姿を発見し ます上半身はTシャツを着ていましたが胸 までまくられ下半身は裸首には オーバーオールが巻きつけられ口から わずかに舌を出している顔を見てすぐに姉 は妹が亡くなっいることを理解しました姉 と友人女性は警察に連絡してもらおうと 送ってもらった男子学生らを探しに戻り ましたが見当たらなかったため近くに住む 別の男子学生のアパートを尋ねて事情を 説明しこの男子学生が近くの公衆電話から

0時51分に警察に通報しました通報を 受け6月28日午前1時頃に1人の巡査が いち早く現場に到着しました巡査は遺体を 確認した後両隣の住民の話を聞こうとドア を叩きますが205号室は電気も消えて おり202号室は電気はついていたものの 誰も出てこなかったそうですその後緑ソ前 の空地を操作していたところ202号室の 窓から男に何しよるかと声をかけられた ため巡査は202号室に向かい男に203 号室で殺人事件が発生したことを伝え何か 物音を聞かなかったか聞きましたが男の 返答は酒を飲んでて寝ていて何も聞いてい ないとのことでした事件現場となった 203号室の現場検証では室内に犯人と 被害者が争った後は見られましたが金品を 物色したような形跡はなく室内に土足の後 もありませんでしたその後の調べで遺体の 室内と陰毛から精液が採取され陰毛に付着 していた精液が血液型B型の人物のものと 判明しますその他室内からは人毛と姉妹 以外の指紋が多数採取されました検修の 結果死因は手で首を圧迫した後被害者の オーバーオールで首を締めつけて考察した 窒息死と確認されました世が開けると危 込み調査の範囲が広げられ近隣住民からの 証言が得られました201号室の住民は 22時頃ベッドに入ったが隣の202号室 から大きなステレオの音がして寝つけ なかったしばらくして小さくなったので寝 ついたがアパートのどこかの部屋から 聞こえるドタンバたんという音で目を 覚ましそしてバタンという人が倒れるよう な音を聞いたその合間に女性の声が聞こえ 小さな声だったがどうしてどうしてと言っ ているのは聞こえたという証言をしており 緑ソから空地を挟んだ東側に住む住民も 全く同じ証言をしていますまた事件現場で ある203号室の北隣の205号室の女性 住民からは当日は23時40分頃部屋の 電気をつけたまま眠りにつきどれくらい 経った頃か分からないがきゃあ誰か助けて という女性の悲鳴で目が覚めた物が倒れる ような音も聞こえたどこかの部屋に痴漢で も入ったのかと思い隣室の203号室の人 に聞いてみようとパジャマのまま部屋を出 て203号室のドアをノックしたところ中 から女性の悲鳴が聞こえたので驚いて慌て て実質に戻り頭からタオルケットをかぶっ てベッドに入ったううという声も聞こえて きたので不安になったがその後は普通に 話す声が聞こえてきたのでふざけていたん だろうと安心してトイレに入って再び ベッドに入ったしかししばらくすると ドスンドスンという音ととに神様お許し

