「私も負けとられん…」2人暮らしの父親を亡くした女性 生前の言葉を胸に前を向く 石川・輪島市 (2024年2月14日)

1月4日朝の7 時市川県市山岸 町私の地 ですもう1階が潰れて見えませ ん 和島市山岸町の土中み さん父け一郎さんと2人で暮らしていまし た地震で自宅は 全開健一郎さんは亡くなりまし た年の暮れ におせちを 3段作っ てうん で今日は夕方ま勇気も帰ってくるしうん みんな出たべようねって言ってうん お父さんまたつまみするかなと思ったから おせちま先に食べんといてやって言っ てなんで仕事行ったんや けどこれが最後の会話になりまし た今思えば本当にそんなこと言わんとけば 良かったちょっとでも ね食べてくれてれば良かったかなって思う くらい [音楽] うん当時のホテルで勤務していたみ さん健一郎さんと連絡が取れないまま1人 白衣市のホテルへ避難しまし [音楽] たどっかの避難所 におるやろって思っとった から思いたかったんか なでもみ大丈夫大丈夫絶対見つかるよって 言っ てえ励ましてもらいながら避難所につい て本当に真間に帰りたかっ た体と対したのは日のこと ですのこのみのさんが向かったのはの鉄道 の穴水 駅あののと鉄道って書いてあそこにもおっ たりでうん仕事しとったような 父一郎さんは鉄道の保線作業 員最後の職場はこの穴水駅でし た見せたいものがあ るってかし て郎はを 担当石川テレビが2008年に放送した 番組た一郎さんのがあり ましま花は運転手や けどの力持ちという影の存在ねクコ的存在 や ね お父さんあお父さんや2007年に起きた 野半島 自身この時健一郎さんは住民の足となる 鉄道の早期復旧に尽力しました地域の皆

さんのためにやっぱ復旧がしなけならない なと本当に田君も思いまし たうん私も負けとられ んね本当に私何もできんけど ね復興したらやっぱり和島帰ってきたい なって思う し ね元気に願していき たい地震から1ヶ月が経ったこの 日さんは40年あまりごした宅にいまし たお父さん座っとった座布団出てき たこれに座っとっ た [音楽] 暦思い出の品を探すため ですこれはやめとこうもう だ全てを持って帰ることはできませ んみさんは今金沢市内のみな仮説で暮らし てい ます部屋に溢れるのは持ち帰った家族の 思い出の 品品気持ちを切り替えることは まだできませ んそれで もずっと笑っとる怒ることもない しちかりせんかって言われ そう泣とっ たら [音楽] うん父との思い出を胸に刻みみさんは前を 向こうとしています入れて

能登半島地震から1カ月あまりがたちました。父を亡くした石川県輪島市の女性はいま、父が生前話していた言葉を胸に刻みながら前を向こうとしています。

土中美紀さん:
「1月4日、朝の7時。石川県輪島市山岸町私の自宅です。1階が潰れて見えません」

輪島市山岸町に住む土中美紀さん(47)。父・健一郎さん(74)と2人で暮らしていました。

地震で自宅は全壊。健一郎さんは亡くなりました。

土中美紀さん:
「年の暮れにおせちを3段作って『きょうは夕方、娘も帰ってくるし、みんなで食べようね』って言って、お父さんまたつまみ食いするかなと思ったから『おせち先に食べんといてや』って言ってほんで仕事行ったんやけど」

これが最後の会話になりました。

土中美紀さん:
「今思えば、本当にそんなこと言わんとけばよかったなって。ちょっとでもね、食べてくれとればよかったかなって思う」

当時、穴水町のホテルで勤務していた美紀さん。健一郎さんと連絡が取れないまま一人、羽咋市のホテルへ避難しました。

土中美紀さん:
「どっかの避難所におるやろって思ったから…思いたかったんかな…でもみんな大丈夫、大丈夫って絶対見つかるよって言って励まして貰いながら避難所に着いて…本当に輪島に帰りたかった」

