京都面白大学第68講 藤井満(元朝日新聞記者、能登支社在住5年)「能登半島の被災の現状と今後の課題について」2024年2月19日

あおはようございますおはようございます あ良かったよかったいけましたはいはい それではです ねレコーディングをしておりますのではい え顔出ししていただけますかこれどこな どうすんだろうこれあの左左のカメラと いうああ出ました出ましたきましたはい オッケーですそれで共同発送に指名しまし たのでええ えあのまずえ冒頭でですねはいえ簡単に あのえいつどういうことをされたかって ことちょっとお話しいただいてその後 スライドを使ってはいあのお話くださいあ はいわかりました藤井さとは第2回目の 対談っていうことになりつい先日野田半島 に行かれたんですよねええはい私がですね ええまこんなバーチャルにしてますけど うんの半島のあの町にあるえ跡のウッド サークルをあえてですねうんよにしました あはい今回はどのようなあのスケジュール で行かれたたんでしょうかあ今回はです ですね2月10日から12日まで3泊なん ですけれどもえっとま金沢に一泊してそこ からずっと奥の方に向かっていてで穴水と いうま後でちょっとお見せしますけども あの木のの一番手前のところから逆計周り に半時計回りに大体ぐるっと和島方面まで あのした感じですはい分かりましたでは あのスライドを使いながらあお話しして いただければと思いますはいこれ画面共有 ってすればいいんですよねまず画面共有の ボタン を押して下の緑のですねそれファイルが いくつか出てくると思うのではいはいその 中であの今日お使いになるファイルを クリックしていた あ出ました出ましたはいでこれ をはい再生にすればいいんです ねえっと ああこれでいいかなで今回行ってきたのは まこれ大きな奥奥のっていう地域1番ご 半島の先端ですよねまちょっといいですか はいこれあの次のスライドも出てるので ええあそっかそっか次のスライドはない ようなあの大きい画面にして欲しいんです ねああはあはあはそれ をえそれでないとあのせっかくのスライド ああここれですねこれではいこれで結構 ですはいあはいでこの穴水町ってが ちょうど真ん中辺にあるんですけれども このからだんだんあの南側の富山湾側の 海岸線を通ってで鈴の一番先端まで行って ただし鈴から和島までの日本海側の道路は もうズタズタになってますんでで戻って いってえ和島とか門前所を見てもったと

いう感じですすいませんはいあの鈴のええ おちょうどここにあのなんとか崎あるじゃ ないですか六甲崎はい六甲崎ここからあの 大沢を通ってこちらのあ大沢じゃないえ この円田のところを通って和和島まで行く 道はかなり寸断されてるんですかそうです ねこれ249号線っていう国道なんです けどもでこの外浦のこの上浜エデと書いて ある辺りなんかはもうズタズタでその道は 通れません分かりましたじゃもう大変です ねこちらの住んでる方々の生活は大変です ねだからまあの3幹部の道を通って大体の 集落はいけるようになってんですけれども まだあんまりほとんど帰ってきてない みたいですねこの海岸線が通れないとね 本当にあの1番重要なメインな道路です からねそうですねま今あのこの内陸にあの 鈴道路っていう道路があってそこが1番 あの大きな道路なんででそれがあるから鈴 のえっとこの田島とかすの市役所近辺 なんかは比較的早く今行けるようになった んですけどねまこの249を突き抜け るってやつですよね真ん中そうですねこの ちょうど真ん中のあのあのなんて言うのか な内陸を突き抜けてる感じですねはいはい はいでいきますね 次でこれまず最初にこうぐるっと回ったん ですけどもあの紹介の順番逆にしまして これ門前町っていうとこなんですけども 前回 あの深みという孤立化した集落っていう話 たと思うんですけどもええええでこの ちょうど地図の1番上の部分左上の部分の 丸く書いてとが深みでえでそこからこの すぐ下の門前町回そって書いてって書いて あるところに孤立した人たは2007年に はえ船で脱出したんですねうんあここです ねはいええでまそのまあとまこれちなみに ちょっと1番下にあるのは旧角見県って 書いてあるとこあのそっちが北前ぶれのえ 船主の集落で後で行きますけどもその隣の 門前長峠とか掃除ソイの方っていうのはま いわゆる門前町の中心部分ですね旧門前町 のはいはいでまあまそ深みに戻ると今回は この深みからあの船を使えなかったんです なぜかと言うと流記したからなんですけど その状況をちょっと見て見ておこうと思い ましたここが竜さうんねうまあの あれここですね はいうんあこれま前回見た写真深みなん ですけどもこの深みのちょうど1番奥に 見える崖の辺りがドカーンと落ちた前回も 落ちて今回も落ちましたはいでここまで今 入ることできません歩くんだったらなんと かいけると思うんですけど今回行ってませ

ん はいでそのギリギリ今車が行けのはこの 回送漁港なんですけども前回2007年に はここまで船で集団でこう逃げてききまし たはいてところがこの階層漁況今回は全然 使えなくなってしまいましたそれは勇気に よって流によって使えないっていうことな んですねそうなんですでこれ見てば分かる 通りこうも布はあるけど下が完全下が そうこ見えてますよねうんで左側の写真 なんかはもう完全にこう岩が浮き出ちゃっ てえ あの船が座ししちゃってるんですねうん 2mの龍気あの長さっていうかどれぐらい の長さの2mの流ですかあ長さわかん全体 かなり今何10kmっていう状況だええ ええ何10kmに渡る竜そうですで特に 広いところがまこの辺とか鈴の先端の方な んですけれどもその辺は1.8mから2m 以上って言われてますで偶然歯科原発の あるあたりは歯科原発のここここまで約 10kmショットだと思うんですけども はいあの78kmぐらいのとこで流が 止まってたから歯科原発のあの出水口は なんとか無事だったっていう状況ですね ああはいちょっと危ないですねそれ危険 ですねもう非常にこの勇気がうんうんま 原発が流儀したら水も無理だしそもそも こう基礎が歪みますからねもだから日本 全体が近く変動起こしやすいわけだから ええ原発なんか持っての他ですわね僕です ね本当にもうとんでもないなっていうのが よくわかりますねここが割れた地割れし たりね龍気したりしてもうポコポコになっ たりしたらもう本当に完全にアウトです からねそうなんですよねはい でこのカソでも次に門前の真ん中にあその 前にさこの前これお見せしましたけど黒島 っていうはい集落ですねでここは北前船の 船主の集落でこの左側の建物が角見ケって 言って角海って書くんですけどもあのま いわゆる大きな北の船主の家だったんです ねとても落ち着いたね家並ですよねこの角 です角のうん雰囲気をそうなんですねこれ も3億万3億円以上かけてこれ解体復元 2007年ので壊れたもんだからしたん ですけれども今回どうなったかというと 同じ場所を映したもですあ じゃあ完にあの壊滅っっていうか壊滅です ね土蔵なんか奥の方は残ってはいるんです けどももう本当この正面せっかく改装した のは全て壊れちゃったって感じですね 3億円がそうなんです3億400万円が あと飛んでしまったと本当にがっくります ねくりですよね本当いい家です家ですんで