くださいと泣き叫ぶ声が12分に渡って 10回程度繰り返し聞こえたそして再び 静かになったがしばらくして押入れの方 からカタカタという音が聞こえてきたので 恐ろしくなり実家に帰ろうと着替えて部屋 を飛び出したその際木のつっかけを履いて いたので金属性の外階段はカンカンと かん高い音を立てた単体の前の公衆電話 から実家に連絡し続けてタクシーを呼んで 実家に帰ったタクシーに乗ったのは0時 40分頃最初に女性の悲鳴を聞いて目を 覚ましたのはそれより15分か20分 くらい前だと思うという具体的な証言を得 ていますこうした情報から犯人は深夜に 被害者を尋ねても部屋に入れてもらえる 程度の面識がある人物と思われました6月 29日の大分合同新聞も犯人が土足で侵入 した形跡がないことやドアの鍵が壊されて いないことなどから顔見知りの反抗化と 報じましたしかし容疑者として捜査線上に 浮上したのはこうした犯人像とは異なる 人物でした被疑者として浮上したのは事件 現場の隣室2025室に住む靴かけ涼一 さんでした彼は一体どのような物だったの でしょうか靴かけさんは1956年かこ 昭和31年5月9日大分県大野郡大野町 かこ現文庫大野市の生まれで実家は農家 でした第4市として生まれた長男であった ため可愛がられて育ち幼い頃は明るく活発 な子供だったそうですしかし小学校4年生 の時に父が糖尿病となって入隊員を 繰り返すようになると生活は一変し中学に 入ると母が父の看病のために大分市に移っ たため姉2人との3人暮らしとなりました 中学校2年生の2学期からは不登校となり その際に自閉精神病室と診断されて投薬 治療を受けています翌年母親と大分市内の アパートに一緒に住むようになって大分 市立王子中学校に転校1年遅れで中学を 卒業して大分電波高等学校かこ現大分国際 情報高等学校に進むと同校で知り合った 友人とバイクを乗り回すようになりました 高校もさらに1年遅れて卒業した後は航空 自衛隊に入隊し初期教育が終わると 1977年かこ昭和52年8月に追基地に 配属されます新入隊員としてただ1人重堅 道の基地代表の1人に選ばれた靴かさんは 先輩から特に目をかけられて世話になり ますが1980年かこ昭和55年1月13 日飲酒運転で車が大破するほどの事故を 起こし自衛隊を退職していますその後いく つか職を点々とした後同年10月1日から 市内のホテルに飲料部のウェーターとして 働き始め同じホテルの養殖店で働く女性と 恋人関係になり1981年かこ昭和56年

4月20日からミソの202号室で同棲を 始めました相手は高校を卒業したばかりの 19歳でしたが2人の交際同棲は双方の親 も公認の中でしたそして事件のあった日の 1981年かこ昭和56年6月27日は 2人とも休みで15時頃に気象して恋人が 一緒に夕食の買出しに行こうと誘ったのを 靴さんが断ったことをほったに高論となり 恋人が以前から不満であった生活費のこと で言い争いになった挙国恋人は実家に帰る と言って部屋を飛び出していってしまい ましたそのような経緯から事件等や靴かけ さんは恋人が出ていった部屋に1人でい ましたそして事件現場の北隣の205号室 の住民だけでなく201号室や空地を挟ん だ住宅の住民も大きな音を聞いているにも 関わらず南隣の22号室の靴かけさんが何 も聞いていないというのは不自然でした 事件直後に駆けつけた巡査に対して酒を 飲んで寝ていて何も聞いていないと答えた 靴下さんはその直後騒ぎに気づいて顔を 出した201号室の住民に殺人事件があっ たことを伝えていますそして靴かさんは 巡査の許可を得て公衆電話に行き恋人の 実家に電話をかけ緑層に戻る途中で新聞社 の記者からの取材を受けていますその後 部屋に戻った靴かさんは任意同行を求め られこれに応じた靴かけさんは4時30分 頃から6時30分頃まで大分警察署かこ現 大分中央警察書でT警部補に事情聴取を 受けましたふかさんの今日によれば恋人が 部屋を出ていった後はナイターを見ながら ビール1本とウイスキーを飲んだそのまま 寝てしまい気づくとナイターは終わってい たので中口強しのレコードをいつもより 大きな音でかけた聞きながらまた寝て しまい次に気づくとレコードは終わって おりテレビは映画をやっていて酒場や ドイツの軍人が螺旋階段を降りてくる場面 だったということでしたT警保は翌々日の 6月30日にも再度任位の事情調子を行い このこの日の聴取は10時から22時に 及び午前中にポリグラフ検査を行い文発4 本を任意提出させていますこの事情聴取を 受けて大分合同新聞はこの日の夕間で匿名 ではありましたが重要参考人を及ぶ若い 会社員を追求と報道しましたこの報道に よって靴かけさんは勤務先から一応預かり だからと辞職願いを欠かされた上で給食 扱いとなり自宅待機を命じられています その後も何度も任位の事情聴取が続けられ ますが靴かけさんは酒を飲んで寝てので何 も覚えていないと繰り返すだけでした そして7月末頃に行った事情聴取の場で靴 かけさんがこれ以上の聴取に応じることを

