生後間もなく兵庫県尼崎市の孤児院に預けられ、3歳の時に養父母へ引き取られた 極貧生活を送る。幼い頃より培われてきた強い自立心が、全くのゼロから東証一部へ上場するほどの一大チェーンをつくる原動力。謙虚さ

つぐ徳次1948年10月14日生まれは 日本の実業家です株式会社カレーハウス ここ1番屋の創業者で元会長です現在は 特別顧問ですNPO法人のイエロー エンジェルの理事長でもありますむつ ホールのオーナーでもあります妻は一番や 相談役のむつ直美1950年4月18日 生まれ長男はプロゴルファーのむつ弘明 1980年3月11日生まれつ自士の両親 は不明戸籍場は1948年昭和23年石川 県生まれとされる生後間もなく兵庫県尼崎 市の個人院に預けられ3歳の時に雑貨省胸 含ま清子夫婦の容姿となる洋夫が競輪や パチンコなどのギャンブル好きで生活が不 安定だったことから洋風に愛そをつかした 用土は失踪8歳の時に居場所が判明した 養母を頼り養母が住む名古屋市の世上半の アパートに家族3人で住むがすぐに要望は 家を出た洋NUと2人で電気や水道を引く こともできずロソで明りを得雑草を抜いて 食べるほど困窮した生活を送る15歳まで 生活保護を受けて生活し岡山県玉市など 各地の廃屋を点々としてパチンコ店で こぼれ玉や地木タバコの吸殻を集めるなど して整形を助けていた吸殻を拾わなかっ たり掃除を怠ったりすると洋夫から全裸に され法規で殴られるなどの虐待を受けた 15歳の時に洋夫が岸のため去し要望と 同居するようになる朝5時半の始発電車に 乗り登校前に同級生の父が経営する東府屋 でアルバイトしながら学費生活費などを 稼ぎ1967年3月に愛知県立小牧高等 学校商業科を卒業翌4月に新聞広告を出し ていた不動産量の野島開発に応し入社する 1970年昭和45年2月にダワハウス 工業名古屋店に転職後同僚の直美と結婚 結婚2年後に独立し1973年昭和48年 に自宅1回に不動産仲介会社の岩倉炎線 土地を開業した不動産量の収入が不安定 だったことから妻と相談し1974年昭和 49年にここ1番屋の全身となる喫茶店 バッカスを名古屋市西区内に開業した オープン初日に手伝いに入った際回転10 分もしないうちに人が集まり不動産とは 違う世界に面白みを感じ喫茶店が転職で あると感銘を受け不動産業からの撤退を 決意後岩倉沿線土地を廃業した1975年 2号店となるコーヒー専門店浮の艇を開業 した妻直美が作ったカレーが人気を呼び カレー専門店への転身を決断する1978 年カレーハウスここ一番屋を創業した愛知 県西春海軍西島町に1号点を出展する10 ヶ月後に2点の喫茶点を処分自転車創業が 続いたが新店舗開業などのため理財信用 金庫から借り入れた100万円のうち

20万円は社会福祉協議会や町役場に匿名 で寄付した1982年にはすでに売上が 3億円を超えており法人組織の株式会社 1万屋を設立し代表取締り役社長に就任 1998年には500点出店を気に妻直美 と社長を交代し自身は代表取締り役会長と なった2002年には後継者が育ったを 理由に代表権の内業者特別顧問に退き19 歳の時にアルバイトとして入社した浜島 俊也副社長を社長につかせた妻は代表件の ない会長に就任自身は役員からも退任し 経営から引退した社交的な妻とは対象的に 引退するまで友人を1人も作らず34時間 の睡眠時間で仕事に専念したという毎朝4 時45分に出社し通以上のお客様 アンケートを読み店舗の掃除を行うのが 日日で休みは年間15日ほどだったが引退 後は経営に一切口出しせず後継者に任せて いる経営の一戦を知りといてからは 2003年に音楽やスポーツの進行福祉 施設やホームレスへの支援などのため NPO法人エローエンジェルを設立し理事 長に就任高校1年の時時にNHK教育 テレビジョンN教アワーで メンデルスゾーンのバイオリン競争局を 聞いて以来大のクラシック音楽好きであり 2007年にはクラ音楽の及を目的として 28億円の資材を投げ打ってつぐホールを 建設2012年1月に名古屋市芸術省令省 を受賞したつぐエンジェルバイオリン コンクール上位入賞者や五頭龍や博士太郎 へのストラディバリウスの太陽宮本エミリ へのドメニコモンタナの太陽なども行う 経済的理由で進学できない音楽化死亡の 児童の支援や小中学校への水槽楽器寄付も 