ね本当にそうですねええでこの門前も次 ちょっと中心部の峠地区道下って書くん ですけど行きますうんうんこれはね 2007年にこのちょうど奥に見えてる家 に住んでる大倉さんていう方なんですけど もでこの奥の家の方がこの隣の家が全開し ちゃったんですよはいで隣の家の人がうち の土地を使ってと言うからこう20007 年の地震後にこういうこう庭園庭を作って いろんな人は来れるようにしてい るっていう活動してたんですねでこの大倉 さんという方は元々ほぼさんていうか保育 書の所長をやっていてで2007年当時に 独自の判断で避難民を保育所に受け入れて たりとかすごい非常に活躍した人ですはい でこの方の家奥あの下見たりのいい家です けどもそれがどうなったかというと今回 こんななってしまいましたこの斜めに倒れ てるええこれ1回が1階が潰れちゃってん ですねあ1階が潰れているためにこう斜に なってしまったわけですか2階部分だけは 残って階だけがこういう風にはいええで この左側の木のある部分がさっきの花畑の 部分ですうんはいねでこの峠地区って前回 もひどいあの状況だったんですけれども 前回こうやってなんとか生き残った建物が 潰れていったっていう感じですねであの 夕方4時6分だったらオタクにおら結構い ましたよねそうですね正月だしそうなん ですよねただまあの後どうだどうだったの か毎年に聞いてみたらばなんとかあの無事 だったみたいで金沢方面に避難して るっていうのは聞いたんですけども ちょっと連絡先は分かりませんでしたはい はいでこれがその峠地区その金辺ですね はいうんでもこうやって古い木造建築が 大体潰れていってるっていう感じです うんで次次これこっからあの和島まで行く と行くと大体え車で普通だったら25分な んですけども道が寸断されていて穴水経由 下をちょっと南を回らなきゃいけないで約 50分かかりますはいええでこれをま真島 ほぼ全体図なんですけどもまん中田川って ありますよねはいええで河田側の西側あ 東側が朝市通りあるんですけどこっちは 川井地区といってま和島の中心街で いわゆるこう和島のりとかそういうのが あると方ですで西側の富市大鳥にいって 書くんですけどもこの辺は昔は江戸時代は 和島そめとかそういうのが盛だったとこ ですで今は大体出勤の関係が多いんです けどもでさらに上の浜町小さいとこです けどここはえ九州の方から江戸時代よりも ちょっと前ぐらいかなやってきて天さん たちの文化を持った人が人が移り住んでき

たって言われますはいで和崎っていうのも また両子町で浜町と和崎っていうのがえに 和島のまもう両市町でこう日本海でも有数 の和島校っての漁港なんですねうんで大体 あのこの漁港で何が取れるかっていうと今 の時期だとまカ あとタラなんかをですねでもうちょっと 立つとえノグとかまそういったものが 取れるわけですね でこの辺はもうあの両子町すぐ切符がもう 気象が荒くてなかなかおもろいおっちゃん たがいっぱいいるんですけどもなもだから 漁師があまりにも強いからヤザが入って これなかったっていう説もある街ですねま 一件だけヤザ自由所僕いた時もあったん ですけどもほとんど活動はなかったです うんこの天の文化ですけれどえあの女性の 天さんもいるんですかもちろんもちろん 多分日本で最も活躍してるアさんですね そうするとかなりあの寒くないですか 冷たいあえっとね雨で潜るのね夏場なん ですうんうんでも貫流の場合だと夏も寒い んですけども辻島男龍がここここ通ってる からまその点は辻島男龍のえ水温で大丈夫 なんですねそうですねうんうんでしかも この天さんたちがまこの近辺でもあるん ですけど約あの50km合の倉島っていう 島があって倉島ねはいはいええ昔はそこ まであの春っていうか6月かな7月かな そのくらいに集団でみんなこう船で渡って いって夏の間そこで暮らしてアさんをやっ てたんですね倉島でね 集団そうなんですだからねもう移動 キャンプですねえ移動キャンプ生活ですね そういうそうです ねうん黒島にもね家を持ってますからね皆 さんあ両方に生きして家を持って持ってる んですあうんういう生活形態を取ってたん ですかわかりええだからね昭和30年 ぐらいかままだウエットスースができない 頃は女の人はさじって言われてるこう ふんどしで上半身裸でね潜ってたんですよ ええなんか今でもばあちゃんなんかこの 浜町の辺りに行くともうすっぱ高でねあの 上半身スパ高だけ平気で水浴びてますよね ええうんであと言葉がねやっぱり九州の方 から来たんで違うもんだから真中では差別 されるんですよねああうんで逆にこうね あの九州の方の人は顔立ちがしっかりして から美人が多いって言われてるあでこの甘 てこれちょ小さな黒い薬天ツボって言われ てんですけどもここはかか班かなんかが 分け与えたらしいんですああうん今はねえ あのその周囲のふしとかそういうとこにも かなり家を立ててる人が増えてますうん

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でまあ10件ぐらいしか店が出ないって いう感じなんですけどねうんうんでこれ 今回どうなったかというとまずこれは燃え てないとです朝市の1番東川なんですけど 東半分は燃えなくて住んだんですがこの 大きな湿点がこれも1回がベタっと潰れ ちゃってんですね はいでこれが今今回ですねで右側が今の 朝一通りまっすぐにやった朝一通りがこう いう状況になってしまって左側は海側から 朝一通りの方を見たあの写真なんですけど ももうかなり焼けましたよねこれ大体小室 面積が4万19000平米約240がけ たって言われてます240件そうです うーか本当に大きな対価でしたね240件 燃えるっていうのはそうなんですよね 恐ろしいぐらいの日ですねそれはそうなん ですよでところがね日はね燃えたのはね ほんの1軒の家からえ燃えたらしいんです よねはいうんでその1軒の家でこうま電気 がシトしたっても言われてるんだけどもで それがですぐにこう水で止められれば よかったんだけども瓦礫で消防車が なかなか来れなくって消化線が埋まっ ちゃって全然だめで川から水を組も消防車 を組もうとしたらばもう川も多分気のせい だと思うんですけども泥しか出てこなく なっちゃったとうんでしかもすぐに津波 警報が出たんでみんな避難しましたよね はいそのその間にズブズブズブズブこう風 もないのに一気に広がってっちゃったって 感じです ねま非常な条件が重なったってことですね そういうそうなんですね条件というかこう ねうんうんほんまにそうなんですよね ちょっと止まっていればなんかね被害が 少なくて済んだので200ね70件もね やられなかったと思うんですけどねはい これは朝一通りの1番端っこさっきエジ型 になってたとこな1番端なんですけども この福森さんっていう方の同級生親友が ここで金物屋やってたんですよ僕もよく 行った金物屋なんですけどもはいここが 一気に崩れてしまってお母さんとその同級 生6かなの方がなくなっちゃったとはいで この机がその同級生のま執筆あの仕事机 だったっていうなったのでこの方ま同級生 たちがこうやって花を行けてこうやってお 前にしてるっていうとこですねこれ机です か鉄板みたいに見えるけれどあ机です木な んですね曲がってるものはあこれねあの 金属性の机ですねあ金属の机なんですか はい はいそうなんですねでここの家はね元々は 市長候補にもなるようなすごい大きな家で