拒否したためこれ以降任意の取り調べが できなくなってしまいますそんな中大分市 内では同年12月に連続放課事件が発生 また同年10月に発生した銀行から 500万円が強奪された強盗受験も未解決 のままであったため市民マスコミの警察に 対する視線は厳しくミ総事件の解決には 警察の維新がかかっていましたそんな中の 12月11日ふかさんが同僚4人と共に タクシー運転手に暴行するという事件が 発生しました警察はその場で靴かけさん だけを暴行容疑で逮捕しましたあからさま な別件逮捕ではありましたが靴かけさんが 2位の取り調べを拒否する以上警察として はなんとか身柄を確保したかったのです ところが事件の翌朝靴かけさんの職場の 労働組合が依頼した大分合同法律事務所の 古田邦男弁護士が介入時男所や単眼書を 取りまとめ酔っていて覚えていない年ブる 靴かけさんを認めれば出れるからと説得し て靴かけさんは罰金2万円の略式命令で1 週間で釈放されました実はミ総事件を追求 するための別件逮捕と感じた古田弁護士は 違法操作を止めるためにとにかく靴かけ さんを早く釈放させることを優先して1 週間での釈放を実現させたのです12月 28日家計県から大分県警に発鑑定の結果 が届きましたその結果は被害者の部屋に 残されていた対明のうちの3本がくけさん のものと同一であるというものでした ようやく物書を手に入れた警察は靴かけ さん逮捕に向けて動きます年が明けた 1982年かこ昭和57年1月14日大分 合同新聞は長官一面で隣室の男逮捕へ対明 血液型が一致大分書が断定事件直後新しい 傷と報じましたそしてこの日の12時50 分ふかさんは逮捕されます新聞記事を見て 集まっていた多くの報道陣や八馬が見守る 中くけさんは大分検察署にに連行されまし たその日の大分合同新聞の夕刊はホテル 従業員逮捕周年7ヶ月ぶりにむっつりした 犯人グかけという生み出しと連行される靴 かけさんの写真を大きく掲載しました逮捕 当初は逮捕前と同様酒を飲んで寝ていたの で何も覚えていないと容疑を否認していた 靴かけさんも厳しい取り調べの前に1月 18日午前ついに自白しました大い警察 所長の発表を受けて1月22日の大分合同 新聞長官には靴かけやっと実況私に間違い ない恋人と喧嘩カト両親揺さぶる説得でと いう見出しで逮捕を大きく掲載しました ふかさんは1月30日から3月10日まで 市内の中園精神病院で精神鑑定を受けまし たが精神障害や見坊は存在しないとの鑑定 結果を得た上で2日さんは3月15日に

[ __ ]地士殺人の罪で起訴されますそんな中 12月の靴さんの暴行事件の弁護を担当し た古田弁護士は緑総事件について靴さん 本人からやっていないと聞いており靴かけ さん逮捕の報道に接して別件とはいえ一度 弁護を担当したものとして会いに行くべき ではないかと考えていましたそして逮捕の 翌々日の1月16日古田弁護士はまだ本人 からも家族からも依頼されていませんでし たが弁護人になろうとするものとして自白 前の靴かけさんと面会しそこでも再度やっ ていないという靴かけさんの言葉を確認し 金銭面から運と言わない靴かけさんに とりあえず弁護人仙人届けを書くだけ書か せてそのの日の面会を終えました当時の 古田弁護士は登録2年目で否認している靴 かけさんの刑事弁護を1人で担う自信は なかったため弁護士控室で声をかけられた 小中高の8年先輩にあたる徳田弁護士に 依頼こうして2人は1月25日に靴さんの 長子にあって着手金を受け取り正式に家族 の依頼による靴さんの弁護人となります 大分地裁における初後半の記述は1982 年かこ昭和57年4月26日に決まりその 約前に弁護団に対して関係書類の開示が 行われましたこの時初めて靴かけさんの教 長所を見た弁護団は驚き困惑します新聞 報道等では全面事業と報じられていたにも 関わらず靴かけさんの教授は気づいたら 203号室で被害者の異の対のそばに立っ ていた侵入経路や反抗状況は一切覚えてい ないが自分が犯人に違いないというとても 自白とは呼べないようなものであったそう です4月26日大分地裁で第1回後半が 開かれましたこの後半ででは口かけさんは 反抗現場にいたこととすぐ自分の部屋に 帰ったことは覚えている旨を答えました第 2回後半は6月7日に行われましたこの 後半より翌1983年かこ昭和58年1月 13日の第10回後半までをかけて緑総の 住民や捜査にあたった警察官官邸にあたっ た家計験や大分県警科学捜査研究所の議会 などの証人尋問が行われました検察側の 立証は第10回後半での被害者の姉ととも に体を発見した友人への証人尋問で終了し ましたが2かけ算による反抗であると十分 に立証されたとは言えない状況でした逆に 弁護側はこれまでの心理で明らかになった 犯人像と靴かけさんは結びつかないこと 事件直後の靴かけさんの態度や行動も犯人 のものとは思えないことまた対象しうる 指紋相聞足跡もないと指摘してはっきりと 無罪を主張しましたそして翌第11回後半 では教育長所は身体的精神的疲労と対明 移流等の五道によるものであり反抗当時の