遺体と対面したのは3日後のことです。

この日、美紀さんが向かったのは、のと鉄道の穴水駅。

土中美紀さん:
「“のと鉄道”って書いているあそこにも父がおったりで仕事しとった」

美紀さんの父・健一郎さんは鉄道の保線作業員。最後の職場はこの穴水駅でした。

石川テレビが2008年に放送した番組。そこに、健一郎さんの姿がありました。

美紀さんの父・健一郎さん(当時):
「花形は運転士やけど、縁の下の力持ちという影の存在・黒子的存在やね」

土中美紀さん:
「お父さん? あーお父さんや」

2007年に起きた能登半島地震。この時、健一郎さんは住民の足となる鉄道の早期復旧に尽力しました。

美紀さんの父・健一郎さん(当時):
「地域の皆さんのために復旧しないとと本当にあの時思いました」

土中美紀さん:
「私も負けとられん。本当に私、何にもできんけど復興したらやっぱり輪島帰ってきたいなって思うし、元気にしていきたい」

地震から1カ月が経ったこの日。美紀さんは40年あまり過ごした自宅にいました。

土中美紀さん:
「お父さんの座っていた座布団出てきた。これに座っとった」

思い出の品を探すためです。

土中美紀さん:
「これはやめておこう…もうだめだ…」

すべてを持って帰ることはできません。

美紀さんはいま、金沢市内の「みなし仮設」で暮らしています。部屋に溢れるのは、持ち帰った家族の思い出の品々。

気持ちを切り替えることはまだできません。それでも…

土中美紀さん:
「(父の遺影を見て)ずっと笑っとる怒ることもないし、なんか…しっかりせんかって言われそう…泣いとったら」

父との思い出を胸に刻み、美紀さんは前を向こうとしています。

22 Comments

  1. 俺もこんな優しく可愛い娘がほしかった。俺はバツイチ子供なし独身です。これから1人で生きていかねばならない。いい人(男)ができるといいね。

  2. 映像のお父様の表情、暖かく優しい方なのが分かります。美紀さんが少しでも穏やかに過ごせますよう…。
    地域の放送局の、地域や人の写真や映像を撮って残すという使命の重要さも改めて感じました。

  3. 今はまだ気持ちの整理が付かないかと思います。
    悲しみは時が解決する事で、気持ちが落ち着くまでには時間を要します。
    自分の親も既に他界してますが、事故を含む災害によりいきなり身近な人が逝ってしまった場合、心の準備も出来ないまま逝く訳ですから、遺族からすれば病死よりもずっと辛いかと思います。
    お父さんは天国から見守ってくれているに違いないですよ。

  4. みのりさん…
    大切なお父さんを亡くされ
    心よりお悔やみ申し上げます。
    本当に何と申し上げてよいのか言葉もありません。
    金沢には能登出身の方がたくさんいます。
    大切な家族、友達、親戚など自分にとっての身近な大切な人達を亡くし、家も、家財も…
    本当に言葉がありません。
    我が家の2男も七尾に居て、親戚も志賀町にいます。
    毎日、毎日我が子を思い、親戚、友達、学校時代の同級生、能登の人達を案ずる事しか出来ないでいますが、自分に出来ることを頑張って行こうとおもいます。
    みのりさん…
    お身体を大事になさって下さい。

  5. お父さん、厳しいけど優しいんでしょうね。みのりさんの心にずっと生き続けると思います。自分の父も自分が31歳の時亡くなり。ずっと独身で今まで暮らしています。いつも対話していて寂しくないです。

  6. はいはいお涙チョーダイ話はもう聞き飽きたからwww
    泣いたところで返ってこないんだからいつまでも嘆くなやwww前を向いて歩くしかないんだよwww

  7. 美紀さん泣かないで、お父さんは地震で亡くなったけど、美紀さんは又生きている❕
    悲しい事とかで泣かないで😊
    泣く時は、お父さんの笑顔の写真見ながら心から送って、必ずお父さんから気持ちが帰ってくるよ❕
    泣いてばっかしは、1人じめだよ、、、
    明るい笑顔をお父さんの写真の前で明るく笑顔で、、、
    なぜこんな日に、石川県の能登が大地震が起きるの😢
    悲しい事がいっぱいありすぎて、辛い😢

  8. 線路は、外の仕事。誰にでも出きると言うものではなく、難しいお仕事。(個人の感想)thanks for uploading Merci beaucoup.

  9. NHKの7時のニュースで、初めて知りました。卒業式の写真を見たら大涙でます。良いお父さんだったのですね。のと鉄道の影の支え役として真っ当な人生を歩んで来られた方なら、きっと美紀を見守ってくれていると想います。

  10. 優しそうなお父さんきっと美紀さんの心の中で見守っていることでしょう!美紀さんこれからもお父さんの分まで力強く生きていってください!太平洋から応援してますよ!

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