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出汁はね以前はね毎年こう土台から 組み立てたらしいんですよねうんでそれで 藤の鶴で閉めていく閉めたんですけどもで それにそのために不を伐採しますよねはい うんなもんだからこう山が綺麗になったと そういう意味がある祭りでもあったんです よっていう風ああそういうこうケア サイクルみたいな循環があるんですねあっ たんですねうんさらにはこれも写真は撮っ てないんですけども去年太鼓山っていう 出汁がやっぱり引く農の祭りがあるんです けどもはいそこなんかは大体こう幅が6尺 なんですねうん当時の大の道の幅が6尺な んですけどもどうしてもこう田んぼの端 っこの方って縄床に使いたいもんだから道 を削ってインチし削ってこう自分の田房を 増やす人がいるんですよああでそれを 太鼓山を通すことによってぶっつぶし てしまうっていうそういう意味があっ たっておっしゃってましたねなるほど なかなか知恵知恵知恵ですね知恵なんです よねうんさらにはこれとは違うんだけど もっと大きな出しをあの海岸線の砂浜を引 くっていう街にはあるんですよええそれは 何に意味意味があるかって言と昔は演練 だったもんだから浜を演練するためにこう その空秋場に遠慮のが終わった後にあの 砂地を閉める意味があったっていうんです よねうんそれ生よりお得ですね祭りをやる のと労働労働というかね自慢がてえそうな んですよねこれれも知恵ですねうんうんま そういう街がこう右のような感じでこもう かなり潰れて もうある町町内の人あ好にだった出たかな はいうんあこれは違いますねうん長内 500件の家で残ってんのが20件だけと かに言ってましたね500件で20件20 件この右下ののおじさん橋本さんっていう あの利発店やってる人なんですけどこの人 の内なんかそういうな状況だと言ました うんうんうんうん500件で2件ええただ まあま全部が来られたわけじゃなくてあの 水道がないから出るしかないというところ もありましたからねうん ええでこの人橋本さん右下の橋本さんって いう人はずっと昔から反原発運動やってる 人ではいええでま本当あのすの原発を止め た10人のうちの1人みたいな人なんです ようんでこの人の家はま平成6年経たもん だから無事だったんだけどもあのちょっと 高台にあるんだけどもあのグラグラと来て 塩がすーっと引いていったもんだからやば いと思ってあの自分の車にばば9何歳の ばあちゃんと近所のベトナム人の人を連れ 乗せて小学校に逃げたんですねはいええで

逃げて帰ってきてた来たらば周囲の建物 なんかのあ車全部流されて一家に1箇所に 集まってて自分の家も床上申請してたと はいはい実際これあの写真なんですけども これは海辺の住宅地なんですがこれは全部 倒れてるあの地震で倒れたものていうより も特に右上の写真見てた分かるんですけど もあの建物はちゃんと立ってますよねはい うんなんだけどもこの手前が海で海から ドーンと津波が来てこうやって全部壊れ ちゃったんですよ ねこの左側も津波でやられてんですかそう これ津波と地震両方ですけどねあ両方でね うんま右上なんかを見てると常務な家でも これは地震でや残ったけどスビでやられ たってことは分かる家なんですよねあの こう押し寄せてきて引きのとこでぐっと ですね前にあのずれちゃうんですよねええ そうなんですよねだから引が強いともう 本当にあの前の方へ前下からこう壊れて いきますからねええ削られて潰れますよね ええだ引きは怖いですよ津波のねねうん そうなんですあのせてくるのももちろん 怖いけれども気の力がすごいもんですから ねうんはいこの辺がそれでやられてるんだ と思いますねうんま特にこもこの橋本さん のこの右下の人の写真がままちょうどこの 手前ぐらいに彼の家は高台にあるんです けどもその向こう側の住宅士が今この 大きく壊れてる住宅地ですねはい うんうんで今こどういう生活してるかって いうと当然水はないんですようん水はない んですけれどもま自分でこう毎日水を分水 を踏んできてでお風呂がね最近のお風呂 ってこう追いだきできないものも多いです よねはいねえところが彼のとかちょっと 古い方のこガス風呂なもんだからこれ自分 で買ってきた水を持ってきて風呂に入れて 風呂もちゃんと入れてるって言ってました はいうんであと今回ちょっと出しません けどももっと山奥の方の村なんかで聞いた のはえっとね五衛門ブロは結構役に立って るっていうんですねあそういう本当に昔の あのアナログ的なものは生きてますよね こういう時もねそうなんですよねデジタル で電動化してるよも完全にもう使い物に なりませんもんねそうなんですよねうんそ であのおじになりますもんねええうんだ からそういう部分をええあのまスペアと いうかあのなんかのためにどっかでこう 備蓄しておくみたいなことは絶対必要です よねそうですねうん五衛門プロが役に立っ たですねだからこういうこうシンプルで なんかの時にはてもう誰もが捨てようと 思いますもんそんなもんね役に立たないね

そうなんですよねこういう時にはそれ 役立った役立った役しましたねうんま特に お風呂なんか五衛門ブロは役に立ったし 追いだきができる昔ながらのガスの風呂 はいはいそれもガスがアウトになったら それダメなんですけども五衛門風だったら ガスがアウトになっても大丈夫ですからね そうですね考えなきゃいけませんねその辺 のところねそうなんですよねはい でこれが鈴のでこれすの先端の方行ったん ですけどま先端はちょっとさっきあの 大した話は聞けなかったんですけどもま これがちょうどね高屋って行ってませ前回 お見せしたところなんですけどもの ちょっと手前1kmぐらいのえ木裏海岸 っていうとこなんです左下がこれ2015 年ですでちょうどこの堤防のある部分まで こうひたひたと水が来てるんですけども 今回右側の大きな写真ですけどもこの堤防 の辺りから広い頑丈になっちゃってますよ ねはいえまそれだけ流記して るっていうことですね大体2mっていう話 ですこの辺もそうするとあの砂浜的なもの がほぼなくなってしまって るってことですかそうですね砂浜というか ま左下の写真みたいにちょこっとと砂浜が あってあとこういうあの水の中に入ったら 岩があるって感じだったんですけどもま 砂浜的なものがなくなってこう岩が全部 こう露出しちゃったってことですね海底が であの2m流したのがずっとこの辺も続い てるわけですかそうですねはいそれでこう ゴロゴロとした岩場みたいになっちゃっ てるわけですねそうですねはいでこれで もう原発がねこのこっから1km半向こう にできる予定でしたからねこれあの流が 相当長い2mの流が相当長いということは ええこれあのまだ調査できてないんでしょ できてないですね大変なあの近く変動じゃ ないですかうんそうなんですあの体系も 変わりますからこれだけのあのそのま回に にせを何にせをあのプラトにせをうんうん いなこのこれだけの何10kmに渡る龍気 が2mついたらえ本に大きな変化がこれ から起こりますねそうですねだちょっと 予測はつかない今あのどういうことになる のかま専門家がシミュレーションする でしょうけどええそれでさらにその地震が まだね軍あの震度43よなが起こってます しええうんちょっとあのん未来があまり 見通せみたいなそうですねま特にあの低地 病みとか底引きなんかだとかなり回転の 様子が変わってるからかなりきついんじゃ ないかなと思いますよねそれはもう昔風の あれがすぐにはできないかもしれませんね