行っている毎朝4時に起きホール周辺を 掃除し穴を植え昼はスタッフ15人分のマ を作り公演前には入場口で客を出迎え一緒 にクラシック音楽を堪能するのが一家で ある2012年4月には経営 コンサルティングや講演回答を行う 株式会社ライトアップを設立し代表取締り 役に就任2015年10月ハウス食品 グループ本社が12月1日までに1番屋の 51%の株式を保有し1番屋を子会社化 することを発表1番屋の株券を 2.17保有しているつぐ夫妻は保有する 株全てをハウス食品に売り渡す見込みで 譲渡駅は約220億円と言われるカレの ココ1がハウス食品に買収される身を削っ て同車を育て上げたク人の創業者胸徳次士 はこの買収に何を思うのか大胆に手放す朝 6時30分白のポロシャツを着て名古屋 市街の道路を掃除していた男性はさっぱり とした顔でこう言った会社の株を手放す

ことに寂しいという感情はないですねもう 現役を知りといてから13年も経つんです よその間経営に口ばしを入れたことは全く ないアドバイスを求められたことはあり ましたがもう任せたのだから好きにやれば いいと私が言ってからはそれもなくなり ましたカレーハウスここ1番やかここ一の 創業者である胸徳次士74歳はこう話す 店舗数1012売上高約899円世界最大 のカレーチェーンの創業者しかぬ評とした 口調だった現在ここ1は天気を迎えている 10月30日ハウス食品がここ1の 運営会社である1番屋に株式公開買付to を行い12月1日までに51%の株式を 保有1番屋を子会社化すると発表したのだ 現在ハウスは約19を保有創業者である ムスとその妻直美さんは現在1番屋の株を 23.1保有しているがハウスが株を買い ますにあたって2人は保有する株全てを ハウスに売り渡す見込みだその譲渡液は約 220億円と言われる胸つぐ夫妻は自社の 株を売り払い一夜にして大金持ちになる 愛着のある会社を金で人手に渡したのでは ないか一部でこう言われているが実際胸は 何を考えているのかむつが運営する音楽 ホールむつホールを訪れると胸は早朝から ホールの前の道を掃除し花を植えていた白 のポロシャツにキャップをりゴミ箱や花の 苗を運んでいる話を聞くうち胸が金のため に株を売るような人物ではないことが次第 に明らかになっていった胸つぐさんが自ら 株を引き取るよう頼んだという話が出てい ますえ全く逆ですハウスさんと1番屋の 浜島都市や社長が相談して決めてその後に 私のとろに依頼があったんです株を手放す ことに迷いはありませんでしたか国内の 市場はもう飽和状態なんですよこれからは 海外で勝負していくしかないハウス食品は 全面的にその後押しをするということなの で会社ここ1にとってもいい話だと思い ます迷うことはなかったなぜハウス食品 だったのでしょうかハウスさんとは私たち 夫婦がここ1の全身の喫茶店をやっていた 頃から約40年の付き合いです店でカレー を出すためいろんなメーカーのカレールー を試した結果家内が一番美味しいと言った ルーがハウスさんの製品だった会社を作っ た後は微妙なスパイスの調合のリクエスト にも答えてくれました私たち夫婦が 追い求めてきた究極のカレを実現させる ためには書くことのできない存在でした 長い歴史の中で培われた信頼関係があった から今回もすんなり運と言えるtobに 応じる代わりに条件は出しましたかそんな ものあるわけない全ては信頼関係ですよ

変人と呼ばれてもいい胸は並々ならぬ苦労 を乗り越えここ一を巨大チーに育て上げた ところが2002年に引退した後は経営に 口出しをすることは一切なくなったさらに 今回の買収では我が子のような会社の株式 を手放してしまう驚くべき引き際の良さだ 現在は2003年に自身が立ち上げた イエローエンジェルというNPOで クラシックホールを経営しているこのムツ ホールは胸氏が28億円もの資材を投じて 立てたと言われる主は同時に経済的理由で 進学できない音楽化死亡の子供たちを支援 している無を知る1番やOBが言う周りの 人間は敬愛を込めて胸つぐさんを変人と 呼んでい方もなく大な資産をこれまで自分 を助けてくれた人にどう返すかということ ばかり考えている最近では東海県の小中 学校100校以上に水槽学用の楽器を寄付 したそうですつは毎日ホールの経営のため 