記憶がない中で記憶に基づかずに事故が 反抗化したと推定あるいは想像したものに 過ぎないとして自白の任性を争う姿を示し ましたこれによって次回第12回後半では 靴かけさんに対する被告人尋問が行われる ことになりました被告人尋問が行われる第 12回後半の前日の1983年昭和58年 3月9日打ち合わせのために接見した古田 弁護士に対し靴かけさんは実は事件のあっ た時間は寝ていて隣の部屋にいた記憶は ないとこれまでの隣の部屋にいたことは 覚えているという今日とは異なる話を始め ましたそして第12回後半で古田弁護士の 酒を飲んでいて眠ってしまって事件の時間 帯の自分の記憶はないというのが本当の ところなんですねという最後の質問に対し て靴かけさんははっきりとはいと答えまし たそして3月9日13時30分第52回と なる判決後半が開演判決の主文は被告人を 無期懲役に処するでした裁判長は判決理由 の中で有罪認定の柱として靴かけさんの 自白や家計権の発鑑定などを挙げました 一新判決後の記者会見をえ配送に落ち込ん でいた両弁護士でしたが他の弁護士の協力 もあり弁護団への参加を呼びかけました そして最終的にミ総事件の弁護団は13名 となります弁護団は一新判決を再検討し 自白の任意性1025室の住民の証言靴 かけさんの体に紙傷がなかったこと靴かけ さんの衣類から被害者の血液の跡が 見つかっていないこと靴かけさんの首や左 手首の傷猛烈観点の信用性などについての 一新判決の判断を批判し靴かけさんが犯人 ではないことを示す証拠を指摘するおよそ 200ページにも及ぶ控訴収書をまとめ 1989年か平成元年11月30日に福岡 交際に直接自賛して提出されました福岡 高裁における公訴審第1回後半は1990 年平成2年3月14日に開かれ弁護側は 自白が共用されたものであることを明らか にしていき家経験の文発鑑定の信用性にも 踏み込みました文発鑑定に関する国内外の 大量の文献を示し分析科学的検査では 同一人でもデータの変動が大きく他人官で もあまり違いがないことを指摘して家計権 の文発鑑定が信頼できないものであると 説明しましたその後離島計画の世界的権威 九州大学理学部の柳川孝志女教授を紹介さ れた弁護団は教授に再鑑定を依頼しました これとは別に第6回後半で弁護団は被害者 の首に巻かれたオーバーオールに付着して いた対明の鑑定を要求し鑑定の結果 オーバーオールについていた対明は血液型 大型のものであることが判明しました さらに遺体の司法解剖の鑑定書に何かが