そうなんですよねうんで魚のあの魚群の 行動のね生体あのみみ住みついているとか 行動範囲変わってるはずですよねうん多分 そうですよねうんただ今ほとんどもう全部 こう漁港が全部勇気しちゃってるから量子 が金に出れてないですからねその辺全然 わかんない状況なんですよねそうはい ねであと今回なんかあの長い断層がま鈴の この近辺が震源と言われてるけども実際は 90kmだっったかなあっちこちバリバリ バリバリ何か何回かに分けては割れた らしいんですよねうんうんだもんだから ここ辺はだから2m1.8mだったかなで さっきの鹿町50kmぐらい離れてんです けどもあのそあ海藻ですかうんもうそこも 2mなんだけどもその間の和島当たりは もうちょっと少ないだろうって言われてん ですよねうんだもう全然地域によって違う んできちんとあの計測しないと分からない 状況らしいですね うんでこんな感じでずっと繋がっていてあ これ昨日この前お見せしたこれは高屋 さっきの海岸から1kmぐらいえ西に行っ たところでこの辺ににえ鈴原発が作る られる予定なったとこですはい多分この これもこの海岸今回行ってないですけども ドーンとあの流してますんでまかなり広い 岩礁海岸が露出してると思いますねそう ですね水がもうねこうここまでない でしょうねないんですよね多分ね2m近い 流ですからねもうこれさいから2mだっ たらもう岩場ですねそうなんですよね うん 今度またちょっと違って農村穴水町の さっきの海岸沿の小さな集落があるんです がはいですねま穴水からこう細い道をこう 海沿いに辿っていたところにあるこの空 って書いてある集落なんですが空とカブト っていう2つの集落が隣り合っていてそこ に行ったらちょうどえ2013年頃に取材 した人にお会いすることできましたはい空 とかことねはい ええでこれがまず空の前以前ですねで空 っていう地域は江戸時代はあま天領でこう 深いイアがあってま北前船が風待に使って たらしいんですよねうんうんうんでなもん でこうす豊かなとこだったもんですから 年間を通して祭りや伝統行事がすごい盛ん でしたはいでま例えばこう8月は自蔵祭り っていう行ってこの千住院っていうこのお 寺の防さがこう地域の10個のこう地蔵 さんとか神さんとかを巡るっていう新物 ココの記載があったんですねえうんで さらにこう坂乗せた六角形の耳こしをこう と数本の切り子切り子道路ですねを担いで

夜中まで寝り歩いたって言われてますで1 月には子供監修行ってのがあってまあ12 歳の男子が白小族にこうすげ笠をかぶって こうナ大変上根号と言いながら2週間集落 の前行を回るっていう祭りがありました この辺信言集なんですかうんあのね大体 この辺は違うあの南大上今後はあの工房 うんええでこの千住院は信言集なんです ああここはねうんで他は大体ねあの上土 新集が多いですけどねは多いですよねうん えええでそうやってもいくつもいくつも そういうま出しを引く春松にもあったりと かしたんですけどもだんだん高齢化が ひどくなってまさっきのあの祭りも なくなっちゃったしあの緩修行っていうの も2000年ぐらいにえちゃったとはいで 高齢化でこう切り粉を出せなくなってあの 出しを引く春祭りっていうのも2008年 を最後になくなっちゃったっていうとこな んですねでさらにはこのお寺千住院なん ですけども1994年には矛盾になって しまってあのまその地域の人なんかは昔は カブト村の役場も病院もここにあって全部 それはなくなっちゃって寺まで矛盾になっ ちゃってもうわしらおしまいじゃみたいな 感じだったらしいんですねうーそれで今 どれぐらいのあのその地震前はどれぐらい の住民数だったんですか大体ね40件 150人ぐらいでしたかねじゃあ今後ええ どうなりますかまあ今までも意外にねまだ 残ってはいるんだけどもただ40件のうち 後継者がいるのは5件だけって言ってまし たああ ええ そう将来的には維持していくのは厳しい ですね厳しいですねまそういうところ ばっかりですねのはねうんそうですねま 高齢化していくしあの広域ですからねうん そうなんですよね車がないと何とも生活 できないしね ええそれで自分で運転できないとなると こう誰かその支援者がいなければ サポーターできないしこやがあのうん住み たくてもんもあのね戻ってこれないという かええなかなか生活債権は難しいうんとろ ですねはいまあでもねここはすごい頑張っ ててねあの1回そうやってダメになっ ちゃったって言ってたんだけどもま旧の 都長役場で縄文時をこう復活とかやってた 人が死で死んで涼一さんっていうおじさん なんですけどもでその人がこの秋田なた 先住院左側のお寺ですねでそこで縄文焼き っていうの制作を始めんですねまこれが 縄文焼きのあのド製作なですねそうなん ですそうなんですあのこのすぐうここ何腸