忙しく働いている死が言う今も毎朝4時に 起きてホールの周辺を掃除して花を植え昼 はスタッフ15人分の賄を作ります公園前 には入場口でお客様を出迎えて一緒に クラシック音楽を反応する今では公園な年 400回を超えています周りからは変人と 言われますが自分ではこれが普通なんです 極貧だった少年時代こうした行動からも 分かる通り胸は日本有数の実業家であり ながら金を追いかけない男でもある胸は かつてこう答えている幼い頃貧乏だった人 がお金持ちになりたいと頑張った話を聞き ますが私にはそういうものがなかった夫婦 の間でお金持ちになりたいねと話したこと は1度もありません欲を満たす気持ちは 少しはありますが自分のお金が人のために 動く方が嬉しいしそれが生きたお金の使い 方だと思うだから私は身につけているもの も安い時計はカシオの9800円のもの シャツは980円のディスカウント品です 稼いだ金は社会に還元するその哲学こそが 無の成功の言動力となったその金を追わ ない哲学は一体どのようにして培われたの か無は48年石川県で生まれたがその直後 兵庫県尼崎市の児童用語施設に預けられた いわゆる個人だ胸市は本当の両親がどんな 人物か全く知らないという3歳の時雑貨屋 を営む洋NU母に引き取られたが洋夫は 競輪にのめり込み財産のほとんどを つぎ込んでしまう55年には岡山県玉野市 に移ったが漁父のギャンブル熱は覚めず 養母は逃げた当時を胸はこう振り返る アパートや曲がり先の家賃が払えず時には 廃屋を点々としながら電気も水道もない 生活を続けましたロソの明りで洋NUを 待ちながら水JUや洗濯をした時には自生

していた柿や一軸野草も食べたでも私は 両親が大好きでした洋夫は年に1度だけ食 安でもらう年末一時金で私の好きなりんご を2個買ってきてくれたあれはうまかった 胸は競輪にのめり込む親であっても決して 恨むことはなくむしろ当時から洋服を喜ば せたいと思っていた洋NUに連れられて パチンコ店に行った時彼が床に落ちた タバコの吸殻を着せに詰めてうまそうに 吸うのを見ました以来暇を見つけては パチンコ店に行き大人たちの足元を かき分け死目を集めた日雇いから帰った 洋服がそれを嬉しそうに吸うんです自分が カレー屋を始めて抱いた目の前に いらっしゃるお客様に喜んでいただきたい という気持ちの原点は妖婦が死目を喜んで くれたことにありますリアカーに食器と 布団教科書を積み込んで夜逃げしたことも 何度かあっただがそれほどの逆境にも へこたれない悲惨だとは思いませんでした 物にもこく毎日でしたけどそれが普通だと 思っていた高校卒業後不動産会社に入り ダワハウスに転職そこで出会った直美さん と結婚したその後宗市は自身で不動産会社 を設立するが新たな事業に挑戦しようと 喫茶店バッカスを開業した開店初日10分 もすると店の内外に多くの人が集まって いるそれを見て不動産の世界とは全く 異なる面白さを感じたほどなく不動産業は は廃業届けを出していました転職だった 喫茶店に本格的に取り組むにあたって人と 話すのが得意な直美さんは資金繰りのため 銀行を駆け回った2店舗目の喫茶店で直美 さんが作ったカレーが人気を呼びカレー 専門店への転身を決断した78年にここが 1番やという思いから名付けられたここ1 の1号点を愛知県内に回転するニコニコ キビキビはきはきを掲げ接客を徹底的に 管理したお客様第1主義現場主義が最だ 執着を捨てる人付き合いが苦手だが相手 アマの胸つぶしが事業の計画を姉御肌の 直美さんが社員教育や資金繰りをと2人で 仕事を分担して働いた胸はご飯の量辛さ トッピングを客が選べる仕組みや社員が のれはけしてオーナーとなるブルーム システムを構築バラエティーに飛んだ味と 質の高い接客で人気を白し87年には80 店舗を超えた店舗が拡大してからも無の 仕事への情熱は衰えない朝4時勝4時45 分出社朝の時間にお客様アンケート通以上 を読み店舗の掃除も行った代謝時間は18 時から23時休みは年間15日ほどだった 98年には店舗数は500に達したところ がこうして会社が成長を遂げているまた 田中の2年宗氏は53歳の若さで会長職を