剥がされた形跡を発見して鑑定人に 問い合わせたところ当初の鑑定書には被害 者の室内に残されていた精液はa型または 大型であると記された付属説明文章が添付 されていたことが分かります被害者の陰毛 に付着していた精液は靴かけさんと同じB 型のものであったため弁護団は複数犯に よる反抗を強く疑うようになっていきまし た柳川女教授の再鑑定書は統計的鑑定法の 考え方についての総論とこの観点から具体 的に家計権の発鑑定の誤りを指摘する各論 部分からなり結論としてあらゆる点におい て本件において採用された文発鑑定法は 信頼性のある科学的根拠を持った官邸とは 言えないと断言するものでした弁護団は この再鑑定書を5月23日の高訴心第8回 後半に証拠として申請し6月25日の第9 回後半では柳川女教授の証人尋問が行われ ました柳川女教授は鑑定書と証言でまず 被告人の文発のサンプルが少なすぎて被告 人の猛烈の特徴自体が明確になっていない ことを指摘また鑑定については事件現場で 採取されたモハと被害者被害者の姉靴かけ さんの猛烈の塩素カリウムカルシウムの 含油量を比較して靴かけさんと同程度で あったと鑑定したものでデータには幅が ありしかも被害者の姉と靴かけさんの数値 は大部分が重なっていることを示しました 本来この重なりあった部分は判定不可能 領域であり事件現場で採取された発の数値 がこの領域にあれば被害者の姉のものとも 靴かけさのものとも判定できないもので あると指摘しましたそれにも関わらず家計 験の文発鑑定で事件現場で採取された文発 のデータが掛けさんのデータと一致したと 判断しているのは失当でありそもそも人の 文発はほとんどの人で元素含油料のデータ は大部分が重なるものであるから3人の 文発だけと比較しても全く意味がないと 主張しました柳川官邸省提出後前田裁判長 は弁護団と検察を呼び出し反抗現場に移流 されていた文発と被害者の室内から採取さ れた精液をDNA鑑定にかけることを打身 しました当時DNA鑑定は100万人に 1人の確率で個人選別が可能などと マスコミで報道されていたもののまだまだ 未知の領域でありDNA鑑定の科学的信頼 性には強い疑問が残るとされていましたが 10月31日の第12回後半で日本で 初めての裁判所の職権によるDNA鑑定が 行われることが決まりありました鑑定結果 は事件現場から採取された発のうちの1本 からふかさと同一のDNA型が検出された というものでしたしかしこの鑑定書には 多くの問題があり弁護団が発見した誤りは

53箇所に及んだそうでこれを受け福岡 交際で官邸人尋問が行われることになり 結果32箇所が訂正されました刑事事件の 鑑定書でこれだけの箇所が訂正されると いうのは前代未問でしたDNA鑑定で靴 かけさんと同一のDNA型が検出されたと する発がけさんのものではありえないこと が明らかになった第23回後半直後の 1994年平成6年7月7日弁護団は福岡 交際に対してふかさの保釈を請求します これによりその後検察は特別広告を断念8 月1日ふかさんは保釈されました殺人事件 で一新で無期懲役判決を受けた被告人が 保釈されるのも日本では極めて稀なこと でした1995年かこ平成7年2月24日 第26回後半が開かれ13時30分に弁護 川の最終弁論が始まりますこの弁論により 高訴心は決心とし1995年平成7年6月 30日福岡交際で判決後半となる高訴心第 27回後半が行われました14時に開演し 長町裁判長が主文現判決を破棄する被告人 は無罪と逆転無罪となる判決を読み上げる と満席の膨張石から大きな土めきと拍手 そして被告人の長子のむせびなく声が法廷 に響き渡りました近隣住民がどうして教え てという声を聞いていることや犯人は深夜 であるのに2035室に難題雑座もなしに 入り得たように伺えることから犯人は被害 者と親しくかつ信頼関係のあるものでは なかろうかと強く推測されると判事し さらにくけさんが警察官に何しおるかと声 をかけたことやこの警察官や201号室の 住民新聞記者と言葉を交わした際も不審な 様子はなく落ち着いた態度で対応していた ことを[ __ ]や殺人といった凶悪な犯罪を 貸した直後の犯人の言動としては通常考え がいとしました長町裁判長が判決を言い 渡しを得ると法廷は再び大きな拍手と完成 に包まれ退園しようとする長町裁判長の 背中に向けて膨張席から一極大きな声が 上がりました長町裁判長は一瞬その歩みを 止めつつも振り返ることなく法廷を後にし たそうです上告期限を翌日に控えた7月 13日福岡高等検察庁は上告を断念し靴 かけさんの無罪が確定しましたまたこの 事件は被害者や家族に対する報道被害事件 としても知られており靴かけさんが2回目 の事情聴取を受けて以降マスコミは靴かけ さんを重要参考人として犯人士する報道を 続けました逮捕までは匿名ではあったもの の狭い地域社会では誰のことかは周知の ことであり靴かけさんは元より親類までが 報道被害を受けましたノンフィクション 作家の小林道夫も靴かけさんを犯人にした のは警察検察一新裁判所の3者でありそれ