になるんですかあこれは穴水ですね穴水ま 穴水からちょっとあのほ北の方にあ真脇席 ありますもんねえま真水からここから大体 え30kmぐらいかな東の東北の方ですね あ東北の方へねええその今回私前にもお 話しましたけどうんやっぱりこう真遺跡 みたいなもののうん文化のあり方とかうん ここに5000年間の人々が暮らしていた という暮らしのあり方とかええそれから 縄文声が潰れなかったですよねええその声 がれ潰れなかって近代的なあの大きな コンクリやしっかりした木造も壊れて しまったとかうんまいろんなことをこう 考えさせられるようなうんこのことであの 縄文の時も含めてですけれどこのうん生活 のありよをどうするかっていうのはま本当 にいろんなあのうんメッセージがね今回の 地震からあの組みとれるところがあると 思うんですよね ねえはいまさにその真遺跡のから縄文を 使ってあの街をしようしてたのがこのデ さんこの縄文を考案したこのデ一さんって いう人なんですよねうんま元々役場の職員 だった方なんですああでね私は本当にあの マのこう意味を今回あのもう一度あの こう先おいですね私黒白院大学で縄文時の 文様について博士論文を書いた縄文国学者 の石というね民泊の研究員をしてる対談し たんですよあええそあの対談さのあの後で URLをお送りしますのでねはい欲しいん ですけどねうん縄文の研究者ですらですよ え彼45歳ぐらいですけどねうんあの馬関 にまだ行ったことがないとほおで真遺跡私 3回行ってますけどこれあの縄文の遺跡の 中で1番素晴らしいと思ってんですよええ で今回その喉の自信があった時にうんこの ノのあのこうあのいろんな文化あります けれど番その個装で古くてえしかもあの 1番これからですね未来に向けてうんえ もっとこうあの人々の自然と人間との 暮らしのあり方のバランスですよねええ そういう循環のサイクルみたいなものを どうやって作り上げるかって言った時に ええそのマの5000年のね歴史ねうん これは大きなヒントになると思っていたん ですねええなのでこのあのその縄文土作り をま1つ手がきにしながら待ち起こしに つなげようというこの動きはですねええ これからもやっぱり決して欲しくないと いうかええこれをさらにあのこの辺のの あの力っていうものをうんあの展開して 維持していくためにはやっぱりその遺跡の 持つ意味をええあの大事にしなきゃいけ ないと私も思うんですよねうんだから一度 また紹介させてく

紹介してくださいねあでもねこの方 なくなっちゃったんですよあいつなくなっ たんですかえっとねもう5年ぐらい前かな 今回行って初めて知ってでそれなくなっ ちゃって今この縄文時こうこういうま空の 本島っていうのやってたんですけどもうん ま2013年に1万ぐらいのこういう いろんなもを集落中にこう置いてやるって やったんだけどもそれも今ね途切れちゃっ たんですああでもこれからはもう1回復活 する可能性あると思いますようんまあの 弟子がいるんでうんあのノト半島全体が ですね今回広域にあの被害を受けたのでえ このノをどう再建するかって言った時にま 絶対その真脇はねええあのある意味であの 拠点の1つになると思うんですようんあの 古代的なものとしてねええ古代以前からの ものとしてそれからあのある週その江戸で あるとか江戸時代であるとかえそのここ 数百年の歴史の中で和島が持ってるねウル 文化であるとかえそういういくつかのあの こうまあ魚郎にしてもあいろんなものは 大体江戸時代にできているものがねええ主 だったと思うんですよねええ あと縄文と江戸というのがま1つのあの 時間スポットタイムスケールの中でま重要 な意味を持つ思うのでうんノトが持つ自然 の何億年の歴史の中でえ何万年から何千年 に渡る縄文とそれから最近のねえま中世 以降金星にこう発達していったえ独自の 地域文化うんまそういう風なものがもう 一度このこれから先の未来にええどう 繋がっていくのか生活再建と共にですね ええまこれは探られていくと思うんですよ ね うんそうですねもこういう地域文化この松 自体なくなっちゃったんですけどもうんで もそれがあることによってまあのなんて 言うのか住民がこの10年とか20年単位 ではあったんだけども急に元気になったり とかしたんですよねはいえあのまええ馬の えうんすぐ下の集落っていうのは白水だっ たか白丸だったかあはいはいはい白丸だっ たかな確か白丸あの辺も津波でかなり被害 を受けてるんですか白丸あたりもねその辺 まではね行けなかったんではっきりわかん ないんですけどもそんなにやられてない みたいですねあの辺はでもま石も結構海に 近いんですよね近いです近いけどもこう ずっとま斜面になってますなっていって 少し山の上あの上がってますからねそう 上がってますまだから230mぐらいは上 に上がってるかもしれませんのであそこ まで水が来ることはないと思うんですよね でもあの海岸線のあのこう道路があるので

あそこの集落はちょっと流儀せたり津波が 来たりするとええ あの道路沿いの家は えー壊れるかもしれませんねしれないです ねたださっきのところと違って若干あの 能登町のあの辺って海から道路まで少し 高い高さがあるんですよねありますあり ますちょっと段階段階っぽいような高さが ありますええ10m近く高さがあったか ちょそんな感じですねそうですねだから そんなやられてる印象はちょあそこの直か は行ってないけれども印象はなかったです ね分かりましたはいはいでここの集落は 面白いのはこうやってま あのあのいろんなこういう祭りがあっ たっていうのとこの女性たちがですねこう こはね正月にカブラ寿司をつけて食べてた んですねカブラ寿司ってどういうかカブラ っていうのはあの大きな株ですねあ株ね うんえカの中にああの塩サバを挟んで 小付けにするっていう塩サバを工事付けに ええそしてご飯はどこに入れるんですかあ もうごご飯は入れないですあご飯は入れ ない入れないあのとあの塩サバで食べる そうですそうですだた工事が工事があり ますからね白いご飯みたいになってます けども工事と一緒に食べるそうですそう です結構甘みととろみと色々面白いですね 面白いですねこれかカ寿司って富山の方だ とブリで作るんですけどねうんこノトでは ここで特にこの地域ではノトのサバを使っ て地元の大きな株を使ってま塩はこの人 たちはあの鈴の塩さ伝でねうん遠慮あり ますからねえ浜かなうんそうなんそうです かそれは1回食べてみたいなうんねもいや ここのカブ他にも作ってるとこあんだけど もここの寿司はね45年前に終わっちゃっ たんですよああ残念ながらでこれはあの このま正月の酒の魚に知ったのをじゃあ これを商品化しようて1983年に左側の おばちゃん室木さんって人なんですけども その人たち4人が冬番の仕事作りにし ようって始めたんですねうんでまやって いく中ですごい人気出て多分僕が食べたカ 寿司ではこが一番美味しかったんですけど もうんま年を取っても在処の中で仕事が できてあの孫に小遣いやれるようになった しなんかお年玉もやれるし父ちゃんに相談 しなくても街にご必要にために行け るっていうのがねあのだから女がここは 元気なんよっていう風に言ってます やっぱり経済的にある程度ねこう事実 するっていうかあの力を持すことは本当に 励みになりますもんねそうなんですよね うんだからそういう生活のの作り方ま男性