実施引退するそれまで代表取締り役社長 だった直美さんも代表件のない会長に知り た理由は継者が十分に育ったことだという 現在社長を務めるのは浜島年足である自分 の会社だという思いにきちんと線を引く ためにはこれが究極の方法です愛着はあり ますが中途半端に残るというのが一番良く ない自分が納得するまでとことん経営をし た後は俺の会社という意識を捨てそこには 執着しない精一杯やったからこそ執着を 捨てることができるのだろう胸はこう言っ ている毎日毎日仕事が楽しくて常に目標が あってそれを達成したらまた次の目標を 作って突き進むその繰り返しで気づいたら こうなっていた仕事を引退してからの胸 つぐしは前日の通り社会貢献に邁進して いる今胸ホールが面する広工事通りでは胸 が植えたパンジーだ見事に咲き誇る期待の 企業家は音楽と花で人の心を豊かにすると いう新たな目標に全力で突き進んでいる 個々1番屋の歴史の話でしたその経営者の 哲学には頭が下がる思いがします今回も 最後までご視聴いただきありがとうござい ました登録者ボタンとベルボタンをポチっ と押していただけますと嬉しく存じます

1948年石川県生まれ。高校卒業後、不動産関連の会社を経て、1973年に不動産仲介業として独立。1974年に喫茶店「バッカス」、1978年にカレーハウス「CoCo壱番屋」を開店。1982年に株式会社壱番屋を設立し、社長に就任。2002年からは一線を退き、コンサートホールの運営やさまざまな慈善活動等に取り組んでいる。
国内最大手のカレーチェーン店「CoCo壱番屋」を展開する株式会社壱番屋を創業した宗次德二氏は、1948年に石川県で生まれた。生後間もなく兵庫県尼崎市の孤児院に預けられ、3歳の時に養父母へ引き取られたが、養父のギャンブル癖のため、少年時代は各地を転々とする極貧生活を送ったという。幼い頃より培われてきた強い自立心が、全くのゼロから東証一部へ上場するほどの一大チェーンをつくる原動力になっている。「経営が趣味」と公言する宗次氏は、ゴルフや飲み会にも一切顔を出さず、ひたすら本業に身をささげてきた。そのスタイルには、創業者としての並々ならぬ情熱や覚悟といったものが感じられる。「CoCo壱番屋」の躍進は、宗次氏のひたむきな情熱があればこそ成せた快挙だといえる。創業に大きな夢は必要ない。小さな目標達成の繰り返しが成功へ通ずる。やってみなければ、経営は分からない。始める前から難しく考えない。創業なんて苦労をお金で買うようなもの。それでも創業したいですか?宗次:高校を卒業後、不動産関連の企業に就職しましたが、不動産業のノウハウを身に付けて独立していく先輩たちがたくさんいました。「ならば、私も」と思って、最初は不動産仲介業として独立しました。しかし不動産の仕事は、近隣にチラシを配ってもたいした反応はなく、私としては何となく物足りなさを感じていました。
そんな折、妻が大変社交的な性格でしたので、「喫茶店でもやろうか」という話になり、1974年に「バッカス」という名の喫茶店を名古屋に開業しました。私もオープン初日に手伝いに行ったのですが、これが不動産とは大違いでした。開店と同時にたくさんのお客さまがいらして、お見送りする際には、「ごちそうさま」といった温かい言葉まで掛けてくれたのです。もう、これこそ私の天職だと思って、不動産屋を即廃業し、飲食業に専念することにしました。宗次:それもあるかもしれませんね。ただ商売を始めたら、お客さまの方を向くことは当たり前です。よそ見をする暇なんてありません。世の中にはちょっと経営が軌道に乗ってくると、やれゴルフだ接待だと、社長業という別の仕事に夢中になる方がいます。しかし本業をおろそかにしていると、お客さまのことが見えなくなってしまいます。すると経営は、たちまち迷走してしまいます。同業他社に気を取られ、お客さまに目が向かないといったケースも駄目ですね。例えば、当時、名古屋の喫茶店ではモーニングがとても流行していました。しかし私どもでは、一切やりませんでした。コーヒーを出す際も、他店では小皿に盛った豆菓子がサービスで付いてくるのですが、私どもの店ではその豆菓子に30円の値段を付けて提供していました。きちんとお客さまの方を向いて、心のこもった接客をしていれば、必ずお客さまはお店のファンになってくれます。他店のサービスやヒット商品をまねすること、ましてや安さで勝負することは必要ないのです。