に加えてマスコミが靴かけさんを抹殺 しようとしたこの者全てが謝罪していない と語っています徳田弁護士はもし逮捕直後 からついていて連日の石見を必ず確保して いたらあんな自白は絶対になかった靴かけ さんとの意思疎通がうまくいかず報道に 影響されて弁護団も靴かけさんが現場にい たのは間違いないと思ってしまった逮捕 直後の弁護活動がいかに重要かを再認識さ せられたという反省を口にしていますこの 反省に立って徳田弁護士は基礎前弁護は あらゆるケースに必要ですが否認事件には 特に徹底的に保証されなければならないと してでも自分たちが戦闘に立って登板弁護 士制度をやりのかなければとの決意のもと 登板弁護士制度の発足に本し1990年 平成2年9月14日大分県弁護士会が日本 で初めての登板弁護士制度基前弁護人推薦 制度をスタートさせましたその後大分県警 は再操作の必要はないとし1996年かこ 平成8年6月28日0時ミ総事件は控訴 事故を迎えこの事件は未解決事件になって しまいましたはいということで様々な不運 が重なり冤罪被害を受けた靴かけさんです が現在は仕事の傍ボランティア活動や労働 組み合い運動にも積極的に関わるなど緑総 事件をきっかけに大分県で始まった登板 弁護士制度を支える登板弁護士制度を支援 する市民の会大分弁護団の弁護士が関わっ ていた労働組合大分フレアユニオンHIV 患者を支える会や感染病国家賠償訴訟を 支える会などで活動するなど社会貢献して いるそうです1人の男性の13という時間 を奪っておきながら謝罪1つしない警察の 対応には嫌悪感を覚えますね皆さんのご 意見是非コメント欄におかけいただければ と思いますそれではまた次の動画でお会い しましょうバーイ パンダ

今回は「みどり荘事件」について解説します
もし宜しければチャンネル登録、高評価等、よろしくお願いします!!

#未解決事件
#みどり荘事件
#冤罪事件

13 Comments

  1. 田舎であるが為に○○が犯人だ❗って言葉に惑わされた事件の様な気がします。都会だったらもっと多方面に目が行ったんじゃ無いでしょうか?警察とか司法って何何でしょうね。( *゚A゚)

  2. 205号室の女はなぜ110番しないのだ!非常識にも程がある。弁護士なんて決して正義の味方じゃない。犯罪者に阿る唾棄すべき輩だよ。

  3. この事件の場合、警察当局側からしたら冤罪にあった方を参考人・重要参考人として何回も取り調べをするのはやむを得ないと思います。
    ただ、取り調べ時には冷静になれない状況を作り出し諦めや逃げ出したい雰囲気に持って行き、間違った自白を引き出すのが警察官の従来のやり方。(私の参考人実体験➞3時間の取り調べ室での聴き取りでも凄く緊張した覚え有り)
    取り調べの可視化が進まないのが原因かな?
    真犯人は被害者が付き合っていたか親しくしていた男性でしょうが、なぜ絞り込めなかったか不思議です。
    警察当局は最初から冤罪被害者に決め打ちしていて捜査が疎かになったのかな?
    ところでこの冤罪被害者にはどのような賠償金や慰謝料が支払われたんだろう?
    それを明確にすることで新たな冤罪被害者を出すことを防ぐ一つの手段となると思います。

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