も女性もですけども自分たちの仕事をね 稼ぎをねどうやって生み出すかっていう ことも非常に大きな課題ですねそうなん ですねままさにあの農村の道の駅なんかで はいあの個人の口座に売上を入れるように なって母ちゃんの力が増したって言われて ますからねそう家の財布だったのがえ とっても大事なことですそれねうんええで まここのこの木さんとしなんかその後13 年に僕出題したんだけどもでその時に今年 からはあの近地区のまあのカブト小学校 っていう今使われてない小学校があるんだ けどもそこでかちゃんの学校学校食堂を やるんだって言ってたんですねああそれは 楽しいしあのね活性化しますよねそういう ことをやるとねそうなんですよねで意外に ね調子良かったんだけれどもまこの学校は 株小学校えっと2008年に平行になって たんですけどもうんで6人で母ちゃんの 学校食堂っていうのをオープンさしてで しばらくうまくいったけどもやっぱコロナ でやっぱりあの人が来なくなっちゃったん ですよそうコロナで地方だったら余計に 壊滅的になりますねそうなんですよねうん でもこの人ら頑張ってまコロナぐらいで 潰れるんだったらコロナ乗り越えてから やめようっていう方をしてうんじゃあどう しようかってんで地元の年寄りたちの給食 ですねな弁当給食なんかもやってみんなが 集まれるようにしていたんですね偉いです ね本当にいんですよもうねうんうんでもう 今回ね本当は今年3月2024年3月を 持ってもうそろそろ年出しやめようかって 言ってたんですねうんすところが1月1日 に震災地震が起きますよねはいでそうし たらなんかあこの室木さんとおばちゃんは 自分の家がは大丈夫だったんだけどもま 津波警報が出たからとりあえず海辺の家 だったもんだからこの学校に避難してくん ですねはいうんで避難してきてま300人 ぐらい避避してらしいんですよあの周囲の 3つぐらいの集落からはいでそこでもう 組物ないからどうしようでこの学校食堂 やってたからムさんが自分の家から1とま 1との米を持ってきてうん6人の母ちゃん と消防弾関係の12人で炊き出しを1月日 の夕方から始めんですねあうんすごいその 生活ごいうんでそれでこうねもうちゃんと 食えるようにししてあですねねあかいご飯 をそのから食えるってね最高じゃないです かそうなんですよそいやもうねもう本当に ねそういうま火を起こしたりえそのご飯を 運んだりねうんええその日からまあの緊急 のねうんそういうそれもあの自分たちの 温かいものを自分たちで自前で作れるん

ですからええすごいですねこれはすごいん ですよねでも大体この12人で炊き出して に9日1月9日までずっと続けたつって ましたああうんうんこの日なってようやく 自衛隊が来たりとかボランティアが入って きたり入ってきてこういう物資なんか いっぱい入るようになったんですけどね これそれまでねあのうんもう植えてる人 たちも中にはいるわけですよ他の地区でね なかなかういうことはできない場合もある しうんうんそういうそのあのところに 比べるとそのお母ちゃんの力うんすごい ですねここのこの地のうんそうですええ やっぱりそれはそうやってかずから始まっ て学校食堂ってのやって たっうんでそそうやったのは祭り自分たち で祭りを作り上げたって自信とかも含めて 彼女なの行動力になってるんですよねそう ですねそういう経験値がこういう緊急事態 にも発揮されるってことですね普段から やってるからそうなんですよねだから 付け焼きでやろうとしてもできないしうん 行政がやってることなんかはあの付け焼き ですからうんそれはこうあの道が1つ寸断 されたらもう全部アウトとかねうんうん 計画はあってももうまく実施できないとか 結構多いじゃないですかえええ国なんか 1番遅いと思うんでそういうのがねそう ですねあの生活の中でやってるものは臨機 応に組み立て直せますもんねそうですね ほとまさにブリコアですよねいや本当それ をその日からそのこうやってやろうよとか ね持ち寄りでねうんうんもうそのみんなの 持ち寄りでなんとかその面して工夫して ええこういうやり方はにはうんできるか できないかすごく大きい差をそれから健康 維持ねええ元気の維持ねうんこみんなあの ダウンしちゃうからうんすごくあの衛生 状態も悪いし健康状態もどんどんどんどん 待ってるだけだとうん悪化していくんです ねそれでトイレの問題があるからもう気に なっていくだけですよねええこういうその お母ちゃんやおばあちゃんたちがこ自分 たちでなんとかしようというねそれを一で もあのみんなで共有できるとね元気の度合 健康動の度合がねあのレジリエンスという のか自然免疫力がねバーっとこうみんなで ねこれ自体が1つの非常時の祭りですから そうですねええだからこういう非常児の 祭りを自分たちで炊き出しで作ることに よって元気回復ってことになるのでうん すごい力ですねこれはそうですねしかもね ここはね男もすごかったんですで男はね 消防団があるですね防弾兜分断って言んだ けどもその兜分団ね全国でね2位になった

ことがあるんですよはいで小さままま平均 年代40歳超えてる高齢化した消防団なん だけどもええその人らがまず1日からもう 水くみを始めんですね消防のポンプを使っ て川からもう水道止まっちゃってますから 組で1日10回とか川から組んできてで この学校のあのなんていうか水槽大きな 水槽に貯めるんですようんるもんなか推薦 便所が1回も途切れなかった言ました すごいそれはすごいんですよねあの気持ち 的にねうん違いますよあのそういう推薦で できるっていあのこういう緊急避難の時に うんうんいいですがあの気持ちもそうです しリフレッシュしますしええあの何よりも 公衆衛星上あるいはねあのま健康管理上 その排泄をどうするかっていうのは大問題 ですからあで集団の排泄ですからねうん軒 の家があのあのあのこのその辺のあののっ でおしっこしたり運賃したりすると全然 違いますからねねうん何百人というね人間 のねうんそうなんですねいやなんか本当 まさかそんなに力があんのかと思っていや これあのある種データというかええ それぞれの地区でどういう風なその過ごし 方1週間ねうん過ごし方したかみたいな ものが出てどこでこううまくいってるレは どういう霊かとかねうんうまくいかなかっ た時はところは例えば物がないとか道路が 寸断されてなかなかこうねえこう運び づらいとかうんあの年齢層がこうだから こうなってしまったとかうこううまくいか なかった事例の分析とこの非常に活性化し たあの維持は維持ができたねうん事例分析 を絶対必要ですねそうですねうんいやいや もまそのおばちゃんたちが言ったのは やっぱりその消防バダやれたのもそういう 空の本島っていう祭りをもう1回復活し たりだとかうんそういったことでみんなが 仲良くなったっていうんですね祭りはそう いう地域のね中隊っていうかこうむ接着剤 みたいな力を持ってるってことですねそう なんですよねということをおっしゃって ましたねこの村木さんとおばちゃんはね ありがとうございますいろんなヒントが 与えられましたさんはいありがとうござい ますあとねもう1歩はいこれあの小学校の 体育館なんですねうんうんだ畳が敷いて ありますよねこれ大きいね畳どっから運ん だんですかこれあこれね公民員館から運ん できたのとあとこの学校自体を金沢星稜 大学の子たちが合宿するためにね使ってた らしいんですよああうんでもそれもなんか そういう街おしをやってるもんだからここ にやろうみたいな感じに多分なったと思う んですけどもそうやって毎年のように大学