これは後に、CoCo壱番屋の「のれん分け制度」が確立してからの話ですが、お店をオープンして時間がたつと、どうしても客足が落ちてしまいます。するとフランチャイズのオーナーさんから必ずと言ってよいほど、商品値下げの要求がありました。売り上げが落ちたから、「値下げキャンペーンをしたい」とか、「セット割引ができないだろうか」という相談です。ですがそれを承知してしまったら、まず自社の利益が削られます。さらには取引先への無理なお願いや、従業員に過重労働を強いることにもつながります。経営者であるからには、そのような信念のない経営をしてはいけません。薄利多売を許せば、結局みんなが不幸になります。では売り上げが落ちた時、一体どうすればよいかといえば、私は「売り上げが落ちたのなら、掃除をしなさい」と言って、オーナーさんたちを鼓舞していました。要は、自分の経営姿勢をどう示すかです。掃除でもいい、笑顔でもいい、感謝の言葉でもいい。経営者の真心をどう伝えるか。そこがきちんとできていれば、必ず売り上げは回復します。だからよそ見している暇なんてないのです。私は創業してから1日たりとも休まず、年間で5,637時間働きました。1日平均にすると約15時間半です。経営者はそれぐらい働いても問題ありません。だって、経営者に残業代は付きませんから(笑)。
最近、若い方の中には、飲食業に憧れ創業を目指す方が多いと聞きました。私もそうした方からよくアドバイスを求められるのですが、「創業なんておやめなさい」というのが、私の一番のアドバイスです(笑)。創業なんて苦労をお金で買うようなものです。人生すべてをささげる覚悟がないと、到底続けていけません。ですが、経営にはたくさんチャンスがあるのも真実です。そのチャンスをつかむには、コツコツ続けていくしかない。そうしていれば、思い掛けない奇跡が待っていることがあるのです。宗次:失敗はありませんね。おかげさまで引退する2002年まで、20年連続で増収増益を達成できたので、経営そのものは順風満帆だったと思っています。ただ、日々の業務でいろいろと苦労はありました。振り返ってみると、喫茶店をオープンしたばかりの頃は、文字通り自転車操業でしたので、その頃はお金の面でとても苦労しましたね。店にある小銭を何とかかき集めて、銀行への毎月の返済に充てるといった時期もありました。でも今となってはそれも良い思い出です。苦しいことも含めて、仕事を楽しんでいる時代があったからこそ、少しずつではありますが、喜びが2倍、3倍となって返ってきました。
これから創業する方に心掛けてほしいのは、商売を始めたら少しずつでもいいから、とにかく右肩上がりを持続させることです。右肩上がりでさえあれば、全てがうまくいきます。経営はもちろん、後継者の育成も心配ありません。「この会社には未来がある」と信じて、きっと優秀な人材が集まってくることでしょう。会社がちゃんと利益を上げていれば、がんばった分、正当な評価もしてあげられます。「創業守成」といいますが、利益を生み出す経営をしてさえいれば、何も心配することはないのです。宗次:先ほども言ったように、よそ見せずしっかりお客さまを見ておくこと。そして「超」が付くほどの「現場主義」を実践することです。他の外食チェーンでは経営面のテコ入れをする際、専門のコンサルタントの手を借りることもあるようですが、私どもの店では、ただの一度もコンサルタントに依頼したことがありませんでした。他社のリサーチを行ったこともないですし、もちろん値下げも行いませんでした。必要なことは全て現場から学びました。今でこそアンケート用紙を置く飲食店は珍しくありませんが、CoCo壱番屋では1987年から、全店舗にお客さまの声を聞くためのアンケート用紙を設置していました。もしもアンケートを通じてクレームがあったら、私はそれをお客さまからのファンレターだと思っていました。それくらいお客さまの声というのは、経営者にとってありがたいものですね。内容が厳しければ厳しいほど、本当に役立ちました。経営者だった頃は、毎日3時間半かけて、1,000通以上ものアンケートを読んでいたものです。宗次:そうですね。「CoCo壱番屋」では、オープン当初より、お客さまが自分の好みでライスの量や辛さ、トッピングなどが選べるシステムを採用し、それが大ヒットしました。そうしたシステムを思い付いたのも、喫茶店での営業を通じて現場のニーズを把握していたからでしょうね。テーブルから下げられたお皿をよく見れば、「年配の方にはこのライス量は多かったかな」とか、「若い方はがっつり系のトッピングが好きだな」など、いろいろな情報が見つけられます。大事なこともヒット商品のヒントも現場にあります。ただ眺めているだけではもったいないのです。 チャンスの種をぜひ現場からつかんでほしいですね。