生がしてやるからま畳の備蓄があるんです よねあの藤井さんねええあの富士山は京都 大学文学部を出て朝新聞に勤めてで全国の こう色々ねあの地域支部死者もあってのに 5年い和島に5年いたわけでしょうんはい それでねあの私のねあの心の共同国の未来 研究センターにいた時にうんま非金で研究 員になってくれたうんあの研究員がいまし たねうんその彼がえ金沢星稜大学でえま 10年はいなかったかな今兄弟に戻ったの で京都学であのえ社会と人の未来研究員 だったかなのあの準教授家なんかしてん ですようんでその金沢星稜大学で巨大の 大約員を出てからあのえ準教授をえ10年 近くたんですようんそれでねそのあのえ 小西君と言うんですけどそのあの小西君は まあ大阪出身なんですけど祇祭りの研究と かえ秋田県のなんとか祭りの研究を収支 論文でしてでハ論文はあのチベット集落 中国におけるですねチベット集落における 本教の研究見たんでうで博士論文を書いて 博士になりまして人間あの総合人間学部卒 でうん人間環境学研究家の博士を出て私も えその博士論文の審査に 関わったかなそれで え私のところの研究員をしばらく務めて ええで金沢星稜大学務めてえ彼はあのご縁 の研究縁の研究を ね地域の縁ですよねええま遅延とかま欠点 とかの縁ありますけどもえいわゆる仏教で いう演義の縁よりももっと民族的な縁の 研究をねしてフィールドワーク的にでノト の方に生きしてたんですよで金沢水大学で そう地域研究とねプロジェクトを展開した のはその小西君なんですねええそれで今は あの2年前に京都大学に戻ったのでええ沢 で青大学で実績を積んでとかとあの提携し ながらねうんあのプロジェクトを進めて その地域研究とか地域活性のプロジェクト たんで多分ですねこのここのところのあの 金田稜大学の先ほど言われた合宿ですねあ これをやり始めたのは小君じゃないかと 思うんですよそうかもしんないですねえ 今度はあ一度引き合わせますのでねお願い します ZOOMでやりませんか一度こ君に 呼びかけてええま兄弟であってもいいし ええええであ彼はあのうん稲森財団あの 鴨川沿いのね稲森財団記念館の2階におり ますのであはいあのいつでもあの藤井さん も兄弟にはちょちょ行くと思うのではい あの一度あのアポイントも取ってま3月中 にでも一度お会しませんかね是非お願いし ます僕はもあのノトに行く時が暇なんで いつでも時間は合わせられますいあの彼に

連絡を取りますのではいにせその彼もね やきもきしてると思うんですよええあの 京都に戻ってきてねええでその今までその 地域の連携プロジェクトでノの人たちとか 7をとま多分7をも非常に行ってたと思う んですがええ連携してたのがうんま彼は あの京都に戻ってきたから後を他の人に メンバーにタクスええでその え心配を今本当にしてると思うので何かの 形でねええま兄弟関係者もうん結構そう いうフィールドに出てる人多いからええ なんかあのうまくえ連携できるといいなと 思いますのでまとにかく会ってお話しし たいと思いますよろしくお願いしますはい お願いし ます大体もうこれぐらいでまああとここう やってこう祭りというのとかこういう待村 街起こしとか地域の普段の活動ってのが 生きてきてで本当に災害の時に役立って いうことが見えるんですけどもまさっきも 言った通りここ隣のまあの空っていう地区 は40件中5件しかあとがいないとはい あと10年経った時室木さんたちが今70 いくつだと思うんですけど80になった時 にもし同じことがしたらどうなるのかって 考えると村自体が本当消滅するきっかけに なりかねないなっていうのがという寄付を すごい持ってますはいあのこれは日本国中 同じ問題ですからねえあの喉の問題に限ら ずうんあの高齢下の中でこういう日本の その自然状態それからあの今の気象状態だ とこれまでのあの自然災害のあのうん 起こり方と違う頻度とうんうん違う人化 ですよねええ予測がつかないほどの被害の 大きさになるだから今までの耐震構造とか うんあその海海のねうんその海辺のこう 五眼工事とかこんな流儀したらね例えば あの防止堤15mとか作ったじゃないです かあの太ガのうんあんなあそこからあの竜 したおじですからねバキンてばれたらおし ねそうしてもっと被害がね結局人間が作っ たあの防止亭によって逆被害っていうか 違う災害をねえこう引き起こしてていうの はあの引きがねうんうん私は1番怖いのは 引きなんですよええあの押し寄せでくる後 のええでその引いてあのえ家とかいろんな ものを一挙にこう沖へ流そうとするでしょ ええそうた時にあの15mとか20m近い 防止堤がありますよね1にそこに溜まる じゃないですかはいええこれは怖いんです ようんそうすると底上げしてしまうので ええっとこう臨時的にこう高さが高くな なるのでええ2度の津波が来た時にうん 被害の度合がね尋常じゃないぐらいの被害 の度合になっ

て2度目の災害がかなり深刻なんですよね あああなるほどそういうことを考えると ええあの宮脇明田さんだったかなあの横浜 湖ぐらいの醤油樹林のそうそうそうああ いうねえこう瓦礫であるとかこう樹木をね 膨張林みたいな形のねうん地元にあるよう な樹種をうまく使ってうんうんそしこの あれだとスケスケでこう引いてもねあの 流木みたいなものはそこ通り抜けていくん ですよええ止まらないからうんうんでも 防止艇は止まっちゃうんですよねええこれ ぜ全然あの自然の状態と人口の状態は違う のでええだからやっぱり私は宮脇方式を ええのようなあのこう延長線にあるものを それ地域に作るべきだと思ってるんですね ええええで人間が作あの考える強度のある うんえ膨張停であるとかまいろんなあの ダムであるととかはこれからの起こって くるその自然災害の状況によっては逆に うんもう本当にあの被害をますし原発 なんか持っての他でええもう安全なんで どこにもありませんからうんもう1刻も 早くそれをね収束しなきゃいけないぐらい の危険あのもう本当に赤信号どころかうん 日本っては日の車になってんですよね実態 はねそうですねうんなのでね今回の の復興をきっかけにして日本全体が大きく 変わらなきゃいけないと思いますねうん そう思いますね ええなんか耐震基準なんかも本当に 1981年の耐震基準っていうのは震度7 の震が来た時に1回だけなんとか形を保つ だけなんですよねはいはい今回あのノの 地震っていうのは震度7が2回15分後に 起きてんですよねそうですよねで2回目に 起きた時に その揺れ方も1回目と同じありませんから ねうんそうなんですよねうんだからその 揺れも縦揺れ横揺れまいろんな揺れ方が 起こるのでええそういう風なものもこう 複合して考えるとうんうん耐震構造のあの 計算の仕方共同計算っていうのもええあの やっぱりこうね偏ってるというか パーシャルに過ぎないなという風に思うん ですよねそうねうんはい あの一度あの画面共有を外してもらって 少しまとめのあはい共有を停止あこれで いいですねはいそれであの今後のことです けれどね はいまず次に行かれる予定が3月に行か れるとおっしゃいましたはい何日ぐらいの 予定ですかあまだ決めてないのであの 向こうのアポイントが取れるかどうかで 変わってくるんでまだはっきりわかんない ですね分かりましたそうしたらですねえ私

あの2月29日から3月3日まで沖縄に 行って沖縄の南城市長さんとこうま あの南城市にこう えこう地域地域医療地域医療のうんあの 施設を作ろうという動きがあってまそ相談 に行くんですねうんうんで下島とかも同じ 南城市にあるのでまくんですよお医お医者 さんとうんそれからあの島すさんという あの者たちと一緒にはいそれで帰ってくる のが3月3日でその後ですねまちょっと あの所要があってうん え7日8日あのま33月の前半ええ一度 あの小西さん小西憲吾って言うんですけど はいあの まだそうですね 今日明日が20日だからええ今週にうまく いけば今週中に兄弟で会えるけれどえで だけ早く会いたいですけどね1回あの1 時間でもねミーティングできればいいなと 思うんですけどでうまくあのえ今週中 あるいは3月できたらええまそのの 行く時にですねええまあの私も行ければは あの一緒に行きたいしこさんもこ君もええ 一緒に行きたいという風に言うかもしれ ないのでええその場合はこう連携性ですね えええなんかあのこううまくえええその後 にもつが繋げていけるようにえええ ちょっとあの相談できればという風に思い ますあはいわかりました今週ね明日から ちょっと 256までは東京に行く予定なのでじゃあ 3月ですねそうですねはい3月のえ789 ぐらいで1度兄弟であってええそれであの 小西さんと3人で想してはいそれであの もし3月こう行けるうまくタイミングが 合うようなことがあったらええま是非何ら かの協力関係を持ってええあの少しこれ あの中長期的にあのうん繋がっていくよう なあるあのプロジェクトだと思うんですよ ねえ再建計画ええでその再建計画の中に私 としてはその縄文の意味メッセージをです ねえからその祭りっていう小君も祭りと縁 をですね地域の非常に重視してきて大学で プロジェクトを展開してきたのでええあの 今もあの兄弟とあのえ神稜大学とうんあの 彼があのいのでええええであの繋げてやっ ていけると思うんですねであの前方前方の こう拠点が神田星稜大学になって後方から の支援で兄弟がうんうんまあのノのね復興 にま支援できる体制ができるとええ非常に いいあの協力関係ができてくると思うので ええまぜひその辺おちえをねえあのと ネットワークを生かしてもらって今後に えなんかいい形で地域の発行にねあるいは あの国全体の計画ですよね今後のね原発

なんかはね本当にあのややめなきゃいけ ないのでうんその動きにもまいろんな形で 繋がっていくようなええあの何かをやり たいと思いますよろしくお願いいたします お願いしますはい何かあのまとめの言葉お 願いします 政ねうんそそれほどあれなんですが最後に その室木さんっていう方がすごい おっしゃってたのはもうこれからもう なんか長い目で見てねとマスコミは 2007年の時なんかでもすい頑張っては くれたけれどもどうしても何ヶ月とか1年 とかで大体引いていってしまうとうんなん だけどもノトはこれからが多分大変だろう し私らも頑張るからもう少しずつでいい から長い目で見てほしいっていうことを何 回もこう強調してらっしゃったんであそれ はまさにその通りだなという風に思って ますはいあの 東日本大震災でね私小月町にねま1番長く 関わったんですけどええ小月町の人たちも これ小町ってのは石巻市なんですけどね はいであの小月法印神楽っていうね神楽が あってそのあの重要文化財に指定されてる んですよね無形文化財にええやっぱりああ いうあの祭りがうんあのあるところは祭り をあのきっかけにしてねあの地域の人たち が再活性化していくうんこういうあの動き をたどれるんですよええでも何にもない ところではなかなか難しいんですよねうん でもそれをこう新たにこう連結して起こす という風なことが必要だしえあのこういう あの後ろのこういう埋蔵文化のねうん縄文 遺跡みたいなものがもし周りにあったとし たらばうんそういうものが持ってる意味を もう1回掘り起こしてええそしてそういう 風なものを生かしながらその体計画へつげ ていくてこともできるのでええいろんな 生かし方地域のそれぞれの特色を生かした 生かし方をると思うしこのノトはやっぱり あの日本列島の未来をねうん福みたいな ところがあると思うんですよねええま南方 の下島のような離島の島もそうですけど ええやっぱりこうのはやっぱり陸のこと ですよねうんそうですね本当にあの奥遠い からええでもその奥がそこであの豊かに 生きられるというのがええ日本が全体が 豊かにられるという証拠になりますからね うんだからあの奥野と和島からあの鈴それ から七尾このラインがあの豊かな生活でき るっていうことは日本全体の豊かさを証明 するようなことになるのでええなんとか それをねいろんな形で復興してというか いろんな地域とつなげながら側面支援をし ていきたいなと思います私もあのまあ72

歳だから何年どうなかでが患者だからこう ね思うように行かないけれどでも次の若手 がね先ほどいたあの小西健吾さんとか育っ てきてますので彼はまだ445歳ですから ねええまバリバですからねええそういう人 たちが関わってくれるとで京都大学が 関わると中長期的な計画はね少しねうん できるんですよ うんなのでまで金沢星稜大学との プロジェクトみたいなものがうんノ支援で あのできたとするとうんこれはあの国から もうん予算をね出せとうん本当に国に 向かってねそれぐらいのことをやっぱり こうちゃんと提案していく必要があると 思うんですよねええそして兄弟とか金沢の 地元のね量大学はあるいは金沢大学とか そういうがこう繋がっていけば結構あの あのしっかりさ復興への支えの1つにね ええなると思うんですねそれでその学術 研究例えば資格変動とか色々あるじゃない ですかえ体系の変化とかええこういう風な ものもやっぱりその専門的な知識と調査 みたいなものも必要になってくると思うん ですよねええまそういうことをあの プロジェクト組むこと可能です からうんま是非あのあの相談させて くださいでさんを交えて3月の初旬にはい 次回はでそれをですね次の事業としてええ 配信したいま小西さんと3人のねえし ながら相談してる様子をえ我々のあのこの プロジェクトのあの事業として皆さん 投げかけてそしてあの協力できるあの方が いたらええまいろんな協力のねやり方を この京都面白大学のプロジェクトとして やりたいと思いますのでよろしくお願いし ますはいよろしくお願いしますはいでは 今日はあのこれでここは閉じてであの夕方 にはアップロードしますのであのをまたお 送りしますありがとうございました ありがとうございましたでは終了します はい

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