宗次:確かに店舗が増えていく中で、私の思いをダイレクトに伝えられるのはここまでかな、という限界はありました。分岐点となったのは東京進出となった70店舗目辺りでしょうか。その後はご存じの方も多いと思いますが、ブルームシステムと呼ばれる「のれん分け制度」を導入し、それが「CoCo壱番屋」の全国展開の原動力となりました。全ての店舗に私の目が届かなくても、「超現場主義」を身に付けたオーナーさんたちが、私に代わってどうすればお客さまが喜んでくれるかを、毎日一生懸命考えてくれています。創業を目指される方の中には、飲食店をやってみたいという方がかなりいるようですが、結局のところ「おいしさ」というものは百人百様です。この味だから、必ず売れるというものではありません。何が大切かというと、接客やサービスといった日々の積み重ねで、お店のファンをつくっていくことです。そして、その方法を見つけるには、現場から学ぶしかありません。夢なんてなくてもいい。小さな目標達成を繰り返していれば奇跡は起きる。宗次:確かに、先が見えない時期はつらいですが、焦る必要はないと思いますよ。私も創業して間もない頃は自転車操業でした。月商70万円からスタートし、「150万円になったら2号店を出そうね」なんて、家内と話していました。でも、そんなにうまくはいきませんでした。先ほども言いましたが、月末になると店中の小銭を集めて返済に充てるような、行き当たりばったりの経営を続けていました。よく冗談でうちはIBS(いきあたりばったりシステム)経営だなんて言って笑っていましたよ。創業された方は、誰もが必ず厳しい現実に直面すると思います。そんな中、無理して夢を持つ必要なんてないのです。はるか遠いところにある夢を見るのではなく、毎年小さな目標を立てて、その目標を達成するために必死に働いてみてください。壮大な夢は達成できなくても、小さな目標ならがんばればたどり着けるかもしれません。少なくとも、昨対比の利益を超えるという目標の達成を目指しましょう。実を言うと、私自身は経営者に夢なんて必要ないと思っています。経営者が追求すべきは夢ではなく、目標です。大きな夢を語る経営者ほど大言壮語に陥りやすい。夢に酔うのもよいですが、それが実現できないのであれば、夢を持つ必要なんてないでしょう。それよりも大切にしてほしいのは日々の積み重ねです。毎日、必死にがんばっていれば、10年後、20年後に必ずその成果が実を結びます。私の経験から言えば、大きな夢を語って、経営がうまくいったなんてことは一つもありません。経営は小さな目標を立て、それを達成するために必死にがんばる。その繰り返しです。宗次:私は「せっかち」も重要な能力だと思っています。確かにせっかちに物事に取り組めば、失敗することもあるでしょう。しかし早めに結論が出るという利点があります。他人がどんなアドバイスをしても、結局のところ、経営なんて自分でやってみないと分からないことだらけです。物事を始めるのに、そんなに難しく考える必要はありません。結論が出れば、それに真剣に対応していけばよいだけのことです。まずは動いてみてください。何か問題が出てきたら、それをクリアするための目標を立ててみる。それがクリアできたら、今度は次の目標といった具合に進んでいけばいいのです。動かないことには目標も見つかりません。創業を志すのであれば、その意思を貫き通してほしいですね。多くの先輩創業者たちが、経営は持続させることこそが重要だとアドバイスしていると思います。続けていく秘訣はただ一つ、少しずつでもいいから右肩上がりの経営を実現していくことです。私の考える経営の理想は継続して企業が栄えていくこと、すなわち「継栄」です。「継栄」が実現できれば、お客さまはもちろん、社員や経営者自身も、幸せになれる

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